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第一話 醜聞を甚振る ― 馬場文耕

 

 

第一節 女形を占う 次を読む 目次に戻る ブログ参照

 宝暦元年(一七五一)十一月九日、江戸は木枯らしが吹いて、ひどく冷え込む日だった。浜町川から引いた入堀に沿って住吉町裏河岸(うらかし)の町(まちや)が続き、その前は竃河岸(へっついかし)と呼ばれている。

 神田から南に延々広がった町家はこの河(かし)で終る。入堀の向かいは水野壱岐守の屋敷となって白い練塀が入堀に面して長く続くのが見えた。入堀の前には、小振りな鳥居を前に細長く、ふいこう稲荷(いなり)が鎮座している。

 左馬次はこの稲荷の脇で売(ばいぼく)に座るのを好む。常に繁華な通りは客も多い代わりに易者も多い。いいことばかりではない。むしろ、夕暮れ時に人通りが減り、寂しげな神社のたたずまいに呼び寄せられるように、悩みある者が運勢を拓(ひら)きたいと拝みに集まる場所こそがいい稼ぎになる。

 左馬次はしがない辻占をやって辛うじて食いつないでいる。巻葦簀(まきよしず)に「卜(ぼくぜい)」と張り紙し、入堀を背に台の上で文机に向かって、静かに正座を続けた。辻八卦らしく編笠(あみがさ)を被(かぶ)っている。顔付きが外から明らかになるようなことはしない。霊験が薄れない工夫だった。時折、張り紙の隅が風にあおられ、侘(わび)し気な音を立てた。  

 日中、河(​かし)から威勢のいい声が聞こえてきたが、すでに舟荷捌(ふなにさば)きは終ったようで、夕暮れとともに静けさがましてきた。もうすぐ陽が落ちると思いながら、客の来ない左馬次は感慨にふけった。

 左馬次は中井文右衛門といい、ついこの間まで大御所徳川吉宗の御徒士(おかち)を勤め、わずかではあるが扶持米をとる幕臣だった。延享二年(一七四五)吉宗は将軍職を嫡男に譲り、御徒士三組九十人を召し連れて西ノ丸に移った。

 それから六年、今年の夏、ついに吉宗が死んだ。七月十日、前将軍形見分けの日に老中堀田相模守正亮(まさすけ)の命によって、大御所御徒士は皆、召し放ちとなった。とんだ形見で全く理不尽な話だった。

 三十年以上勤めた小納戸九人に金二百両ずつ、小姓十三人に金百両ずつ、小納戸三十人に七十両ずつといった具合に、幕府は妻子養育の名目で金を払った。そして、それきりだった。左馬次は家格も勤続年数もたいしたことはなく、ほんの涙金を頂戴した。

 余りと言えば余りではないかと、九十人うち揃って麻(あさかみしも)の正装で上野寛永寺の宮様を訪ね、帰参召帰(きさんめしかえ)されの儀を涙ながらに頼み込んだ。宮様から幕府に口を利いてもらっているが、どうなることか心許ない思いが強かった。

「今じゃあ旦那も懐(ふところ)が寒いのさ。おらずとも困らぬ家来はおらぬに越したことはねえってお考えなのよ」

 左馬次は御徒士の頃の心意気をすっかり捨て去り、幕府をせせら笑うように伝法な口調で独り呟いた。

「吉宗公の御代(みよ)は良かったぜ。それに引換え今は一体(いってえ)なんだってんだ。御徒士も旦那が死ねば用済みってか」

 俺は俺で身を立ててやるぜと気持ちを高く保つことに努めた。

「まあ、一周忌までは新しい世過ぎ口の準備もあろうし、辻占でも売って糊口をしのぐしかあるめぇ。ただし待つにしても一周忌までだ。旦那の心づもりを見切ってやるのに十分な頃合いだぜ」

 上手くいけば大御所様一周忌が済んだ頃、帰参がかなうかもしれないとかすかに期待する気持ちもあるにはあった。

「大抵はだめだろうぜ」

 左馬次は達観しながら、来(こ)し方行く末を幾度も考え、同じことを繰り返し思案した。

 ――俺は一(いってえ)、何をやりてえんだか

 趣味で学んだ易経を日銭稼ぎにする境遇に堕ちるとは思っていなかった。宵闇(よいやみ)迫る気配にようやく気付き、左馬次は文机の上に小さな灯をともした。いよいよ冷え込んで、空き腹にずんとこたえる。

 すっかり暗くなった頃、人形町通りから曲がってこちらに来る町人の影が見えた。冬の月に青白く浮かび上がった男は、ひどく落胆し悄気(しょげ)切っているようだった。これはいい客だと左馬次は目をつけた。

 男ははひどく長い時間、稲荷の小振りな社殿に向かって手を合わせていた。終わると蹌踉(そうろう)と鳥居をでてきた。左馬次はすかさず抑えた声でよびかけた。絶妙な間合いである。低い声に、丹田から絞り出した気魄(きはく)を籠めた。

「お悩みがあるのではござらぬか。卦を立てて進ぜよう。ここがそこもとの切所かもわからぬによって……」

 男は驚いたように、見開いた目でこちらを振り向いた。振るい付きたくなるような優男(やさおとこ)だった。青白い月影で見ると、凄いような色気ある顔つきから、ひとかたならぬ懊悩の気配が伝わってきた。これを占うのは易占者の妙味であろう。

 いかが召されたかなと、ゆったり穏やかな声で再び誘うと、優男は意を決したように寄ってきた。

「気をお楽に召されよ。なにか御心配ごとでござりますかな」

「悩みがあります。占ってくれますか」

「おお、占いましょうとも。天の声を見事、聴き取って御伝えいたしましょう」

「……」

「して、そのお悩みとは」

 男はようやく覚悟を決めたように、秘密を守ってくれと前置きして、芝居役者だとその身を明かした。つい今しがた顔見世の舞台がはねたところで、己(おのれ)の芸にほとほと嫌気がさして、町中、歩きながら、三日後の千秋楽までどう演(や)ったらよいか、悩んでいるという。

「拙者の知るところでは、市村座では神迎賑源氏(かみむかえ にぎわいげんじ)、森田座では相槌十二段、 中村座では…」

「私は市村座であやめを演じおります」

「なんと、それでは中村喜代三郎どのということですかな」

「御見知りおきありがとう存じます。芝居をよく御存知の方とお見受けいたしました」

「伊勢屋さんと言えば、一昨年、京都から下り、顔見世で市村座の頼朝軍配鑑(ぐんばいかがみ)で梛(なぎ)の葉をお勤めでした。当たりをおとりになったことをよく覚えております。押しも押されもせぬ上上吉の名女形でありながら、芸のお悩みとは、いかなることでしょう」

