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第四章 銅
  
一 本所番場町​ 次を読む​ 前節に戻る 目次に戻る ブログ参照

 

 文政九年(一八二六)正月、勘造は、師の猪俣伝次右衛門から、江戸の天文方に向かう旅に同行するよう頼まれた。ステュルレルとシーボルトの一行から数日遅れで、長崎を発つ予定だった。師が妻と長男源三郎、長女照(てる)を連れていく道中、勘造は師の家族のためにあれこれ気を配りながら旅を続けた。勘造にとって、猪俣一家の旅に同行することは、江戸に出るまたとない機会だった。 

 当初、無事に旅を続けたが、沼津で伝次右衛門が急に寝込み、見る見るうちに病状が篤くなった。勘造も懸命に診(み)たが、いかんともしがたかった。伝次右衛門は病が重(おも)り、再起はかなわないと覚(さと)ったのであろう、勘造は枕辺に呼ばれた。

 勘造は、伝次右衛門が弱る息のなかで、いずれ照を娶(めと)ってほしいと言い遺すのを緊張して聞いた。勘造は、師から女(むすめ)を託された。よほど見込まれたと思った。四月十二日、猪俣伝次右衛門客(かくし)

 一行は旅先で葬儀を済ませて江戸に到着し、予定通り天文方に身を寄せた。オランダ通詞が天文方詰通詞となることは、馬場為八郎や佐十郎の頃から普通のことになっていた。ここで勘造は、源三郎が蘭語を講義し、蘭書を翻訳するのを手伝った。勘造は、天文方に出入りする気鋭の江戸蘭学者と交友を結ぶ機会に恵まれた。

 

 文政十年(一八二七)四月、勘造は、仁比山の実家に帰る私用ができた旨、源三郎に伝えると、これ幸いとばかりに源三郎から包みを託され、シーボルトに届けるよう頼まれた。これは、高橋作左衛門が下僚に命じて作らせた地図の複写が出来上がり、作左衛門から源三郎に運搬を依頼したものだった。作左衛門がシーボルトに宛てた文書だと、源三郎から説明を聞いて、勘造は、特段、何も思うことなく素直に引き受けた。

 四月中旬、勘造は江戸を出達し、仁比山の実家に寄って用を済ませた。五月二十八日、長崎に出向いてシーボルトに作左衛門の包みを届け、江戸への帰途についた。途中立ち寄った熊本で、友人から蘭書の翻訳を頼まれ何か月も逗留することになって、江戸に着いたのは勘造の当初の予想より、随分と遅くなった。

 勘造が再出府を届け出るため日比谷橋御門外の佐賀藩邸上屋敷に出向いたところ、初老の留守居役は勘造の顔を見るなり息を呑んで青ざめた。

「今まで、どけえ行っとったばい」

 幕吏が勘造を探し回っているという。

「おぬしのう、急ぎ国許に身ばひそめ、ほとぼりん冷むっんば待つがよか」

 声をひそめて忠告された。事情を聞くと、シーボルトに届けた勘造の包みが国禁の地図ではないか、疑いをかけられていると聞かされた。

 勘造は、国禁を犯したという話に心の臓が跳ね上がるような気がした。その場で歯を食いしばり黙想し、ひとたび国許に身を潜(ひそ)めたら、もう二度と、学問によって世に出る機会はあるまいと思った。そんなことになるくらいなら、一か八か、町奉行に自首して身の潔白を晴らそうと思った。もし潔白が晴れなかったら、即座に捕縛されるだろうと覚悟を決めた。汗が額を流れた。

 ――こがん時は、早か方がよか

 勘造は、未練がましい心が湧き起こるのを恐れるように、早々に上屋敷を出た。日比谷御門を通って、数寄屋橋御門内の南町奉行の門前に立った。神妙に用向きを伝え、筒井和泉守(いずみのかみ)政憲の直々の取調べを受けることになった。

 筒井は、長崎奉行時代、長崎庶民から絶大な人気を博した。勘造が長崎に遊学する二年前に退任したばかりだったから、筒井について町の人の記憶が濃いころの噂話を何度も聞いた。

 筒井は、ドゥーフとブロンホフの十四年ぶりの商館長交代に立ち会ったこと、ブロンホフの連れてきた新妻ティティアに退去を命じたこと、ドゥーフに慰労金を出して長期にわたる商館長の労をねぎらったことなど、長崎では有名な話だった。

 筒井は誰に対しても、分け隔てない公正な態度をとり、飾らないさっぱりした性格で、どこか洒脱な剽軽(ひょうげ)た御仁だと聞くのが常だった。

「筒井様は、情ば知っとう御奉行様やった」

 これが長崎庶民の大方の見方だった。

 勘造は、かつての噂話を思い出し、

――南町奉行が、あん筒井様なら分かってくるっんじゃなかか

 勘造は直感に賭けた。

 勘造は、取り調べに当たって、確かに包みをシーボルトに渡したものの、厳封されていたため内容までは知らなかったことを縷々(るる)、説明し、運ぶだけの関わりだったと訴えた。勘造は声(こわいろ)を抑え気味に訥(とつとつ)と語り、実(じつ)が見て取れるよう注意を払って語り続けた。

 聞かれたことを丁寧に包み隠さず話し、果たして、勘造は賭けに勝った。無罪放免となり、南町奉行所の門を出たところで、着物がしとどに湿っていることに気付いた。夜はすっかり暮れていた。

 ――冷汗ばようけ出たと

 一か八かの切所をなんとか乗り切ったのは立派な才覚だったとも思わず、勘造は、疲れ切って蹌(そうろう)として帰途についた。

 

                             *

 

 文政十一年(一八二八)勘造は、本所番場町に仮住まいを借りた。 少し前、伝次右衛門の女(むすめ)、照十七歳と結婚し、二人で探した長屋だった。もう二度と、町奉行所で取調べを受けるような目には遭いたくなかった。

「天文台から遠ざかったほうが良かごて思わるっ」

 勘造は義兄の源三郎にそう告げ、番場町に住み始めた。源三郎は天文方の御役に就いたから簡単に作左衛門と縁を切れまいが、勘造は何の役にも就かず、自由の身の上だった。

 勘造が天文方で世話になった大先輩に青地林宗がいた。青地は馬場佐十郎から教えを受けた者で、弟子の名を辱しめず蘭語が飛び切りよくできた。勘造は青地から五両という金を借りて、ささやかな家財を整え、町医者を始めた。少しは足しになるかと蘭学教授も標榜してみたが、下町の長屋に開いたばかりの町医者に患者も蘭学生も多くは来なかった。

