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第一章 楓の記憶―容保

 

一 一樹色づく 次を読む 目次に戻る ブログを参照 略年表を見る

 

 文久二年(一八六二)十月二十二日、江戸では朝から冷たい雨が降り始めた。しとしと時雨(しぐれ)れる中、越前福井藩主、松平春嶽は駕籠に乗り込み、会津松平家上屋敷に向けて出達した。常盤橋御門内の自邸から、ごく近い。

 道三橋を渡り道三河(どうさんがし)を行くにつれ、右の辺りから水音が絶え間なく聞こえ始め、その音で辰の口とわかった。石樋を通って、和田倉濠の余水が道三濠へ滔々と流れ落ちる様を龍の口に見立てる江戸の洒落心が春嶽は好きだった。

 ――(わし)が参列して、容(かたもり)を激励してやらなくてはならぬのじゃ

 春嶽は、最近になって会津藩主松平容保(かたもり)と職務上、密接な付き合いを重ねている。

 和田倉橋を渡って高麗門を通り、枡形を左に櫓(やぐらもん)をくぐれば、正面に会津松平家上屋敷の練塀が広がっている。

 ――容保が若くして奥方を亡くし、気の毒と言うほかない。あの時の悲嘆ぶりは見てはおれなかった

 練塀沿いに一町ほども行けば、両袖の屋敷門が現われ、春嶽の上屋敷と同列、大名最高格式の堂々たる構えが見えてきた。

 ――もう一周忌か。早いものじゃ

 この日、会津藩主正室の一周忌が執り行われる。

 春嶽の駕籠の前後には法要に参じたとおぼしき大名駕籠や、傘を差した徒歩姿の参列客が列を作り、途切れることがなかった。

 ――儂(わし)が、昨日、事前の挨拶に行った折は、晴れておったが…

 前日、会津藩上屋敷の庭では、巨(おお)きな木立が鮮やかに紅葉し、その向こうに江戸城西之丸御殿の大屋根が連なって見えた。春嶽は、遥か先に冠雪した富士が遠望できたことを思った。

 今日はすでに、晩秋の華やいだ気配が消えてしまった。色づいた紅葉がすっかり濡れそぼれ、初冬の垂れ込めた雲の下で静まり返っている。春嶽は、冬の微雨を目にすると、容保の心情を垣間見るような気がした。

 西御丸直下のこの地で、会津松平家上屋敷は他家屋敷と隣接せず、独立して一郭を構えている。松平家がここに屋敷を賜って百五十年余り。春嶽は、会津藩が誉れ高い歩みをこの九千百五十坪の上屋敷に刻んできた重みを思いやった。

 ――容保が、いつまでも悲嘆に暮れていても困る。もうひと働きしてもらわねばならぬ

 春嶽は、会津藩に代々受け継がれる家訓(かきん)と呼ばれる藩祖の訓えを先ごろ知った。その第一条には、たしか、こうあった。

 

    大君の儀、一心大切に忠勤を存ずべく、列国の例を以て自ら処(お)るべからず。若(も)し二心(​ふたごころ)

    を懐(いだ)かば、則(すなわ)ち我が子孫にあらず、面々(めんめん)決して従ふべからず 

 

 将軍には一心大切にひたすら忠勤を尽くし、他藩の例をもって自藩の方針を決めてはならない。もし二心を懐けば我が子孫ではないから、家臣一同はこのような藩主に従ってはならない。岩に刻むような峻厳さで将軍家に忠義を捧げる決意を謳ってあった。

 春嶽は、我が藩に、ここまで厳格な訓えがある筈がないと思った。容保は十二歳にして会津松平家に養子に入って以来、この訓えを叩きこまれて今日に至ったと聞く。

 ――それでこそ、文武両道の会津藩じゃ

 春嶽は容保なら此度(こたび)の台命を果たすに違いないと信じている。会津以外、この重責を果たせる大名はいないことをよくわかっていた。

 ――儂(わし)でもとうてい無理じゃ…

 

 会津藩主松平肥後守容保(かたもり)は、先ほど敏姫の一周忌を終え、挨拶を交わして大勢の参列客を見送った。そのあと、一人きりになってもう一度亡き妻を忍ぼうと、書斎に籠もり文机を前にした。開けた障子の向うに小糠雨(​こぬかあめ)に陰(かげ)る庭が広がるのを眺めやった。昨年、花を散らすように逝(い)ってしまった十九歳の若妻を偲ぶ風景に

 ――ふさわしいのかもしれぬ……

 独り寂しく思った。

 敏姫は会津藩先代藩主容(かたたか)五女。早世した四男六女の兄弟姉妹の中で唯(ただ)一人生き残って容保と婚儀を挙げたのは十四歳、安政三年(一八五六)九月十九日のことだった。前年の安政大地震から一年とたたず、会津藩は倒壊した屋敷を新築したばかりの頃だった。

