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『種痘の扉』第四章二節

  • 執筆者の写真: 佐是 恒淳
    佐是 恒淳
  • 2023年6月2日
  • 読了時間: 1分

更新日:2023年6月10日

 二節「下谷長者町」では、馬脾風の治療で名声が高まった勘造が、本所番場町から下谷長者町に引っ越したさまが描かれます。今ではJR山手線の御徒町から秋葉原に向かう線路沿い右手(西側)の細長い一画に当たります。当時は貧乏な人の住む町でした。下谷界隈は下級武士の屋敷街から中級武士の屋敷、大名屋敷が町家と隣接し、切絵図で見ても密集地であることがわかります。

 そのなかで長者町は上野寛永寺に近く、浅草金龍寺も近いという土地柄です。長者と貧乏の取り合わせが面白いと川柳や狂歌に取り上げられることが多かったと云います。


  長者町 左右に銭も金もあり


銭とは寛永通宝、つまり寛永寺のこと、金は金龍寺のことを掛けたものです。


時代は、シーボルト事件が起こった文政11年から12年にかけて、多くの有為な蘭学者が捕縛されました。馬場為八郎もその一人、すでに蘭通詞の重鎮でしたが、大変な災難に遭遇します。







2 Comments


北薗 洋藏
北薗 洋藏
Jun 03, 2023

佐是様、毎回楽しく読ませていただいております。


御徒町、秋葉原付近に貧乏人町があったとは意外な感じがします。現在の街並みからは想像もできない風景だったのでしょう。江戸~東京は、度重なる大火、関東大震災をはじめとする大地震、東京大空襲などでまったく違う姿の都市へ発展していったのでしょう。

伊東玄朴は仁術・算術とも長けた医者だったと理解しました。

シーボルト事件発覚で、蘭学・洋学は暫くの間停滞せざるを得ないのでしょうが、鍋島直正の登場で希望の光が見えたような気がしました。次回以降、種痘成功への道のりが楽しみです。

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佐是 恒淳
佐是 恒淳
Jun 03, 2023
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北薗様、

ご愛読賜り、ありがとうございます。

玄朴は長者町に住み始めたのをきっかけに、下谷に住み続けます。

長者町から東に3ブロック行った御徒町通りに面した武家屋敷街の一角に

立派な屋敷を構え、医院を開業するのはもう少しあとのことです。

ここを拠点に蘭学の発展、蘭方医学の普及に努めました。その算勘と政治嗅覚が遺憾なく発揮されて行きます。単なる医師というレベルを超え起業家精神に富んだ政治家として…


                           恒淳 


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