 ――なんとしてでん照ば喰わせんばならん

 必死に考え、玄朴は一計を案じた。毎夜、夜更けに起きだし近所の住人の戸をほとほと叩いて回った。家人が、眠い目をこすりながら起きてくると、丁重に謝りながら、

「この辺りに、伊東勘造という偉い御医者がお住まいではありませぬか。急病人が出て、是非にも診ていただきたいのですが……」

 暗がりをいいことに、顔を見られないよう用心して、江戸言葉で一芝居打った。翌日、井戸端でその噂話が出ると、遠くから耳をそばだて、内心にんまりとした。

 そんなことを一(ひとつき)もやって、かつかつの生活をしながら、どうにか過ごす内、ある日、向島の小梅村の質屋から本当に往診を頼まれた。勘造が勇んで出向くと、七、八歳ほどの男児が、けん、けん、と犬の吠え声のような咳が止まらず、赤い顔をして苦しんでいた。まずは、親に話を聞いた。

 初め子供は、短節の空咳をしているうちに、息苦しさを訴えるようになり、そのうち声が嗄(か)れて話ができなくなり、ひゅうひゅうと喉が鳴るようになったという。

 ――嗄(させい)と吸気性喘(ぜいめい)の症状ん明らかばい

 勘造は枕辺に座ると、両親に聞かせるように少年に優しく声をかけた。

「もう心配は無用じゃで」

 少年の汗ばんだ額を手掌で丁寧になでた。かなりの高熱だった。次に子供の手を握って脈を取った。

「先生ん言う事ば聞けば、すぐに直しちゃるけんね」

 少年と目を合わせ、意識水準を確かめた。子供の目はとろんとしていたが、まだ打つ手はありそうだった。勘造は、

 ――なんとしてん助けんばならん

 心に誓った。己の命運も懸かっていた。

 勘造はまず、顎下を触診した。次いで、どろっと血の混じった鼻水を拭き取り、子供に口を開けるようやさしく促すと、手早く口内を診察して、扁桃、咽頭周辺に灰白色の偽膜を認めた。おそらく、まだ声門や気管支に至っていないのが救いだった。馬脾風(ばひふう)の診断は即座についた。蘭方医学で言うところのジフテリィだった。

 勘造は、持参した薬箱から小柴胡湯(しょうさいことう)を取り出し、煎じて温かいうちに飲ませるよう母親に手渡した。そして、熱い湯で絞った手ぬぐいを適宜取り換え、頸(のど)を温めるよう指示した。

 おろおろする両親を前に、勘造は病名を告げ、咽(のど)に白くできた偽膜が広がると死に至ることをはっきり説明した。それほどとは思わなかった両親が肝をつぶすのをみながら、勘造は独特の語りで淡々と断言した。

「助けて進ぜましょう」

 両親の顔色を窺い、しばらく間合いをおいて言った。

「早く私の許に来られたのがよかった。まだ間に合いますで」

 この一言で、親に不安と心強さを同時に与えた。親の信頼を得る呪文の言葉だった。

 いったん帰宅しこの病のために薬剤を調合して、また出直して来ると言い置いて、急ぎ足で質屋の屋敷を出た。勘造は横川に架かる業平橋を渡って、番場町の長屋に戻ると、狭い部屋で手際よく小柴胡湯に黄(おうれん)と栝楼仁(かろにん)を加えて新たな合(がっぽう)を調合した。柴陥湯(さいかんとう)だった。

 往診時、まずは持ち合わせの小柴胡湯を与えておいた。基本方だから常時、持ち歩く。患者を診(み)るうち柴陥湯がよく効くと睨み、さらに、竹(​ちくじょ)も加えることにした。

 小柴胡湯は、傷寒論を読めば最初に覚える基本的な方だが、効果の強い柴陥湯を用い、そこに竹(ちくじょ)を加えたのが勘造の工夫だった。ここまでは漢方で、かつて仁比山(にひやま)で学んだことに己の経験と勘を加味した。

 勘造は、さらに、附(ぶし)を用意した。トリカブトの根で毒性が強いから、気軽に使える薬ではない。鎮痛、強心作用を有し、通常は、体力低下、四肢冷感など、陰の病で寒の症状に用いる。逆に、陽の病で熱の症状には、悪心、嘔吐の副作用を起こすから、使わないのが大原則だった。

 勘造は、これを逆手に取った。陽の病で発熱を伴う馬脾風に、催吐剤として用いることを考えた。馬脾風には催吐剤がいいと蘭書に書いてあったのを覚えていた。附子(ぶし)で催吐作用を付け、偽膜を吐出させられれば助かる可能性が高まるに違いない。

 シーボルトが十八道薬剤と称する一連の蘭方薬を日本に持ちこんだ中に、乙百葛格安那(イヘカコアナ)、別名、吐根、蒲労蛤勿印私的焉(プラークウェインステエン)、別名吐酒石、及び、白丹丸、胆(たんばん)(硫酸銅)などの催吐剤が含まれていた。日本で即座には入手できないので、附(ぶし)で代用しようと考えた。馬脾風にこの処方を考える医師がいるだろうか。

 ――おいだけではあるみゃあか

 自信があった。動悸を起こさないよう附(ぶし)の用量にはよほど注意を払った。

 最後に、温湿布剤として麦粉三分に芥(からし)一分を手早く合わせた。これで頸(のど)を温める。そして、己の命運を開くべく、再び、小梅村に急いだ。

 

 

 

 佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」一節「本所番場町」(無料公開版)

 

二 下谷長者町​ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 勘造が小梅村の質屋の息子を完治させたという噂は、風のように瞬時に江戸中に知れ渡った。噂を聞きつけ次に頼んで来たのが幕府御用達の名うての植木屋棟梁で、勘造は、子供の馬脾風を鮮やかに治してやった。これまで勘造のふわふわとしたそれらしい噂が、腕が立つという確たる衆評に変わった。これがきっかけとなって勘造に患者が増え始めた。

 そのうち、番場町の下町長屋は診察を頼みにくる者でごった返し、裏木戸を溢れて長蛇の列となった。棒手振(ぼてふ)りが出て湯茶や饅頭を売りにくる騒ぎになり、勘造は、人々が恐ろしがる馬脾風の流行に拝みたいくらいの心境だった。