 世相も何かあわただしい時期、容保と敏は木の香の匂う新殿舎で婚儀を挙げた。あどけなさの残る二十三万石の家付き娘と、諸侯の間で眉目秀麗の噂の絶えない二十二歳の容(かたもり)の婚礼に、参列者は賛嘆を惜しまなかった。時節柄、華美を抑えた式だったが、人々は大変な時期だからこそ、この婚儀をことさらに寿(ことほ)ぎたいように見えた。

 付き合いの深い諸藩から祝賀の言葉を受け、容保は、単なる婚儀の祝辞以上の気持ちを寄せられるのを感じたものだった。新郎新婦の夫婦(みょうと)振りを祝福するだけではない。華やかな祝賀気分に満ちた華燭の典は、会津松平家のめでたさであり、徳川宗家の藩屏たる名家の隆盛を期待する声に満ちていることを知った。

 参列者はみな、この日を迎えられなかった先代藩主、容(かたたか)の早すぎる死をあらためて惜しんだ。ある藩の重役は、かつて、天保の飢饉に容敬から米や金子(きんす)を用立ててもらい、かろうじて災厄を乗り切ったのが丁度新郎の生まれた年だと知って、涙さえ浮かべた。

 領民が餓死に瀕しているとき、苦しい中から米を用立ててくれた容敬の温情は忘れられるものではなかった。容敬の温情にあらためて感謝し、胸にこみ上げる熱いものをこらえているようだった。参列者にとって、若い夫婦の新たな門出を祝し、先代容敬の遺徳を偲ぶ婚儀でもあるのだと容保は気付いた。

 婚儀はほんの六年前、上屋敷一の大楓(おおかえで)の紅葉が始まる頃だった。あの年の秋は妙に暖かく 、上屋敷でも海(かいどう)が咲いた。筋違(すじかい)御門から浅草御門まで、柳原(やなぎわら)通りの土手では柳が新芽を吹いたと評判になって、春のような日が続いた年だった。

 おかげで紅葉が色付かず、観楓もできない有様だったが、なぜか婚儀の頃、上屋敷の大楓だけは、一樹、鮮やかに紅葉し始め、白無垢姿の敏が心から喜んだ。

「う、れ、し、い……」

 こっそり、容保にささやいたのも、今となっては悲しい思い出の一つだった。

 あれから六年。

 ――十九歳の芳紀匂う年でもう逝ってしまったか

 ――なぜ疱瘡を防いでやれなかったか…

 ――疱瘡が癒(い)え、麗容が損なわれたあと、敏の悲しみはいかばかりであったか…

 悲しみと諦めに満ちた想いが、尽きることなく静かに時間を浸(ひた)していくのを覚えた。容保は静かに自問を重ね、懸命に心を鎮(しず)めた。

 前年、文久元年(一八六一)四月、江戸市中に疱瘡が流行し、会津藩邸内でも諸事、注意するよう達しを下した。ちょうどその頃、元家老の山川兵衛(ひょうえ)が、別命で国許から江戸に出府してきたことに思い至ると、容保は思わず拳をにぎり締め、波立つ心を鎮めなければならなかった

 兵衛が藩邸に入って数日後、容保の許に罷り越した。矍鑠(かくしゃく)とした老臣は平伏しながら涙を溢れさせ、敏が疱瘡に罹患した旨、言上した。奥歯をかみ締め、肺腑を抉(えぐ)る悲痛な声だった。

 容保は、平伏した兵衛の黄ばんだ白髪(しらがまげ)が細かに震えるのを見て、一瞬、体が凍りつく思いだった。山川のじいが血を吐かんばかりに無念がるのはそれだけの理由があることをよく知っていた。

 ことの始まりは嘉永二年(一八四九)七月だった。時の佐賀藩主、鍋島直正がバタヴィアから取り寄せた牛痘苗によって佐賀藩で牛痘種痘が成功し、その後、蘭方医の努力で、京都、大坂、北国で広く種痘が試みられ始めた。

 人痘種痘と違って牛痘種痘では、本当に痘瘡に罹ってしまう危険がはるかに少ないと明らかになりつつあった。蘭方医の伊東玄朴は、佐賀から江戸に送られてきた牛痘苗で佐賀藩邸に住まう子供らに種痘し、鮮やかな成果を上げた​頃だった

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」一節「一樹色づく」(無料公開版)

二 紅葉を散らす 次を読む  前に戻る 目次に戻る ブログを参照​ 略年表を見

 

 嘉永二年(一八四九)当時、山川兵衛(ひょうえ)は江戸詰め家老として松平容(かたたか)の側近にあった。牛痘種痘の話を人伝(ひとづて)に知って数ヶ月後、兵衛は、容敬より所用を申し遣って、水戸の老公、徳川斉昭を小石川水戸藩上屋敷に訪ねたことがあった。容敬は斉昭と親交を重ねていたから、家臣の行き来も盛んだった。