 促されて喜代三郎はぽつりぽつりと悩みを語り始めた。喜代三郎にはいいことを言ってくれる贔屓(ひいき)の客筋が多い反面、芸をよくわかった見巧者(みごうしゃ)からは厳しいことを言われるのだという。声が鼻にかかってはっきりと音が出ず、『どう、さしやんせ』と言うべきところ『どう、せせんせ』と聞こえ、落ち着かぬと言われた。役者にとって口跡をあれこれ言われるのは実に辛いと、喜代三郎は項垂(うなだ)れて呟いた。

 まだある。酒の酔いの仕内は男が酔うて、ねち事いうようだと腐(くさ)され、我が身を本当の女じゃと心得さえすればいいものを、と貶(けな)された。 中村富十郎の方はいかにも女の酔い言葉じゃと名女形を引き合いに出されたことがいかにも悔しいと肩を震わせた。

 江戸に下る前、喜代三郎の演ずる京都中村座のお暇(いとま)狂言では、暇狂言でもなんでもない嵐座の富十郎に大入をとられ、喜代三郎がたは寂しく気の毒だったと要らぬことまで同情された。富十郎とは因縁の女形同士だった。今は京都と江戸で離れて女形をやっている。

「御贔屓様からそう言われて思い当たる節(ふし)もあるので、心掛けて演(や)ってはいるのですが、なかなか上手くはいきませぬ。今日の舞台も納得はいきませんでした」

「わかりました。上上吉の名だたる役者に拙者から芸のことを申し上げるわけにはまいりませぬが、伊勢屋さんの今の運気を観てみましょう。卦を立てれば、手がかりがつくかもしれませぬ」

 左馬次はゆったりと筮(ぜいちく)を束(たば)ね、その一本を太極に抜き取って筮筒(ぜいとう)に立てた。残る四十九本の筮竹の束を手でぱんぱんと叩いてから、編笠の前にいただき拝み、気合を込めて二つに割った。左手の束を掛肋器(けろくき)に置き、右手の筮竹を八本ずつ繰(く)り取り、残った筮竹を数えると六本だった。

 陰、陽、陰と算木を置き、再び四十九本の筮竹を割った。今度は残り七本と見た時、左馬次は内心、こりゃ、ちと、まずいぜと思った。

 ――難卦(しなんか)が立つとは、今、こ奴の運気は底の底のどん底。悪いといえば、俺の運といいとこ勝負だぜ

 そんなことは噯(おくび)にも出さず、三度目に筮竹を割ると六本ずつ繰って一本が残った。果たして左馬次の立てた卦は水山蹇(​すいざんけん)の初爻(しょこう)進めば険中に陥(おちい)り苦しむこと必定、険難去るまで退き止まりて、その身傷つけざるよう戒(いまし)むべし、と出た。

 左馬次はじっと算木を見ながら、四つの最悪卦の一つを喜代三郎にどう伝えるか、言回しを考えた。

「伊勢屋さん、難しい卦が立ちました……」

 そこから左馬次は小さな声で、それでいて自信に満ちた口調でひそひそと喜代三郎に語って聞かせた。卦を語る声は小さきをもって好しとする。ぼそぼそとした口調に、始めは悄然と聞いていた喜代三郎も長い話の終(しま)いには、いくども深く頷(うなず)く素振りを見せた。

 左馬次は最後に噛んで含めるように言って聞かせた。

「肝要なのは短気を起こさず、じっと待つことです。進んではなりませぬ。今が良くない分、必ず運気の方から巡ってきます。これ以上悪くなりようがないということは、これからいいことしか起こらないということです」

「は…」

「控え目に穏やかに身を処すのが一番。艮(うしとら)の方角は凶ですから、市村座の建つ葺屋町から見て、両国橋から本所方面は避けていただきましょう。元気を出されよ。元々、上上吉の名女形ではありませぬか」

 物慣れた言い方に、喜代三郎は得るところがあったか、丁寧に礼を言って帰っていった。心(こころな)しか、よほど足取りもしっかりしていた。その背を見送り、左馬次は呟いた。

「俺と同じ四難卦(しなんか)が出たときは魂消(たまげ)たぜ。凶だから俺もじっとおとなしく待ってるのさ。下手にしゃしゃり出ちゃあ、危ねえのさ」

 

                           *

 

 喜代三郎と妙な出会いをしてから二ケ月と経たず、宝暦二年正月二日、市村座は新春興行に楪姿見曾我(ゆずりはすがたみ そが)をかけた。左馬次は喜代三郎が重井筒屋(かさねいづつや)おふさを演ずることを知り、うまくいくよう案じていた。

 喜代三郎演ずるおふさは、徳兵衛と馴染んで身ごもったことを女衒(ぜげん)、釣舟の三郎兵衛に知られ、百両の身の代を完済すればよし、さもなくば堕胎(おろしぐすり)を呑めぃと責められるのが見世場だった。哀れ、追い詰められた悲しい女の情が滲みでていると好評を博すのを聞いて、左馬次も喜んだ。

 興行の終わった頃から、左馬次は喜代三郎にすっかり慕われ、しょっちゅう訪問を受けるようになった。次第にいろいろ悩みごとなど相談を受けることがふえた。左馬次の助言がよほど利いたのであろう、信頼されるようになった。

 時には二人して、目立たぬ水茶屋で呑んで親しく付き合った。左馬次は驕(おご)られるのが嫌で、茶屋もいいが、上燗屋で蒟(こんにゃく)田楽を肴に安酒を汲もうじゃねえか、と誘うことも多かった。

 人生の悩み、岐路にあって、どう道を切り拓くか、その智恵を身に付けたく易経を手ほどきしてはもらえまいかと喜代三郎から頼まれた。左馬次は願いを聞いてやったから、喜代三郎とは師と弟子の間柄と言って言えなくもなかった。

 その分、喜代三郎から芸のこと、芝居の外題のこと、芝居を巡る人間模様のことなど、左馬次も多くを教わった。喜代三郎が江戸に下って最初の正月には、通神鵆(かようかみちどり)曾我の八百屋お七の役、その年の市村座顔見世、歸(がいじん)太平記の祇園お淸の役、翌年二月の初花隅田川の傾城菅原の役が左馬次と出合うまでの江戸の勤めだった。その役どころだけでなく、京都時代の役者修行の話も喜代三郎から聞かされた。

 京都嵐座の中村富十郎が三十一歳の若さで極上上吉をとったのが寛延二年(一七四九)。濱村屋路(ろこう)初代瀬川菊之丞を差し置いて富十郎が極上上吉とは、ちと若すぎやしないかと世間を騒がせたが、路考が病に倒れたためと一応は言い訳めいた話がでて落ち着いた。世間が富十郎の極上上吉を受け入れたということだった。