 近隣の長屋住人はこの混雑振りを迷惑がるどころか心強く思い、家に入るのに人込みを掻き分けることを(いと)わなかった。勘造が隣人に心くばりを怠らず、さりげなく饅頭の類いを照に配らせたのがよかった。若い御新造も愛想がいいと、すっかり、長屋で評判になった。このあたりの気遣いは仁比山の経験だった。江戸でも十分に通じた。

 青地林宗には、少しずつ借金を返しに夫婦で挨拶にいって、その都度、青地が佐十郎に教わった三新堂当時の逸話や、佐十郎がロシア人と交渉するため松前に赴いた話を聞いた。とくに佐十郎が精魂込めてロシア語を翻訳し、『遁花秘訣』を完成させた凛冽たる様子は幾度聞いても飽かなかった。

 

 文政十一年(一八二八)十月十日深夜、御用提灯の取り囲む中、天文方に捕物が入り、作左衛門が捕縛された。直ちに、和田倉御門外、辰の口の御評定所に駕籠で護送された。翌朝、事件を知った勘造は、ついに来たかと思い、作左衛門はじめ天文方の知己、特に義弟の猪俣源三郎のことがあって、気が気でなかった。

 文政十二年(一八二九)が明けると、前年末にシーボルトが出島に幽閉されたと、江戸にもひそかに噂が伝わってきた。勘造は、天文方の件で心痛を重ねながら、どこまで事件が広がるのか、心を痛めた。

 ――おいん身にふりかかるところやったばい

 己の医業が隆盛に向かうことと引き比べ、その危うさにぞっとした。

 この年、勘造は伊東玄朴と改名し、近所に遠慮するほどに込み合った番場町から下谷長者町に移った。これを機に義母(はは)を天文方官舎から引き取って、少しでも旧恩に報いようと考えた。義母は旅先の沼津で夫を亡くしてから、天文方のこと、源三郎のことで心配ごとが重なったから、少し気分を晴らしてほしいと夫婦で話し合って決めた

 下谷長者町は、町名とは逆に貧乏人が住むことで有名な町だった。玄朴は、己の力では、このあたりがせいぜいか、と苦笑しながら、義母に孝養を尽くした。

 出入りの魚屋がよい魚を持ってくれば、照が卯(う)の花膾(はななます)をこしらえ夕食に供した。こんな晩には、玄朴が長崎時代のおからの昼飯を昔語りに語り、家族皆で笑い合った。玄朴には、足を向けては眠れぬ恩人でもあった。

 

                                *

 

 文政十二年(一八二九)二月十六日、高橋作左衛門、獄死。享年四十五歳。入牢から四か月余りのことだった。幕府が罪状の審議を重ねる間、遺骸は塩漬で保存された。一年以上もたって、幕府が死罪の判決を出したあと、塩で干からびた屍体を斬首した。世界有数の地図を作製し、満州語を読む唯一の日本人の首だった。

 

 三月二十一日、玄朴が長者町に引っ越し半年もたたない内に、とんでもない大火がおきた。神田佐久間町二丁目河(かし)の材木小屋から出火し、折からの北風に煽られ、神田川を南に飛び火した火勢は両国橋際の浜町から永代橋まで、南北一里(四キロメートル)、東西二十町(二・二キロメートル)を焼き尽し、焼死、溺死千九百人と言われた。

 火元の佐久間(さくま)町は神田川の北側、和泉橋のあたりに広がる町で、河岸は貯木に使われるため出火が多く、語呂を合わせて悪魔(あくま)町と陰口を叩かれた。長者町と五町(五百五十メートル)と離れていない。あっと言う間に玄朴宅は類焼し、商売道具をすっかり失った。

 玄朴は、焼け出されてひどい暮らしになったが、馬脾風の止(や)まない流行によって東奔西走、家を顧みる間もないほどの多忙が続き、その分、どうにかやっていくことができた。

 少しずつ、伊東玄朴の名が江戸の町に広まり始めた。シーボルトの事件は気掛かりだったが、町医者風情に、そうそう情報が入るわけもなく、玄朴は事件を遠くから気にするしかなかった。

 

 長崎でもオランダ通詞が多く連座した中に、馬場為八郎と吉雄忠次郎が含まれていた。一年以上の審問を経たのち、為八郎は羽後亀田藩にお預け、忠次郎は米沢上杉藩にお預けとなった。

 為八郎、六十一歳、大通詞となり十六年を経て、長崎蘭通詞の重鎮だった。文化の初めに作左衛門の下僚として天文方に勤務したことから縁が始まり、作左衛門の書状に名が見いだされて幕府の疑念を招いた。

 忠次郎は佐十郎の没後、その業務を引き継いで作左衛門を助け、長崎に帰ってからはシーボルトと最も深い縁の通詞だったことが不運を呼んだ。

 九月十一日、すでに捕縛されていた義弟の猪俣源三郎が獄死した。源三郎は、任を終えて長崎に帰った忠次郎の後任として江戸の天文方に詰め、不運に遭遇した。これを聞いた玄朴は呆然とし、呆然とする傍(かたわ)らで義母と妻を慰め、慰める一方で、遺体を引き取る算段から事後の手続きまで奔走した。遺された源三郎の妻は馬場為八郎の女(むすめ)だった。毎日を泣き暮らし、夫の獄死のあと三(みつき)で死んだ。父と夫の不幸に耐え切れなかった。

 玄朴は家族の大きな不幸に遭遇したが、なんとかこれを凌(しの)いだ。嘆く泪が潤む中で、同時に、冷静に事務手続きができる男だった。御(おかみ)を憚(はばか)り、慎ましげに葬儀までひっそり済ませた。

 

 この事件で、長崎はもとより、江戸蘭学界はすっかり萎縮して火の消えたようになった。蘭学者、特にシーボルトに師事した気鋭の蘭学者は世を憚(はばか)り、人目に立たない生活を余儀なくされた。

 玄朴は蘭方医を標榜したが、シーボルトの弟子だったとは町の人たちに噯(おくび)にもださなかった。当面、蘭学と距離をおき、玄朴ならではの感覚で、慎重に平衡を取りながら医業に励んだ。