 要件を終えて座談になった折、兵衛は佐賀藩で牛痘種痘に成功したことに触れた。何といってもこの秋の大きな話題について、斉昭の卓見を仰ぐという姿勢をとった。

 斉昭はかつて水戸領内で疱瘡が大流行したおり、種痘を広く実施し領民の撫育に大きな実績を残した先達だった。あの頃は、まだ人痘種痘だった。

 斉昭は、種痘を怖(おそろ)しがって嫌悪の声を上げる領民に、藩主も我が子に種痘したのだと説得に努めさせたことを語った。兵衛は、藩主たる者の種痘にかける剛毅な心持ちをじっと聞き入った。

 打ち解けた座談の最後に、兵衛は、容敬へ種痘の効用を伝えるよう言われた。その頃、兵衛は敏姫と容保の養育に心を砕く立場にあった。まだ幼女期を脱していない敏姫に種痘を施すべきだと本気で思ったのだった。

 ――敏姫さまは、いまや御歳七才。水戸の八郎麿様、九郎麿様も種痘の時はわずか四才であったのだから…

 幕府若年寄、遠藤但馬守胤(たねのり)は、病んだ母親を伊東玄朴が治療してくれた腕の冴えに驚き、玄朴を親しく自邸に出入りさせていた。兵衛は会津松平家と縁戚に当たる誼(よしみ)で遠藤但馬守から玄朴の話を聞いた。確信を深め、会津藩侍医に敏姫様に種痘するのは如何(いかが)かと慎重に提案した。ところが、あろうことか漢方の立場から素っ気なく拒絶された。

​ 当時、江戸城の奥医師、表医師は外科、眼科を除き、蘭方を禁じられたという事情もあって、会津藩侍医は蘭方の牛痘種痘をひどく嫌った。兵衛の種痘の提案が受け入れられない始まりだった。兵衛は敏姫に種痘する次の機会をじっと待った。

 安政元年(一八五四) 、再度、敏姫に種痘することを提案した。それでも藩の侍医は、先代藩主の御子で唯(ただ)一人残った姫に蘭方医術を施すことを承諾しようとはしなかった。

 兵衛の狙った次の機会は、安政五年(一八五八)、幕府が江戸城内の蘭方禁令を解き、伊東玄朴ら江戸在住の蘭方医八十二名が申し合わせ、神田お玉ヶ池に種痘所を設けた時だった。兵衛は三度(みたび)、敏姫の種痘の件を提案した。前々年に容保と結婚した敏姫は十六歳、清純な蕾がようやく開花し、美しさが匂い立つ頃だった。

 江戸でも遅ればせながら種痘所設置に幕府の許可が下りたのだから、敏姫が種痘を受けるよい機会であると、兵衛は言葉を尽くして説得した。漢方の藩侍医はなんとしても兵衛の提案を受け付けず、医学の事ゆえ、藩主となって六年を経た容保といえども、容易に口を挟めなかった。

「ご幼少のみぎりは無事にお過ごし召され、ご成人、ご結婚あそばされては、もはや種痘はご不要でござろう」

 兵衛は歯噛みして藩侍医の言葉を聞いた。こうして兵衛は、種痘を受けるよう敏姫が七歳、十二歳、十六歳の三度まで建言し、ついに三度とも叶えられなかった。

 ――儂(わし)も悔しいが、山川のじいもさぞや悔しかったろう

 昨年四月、敏姫の罹(かか)った疱瘡は重かった。容保が、一度だけ許され敏姫の病間を見舞ったとき、疱瘡快癒のために紅絹(もみ)の寝具に包まれ喘(あえ)いでいる姿は哀れで、長くは見ておれなかった。

 その後、敏姫は快癒したものの、痘痕(あばた)のひどく残った顔貌から天与の麗質が失われ、何とも言いようがなかった。敏姫は、告げはしなかったが、疱瘡のために視力も損なわれたようで、愧(は)じて容保と顔を合わせることを厭(いと)うようになった。

 会津松平家の家付きの息女として、また藩主の正室として、玲(れいろう)とした所作を常に保ちながらも、次第に気鬱が嵩じ体調のすぐれない日々が続いた末、その年十月二十二日、十九歳で逝ってしまった。凛として気品を失うことのない妻だった。

 容保は、おのれの無力さゆえに敏を死なせたのだと思うよりほかなかった。兵衛の再々の献言も、己の意向も家中で生かすことはできなかった。一粒種の敏を遂にこのような形で失ってしまったと、十年前に亡くなった養父容敬に痛切な詫び言を幾度もつぶやいた。

 容保は、近く京都守護職に赴任するのを前にして、藩主の仕事に忙殺される日々を思った。幕閣と高次の政治方針を固め、京都に先遣させた家臣たちから火急で送られてくる京都の情勢報告を読み、家老たちと打ち合わせ、間断なく手を打つことを求められる毎日である。

 すでに、京都から、正副の勅使一行が江戸に向けて発向し、あと数日で到着すると聞いている。その接遇の格式をどこまで高くするのか幕府の頭の痛い問題だった。

 先例を越えて勅使を高く遇すれば、あとあとよからぬことを引き起こしかねない。幕府が勅使を迎え勅書を拝受したのちは、いよいよ千名もの家臣を引連れて京都に上(のぼ)らなければならない。