 このとき、二歳下の喜代三郎は上上吉になったばかり。喜代三郎からみて富三郎の卓越した芸は、悔しいが、認めざるをえなかった。富十郎のせりふ回しと若々しい身の軽さには到底かなわないと思ったという。

 富十郎は、橘屋春水初代芳澤あやめの三男と生まれ、中村新五郎の養子となった。喜代三郎は新五郎の弟子だから若い頃から互いによく知っている。色子時代の二人の美貌は並び称され、女形で舞台に立てば芸を比較されるのは自然の流れだった。

 喜代三郎は、京都で富十郎と比較されるのが嫌になって、江戸に下ってきたと内心を明かした。江戸で、少しはあれこれ言われるが、富十郎と遠く離れている分、はるかに気持ちが楽だと左馬次に言った。

 左馬次は喜代三郎からたくさんの相談を受け、芝居噺を聞かされた。そんな話は無性に面白かった。




佐是恒淳の歴史小説『意次外伝』第一話「醜聞を甚振る」一節「女形を占う」(無料公開版)
 

二 旗本を嘲​ 次を読む 前に戻る 目次に戻る​ ブログを参照

 

 左馬次は御徒士召し放ちのあと、売卜(ばいぼく)で生計を立てながら己の行く末を模索し続けた。幾度も考え、あれこれ悩んでこれと決めたのが講釈師の稼業だった。

 講釈師は元々、軍書、軍談を読むところから始まったので太平記読みと言われる。近ごろ、深井志道軒が浅草寺境内で辻講釈を語り、大いに繁盛していた。武将の壮絶な戦(いくさばたら)きを語り、聴衆を勇壮で厳粛な気分に引き込む昔ながらの講釈も演(や)ったが、それだけでなく、世の有力者に痛烈な皮肉を放ち大衆の憂さを代わって晴らした。

 志道軒は男根をかたどった棒を右手に、釈台をばしばしと叩いて調子をとりながら、該博なる知識で警句を次々と吐いたと思いきや、次には抱腹絶倒の戯言(ざれごと)を繰り出した。語り口の歯切れを整える間合いで所々に差しはさむ卑猥な冗句は聴衆の艶笑(つやわら)いを引き起こした。

 演目を終えた後も、魅了された聴衆が帰ろうとしないほどの人気ぶりだった。左馬次は志道軒を聴き、己の道はこれだと思い切った。かと言って志道軒を敬(うやま)う気などない。むしろ、俺ならもっと巧く演(や)ってみせるぜ、と競争意識を高めた。

 志道軒は、若いころ知足院の大僧正隆光付きの侍僧を勤め、のちに護持院や成満院の納所(なっしょ)となって諸大名の付届けで懐が潤った。それをいいことに男色に耽ったのが明るみに出て破門となった。

 一時は、願人坊主にまで身を堕(お)とし乞食とたいして変わらぬ境遇に陥ったが、それで終わるような男ではなかったらしい。天性の語り口と寺で身に付けた知識で、新しい講釈を生み出し世に這い上がってきた。皮肉と爆笑と卑猥のネタで聴衆の心を自在に操(あやつ)り、飽(あ)かせることがなかった。

 左馬次は江戸城内事情に精通し、武家有職を熟知するのが己の強みだと思い定めた。そのうえで、寺に入ることを決めた。節(ふしだん)説教の語り口さえ身に付ければ、独自の講釈で志道軒を超えられるはずだと踏んだ。左馬次は、講釈が元々、節談説教の語りから生まれたことを知って根本から学ぼうと発起した。

 

 宝暦二年(一七五二)六月二十日、大御所の一周忌が執り行われ、七月を過ぎても帰参の話は来なかった。

「ふん、思った通りだぜ。これでせいせいしたというもんだ」

 左馬次は決心した通り真宗の寺に入ろうとあちこち回り始めた。寺に入るといっても篤い帰依の心があるわけではない。長くいて修行を積もうというのでもない。二心あって得度したいという動機は先方の寺にはわかっただろうが、それでも受け入れてくれる小さな寺もあるにはあった。左馬次は、それなりの金を払うつもりだった。

 左馬次が喜代三郎に会ってこれからの目途を話すと初め驚かれたが、志を伝えると、これを祝うささやかな座をもうけてくれた。出会ってから一年と経たないが、二人は気の合った仲で、時に励まし合い、時に教え合うよき友だった。気持ちよく呑んで、分かれ間際に喜代三郎が言った。

「九月九日、名残狂言を演(や)って、上方に上(のぼ)ります。江戸には三年間置いていただき、多くを学びました。左馬次さんには、いろいろ励まされ、易の手ほどきを受けてやってきましたが、少しは自信めいた気持を取り戻せたことでもあるし、舞台を替えるのもいいかと思って、大坂に行くことにしました」

「そうかい、そりゃ、よかったじゃねぇか」

「いつかの卦を守ろうと思います。大坂に移るのは進むのではなく、退いて初心に戻ることです。足元を固めます。控え目に穏やかに身を処すのが肝要。易を学んで、水山蹇(すいざんけん)の意味もわかりました」

「そうともさ。西南に行くは吉だぜ」

「それも学びました。それにこの冬、中村富十郎が江戸に下ってきます。これを避けるのも水山蹇(すいざんけん)の戒(いまし)めかと……」

 京都では、百千鳥娘道成寺(ももちどりむすめどうじょうじ)の白拍子花子役の富十郎が娘心のたけを籠めて、手踊り、まり唄、花笠踊りを続け様に舞ったらしい。恋する娘の切なさと裏切った男への怨みをこめたクドキが素晴らしく、羯鼓(かっこ)を使った山づくしの舞、鈴太鼓を手にした早間(はやま)の踊りの華麗さに京都の大向こうを唸らせたという。

 喜代三郎はこの話を聞いて、江戸を離れようと決心したのだと言った。この興行は、富十郎が江戸に下る暇乞(いとまご)いのためだったが、拍手喝采の大入りとなって、出達日を遅らせたほどだった。

 喜代三郎と分かれ、歩きながら左馬次はひとりごちた。

「あやつが水山蹇(すいざんけん)の卦をそこまで重んずるなら、俺も寺に逼塞して水山蹇の卦を大切にしようじゃねえか。近く、必ず運気が巡ってくるわさ」

 そう呟くと、左馬次は小気味よく、びぃっと手鼻を擤(か)んだ。

 

                 

 