 玄朴が仁比山で気付いたのは、病が治るに越したことはないが、治らなくても、それはそれということだった。大切なことは、患者に安らぎと寛(くつろ)ぎと満足を与えることだった。それによって、患者の心は強くなり、本来持っている生きる力が湧いてくる。

 病を治すのは医師でなく、患者の生きようとする力である。医師は上手にその力を引き出し脇から援(たす)けることが使命である。その技と心配りが名声を呼び込むが、だからと言って金にはつながらない。

 名声を金に結び付けてこそ、

 ――おいが天から授かった全(すべ)てん才ば生かすことになっぱい

 だから、玄朴は固く心に決めた。金なき名声を欲せず、名声なき金を求めず、名声を伴う金を目指す。そうは言っても、今は名声を主とし、金を従とせざるをえない。

 ――今に見とれ

 一歩一歩上っていくことだけを考えた。

 天保二年(一八三一)十二月十五日、玄朴は肥前藩主鍋島斉正(後に直正と改名)から一代士(いちだいざむらい)に取り立てられ、七人扶持を賜わることになった。玄朴の努力が初めて小さな実を結んだ。日比谷橋御門外の上屋敷に召され、若い藩主から褒詞をもらった。

 玄朴は己の衆評がこういう形になるとは思ってもみなかったが、普段の働きが報われて嬉しくないはずはない。

 ――また一歩、上(のぼ)ったばい

 玄朴は嬉しいだけでは済ませなかった。佐賀藩に取り立てられたことをさり気なく話題にして広め、思惑どおり江戸の町で玄朴の名声が高まるよう、あれこれ手を打った。患者が増える一方となって、名声を伴う金が少しずつ貯(た)まり始めた。

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」二節「下谷長者」(無料公開版)

 

 

三 下谷御徒町 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 天保四年(一八三三)、玄朴は下谷御徒町(おかちまち)和泉橋通りに堂々たる屋敷を建てた。一代士(いちだいざむらい)に取り立てられ二年とたっていない。和泉(いずみばし)を北に渡ってまっすぐ佐久間町二丁目の間を突っ切ると、藤堂藩上屋敷を過ぎること二町ほどで右手に立派な門構が見えてくる。

 屋敷は北西の角屋敷だった。道を挟んで北向かいは幕臣の加藤平内、五千石。西向かいは剣客伊(いば)軍兵衛の道場。長者町の貧乏町と距離は近いが、格の違う武家屋敷の一画だった。ここに、表口二十四間、奥行き三十間、七百二十坪の敷地に診療所を立てて塾を併設し、象先堂(しょうせんどう)と名付けた。

 高塀を巡らした門をくぐって少し歩くと、母屋の玄関が正面に見え、象先堂の扁額が掲げてあった。撰は大槻磐渓、玄朴の大の親友である。玄沢の二男で玄幹の弟にあたる。「先を象(かたど)る」の銘は、医学の道統を重んじ先人を見習えと玄朴に贈ったものだった。

 書は間(まなべ)下総守詮(あきかつ)、三十歳。鯖江藩五万石の藩主で 、この時、寺社奉行兼帯の奏者番を勤めていた。幕府の若手登用の道筋に乗った切れ者の噂が高かった。玄朴は、頼まれて母堂を診たのが縁となって、安くはない謝金で揮毫を頼み込んだ。

 玄朴の算勘では、十分に元を取れるとみた。切れ者で有名な幕僚と深いつながりを持ち、名声に恥じない医者であることを塾の扁額によって、無言の内に患者の頭上から語らせる。

 診察所、調薬所、門弟寄宿舎と、土蔵二棟を構える大きな屋敷を見れば、玄朴が名声に伴う金を相当に手に入れたことが明らかだった。なにより、今や、患者が殺到し、玄関も腰掛も空きがなく、門外にまで長い列ができるのを当て込んで、掛茶屋が立つ騒ぎだった。

 玄朴は象先堂の束脩を高く取ることで、有名だった。束脩とは入塾金である。この塾では、大先生に束脩金二百疋(金二分)と扇子一箱、奥方に鼻紙料百疋、若先生に金五十疋、塾頭に金五十疋、塾中に金二百疋、下僕に金五十疋とあり、合わせて六百五十疋、即ち、金一両二分二朱となる。貧しい書生の一か月の生活費は月二分(半両)だから、象先堂の束脩は三か月の生活費を超える費用となる。玄朴は銅臭と言われても、高い束脩を払う価値ある塾だと割り切って、少しも気に留めない。

 象先堂とよく引き比べられるのは、大坂の緒方洪庵の適塾だった。この塾では、先生に束脩金二百疋と銀三匁、塾頭に金五十疋、塾中に金五十疋、合わせて三百二十疋であり、象先堂の半額以下だった。

 

       病者に対しては唯病者を視るべし。貴賤貧富を顧みることなかれ。長者一握の黄金を以って

​        貧士双眼の感涙に比するに、其の心に得るところ如何ぞや。深く之を思ふべし

 

 洪庵は、医師の倫理をこのように掲げた人物であり、医術を金稼ぎの手段となす心根を潔しとしなかった。洪庵は、病人はただ病人とだけ見て、貴賤や貧富を見てはならないと訓(おし)えた。

 富裕な患者の黄金一握りもの薬礼と、貧乏な患者が両眼に涙して治療に感謝する心を比べて、医師の存在意義がどこにあるか、深くこの点を思わなければならないと諭(さと)した。貧士双眼の感涙という例をあげ、心から感謝されることを医の本領と心得て、人を助ける医道こそ仁術であると唱えた。

 この訓えは、洪庵の心酔する扶歇蘭土(フーフェランド)の著作に述べられた訓戒そのものだった。貧士双眼の感涙という比喩もそのまま踏襲して、自戒の銘とした。こうした精神だから、適塾は束脩を高くとらない。

 患者に仁を唱える適塾では、そのせいか、勉強ぶりは凄まじかった。適塾二階の六畳間に『ヅーフ・ハルマ』一式が備えられ、塾生がこの部屋に字引を引きに行くのが塾のやりかたで、会読日の前には、控えの七畳間にまで塾生の長い行列ができた。ほかに上級生用のウェーランドの蘭蘭辞書があるだけだから、多くの塾生はヅーフ・ハルマを引く。こういう雰囲気が、集中して猛烈に勉強する塾風を生み、緒方の仁術が行き渡っていた。ドゥーフの遺業が仁術を標榜する塾で活発に生きていた。