 国許から家臣を動員し、部隊を編成し、武具を点検し、運搬を手配りし、京都に京都守護職会津藩庁を立ち上げ、家臣の宿舎を設営し、予算を立案し、資金を調達し、幕府と打合せ、朝廷要路に挨拶する段取りを整え、各方面に折衝するなど、多岐にわたる激務を総攬する立場にある。

 だからこそ、容保は今宵のひと時、丁寧に敏のことを考え、これを最後に、甘美でつらい思い出に封印するつもりだった。そうすることで、敏の死を穏やかに受け入れ、毅然たる決意をもって京都に赴任できると思った。

 歯を食いしばって京都守護職の重責を果たさなければ家訓(かきん)を守ることはできまい。何事にも耐え、よほど堅固な心構えを持たなければ、とうてい勤まる職責ではなかった。

 京都はすでに無政府状態に陥っていると聞く。尊王攘夷を声高に唱える浪士たちが天誅と称して、政敵を虐殺して回っている。その凄惨で冷笑的なやり口は報告を聞いただけで胸が悪くなった。

 近く赴任する時、京都の風儀は日を追って悪くなっているだろう。それを収め、治安を回復するのが職責である。安政の大獄で最悪の関係となった幕府と朝廷を、再びかつてのように友好的な間柄に修復し直さなければならない。二十八歳の容保はずしりと責任を感じた。

 

 小雨混じりの風が庭さきに吹き募った。初冬の冷気に寒さを覚え容保は我に返った。敏の長い追想にふけっていた。

 文机に置いた黒塗りの硯(すずり)箱を見つめ、金泥と螺鈿でしつらえた華麗な漆細工の蓋をゆっくりと撫でた。この品を新妻のために国許の職人に誂(あつら)えさせた折の小さな逸話を想い出した。夫婦の会話にその話が出るたび、敏は可笑しそうに笑ったものだった。

 敏はこの硯箱を使って清怨含む嫋々たる歌をしたため、昼間のうちに表座敷にいる容保に贈ってくることがあった。夜も更けた奥の寝屋(ねや)で、容保がその返歌を敏の耳元にささやくと、若妻が恥ずかしげに上気し、眼差しを伏せながら胸元に身を寄せてきた。そんな情景を思い出し、容保は若妻の面影を追い続けた。

 それも今日で終いである。妻遺愛の品をゆっくりと撫で愛(いと)おしんだ。蓋を開けて、ていねいに墨を磨(す)った。筆を取り上げ鳥の子紙に達筆を走らせた。

 

     風をのみ いとひし庭のもみぢばを 

              けふは雨にも散らしぬるかな

 

 風を厭(いと)うて風にだけは当てぬよう大切にしてきた紅葉(​もみじば)を、今日(けふ)は雨に散らしてしまったと詠んで、幾たびも筆跡を目で追った。

 敏の追憶を心に奥深くしまい、そうして殊更静かに筆を擱(お)いた。敏と婚儀を挙げた日は一樹の紅葉が始まっていたことを、もう決して思い起こすまいと心を決めた。瞑目のうちに、容保は大きくふた呼吸して、決然と席を立った。

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」二節「」紅葉を散らす(無料公開版)

三 荼枳尼天(だきにてん)の祝​ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を見る

 松平容(かたもり)、幼名銈之允(けいのすけ)は、天保六年(一八三五)十二月二十九日、江戸は四谷伊賀町の高須藩上屋敷に生まれた。父は藩主松平義(よしたつ)、通称、範次郎。その六男だった。

 容保が幼少の頃に聞いた話では、生まれた年の三月には四谷から市ケ谷まで大火に見舞われ、四月、国許の美濃で一揆が起きた。六月になると仙台に大地震があって青葉城の石垣が大きく損壊し、江戸でも大きく揺れた。

 閏七月に再び地震があって、たびたびのことに江戸市中は天変地異を懸念する声であふれたという。容保は、諸国に不作が続き大飢饉がひどくなった不安な年の瀬に生まれたと幾度も聞いて育った。そんな不安の中だからこそ、生誕を喜ばれた子だったと必ず最後に言われた。

 容保は実家の伊賀町の屋敷について、はっきり幼少の記憶を持っている。高須藩二万一千坪の上屋敷は御先手組屋敷と背中合わせに隣接し、その向こう、合羽坂(かっぱざか)を下る道には七万五千二百五坪を擁す本家尾張徳川家上屋敷の練塀が延々と巡っていた。

 邸内には、よほど古い時期に勧請(かんじょう)された金丸稲荷が、大きな池の向う、老杉に囲まれた一画に寂(さ)び寂(さ)びと祀られていた。容保は、幼時、父範次郎の命によって、午の日に近侍の者に付添われ参拝にやらされたことを忘れようもない。参るたびに、薄気味悪いような、厳粛な気分のような不思議な感覚を覚える場所だった。