 宝暦二年(一七五二)八月の末、左馬次は得度し真宗寺院に入った。なんのかのと交渉を重ね、ようやく話をまとめ上げ、もぐりこんだようなものだった。仏の教えはともかく、節談説教を聞き講釈に役立つ知識を貪欲に求める日々が始まった。

 喜代三郎は大坂へのぼる暇(いとま)狂言の稽古やら挨拶回りやら、多忙を極め、もう逢う機会はなかった。左馬次は寺の雑務の合間を縫って草双紙(くさぞうし)に目を通し町の風聞を集めて、市井の感覚を鈍らせなかった。

 講釈も多く聞いたが、ただ志道軒の席は避けた。志道軒は聴衆に女と坊主を見ると、講釈場で口汚く罵(ののし)るのが常で、一度、聴きに行ったところ、案に違(たが)わず口を極めて面罵された。

 左馬次は、そんな寺暮らしを一年半も続け寺を出た。必要なもの全てを脳髄に詰め込んだ自信があった。上総(かずさ)葛飾の朽ちかけた農家に仮住まいし、髪が伸びるまでと期間を区切って、講釈のネタ本を書き始めた。

 宝暦四年(一七五四)七月、最初に書き上げたのが『世間御旗本容(かたぎ)』十五話五巻仕立てだった。序末尾には、総州葛飾辺老農、作者升瓢と筆名を記(しる)し、その下に瓢(ひょうたん)をかたどる落款を捺(お)した。黒地印影には陰刻で「一味入」とあり、ひり辛い一味唐辛子を一升喰らわすぞと暗喩してあった。

 この作で、左馬次がこれまで見聞した旗本の放蕩無頼の生き様を滑稽と冷笑と皮肉と辛辣の筆致で痛烈にこき下ろした。実在人物を念頭に、本名を変えて登場人物に仕立てたから、見てきたような現実感がある。わかる読み手なら、あいつのことだと気付いても不思議でなかった。

 巻之一、第一「弓取も弓は袋に鳥屋形気(とりやかたぎ)」の冒頭噺では、鳥を飼うのに長けた旗本が鴛鴦鴨家鴨南京鳩雉子真鴨真雁小鶄葭切雲雀鶉(おしどりかもあひるなんきんばときじまがもまがんこさぎよしきりひばりうずら)の類いを屋敷中に飼ったと紹介した。その鳥商売が軌道に乗ったころ、同業の鳥屋がやって来て、御側勤めの歴たる御方が高砂など謡曲(うたい)の物真似(​ものまね)する九官鳥を売りたいと言っているが一枚のらないかと話を持ち込んできた。

 五十両で買い取れば、大名道具といってよい芸鳥だから三百両くらいで転売できる儲け話だった。数日後、首尾よく五十両で手に入れた祝いの酒席で、鳥飼い旗本と取り巻きの怪しげな町人らが、飲めや歌えの乱痴気騒ぎをやって、役者の声(こわいろ)、立て引きの掛け合い、座頭のまねなど市井の演じ物を真似(まね)た下品な喚(わめ)き合いとなった。中でも、志道軒を真似て、大口をたたき「ととんとん」と男根棒で拍子をとる口調は、九官鳥を前に、皆の大笑いとなった。

 それから間もなく、九官鳥がなんと五百両で売れて旗本は笑いが止まらず、幸せな日々を送ること数日、あろうことか大名屋敷から九官鳥が返されてきた。理由(わけ)を尋ねると、高砂などの謡曲を真似(まね)て謡(うた)う鳥だと楽しみに聞いたところ、卑猥な唄やら、わめき声やら、下品に堪えず、というのがオチだった。

 巻之二第一「毎日の昼寝はあてもない盗人形気」では、大御所に仕えた御徒士(おかち)が召し放ちとなり、辻斬りに立って金を脅(おど)し取ろうとした相手が事もあろうに実父だったという話を書いた。長きにわたる太平に、弓は袋に劒(つるぎ)は鞘(さや)に、そっと収まる世の習い、旗本も太平の世にはこんなものかなと嘆いてみせ、ざまを見やがれと自虐的に悪罵を投げつけた。

 旗本、幕臣に辛辣な冷笑を浴びせ、毒を含む著作である。左馬次は及び腰になる書肆(しょし)を頼らず、貸本として回覧する途をとった。

「版木を起こさず手写本とするさ」

 それが、無難な道というものだった。

 次作の『近代公実厳秘録』では、吉宗公治世下における将軍から家臣に及ぶ武家逸話を四十四話十巻にまとめてみた。なかなかの出来だと自負したのは、細川家当主の横死を扱った実録物で、内情を詳しく調べ上げた力作だった。

 分家筋の大身旗本板倉修理勝(かつかね)が本家筋の大名板倉佐渡守勝静(かつきよ)に恨みを含み、殿中の厠(かわや)で斬りつけたところ、相手を間違え、関わりのない細川越中守宗孝を殺してしまう顛末を書いた。

 人違いの原因は、狙った板倉の紋所が三つ巴を九曜星に配したもので細川の黒丸の九曜星と似ていたためだったと皮肉な筆調で書いた。庶民の誰にもわかりやすく、しかもとんでもない大間違いに、可笑しくもあり気の毒でもあり、厠(かわや)で斬り殺された大名の割切れない不条理が世間で評判になった。

 

    板倉に小便所にて仕掛けられ

         越中褌(ふんどし)はずしかねたり

 

 市井では驚き呆れ、細川家の官位とふんどしを掛けた落首が広まった。貸本屋はほくほく顔で手写本を追加増筆した。左馬次は最近の出来事を実録風に書き、いずれは講釈に仕立てて弁じてやろうと目標を持つきっかけとなった。野心といってよい。

「この手の話は受けるに違いねぇ」

 そんな頃、冬になって喜代三郎が京から戻ってきた。二年ぶりだった。互いに忙しくなっていたが、合間を見計らって二人で呑んだ。あれこれ最近の消息を語り合い、久しぶりの再会を喜んだ。二人は気持ちよく酔い、別れ際に左馬次が言った。

「水山蹇(​すいざんけん)はもう終(しま)いと見ていいんじゃねえか。そろそろ、また卦でも立ててみるか」

「私は今、順調に歩んでいます。天の声を聴くときではないと思います」

「そうかい。そりゃ、よかった。俺も己の卦をたてようとは思わねえさ。お互い、自重した甲斐あって運のほうから巡ってきたぜ」

 こう言うと左馬次は豪快に笑い飛ばした。

 

 宝暦五年(一七五五)が明けた。髪も伸び総髪の髻(もとどり)が結えるようになったころ、左馬次は、あれやこれやの揚(あが)りでなんとかやっていける目処が立ったと思った。新たに馬場文耕とそれらしく名乗り、近頃では、大名屋敷に出向き講釈を語るようになった。庶民を相手に大うけを狙う前に、あまりくだけず、知識を持ち合わせた武家を相手に、基本の語り口から語ることにした。