 仁術を掲げる塾と、銅臭と言われる塾とを比べる向きもあったが、玄朴の気にするところではない。玄朴は玄朴で、あくまで名声を伴う金を求めて気ぜわしく、時は金なりという具合だった。

 患者を診察しながら次の患者の容態を聞いて書生に筆記させ、処方するようなことまでした。多くの患者をこなすため、時間を惜しんだ。患者の殆んどは、順番を待つ間のわずかの問診で実質的な診察と治療が済んだ。そうは言っても、番が来れば、玄朴はにっこりと患者に相対し、少し話などを交わし、ゆっくり深く頷(うなず)いてやって、心を獲(と)ることを怠らなかった。

 象先堂の患者は玄朴を拝まんばかりに礼を言って帰っていく。玄朴は何か妙諦のようなものを心得て、貧者から双眼の感涙しか獲(と)れないのなら、その分、長者からは、二握も三握もの黄金を獲(と)ってくるようなところがあった。

 ――感涙だけでは、医者ばやる甲斐がなか

 銅臭と呼んで玄朴をよく言わない者が多くいると知って、それでも玄朴の自負は、一度診(み)た患者の顔、その初症、処方は数年後でも少しの誤りなく諳(そら)んじていることだった。門弟たちも驚服するしかなく、名医に違いなかった。名医なら払える患者から相応に薬礼を受けるべきだと割り切った。

 この頃、玄朴がいかに気ぜわしく時を惜しむか、江戸の大名家や大店の間で噂話が立った。近江三上藩遠藤家(一万二千石)では玄朴に藩主但馬守の母堂の往診を頼み、辰の口の上屋敷に迎えて、まずは奥の間で茶菓を勧めたという。大名家では普通になされるように、診察が終わると酒肴を饗応した。いくら玄朴が固辞しても、まあまあとなだめて聞かず、しつこい接待をよしとする家風がつい出てしまったらしい。

 家老が程良い所かと奥の間に挨拶に行くと、相手役を言い付かった御付きの者が青ざめ、放心して一人悄然と座していた。玄朴が時を惜しみ、席を蹴って帰ったあとだった。

 遠藤家では魂(たまげ)てしまった。人を走らせ後を追うもわからず、仕方なく使いをやって玄朴の家で待って居ったところ、夜更け遅く、往診から帰ってきた。遠藤家では再診を請うも玄朴から承諾を得られず、幾度も頼み込んで、ようやく再診の依頼に応じてもらった。一切の接待をしない、受けないと固く念を押されたうえでのことだった。

 翌日、遠藤家では、再び玄朴を迎え、略式と称して茶菓をだしたところ、玄朴から、それでは約束が違うと言われ、帰る気色さえ示しため、家老が陳謝するまでの騒ぎとなった。

 玄朴は、奥の病間に行くのも廻り縁では時間を空費すると言い、足袋で中庭の飛び石伝いに小走りで行って、家老らが唖然とする中、但馬守の母を懇切に診察し、看護、養生の要点を患者本人とお付きの者に丁寧に指導して帰った。但馬守の母は、玄朴の指示に従い、ほどなく快癒した。

 以来、遠藤家は玄朴に絶大な信用を寄せ、接待しない代わりに薬礼を篤く置いたという。まことによくできた噺だが、単なる噂とばかりは片付けられない何かを含んでいそうだった。

 

 天保六年(一八三五)十二月、玄朴は、墺太利(オーストリア)国プラーグ大学教授、毘斯骨夫(ビスコフ)(Bischoff ビショップ)原著で、漢(カン)而実幾(​エルジッキ)(C. von Eldik)による蘭訳本の重訳『医療正始』、初編三冊を刊行した。以前に蘭訳本を手に入れ、早速、箕作阮甫(​みつくりげんぽ)に翻訳させてきた成果だった。

 高価な輸入医書を、箕作には無理でも玄朴には買えた。箕作は蘭医書を読めるのを楽しみに翻訳を作った。玄朴は、箕作の訳を元に、己の筆を存分に入れた。表紙に己を重訳者として掲げ、名声を上げる仕掛けを世に問うた。

 分厚い原書で、何年にもわたる仕事になるのが好都合だった。金を得るには名声を要す。金の力で高価な舶来医書を購入し、それを元手に、訳者となって金を名声に変える。長く続く刊行事業の間、その名が話題となって権威が高まる。玄朴の算勘であり、人生訓だった。玄朴、三十六歳、名声の伴う金と、金の伴う名声を目指し、脂の乗り切った日々を送っていた。

 

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」三節「下谷御徒士町」(無料公開版

四 平川町貝坂​ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 高野長英はシーボルトから最も信頼を寄せられた門弟の一人だった。シーボルトに提出した論文の質は高く、論文数は門弟中、最も多く、シーボルトから学位記と称すお墨付きを授与された。蘭語の文章を書く速さは日本語と変わらず、蘭書を翻訳した日本語は明晰な達意の文章で読む者を圧倒した。博覧強記、博捜精読、欧州医学の最先端に肉薄する知識を持つに至った。

 シーボルト事件の審問が進む間、高野は、ひっそり身を隠していたが、ほとぼりが冷めた頃、江戸に戻って、麹(​こうじまち)は平川町貝(かいざか)に町医者を開業した。大観堂といった。学者としての優秀さは町医者の繁盛を意味しない。患者はほとんど来なかった。高野は気に病む風もなく、一心に蘭書の翻訳に励んだ。

 金はない。酒と女なしではすまない体質で、金は相当に使う。玄朴から、蘭語のことや難しい診断に助言を求めて問い合わせがくると、教えてやった後日、しばしば、玄朴宅に出かけて行って、むしり取るように金を借りてきた。むろん、返す金ではない。

 強引で傲岸、感心できないと玄朴の家人から嫌われた。高野にすれば、当代一級の知識を売ったのである。金を取るのが当然だった。安く売っていい知識ではなかった。

 ――あやつも銅臭らしく、患者から大胆に取るというではないか

 似たところもあって、腐れ縁で結ばれたシーボルト同門だった。

 

 この頃、玄朴は、江戸で開かれた鳴瀧塾同門の集いに出席したことがあった。皆で往時を語らいながら、付き合いを深めたほうがいい仲間とは旧交を温め、これからの仕事に役立てようか、と考えた。