 容保は、長ずるにつれ、高須藩の立場をわきまえるようになった。

 ――我が家は三万石の小藩とは言え、尾張藩の格の高い分家なのだ

 この家からは、時に尾張徳川家に養子に入って本家当主の座につき、時に、本家から養子を迎え当主と仰ぐ。容保は、尾張徳川家と幾重もの重縁をもつ実家の成り立ちを知った。

 

 容保は、祖父義和(よしより)という人が、水戸徳川家から高須松平家に養子に入ったと聞かされた。祖父にとって養父に当る青年は時の高須藩主で、二十歳(はたち)で急逝したため、末期養子を大慌てで調えた縁組だったと聞く。

 父の話では、祖父義和の人生はかなり変わったものだったらしい。死亡届けを提出する前、九歳年下の養父が書類上、まだ死んでいない筈の日に、高須藩の家老どもが養子縁組届の書式を整えた。養子となる祖父義和(よしより)本人は水戸藩邸で話を聞いて何のことやらと思っているうちに、二日後には自分の意思とは別ながら、高須松平家の養子となった。

 そのあと、家老どもが初めて先代の死亡届を提出し終わって、めでたく祖父は僅かな小藩の藩主となった。高須松平家の家系がつながったということだった。外様大名なら絶家となるところを将軍家一族の外縁に位置する家系の故に家の存続を許されたらしいと、祖父義和はあとで気付いたに違いなかった。

 義和は養子に入ってはみたものの、どういうわけか、四谷の高須藩邸に移り住もうとはせず、生涯、実家の小石川水戸藩邸に住み続けた。藩主がどこに住もうが、どうでもいい小さな藩ではないかとは言わなかったが、鉢植えを根鉢ごと別の鉢に移すかのように迅速二日間で養子に出され、拗(す)ねた気持ちがあったのかもしれない。

 いや、それよりは、数年前、ひどく疱瘡を病んで片眼を失い、痘痕(あばた)となって人前に出ることがすっかり厭になっていたためだと見る家臣が多かったと聞く

 義和の次男、範次郎は、長兄の死去に伴い十歳で世子に就くや、家臣たちの意向があって、小石川の水戸藩邸から四谷伊賀町の高須藩邸にそそくさと移されたという。世子にまで水戸藩邸に住み続けられては藩の立つ瀬がない。後になって容保にも、高須藩家臣の気持ちがわからないでもなかった。

 それから二十余年を経て、義和が、世間体(せけんてい)には奇妙なことに高須藩主として小石川の水戸藩邸で死に、ようやく高須藩は三十年ぶりに藩主が自邸に住んでいる藩ということになった。めでたいことだった。

 

                         

 

 範次郎は、これと言って才のあるわけではなかった。ただ多芸多能の人で、焼き物、和歌、書画、茶道、彫刻、音曲、謡曲など大名芸を卒(そつ)なくこなす男だった。義(​よしより)とは異なり、なんとはなしに人好きのする剽軽(ひょうげ)た物言いが得意で、諸大名から信望を得ていた。

 範次郎は九男九女に恵まれ、みごと六男を育てあげ、有力大名家に息子たちの養子の口を巧みに見つけ出してきた。容保ら、範次郎の息子たちは、当時から高須の若君と評判が立つほどで、養子に欲しがる大名が多かった。範次郎の息子たちは皆、まずまず健康で、面長なところが父親似であり、何より子柄が良いと評判が高かった。

 範次郎にとって、水戸藩主斉昭 は四か月歳下の従兄弟(いとこ)にあたり、小石川水戸藩邸のかつての遊び仲間だった。範次郎は斉昭の姉規姫を正室に迎え義理の兄弟となってからは、斉昭といよいよ親しくなった。斉昭の押しの強い性格をふわりと受け止め、互いにうまが合うらしかった。

 範次郎は高須藩主となって江戸城大広間に詰め、島津七十二万石、伊達六十二万石、細川五十四万石、山内二十四万石など名だたる外様大大名の間にあって、三万石ながら大広間詰首席を勤め、重きをなした。

 範次郎は文武に秀で、才幹があり、性格は厳格だと諸侯から思われている。それだけではない。範次郎には不思議な人望があった。大名から何くれとなく相談ごとを持ちかけられては、世故たけた穏やかな解決の段取りを教えてやった。分別ある解決策は喜ばれ感謝され親しむ大名が増えていった。そんなことをしている間に、我が子の養子の口が、次々に決まった。

 範次郎は良い子供に恵まれたことを金丸稲荷の荼枳尼天(だきにてん)のお蔭であると、どこまで本心かよくは分からないながら、しばしば口にし、のんびりとした語り口で、子よりはむしろ、我が家の屋敷神を他愛もなく褒(ほ)めた。

 そのうち荼枳尼天を霊験あらたかと褒めているのか、その荼枳尼天の加護を背負った我が子がよい養子になると言っているのか分明が曖昧になった。決して子の自慢に聞こえず親馬鹿と思われないままに、気合のようなもので、これは良縁ではあるまいかと、相手にうまうまと思わせた。