 よくお呼びが掛かるのは、蛎殻町土井家の中屋敷である。竃河岸(へっついかし)から人形町通りを横切り、元大坂町を過ぎて甚左衛門町に沿った角を左に折れて南に行くと、手前から刈谷藩土井伊予守、宗家唐津藩土井大炊(おおいのかみ)、大野藩土井能登守の中屋敷三邸が順に並んでいる。

 左馬次は、辻占(つじうら)をやっていた時分に大野藩家中の藩士と知合い、その後、ひょんなことから再会した。縁が巡って講釈師になったのなら、一度、聞かせてほしいと中屋敷に呼ばれたのがきっかけだった。行けば、隣接する縁戚の土井家からも藩士が聴きに来て、講釈の席は盛況だった。

 左馬次は歴とした江戸詰め藩士を相手に、武家の作法と所作を踏まえ下品に落ちず、聴衆に安心感と共感を与える語りを心掛けた。笑いにしても、毒のある冷笑は封印し健全な滑稽に徹した。何度か呼ばれるうちに、こたびは刈谷藩、次は唐津藩と、三家隣接の便で各藩から出入りを許され、座敷講釈は安定した。

 著作は毒を含み野卑にも似るため、左馬次は歴たる藩士に知られないよう努めた。著作には筆名を記さないものが多く、隠せることは隠せた。ただ、藩士と雑談を交わす節々に何となく、先方が左馬次の貸本を知っていると感じることもあった。そこは互いに、直接、著作に触れることを避けるような具合だった。

 

                          *

 

 本多長門守忠(ただなか)は奏者番兼任の寺社奉行として、脂の乗り切った日々を送っていた。一時は病のため大番頭(おおばんがしら)の職を辞し、世をはかなんだ時期もあったが、四年たって遠江国相(さがら)藩一万石に国替えとなり、奏者番に返り咲いた。毎日、足(あが)くような思いで昇進の機会を探していた。

 忠央は本多平八郎忠勝の末裔で誇りは高い。家祖平八郎は德川四天王の一人と称(たた)えられ、織田、豊臣の時代を通じて德川家の武威を担う戦国の誉高き武将だった。知らぬ人とてない伝説の英雄である。

 忠勝の家は幕府創建当初、輝くような堂々たる一門となったが、複雑に転封、分家が繰り返され、近頃では、宗家の岡崎本多氏五万石を筆頭に、分家は、忠央の家の外(ほか)、泉(いずみ)本多氏一万五千石と山崎本多氏一万石の小さな三家となり、幕府の要職に就くでなく往時の勢いは失われてしまった。それも忠央が焦る理由の一つだった。

 奏者番から寺社奉行を兼帯したあと、若年寄、大坂城代、京都所司代と職を重ねれば、老中職が視野に入ってくる。本多家の往年の隆盛を取戻せるかもしれない。目をかけてくれる老中本多伯耆守正(まさよし)は、別系統本多家の出で縁戚ではなかったが、忠央の頼りとする先達だった。

 先代吉宗公の御代には譜代が重視され、門閥の誇りとしきたりと秩序が整然と尊重されていた。吉宗公を継いだ当代家重公は虚弱な体で、ろくに口も利けない。こういう御代(みよ)は譜代の危機であると、本多正珍に言われて、そうと気付いた。

 口が利けない将軍は、いくら譜代、門閥といえども意思の疎通が難しい。それができるのは常時、側に仕える御側衆だけになる。将軍の御言葉と言われれば老中政治が壟断(ろうだん)され隙(すき)が生じる。

 このところ、将軍とは別に、譜代が政(まつりごと)を握る体制を早く確立しなければならないと、有志と相談することが多くなった。とにかく側衆を抑えること、側衆の勤めを将軍の身の回りに限定し政(まつりごと)に口を差し挟(はさ)ませないことが大方針だった。そんなある日、忠央は城中、本多正珍から呼ばれて、長い密談を持った。

 

 四月二十日、赤坂御門内の三河刈谷藩二万三千石の上屋敷五千四百十七坪では先代藩主土井利庸(としつね)の二十三回忌が執り行われた。施主の土井伊予守利信は亡父の法要を終えた後、座敷で参列者と談笑を交わした。

 多くの縁者が参列してくれた中に、本多忠央を見つけた。利信の母は忠央の養女だから利信は孫にあたる。ただ忠央は若くして亡父から養父の役を受け継いだだけで、利信の母と幾つも歳が違わない。

 時折、庭園から座敷に初夏の爽やかな風が吹き渡る中、利信は伯父のような祖父と親しく話を交わすうちに、最近、刈谷藩の中屋敷で聞いた講釈の話題に及んだ。屋敷に呼ぶ講釈師は前将軍吉宗公の御徒士だったが、召し放ちとなったのを機に講釈の道に転じた者で、学問あり、俳諧にも造詣が深いと人物を語った。

 祖父は、ほう、ほうと頷(うなず)きながら、にこやかに聞いてくれた。講釈師に興味をもったらしく、その名前や世評、書いたものの有無など、いくつも質問された。利信には、普段は穏やかな祖父の目が、時折、鋭く光るように見えたが、特に気にもならなかった。

 

佐是恒淳の歴史小説『意次外伝』第一話「醜聞を甚振る」二節「旗本を嘲う」(無料公開版)

三 大名を腐 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 宝暦五年(一七五五)八月十五日夜、酉(とりいぬ)どき、仲秋の名月を眺めていた江戸の人々は驚いた。なんと年一番の大きく美しい月が徐々に欠け始め、あれよあれよと立ち騒ぐうちに六分まで食となり、満月の夜がすっかり暗くなった。あとは何事もなかったように満月は回復したが、とんだ月見となった。

 あくる日、左馬次の朽ちかけた農家に浪人らしき侍が訪ねてきた。是非、話がしたいという。左馬次は執筆中で煩(うるさ)く感じたが、相手がいい話だからと余りにねちこく言うので、やむなく家に上げた。