 会の始まる前に、会話は全て蘭語で行い、日本語を話せば罰金を払うと取り決めた。シーボルト門下の矜持と懐旧だった。蘭語しか口にできないと、喋れる男が座を仕切るようになって、高野が中心に座談が盛り上がった。玄朴は、このような場で喋りたいほうだったが、蘭語となると口数は少なくならざるを得ない。

 玄朴は、シーボルト仕込みの蘭方医の看板を張るが、実は同門の中では蘭語がさほどでもなく、まして喋ることは得手ではなかった。鳴瀧塾で、高野ほどに才を輝(かがや)かせたわけではなかった。しょせん、その程度だった。

 高野が手洗いに立って階段を降りようとした矢先、玄朴は腹立たしさも手伝って、酔いにかこつけ高野を突き押した。

「Gevaarlijk(あぶない) !」

 高野が咄嗟に声をあげ、はっしと手摺りにつかまるのを見て、玄朴は痛切な敗北感を感じた。

 これ以降、玄朴は蘭語の化け物のような男に感心もするが、その十倍も妬(ねた)ましく思うようになった。己にはどうしても追いつけない男だとつくづく思い知った。

 玄朴は自分の患者に診断がつかず、気になって、高野に書状を書いて問い合わせることがあった。高野から明快な回答がたちどころに寄せられると、有益でありがたいと思う反面、妬(ねた)ましさを感じずにはおれなかった。それほどによくできた回答だった。

 高野が回答の根拠として引用した蘭書名をみると、玄朴の知らない本や、玄朴が持っていても読んでいない本だったとき、どうにも屈辱感を抑えきれなかった。

 ――あん男ん知識にはかなわん

 悔しさに奥歯を噛みしめた。だからこそ

 ――医者ん腕は俺(おい)が上ばい

 必ず思い直した。

 ――あがん男は学医だけん、匙(さじ)ん回らんごたっ

 医業がはやらず匙の回らない学究肌の高野を心の内で見下し、心の平衡をとるしかなかった。

 玄朴は蘭学者の間で高野の著作が高く評価されるのを聞いて唇を噛んだ。あのような男が『医原枢要』を出して本格的生理学書の先鞭をつけたと言うつもりなのが悔しかった。

 ――俺(おれ)とて『医療正始』で臨床内科学ばまとめて見すっばい

 負けじ魂が沸き起こった。玄朴が金に糸目をつけず蘭書を買うようになったのは、単に金に余裕ができたからとばかりはいえなかった。常に、高野のことが念頭にあった。

 天保九年(一八三八)、玄朴は扶歇蘭土(フーフェランド)原著の蘭訳本を手に入れ、甥の池田洞雲にその一部を翻訳させて『牛痘種痘篇』を発刊した。己が著者となったのは言うまでもない。この書は藩主鍋島斉正公に献じられた。洪庵が、扶歇蘭土から医師たる者の倫理と仁術をくみ取ったのとは異なる行き方だった。

 

                                *

 

 天保十年(一八三九)五月十四日、北町奉行所の捕吏が半蔵御門外の田原藩邸に踏み込み、家老渡辺崋山を捕縛した。のちに言う蛮社の獄が始まった。高野にも捕物がかかり、いったんは身を隠したものの、十八日に自首したことを玄朴はあとになって知った。

 事件以降、玄朴が高野に教えを請うことは一切なくなり、金もせびられず己の到達し得ない異能を妬(ねた)ましく感じることもなくなった。高野が居らず、やむなしと諦めた以上、診断のつかない無念さを玄朴は喜んで受け入れた。

 この騒ぎが取り沙汰されるうち、玄朴は、幕府の中枢に、蘭学になんらかの敵意、と言って言い過ぎならば、警戒心を抱く者が、きっといるに違いないと思うようになった。玄朴は、かつて南町奉行に出頭し取調べられた経験を思い出した。

 ――そう、あん時と同じ匂いばい

 玄朴は、シーボルト事件が、単に地図流出を抑えるためだけの騒ぎだったとは思っていない。

 ――蘭学は、幕府要路ん誰かに嫌われとうに違いなか

 蘭学は、単なる技術に過ぎないと軽くみなされている訳ではなかろう、日本の何かを壊す深刻な脅威として憎まれているのではあるまいか、と玄朴の懸念は募った。幕府要路の誰かが蘭学を嫌っているとしても、それだけではあるまい、

 ――ほかにも、それを援(たす)くる者がおっと

玄朴は常に気になっていた。

 ある日、玄朴ははたと思った。

 シーボルトの江戸参府の頃、蘭学は、とりわけ蘭方医学は大いに喧伝され、なにか不可思議な力でも持つかのように興味を持たれ賛嘆された。蘭学の隆盛は、先人たちが蘭語の読解を研究し、文法を解明した営々たる努力の賜物である。玄朴自身もそれに惹かれ蘭方医を目指したからこそ、今日がある。

 それを快く思わない者、蘭学をつぶそうと考えるほどの者がいるとすれば、

 ――そりゃあ、漢方医ではあるみゃあか

 特に幕府の奥医師あたりが、真っ先にそう考えるのではあるまいかと思い至った。玄朴は蘭方医と称しながら漢方の処方を多く用いた。漢方にも通じ、漢方を敵視する気分がない分、かえって漢方医の気持ちに気付かなかった。

 しかし、漢方医からすれば、近頃、隆盛に向かう蘭方医は小癪な一派に見えるだろうと覚(さと)った。象先堂を建てた時は気にも留めなかったが、漢方の官立塾ともいえる医学館は向柳原(むこうやなぎがわら)にあって、象先堂からわずか八町(九百メートル)の距離にあった。多紀家と漢方医の牙城だった。

 当初、多紀家が漢方医として大奥に勢力を広げ、寛政三年(一七九一)松平定信が老中の座にあったころ、多紀家の私塾だった躋壽館(せいじゅかん)が、どう画策したか、官学として幕府の塾に格上げされ医学館となって今日に至った。多紀家が勤める医学館の歴代館長は、奥医師として法印まで上ることが許された。

 すぐ脇に引っ越してきた新しい蘭方の象先堂が、たとえ町医者とは言え、大いに盛(さか)るのを医学館に出入りする奥医師たちがどう見ていたかと思うと、今更ながら空恐ろしくなった。玄朴は、こういうあたり細心で、むしろ小心だと自覚していた。