 悠揚迫らず範次郎に言われれば、お稲荷さんを尊崇する罪のない好人物だと思いたくなり、荼枳尼天なぞ、たかが狐ではないかと思う大名は殆(ほとん)どいなかった。養子の縁をまとめることを才とも言いにくいが、実はこれこそがこの男の才ではないかと意地悪く見る大名はさらにいなかった。

 範次郎は陶芸を第一の趣味とし、新宿角筈の高須藩下屋敷二万四千坪の広大な庭の西一画に窯を築き、盛んに茶碗を焼いてみせた。素焼きで無釉のものも有釉のものも、焼きあがった茶碗は艶やかな赤みを帯び、その肌合いがしっくりと持ち手に伝わった。まるで範次郎の手を直(じか)に握っているかのように、妙に生々しい親近感を抱かせた。陶風と言えばそれが陶風だった。

 本来の性格は峻厳ながら、外面(そとづら)では、よほどに温厚で誠意にあふれ、しかし頭脳のある一点で冷静な駆け引きのできる男だった。大名家の姻戚関係に精通し、息子の養子縁組の口探しは何気なく熱心で、陶土の手捻(てびね)りのように巧みだった。

 そうこうしているうちに、次男慶勝は尾張徳川家六十一万石に、三男武成は石見浜田松平家六万石に、五男義比(よしちか)は己が後継に控えおいたが、六男容(​かたもり)は会津松平家二十三万石に、七男定敬(さだあき)は桑名松平家十一万石に養子の口をまとめ、七女幸姫は米沢上杉家十五万石に嫁がせた。

 範次郎の四人の息子たちは、次第に高須四兄弟という通り名で大名間に喧伝されるようになり、それを生んだ父範次郎の名を高からしめた。高須家の血筋ではあるが、もっと言えば水戸德川の血筋そのものだった。たいしたものだった。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」三節「荼枳尼天の祝福」(無料公開版)

四 永別の系譜 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照​ 略年表を見る

 

 範次郎がこうして世才に恵まれ手触りよく世を送る一方、容保の養父、会津藩主松平肥後守容敬(かたたか)の幼少は数奇なものだった。容敬は水戸の義和(よしより)の息子で、範次郎の弟に当たる。義和は、末(まつご)養子でせわしなく高須松平家の藩主に就かされる前年、小石川の水戸藩邸でお付の侍女に手を付け男児を産ませた。

 侍女は、胸高に締めた提帯(さげおび)に単衣(ひとえ)飛白(​やがすり)のお仕着せを着ていた。初夏の涼しげな身なりと生き生きした振る舞いから、いかにも柔らかそうな肢体(からだ)をしていることが、義和の片眼にもよくわかった。

 どことなくはかなげな風情で、それでいて、たおやかな笑みの映える美少女だったが所生は卑しかった。人前に出るのを恐れる青年が、視力を失った片眼と醜い痘痕(あばた)を忘れてこの美少女に向き合い、忘我の境地でおのれの欲情のままに振舞ったことがあった。

 美少女は孕(はら)んだ。水戸藩では、いずれ養子に出す義和のためにならないと考え、この乳児の処遇に頭を痛めていた。

 

 ちょうどその頃、会津藩では藩主松平容頌(かたのぶ)が家老田中三郎兵衛玄(はるなか)の補佐を得て、藩政改革の実を挙げ、老境にあった。

 容頌(かたのぶ)は九代将軍徳川家重の官位昇進の御礼言上に、家臣三千七百人を従え京都に赴き、桃園天皇に拝謁を賜った経歴をもっていた。

 容頌の華麗な経歴はそれだけではなかった。十一代将軍に就く筈ながら早世した徳川家基、幼名竹千代の元服の儀に理髪役を務めたのは二十三歳、後に十一代将軍に就く家斉、幼名豊千代の元服理髪役を務めたのは三十九歳の時だった。

 晩年は五十四歳で、十二代将軍に就く家慶、幼名敏次郎の元服理髪役も務めた。この時は手が震え粗相があってはならぬと養子の容(かたおき)に手伝わせながらも、三度目の大役を果たした。懇望されて三人の将軍世子の元服の儀に立ち会い、将軍家から篤く信頼されて儀礼向きの多くの大任を果たしてきた。

 会津松平家は将軍家にとってまことに心許せる家で、内向きのことも政治向きのことも、冠婚葬祭のこともなにかと相談したくなる家だった。容頌(かたのぶ)は温厚で、誠実で、心配りがよく利いて実に頼り甲斐があった。

 容頌は公職で輝かしい経歴をたどり、藩政では田中三郎兵衛を重用して改革を成功させた誉れ高い名君だった。ただ自らの閨房までは華やかにできなかった。

 はじめ、庄内酒井家の直姫が加賀前田家の養女となって容頌と婚約したが、和田倉門内の会津藩邸に嫁して来る前、僅か九歳で亡くなった。容頌は八歳、結婚の意味もよくわからず、会ってもいない許嫁(いいなずけ)の逝去に悲しみを覚えるには幼すぎた。次に、仙台伊達家の沛姫も、来嫁する前に実家で逝去した。