「で、要件ってのは何だ」

「ふん、そう急(せ)くなって。月食の話をしようってんじゃねえさ」

 侍は鋭い目つきで左馬次を睨みつけ、懐手(ふところで)で胸を搔きながら脅すような素振りをみせつけた。どうも只者とは思われなかった。

「お前(めえ)さん、近頃、実録物と称して、妙な話をいろいろ書いてるそうじゃねえか。町なかでも評判だぜ」

「まぁな。それがどうかしたか」

 左馬次は侍を薄気味悪く感じながらも、虚勢を張って伝法に応えた。

「そのネタは、調べにも手間暇かかるんじゃねえのか」

「あたりめえよ。いろいろ聞き込み、本当のところを調べ上げるんだ。他人(ひとさま)にゃあ真似のできねえ調べ方だぜ」

「そこでだ、いい話ってえのは……」

「何でえ。気になるじゃねえか」

 崩れた風の武士は、声をひそめて語り出した。

「お前(めえ)は城勤めしてたから、当座のネタは蓄えてあるだろうが、それにしても城内噺(ばなし)や大名の内輪話は、集めるのに苦労しねえか」

 左馬次は、己の経歴を浪人が知っているのに内心驚いたが、話に惹き付けられて身を乗り出した。侍はにやりといやな笑いを片頬に浮かべた。

「調べても滅多に分からねえ内実を知りたくはねえか。そんな話を書いた書付をお前(めえ)にやろうかって聞いてるんだ」

「高く売りつけようってのか。嘘八百の書付で騙そうって魂胆か。その手にゃ引っ掛からねえぜ」

「ふん、そんなけちな話じゃねえ。金は一切無用、中身は正真正銘、本(ほんもん)さ。普通じゃ間違っても目にできねえ代物(しろもん)だ。書付をどう使おうが手(てめえ)の勝手次第。ネタが当たっても分け前をよこせとは言わねえわさ」

「……」

「まあ近く、使いの小者に持たせて書付を届けてやるから、まずは手前(てめえ)の目で読んでみな。邪魔したな」

 左馬次は客の帰ったあと、しばらくの間、寝転んでぼんやり天井を見上げていた。近く、三作目の『近世公実密秘録』を脱稿する。二作目の『近代公実厳秘録』四十八話を整理、改稿し、三十九話に縮めたものだが、ネタが尽きて困り果て、十二の話は前作とほぼ同じになってしまった。いいネタを仕入れなければ世間の受けは取れないと焦っていたところだった。

 

 宝暦六年(一七五六)春、桜の便りで江戸中が浮かれ始めた頃、左馬次は第四作目『当時珍説要秘録』の最後の原稿を貸本屋に渡した。九代将軍家重治世における武家逸話集といった内容で、四十四話十巻仕立てが完成した。

 巻之一の冒頭噺には、「当将軍家重公御虚性の事」と銘打ち、家重の触れてはならない珍聞奇談を書いた。当将軍は病身の上に、淫と酒の二つを過ごし、大奥に入り浸(びた)ってよもすがら女中ばかりを相手に酒宴のみが多い。父の吉宗が小(こすげ)御殿に行って鷹野をせよと奨めたのも、家重に女犯と離れた夜を過ごさせるためだったと書いて、読み手を煽った。

 大奥で色、酒に夜を更(ふ)かし、朝の目覚めは遅い。お物腰は呂(ろれつ)回らず、自分からものを言い出すことはなく、仰せは、上意の代わりに大岡出雲守が申し達するので、大岡は「御言葉代」だと皮肉を浴びせた。左馬次は話の初めから、将軍と側衆の大岡出雲を名指しで毒舌の俎上にのせた。それだけでない。

 

      公方様御成りなどの節、御小便繁々(しげしげ)しく
      わたらせたまひ、路次中、御駕籠のうちにて

      御小便近きに、はなはだ御難儀遊ばされ候なり

 

 容赦なくはっきりと、将軍家重は小便で難儀すると書いた。上野寛永寺へ参拝した還御の途で、

 

      御小便の御心しけりとて、御駕籠を御本
       坊の装束
(しょうぞく)所迄返し参らせしなり

 

 こう記し、尿意のために寛永寺まで戻ったことを皆に知らしめた。

「吉宗公の頃は良かったさ」

 今の家重公ときた日には、そのお声を聞いたこともなく、吉宗公御逝去のあと、お附きの御徒士を理不尽にも皆、召し放ちとした。吉宗公を褒(ほ)め称える気持ちは十分持ち合わせても、家重公を敬う気分は抱(いだ)きようもない。

 ましてや大岡出雲守忠光のような側衆には胸くそが悪くなった。書付で家重の小便話を知ったので、左馬次の心は筆に現れ、生き生きと皮肉にくるんだ嘲笑を書き綴った。

 去年正月三日夜のこと、城内御謡(うたい)始めの節、観世大夫が高砂の小謡四海波を謡うなか、家重公が御三家と盃ごとを遊ばされたときのことだった。

 家重公が急に御小便に立たれ、目出度(めでた)かりし席がすっかり白けて困惑する中、観世大夫は途切れないよう幾度も「四海波静かにて国も治まる時つ風」と謡を繰り返す破目になったと意地悪く書いた。

小便の間中、四海波静かをやらされる身にもなってやれとばかりに皮肉に観世大夫の不運を嘆き、将軍の小便で正月からこの体たらくだと、痛罵を放った。

 貸本は大評判となって、多くの町人が大笑いしながら話題とした。世に家重の頻尿が喧伝され、「小便公方」とまで怪しからぬ綽名がついた。城内事情に通じた一部の幕臣が貸本に目を通し、それにしても、このような内密の話をよくも聞き出してくるものだと訝(いぶか)しんだ。話はほぼ真実だった。

 

 左馬次は貸本執筆がうまくいって、次第に実入りが良くなってきたと手応えを感じた。ときどき小者が届けてくる書付は、幕府のいろいろの部門の業務日誌や、町奉行所の調書かと思われる文書(もんじょ)の抜粋だった。内容は広く千差万別で、書き慣れた丁寧な達筆で手写されてあった。

 左馬次は書付で内密話を知り、実話として面白く刺激的に再現した。読み手が手にとりたくなるように、筆を揮(ふる)って盛り上げはしたが、実録物を目指す志を大切にし、話を曲げて書くことを自ら厳に禁じた。

 いつまで書付が届けられるかわからなかった。それ以上に、書付が、なぜ、誰から、提供されるのかわからなかった。ただ、届いた書付から面白い話に発展できる限り、書き続けてやると心に決めた。

「なあに、そのうち、どこの誰が届けて寄越すのか、突き止めてやるさ。そ奴こそが本当の醜聞に関わっているんじゃねえか」

 

 宝暦七年(一七五七)三月、左馬次は『宝丙密秘登津(ほうへいみつがひとつ)』で宝暦六年丙子(ひのえね)の醜聞奇談の密事を貸本にして世に問うた。冒頭巻之一では西ノ丸大奥のことをあれこれ取り上げた。御世継の家治は嫁いできた閑院宮ご息女五十野宮(いそのみや)に昼夜を問わず、わたらせ給う事余りに繁(しげ)しと奥女中に嫌がられ、会わせてもらえない日もあると書いた。