 ――どがんしてん、蘭学ば守らんばならん

 痛切に思った。己の生涯を賭けた目標を漢方につぶされて堪(たま)るかと心に誓い、これからは、さり気なく付け届けなど持って医学館に挨拶に行く方がいいとまで考えこんだ。

 まだまだ漢方は強い。特に、漢方医は将軍家に入り込んでいる分、政治的にどのような力を持つかわからない。不気味だった。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」四節「平川町貝坂」(無料公開版

五 浅草向柳原​ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 天保十一年(一八四〇)五月、幕府は西洋翻訳書を妄(みだ)りに出版、販売することを禁じた。蛮社の獄の余勢を駆ったように見えた。天文方に対して、暦書、医書など蘭書翻訳を外に流布させないよう達した。町奉行所には、売薬看板に横文字を使用することを取り締まらせた。

 この禁令を受けて、翌年、高(こう)良斎の翻訳に成る『駆梅要方』全三巻が発禁処分となった。これは、天保九年、大坂で出版された性病学書で、梅毒治療に用いる昇(しょうこう)の新知見を紹介してあった。

 そもそも、昇(しょうこう)は安永四年(一七七五)ころ、阿蘭陀商館医ツュンベリーが吉雄耕牛に伝えた水銀剤で、その劇的な効果はほとんど奇跡としか思えなかった。耕牛は『紅毛秘事記』で昇汞を取上げ、この流派では昔から知られた療法だった。

 『駆梅要方』は蘭方の効き目を印象づけ、広く知られるようになった。漢方には太刀打ちできない療法だった。それが、おそらくは医学館あたりから狙われ、これ以上の普及は罷(まか)りならないと布達された理由かもしれなかった。蛮社の獄のあと、再び、蘭学に逆風が吹いてきた。

 町なかに、カタカナ、横文字で薬品名を謳う看板が掲げてあった。

 

    蘭方御免ウルユス 蘭方長崎 健寿堂  VLOYM VAN MITTER

 

 普通は、漢字、平仮名で書かれるのが売薬看板だったから、いかにも舶来品を思わせるこの下剤は、文化年間から有名だった。

 洋薬を思わせるように蘭文字が添えられていたが、間違った綴りだとは誰にも気付かれなかった。この薬は腸を空にする薬効から、「空」をウ、ル、ユと分解し、「空(ウルユ)す」と掛けた命名らしかった。幕府の禁令はこのような語呂合わせの趣向にまで及んだ。

 この頃、漢方勢力がいかに蘭方を嫌い、対抗するのに焦(じ)れていたか、江戸市中である噺が噂されていた。辻元崧(すうあん)という有名な漢方医がいて、容貌魁偉、豪爽な気性で、白い剛毛が耳から長々と伸びていた。噂は決まって、耳毛から語られるのが常だった。

 崧庵が法印となって為春院と号する大層な医師になり上がる以前の話だった。老いてなお壮(さか)んな頃、主治医となっていた貴家から近頃、どうもお呼びが掛からない。達者であらせられるなら誠に結構だが、近くに来た折、たまには様子伺いに顔を出そうかと考え、かつて親しんだ患家に出向いたという。

 患家の門を入った玄関脇に駕籠が置かれた傍(かたわ)らに陸(​ろくしゃく)四人が控えて居って、染め抜いた腹掛けを見ると蘭方医某のものであることがわかった。患家が、いつの間に主治医を代え、しかも、あろうことか、蘭方医ずれに代えおったと思うと、崧庵は腸(はらわた)が煮えくり返った。やおら式台にまで入り込んで、奥の座敷に聞こえよとばかりに、罵(ののし)って喚(おめ)いた。

「蘭方、蘭方と近頃、世間で持て囃(はや)すが、なんと無学なものではないかっ。病が地に因(よ)りて異なることを知らず、あれは肉を喰(く)ろう髭面(ひげづら)者どもの医学であり、穀物を喰(く)ろう我らに施(ほどこ)すのは、牛の性はなお人の性と同じだとする愚論と同じことで、効くはずがないっ。畜生医者というべきである。とんだ思い違いもたいがいにせいっ」

 大音声(だいおんじょう)でまくし立てたところ、当の蘭方医は震え上がって、裏口からそっと帰っていったという。

 たかが噂話であるが、漢方が蘭方に抱く根深い反感を突いていた。この時期、庶民に至るまで蘭方医に人気があって、不思議と効くように思う世情が、漢方医に面白かろうはずはなかった。蘭方医学を貶(けな)すため、異国人と日本人の違いを強調し、蘭方が日本人に効くものか、と屁理屈を言い立てた。

 漢方医の焦る気分はこんな具合に高まっていた。なんとかしてくれようと漢方側が思っても不思議はない。玄朴は用心し始めた。

 天保十三年(一八四二)七月、医書の翻訳出版は医学館の許可を得なければならないと定められた。

漢方医、事実上、多紀家が蘭方医書の翻訳許可権を握った。医学館と隣接する多紀家屋敷が向柳原から玄朴の背中を睨んでいるようなものだった。申請された翻訳願は、内容を問わず却下するつもりで、多紀家は手ぐすね引いて待っていた。蘭方人気に対抗するため、漢方から仕掛けた一手かもしれなかった。

 この布達がでて最初に申請された翻訳願は箕作阮甫の『泰西名医彙講』で、即座に却下された。また、玄朴の訳書『医療正始』十三冊目から十五冊目が却下となった。

 玄朴は高価な蘭医書を購入し、しっかりした蘭語読みを探し出し、己は訳者に名を連ね、学医としての名声につなげていた。多紀家のせいで、その道が封じられた。蘭学はひどく不利な状況に追いやられ、多紀家では、次の手を着々打っているのかもしれなかった。玄朴も策を考えなければならなかった。

 弘化二年(一八四五)になって、蘭医書翻訳の許可権が医学館から天文方に戻され、ようやく蘭書の翻訳刊行許可が緩やかになった。この三年間、玄朴はひどい不自由を強いられた。

 三年間も翻訳を出せないような苦難が二度と起こらないよう多紀家を黙らせる必要があった。売られた喧嘩を黙って避けては再び窮地に追い込まれる。漢方に対抗するいい手立てがないか、玄朴は考え続けた。

 

                          *

 