 容頌(かたのぶ)、十四歳にして、許嫁を二人までも失った。人とはこのようなものかと思った。十七歳になると、将軍の命を受けて上洛し、桃園天皇に拝謁を賜って意気軒昂と江戸に帰ってきた。将軍からお褒めの言葉を賜ったその直後、とうとう忍藩阿部家より銑姫を迎え、家臣一同、喜んだ。

 ところが仲睦まじく過ごすこと僅か三年でやはり先立たれ、容頌は二十歳(はたち)にして、この度こそは悲嘆にくれた。

 幼いときに許嫁を二人失い、今また妻に先立たれ、容頌も己が運はいったい何なのかと思い悩んだ。そして、これを淡々と受け入れなければならないと覚悟した。次いで長州毛利家から嫁いできた齢姫に四年後またも先立たれると、二十七歳の青年は茫然と立ちすくんだ。

 三十二歳にして気に入った侍女ができ、空閨の侘びしさもあって側においてみた。この侍女は江戸町人、内野喜兵衛の娘で美佐と言った。むっちりと健康的で、先立ちはしなかったが、許嫁や妻を次々と失うこれまでの落胆に容頌の胤(たね)が薄まってしまったせいか、美佐が子を成すことはなかった。

 容頌はもともと精が強いわけでもなく、美佐とは穏やかに枕を交わし、しみじみと語り合うだけで満足したが、藩主の立場上それでは済まされなかった。無言ながら全家臣に常に生殖を求められている気分から逃れられなかった。およそ容頌の家庭はこのような具合だった。

 田中三郎兵衛は、自ら立案した事業と藩改革の構想を着実に実現し、手のつけようもなかった巨額の借財をなんとか完済する目処をつけた。それは、やがて、金蔵と米蔵を一杯に満たしたという大げさな風評となり、江戸の諸大名の間に名声が知れ渡った。

 寛政年間、老中松平定信が三郎兵衛を高く評価したことは諸大名の間で有名な話だった。そんな名家老が、ただ一つ、健康な世子を擁し、主家の家名安泰の自信を持つことだけはできなかった。

 それを欠けば藩政改革の意義が一切失われることに三郎兵衛は早くから危機感を抱いた。それとなく容頌に、微に入り細を穿(うが)ち、いろいろを語り、勧め、刺激し、激励したが、容頌の血筋は広がらなかった。

 その後、容頌は、自ら子を持てないと諦め、六歳下の従弟容詮(かたさと)を養子としたところ、またも先立たれた。やむなく、その子容住(かたおき)、九歳を嗣子としたが、どこまで家名が繋がるものか三郎兵衛の不安は高まった。容頌の家族運の薄さは、すなわち会津藩の危機だった。

 容頌は、容住(かたおき)が二十歳になって間もなく、桜の花便りと共に彦根藩主井伊直幸(なおひで)の女(むすめ)、謙(​けんひめ)を正室に迎えてやって、家臣と共に安堵した。かつて容頌と井伊直幸はしばしば官位昇進で追いつ追われつの火花を散らせる間柄だった。井伊直幸が、若くして昇進を重ねる容頌に嫉妬を感じたのだと、もっぱらの噂だった。

 直幸はその後、田沼意(おきつぐ)にかつがれて大老に就任した後、田沼の失脚とともに罷免され、あまり美しくはない体(てい)で松平定信に後を譲らされた。

 容頌にとって、謙(けん)姫は元大老の娘であると同時に、かつての競争相手の娘であって、因縁めいた縁談だった。容頌は老境にあって、すでに亡くなった旧い碁敵(ごがたき)の娘を息子の嫁に迎えるような懐かしく温かい気分に浸ったとしても不思議はなかった。会津松平家はこの縁組で井伊家と縁戚となった。

 容頌は二人の許嫁、二人の正室、一人の世継ぎに先立たれる人生を歩み、ようやく自らの番を迎えて六十二歳で死んだ。残暑の続く暑い日だった。死ぬ間際、最愛の者に先立たれる悲嘆はもう味わわずに済むと安堵したのか、会津鶴ケ城の奥の一室で、ことのほか穏やかな最期を迎え、容頌が最後に得た幸運になった。

 あと五ヶ月も長命すれば、すんでのことで、もう一人、世継ぎの葬儀を出さなければならないところだった。容(かたおき)が容頌を追うように、同じ年の暮れ、和田倉門内の上屋敷で死んだ。享年二十八歳。

容住は、生前、井伊家から嫁いで来た謙姫に嫡男を授かり、生後間もなく、これを亡くした。ついで側室の美(みえ)から授かった二男金之助は、容住が死んだとき四歳、血筋を引く唯(ただ)一人の遺児だった。それは藩祖正之の血筋であり、もっと言えば、二代将軍徳川秀忠の血筋だった。