 家治公が愛妻家であるのはいいが、度が過ぎるのはいかがなものかという筆調は、大奥のことなど何も知らない庶民には刺激的で、放恣な想像を誘った。ほかにも大奥の驚くような話が散りばめてあった。

 巻之二では、困った状況に陥った武家や町人が、わずかな縁を利用して大岡出雲守に頼み込み、うまうまと有利な結果を出した多くの例がこれでもかと列挙されていた。さらりと読めば、大岡が強い力を使って一部の者に便宜を図ったような筆致だった。

 左馬次の見るところ、宝暦六年『当時珍説要秘録』を書いたころの書付は、まだそれほど家重、大岡に不都合なものではなかった。小便遺漏の話でさえ、どことなく見守る温かさと滑稽味があった。宝暦七年の『宝丙密秘登津(ほうへいみつがひとつ)』の元になった書付は、両者に対する何気ない悪意のようなものを含んでいた。

 左馬次は、まさかここまでは書けまいというあたりを勘案して執筆した。書付を届け、家重、大岡に不利な記事をどんどん書いてくれと言わんばかりだった。

「そ奴は、俺の貸本も見ているだろうさ。幕府内で、将軍と側衆を不利な立場に引き摺り込もうと画策しているんじゃあるめえな」

 たかが市井の貸本記事だと、これまで大したものとは思っていなかった。ところが、そうでもなさそうだと気付いた。脇から軽くつつくには貸本の実録物などが、ちょうどいいことだってあるかもしれない。

「こんなあたりがそ奴の算勘なんじゃあ、あるめえか」

 俺を利用する気なら、俺も利用してやるまでよ、と開き直った気分になった。

 

 この頃、左馬次は采女が原に葦簀張(よしずばり)の囲みを作って講釈を語り始めた。ここは享保九年(一七二四)正月二十九日の大火で焼け落ちるまで松平采女(うねめのかみ)定基(今治藩主)の屋敷があった。やがて跡地が馬場となり、片隅に講釈、浄瑠璃など演(だ)し物が小屋を掛けて、賑やかな盛り場となった。

 左馬次は、当初、葦簀張(​よしずばり)の入口に「大日本治乱記」と大書した看板を出した。間もなく八丁堀の息のかかるらしい者から穏当を欠くという理由で看板を止められ、今度は「心学表裏咄(ばなし)」と改めた。古典軍記物を語る合間に、流行(はや)っている手嶋派心学を糞味噌に罵(ののし)り倒し、手嶋社中の者と口論に及んだ。奇矯というほかないが、それもこれも世の耳目を集めるためだった。

 あの手この手でかき集めた内密な消息を元に、諸大名の家政など世にはばかる内輪話を辛辣に演(や)って、軍書批判講と名付けた。それだけでない。罵った相手と派手な口論をやって、とかく騒がしい講席だった。毒舌で舌鋒鋭く遣り込めるのが面白いと、怖いもの見たさも手伝って客入りは上がっていった。

 そのうち、あまりに諍(いさか)いが激しいので采女が原を断られ、桶町新道(おけちょうじんみち)に講席を変えた。程なくここも断られるという具合で、気に食わない者に悪口雑言を向け口論に及ぶ狷介な講席だという世評が高まった。左馬次は、これこそ己の身上だと居直り、大口をたたき毒舌を吐いて客を惹きつける格好が身についてきた。

 

                          

 

 講席で悪口雑言をたたいて口論沙汰になり、一方で、新材木町の家で執筆に励み、左馬次は張合いある暮らしを送っていた。左馬次には気掛かりがあった。書付の送り主は誰なのか、どのような算段なのか知るため、一計を案じた。呉れるものを待つだけでなく、こちらから欲しい文(もんじょ)を名指ししてみようと考えた。

 或る日、小者が来た折、天和三年(一六八三)に至る時期、火付盗賊改だった中山勘解由(かげゆ)日誌を所望した。七十年も前の文書を届けてくるなら、幕府の文書を自由に閲覧できる者、それは幕僚高官だと見当がつく。

 左馬次は、喜代三郎が「通神鵆曾我(かようかみちどりそが)」の八百屋お七の役を演じたという芝居話をよく覚えていた。八百屋お七は、井原西鶴の『好色五人女』巻之四「恋草からげし八百屋物語」に取り上げられ、『天和笑委集』にも詳細に書かれた。そのうち、お七の話は誇張され歌舞伎に取り入れられて、演劇的に格好の題材となった。

 左馬次は喜代三郎の話を聞いたころから、お七を実録物で書いてみたいと思っていた。この事件を扱ったに違いない火付盗賊改の中山勘解由の日誌があれば、それも可能かも知れない。左馬次は、期待せず忘れたように書付を淡々と待った。果たして、それは届けられた。

 宝暦七年(一七五七)九月、左馬次は『近世江都著聞集』と銘打った原稿を貸本書(しょし)の駿藤に渡した。巻一と巻二をお七の話にあて、巻尾には、馬場文耕を儒家風に馬文耕としゃれて、筆名を堂々と記した。

 お七は駒込追分願行寺門前町の八百屋太郎兵衛の一人娘で町でも評判の器量よし。天和元年(一六八一)春二月、丸山本妙寺より出火した大火によって太郎兵衛の家も類焼したため、一家は縁を頼って圓乗寺に落ち着き、自宅の再建に取り掛かった。お七、十四歳。この寺に訳あって懸かり人となっていた旗本の次男が人目を惹く美男で、茶の湯、連歌、俳諧、手跡に見事なたしなみをみせ、それがお七の目に留まって、いつしか二人はわりなき仲となった。

 家も新しく建ち上り、お七の一家は寺を離れ新しい家に戻ったが、お七の想いの丈は積もるばかり。それを知った悪党が二人の文のやりとりを取り持って金品を取り、お七に金が無くなるとみるや、今度は太郎兵衛の家を火事場泥棒しようと、お七に自宅の火付けを勧めた。断るお七には、再び家が焼ければ、また圓乗寺にもどって愛しい男に逢えると唆(そそのか)した。

 お七は、燃え上がる恋心を鎮めがたく、悩んだ末に自宅に火を付けたが、幸い、大火にならず消し止められた。悪党は、火事場泥棒の物色中に、盗賊改の中山勘解由に捕縛された。悪党はひどく責められたが、火付け犯人はお七だと言い張って、己の罪を認めなかったため、中山があらためてお七を取り調べたところ、お七はあっけなく罪を認めた。火付け犯は火あぶりと決まっていたが、お七の若さに心を痛める者が多かった。