 医学館は痘科を備えている。その任に当たる池田瑞仙、霧渓の父子は、危険であるという理由で、人痘種痘はもとより、ましてや牛痘種痘に反対で、常に排斥してきた。

 むしろ、隔離による防疫を重視した。いったん流行すれば患者の隔離も大切な策だが、積極的な手段とはいえない。欧米諸国が牛痘種痘を普及させて感染者を大きく減らしている実績と比べれば、いかにも遅れを取った発想であると蘭方医たちは冷たく見ていた。

 玄朴は、馬場佐十郎訳『遁花秘訣』の手写本を読んで、翻訳に苦しんだ佐十郎の苦闘を知っている。扶歇蘭土(フーフェランド)を翻訳してヨーロッパの牛痘種痘の考え方と手技、運用を世に紹介した。彼の地における痘瘡の劇的な減少に驚き、日本でも早く受け入れる必要があると考えていた。

 漢方は、人痘種痘の手段を知りながら普及する努力をしていない。しかし、人痘種痘の危険性を考えれば、それもある意味で、妥当と言える。ならば、蘭方は、牛痘種痘の導入を図って

 ――どがんでも、痘瘡ん予防に尽くさんばならんばい

 玄朴は決意した。牛痘種痘を実施すれば、蘭方の存在意義を明らかにすることにつながり、漢方からの圧迫を防げるのではないか、安全な牛痘種痘なら漢方を凌駕する力になるのではないか。玄朴は方針を定めた。

 玄朴の発想は蘭方医の範疇を超え、蘭方の普及をめざす医療行政家の決意であり、漢方と競り合って打倒しようとする政治闘争家の覚悟だった。

 牛痘苗を失活させずに長崎に待ちこむことはかなり難しいと聞いていた。シーボルトでも巧(うま)く持ちこめなかった。しかし、牛痘種痘こそ、漢方の圧迫を跳ね返し、蘭方を隆盛に導き、ひいては

 ――俺(おい)ん名声ば高むっ絶好ん機会ばい

 こう言ってしまえば、その通りに違いなかった。

 弘化三年(一八四六)玄朴は考え抜いた末、次の年、参覲交代で江戸に上ってくる藩主鍋島斉正に牛痘苗取寄せを建言しようと決意した。すでに江戸では痘瘡の流行が始まっていた。患児と死者が増えていると市中で怖(こわ)がられ、親は我が子が軽く済んでほしいと願わずにはいられなかった。かなり激しい流行になりそうだった。

 弘化四年(一八四七)二月八日 、玄朴は宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)に頼まれて、藩主妹正(まさ)姫十歳に人痘種痘を施した。十五日の夜から発熱し軽痘瘡と変じ、三月朔日に完全に治癒し種痘は成功した。姫は面部にわずか三個の痘痕(あばた)を遺すだけですんだ。温順な痘を厳選したから、と玄朴は言葉を選んで宗城に説明し、厚い賞賜を得た。

 

 鍋島肥前守斉(なりまさ)は国許に在国中、楢林宗建から牛痘種痘という新しい予防法を聞いたことがあった。宗建は長崎の蘭方医で斉正に仕え、かつては兄栄建とともにシーボルトに師事した。斉正は、香港でも牛痘種痘が行われていると聞いて喜び、長崎に牛痘苗を取り寄せてはどうかと思いながら、六月五日、参府してきた。

 斉正は、江戸で宇和島藩主伊達遠江(とうとうみのかみ)宗城に久しぶりに再会した折、玄朴が正姫に施(ほどこ)したという人痘種痘の具合を聞かされた。斉正にとって、姉の猶(なおひめ)益子が宗城に嫁いだため、宗城は義理の兄にあたる。それだけでなく、宗城は、西洋文化を積極的に取り入れようと親しく交わる開明派同志の間柄でもあった。

 斉正は、宗城がたいそう玄朴を賞賛するのを聞いて、満更でもない気分だった。

「玄朴殿はまことに優れた名医と存ずる。かような御家臣に恵まれ、肥前どのは、藩主冥利に尽きましょう。是非、玄朴殿を我が室益子の侍医にと、思うておりますれば、お許しいただけぬでしょうか」

 宗城からこう頼まれたときは、よき家臣を持ったと思った。

「これは、これは。遠江殿のお望みに、否やはござりませぬ。我が家臣でお役に立つのであれば、いかようにも御使い下さいませ。国の者であれば、姉も親しみを感じましょうほどに」

「早速のお許し、かたじけなく存じまする」

 斉正は、そんな宗城とのやりとりを思い出しながら、玄朴を召そうか考えている最中、玄朴から拝謁願いが出ていると知って、早速、召した。

 斉正は、玄朴から時候の挨拶を受けるのももどかしく、伊達宗城の妹姫や正室に関わる話を語り始めた。話柄は自ずと種痘に及び、それやこれやで座談に花が咲いた。

「殿に申し上げたきは、牛痘苗のことにございます。是非とも、爪哇(じゃわ)からお取り寄せになられましてはいかがと存じます」

 斉正にとって、扶歇蘭土(フーフェランド)の『牛痘種痘篇』を貰って以来、玄朴を国許の楢林宗建と並ぶ種痘の専門家と見てきた。その玄朴から、ジャワの牛痘苗を取り寄せるよう進言を受けると、我が意を得たりとばかりに、上機嫌で承認を与えた。

「この秋、阿蘭陀(おらんだ)船が爪哇(じゃわ)に向けて長崎を出港するまでに、牛痘苗の取り寄せを甲比丹(かぴたん)に依頼しておけばよいのじゃ。来年夏、阿蘭陀船が長崎に届けてくるであろう。長崎奉行にも伝えておくよう、余からも言うておく。そなたは宗建と話をしておくように」

 斉正は、てきぱきと玄朴に命じた。

「ははーっ」

 深く平伏する玄朴を満足気に眺めた。

 年の暮れ、牛痘苗の取り寄せ手配が済んだ。斉正は、国家老諫(いさはや)(いわみ)の病を診察するよう玄朴に命じ、早打ちで佐賀に向かわせた。牛痘苗と種痘実施の準備について、佐賀で宗建と直に打ち合わせる機会を作ってやったのは、斉正の牛痘苗への期待からだった。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」五節「浅草向柳原」(無料公開版

四章二節 下谷長者町
四章三節下谷御徒町
第四章四節 平川町貝坂
第四章五節 浅草向柳原
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