 そんな人物が幕府にもいた。土井大炊頭利勝という賢人が、お七の年を問題にした。もし十五歳以下なら火あぶりではなく、遠島に処すことになるから、詳らかに調べてみよと中山勘解由に命じた。

余りの若さゆえ火あぶりを避けてやれとの含みだと感じた中山はお七の年齢が十五であったと調べをまとめるつもりだった。火あぶりと言い渡された悪党が、谷中感應寺には延宝四年に十一歳と書いたお七の額があるから見てこいと反論し、これによって中山勘解由はお七が十六だったと認めざるを得なくなった。

 結局、お七と悪党は、鈴ヶ森の刑場で火あぶりに処された。娘盛りの美少女が恋情に駆られ重い罪を省みず、恋しい男にひたすら逢いたく火あぶりになるという実録話によって、左馬次はこれまでの古典の合戦譚や武将軍談とは全く別の情緒世界を造形した。

 左馬次は実録物を目指し、話を曲げないことを信条にしていたが、ここでは、土井大炊頭利勝という名老中を登場させた。利勝は、元亀年間の生まれ、二代将軍秀忠のもとで権勢をふるい、庶民にも知られた大名だった。しかもお七事件の四十年も前に死没した人物だった。誰がみても本当とは思わない。

「誰もが嘘とわかれば、それはもう嘘ではねえのさ。実録物の看板を傷つけることとはならねえよ」

 左馬次は、あり得ない土井利勝を登場させて、伊予守、大炊頭、能登守の土井三家の家祖は人情のわかる立派な老中だったと褒め称え、あらためて世間に土井家を称揚する形を作った。多くの読み手は、左馬次が講釈師になりたての頃、座敷に呼んでくれた土井家へ感謝を忍ばせた筆使いと見るに違いない。実は、そんな甘いつもりではなかった。

「俺に書付を届け、家重公や大岡出雲を悪く書くよう仕向ける奴は、土井家と関りがあるに違(ちげ)えねえ」

 これが左馬次の考え抜いた筋書きだった。書付が届くようになった時期、左馬次が出入りしていた大名は何家かあったが、最も多く呼ばれたのは土井三家だった。

 ――土井三家の家中の誰かが俺の講釈を聞いて、俺の人となりをそ奴に伝えたってえところじゃねえか

 ――そ奴は、筆の立つ俺に家重公と大岡出雲を悪く書かせてえのさ

 ――中山勘解由の日誌を、抜粋とはいえ俺に届けられる奴は幕僚高官に決まってる

 ――その幕僚の上に、黒幕がまだいるはずだ。家重公、大岡出雲と陰で争っているとなると、門閥譜代の大名てえところだろうさ

 ――土井能登守は、寺社奉行の本多忠央の養女の子という縁があるのは調べがついてる

 左馬次は御徒士だったから城内の勢力争いを見聞きし、門閥譜代と側衆の根深い反目関係を知っている。おおよそ、こんな筋書きだと見当を付けて、土井利勝を架空の登場人物にあえて滑り込ませたのだった。

 ――土井なり本多なり、この作で土井利勝が出てくるのを読めば、俺が筋書きをお見通しだと悟るだろうさ

 左馬次は、城内の権力争いの筋書きを知って、いますぐ、どうこうするつもりはない。ただ、捕縛されないために、一枚札を持っておきたかった。

「俺に、家重公や大岡出雲を悪く書かせてえ奴らは、俺が筆禍で捕まってほしくはねえはずだ。下手をすると、奴らはこれまでの妙な書付を揉み消さなくちゃならねえからな」

 左馬次は、それからというもの、これまで届けられた書付を身の回りに置かず、紙袋に入れ封緘して喜代三郎に預けることにした。

 

 

佐是恒淳の歴史小説『意次外伝』第一話「醜聞を甚振る」三節「大名をくさす」(無料公開版)

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 この作品は作者の創作に多くを依拠しますが、基本的な歴史背景は文献に準じて書かれました。

◇ 史

  • 『新訂寛政重修諸家譜』 続群書類従完成会

  • 『德川實紀』新訂増補国史大系四六巻 黑板編 吉川弘文館平11

  • 『政談』荻生徂徠 岩波文庫 2003

  • 『武江年表』齋藤著 金子校訂 平凡社東洋文庫 1992

  • 『東都名所図会』日本圖繪全集 吉川弘文館 昭3

  • 『徳川十五代史』内藤著 新人物往来社 昭61

  • 『三百藩藩主人名事典』新人物往来社 昭61

  • 『江戸東京地名辞典 芸能・落語編』北村編 講談社学術文庫 2008

 

◇ 国文学

  • 『日本古典文学大辞典 第五巻』岩波1984 馬場文耕の項

  • 『講談落語今昔譯』關根點庵 雄山閣 大正13年 国会図書館デジタルコレクション

  • 『馬場文耕集・叢書江戸文庫一二』岡田校訂 国書刊行会 昭六二
    ​  「世間御旗本容気」「近代公実厳秘録」「当時珍説要秘録」「明君享保録」

  • 『未刊随筆百種第十・寶丙密秘登津』三田村鳶魚校訂 臨川書店 昭44複製版

  • 『燕石十種第二・近世江都著聞集』明40 国会図書館デジタルコレクション

  • 『歌舞伎年表・第三巻』伊原敏郎 昭48 岩波

  • 『歌舞伎評判記集成』第二期 役者評判記研究会1988 岩波

  • 『日本庶民文化史料集成 六巻歌舞伎・新撰古今役者大全』芸能史研究会編 三一書房 1979

  • 『歌舞伎鑑賞辞典』水落著 東京堂出版 平5

  • 『江戸歌舞伎事典一芝居の世界』飯田泰子 芙蓉書房出版 2018

  • 『三田村鳶魚全集二二巻・文学史に省かれた実録体小説』中央公論社 昭51

 

◇ 古地図

  • 『江戸切繪圖集成第一巻 吉文字屋板 新編江戸安見図』 神田・濱町・日本橋北/明和7年 齋藤編 中央公論社 昭56

  • 『復元江戸情報地図』児玉監 朝日新聞社 1994

  • 『江戸東京散歩』人文社 2002

 

◇ 風俗

  • 『江戸職人歌合 上』石原正明 国会図書館デジタルコレクション

  • 『絵本風俗往来』菊池著 明38 東陽堂 昭40 青蛙房復刻

  • 『近世風俗事典』江馬、西岡、浜田監 人物往来社 昭42

 

◇ その他

  • 『中国古典選 易』 本田著  1997 朝日新聞

佐是恒淳の歴史小説『意次外伝』第一話「醜聞を甚振る」「参考文献」(無料公開版)

参考文献 第一話

​あざけ

意次外伝一話二節

​くさ

意次外伝一話三節
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