 三郎兵衛は、同じ年に新旧二人の主君を失って、いよいよお家の危機を感じた。四歳の世継ぎが無事育ってくれればこれほどめでたいことはない。しかし、そうでないときのために何か手を打っておくのが首席家老の務めである。会津松平家の血脈はただ一筋、この幼童が継ぐだけになってしまった。

 通常は、父が早死にしたため家督を相続した幼少の当主が十七歳までに死ねば、大法によって養子が許されず絶家となるのが定めである。会津松平家だからと言って、四歳の幼児に今から養嗣子を取ることを幕閣が許す筈はなかった。

 万一、この幼い藩主が早世すれば、御家門であるため、定め通りに取り潰されることはなくても、幕閣は喜んで、なんぼでもいる将軍の息子たちから見繕(みつくろ)って養子を寄越すことになりそうだった。高遠藩時代から綿々と続くお家に、それは避けたいという思いが三郎兵衛には強かった

 それなら次の手は、容住に養子を取って、金之助の弟にしておくことであるが、養父となる容住がすでに死んでしまったのだ、養子の取れる道理がなかった。

 悶々と悩みぬいて三郎兵衛が決意したのは、容住が死んだ直後の今、その側室がすでに身ごもっていると、急ぎ幕府に届けておくことだった。これは幕府を欺くことであり、危険で隠微なやり方であるが、お家を存続させ、藩祖以来の家風を守るために三郎兵衛は踏切った。

 正月初頭、側室に遺腹の子ありと幕府に届け出た以上、どんなに遅くとも六月までに出生したと届出なければ辻褄が合わないことになる。三郎兵衛は与えられた時間を半年と見切り、この間に、世継金之助の控えとなる赤子を探し出して主家の存続を図ることに決めた。

 一旦、出生を幕府に届けておけば、迎えた養子が二、三歳までの幼児なら、年齢のずれは問題にならない。どうしても見つからないときは死産と幕府に届けるまでだった。

 三郎兵衛は難しい試みになるだろうと覚悟を決めた。江戸から行列を宰領し、若き主君の遺骸を運んで帰国の途についた。雪深い道を行く寂寥たる国入りとなった。

 三郎兵衛は江戸在府の家臣のうちから心利いた者を厳選し、それとなく諸大名の奥向きの噂を丹念に拾うよう言い付けておいた。手を尽くそうにも、公然と尋ね回ることはできない。幕府の奥右筆や御坊主は職務柄、大名諸侯の奥向きの事情に通ずるものが多く、ごく親しくする者に、内密に、それとなく探りをいれさせた。

 三郎兵衛は、容住(かたおき)の葬儀を国許で終えて江戸に戻った。焦る心を顔色に出さないよう隠忍して、配下の者の報告を静かに待った。焦ってはならなかった。

 四月になって、水戸藩で、義和(よしより)が侍女に産ませた男児の処遇に困っているという話をある家臣が聞きつけてきた。そっと手を廻して調べてみると三郎兵衛が思い描いた条件にぴたりと合っていた。

 ――これは、先々代の思し召しか

 逸る心を抑えた。早速、水戸藩附家老、中山備中守信敬に会いたい旨、書状を書いた。

 

 

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 三郎兵衛は、しくじるわけにはいかなかった。事前に、中山備中守について人柄、家柄など詳しく調べ、興味深いことを知った。

 中山は五代目水戸藩主の九男に生まれた。大名家の養子口を探せなかったためか、水戸藩附家老の中山家に養子にだされた。小さくとも大名家に行くならともかく、臣下の養子にされたことに屈折した感情を味わったに違いなかった。

 大名家を継げない次男以下の息子たちの苦しい立場を知って、義和とその幼児の面倒を見ているのならば、脈はあると踏んだ。

 ――飼い殺しにするより、他所に新たな天地を見つけてやろうと一肌脱ぐかもしれぬ

 三郎兵衛は心を引き締めながらも、自信を持った。

 約束の日、小石川の水戸藩上屋敷を訪れ座敷に通されると、三郎兵衛は中山の一挙手一投足に細心の注意を払った。中山は、三郎兵衛が初夏の時候の挨拶から始め、鄭重な語り口で話を進める態度に、やや身構えて対座するように見えた。

 先月起きた大火でこうむった互いの藩邸の被害の状況など、当たり障りのない世間話を交わした後、折を見計らって三郎兵衛は、義和の男児のことを単刀直入に尋ねた。

 中山はこの時、ようやくにして三郎兵衛の訪問の意図を悟ったように見えた。三郎兵衛は、先代容(かたおき)が若く逝き、藩主はいまだ幼く蒲柳の質で成人できるか心許ないと淡々と藩の内情を説いた。義和公の男児を極秘裡に我が藩にいただきたいと全ての経緯を明らかにして、懇願に及んだ。

 幕府に知れてはならないにもかかわらず、苦衷を苦衷として語り、武士の心を解(わ)かってはくれまいか、と渾身の真心をこめて頭を下げた。策を用いない真率な心情だけが三郎兵衛の拠り所だった。

 中山はじっと聞き、聞き終わって長いこと瞑目して無言でいた。三郎兵衛は、それをはらはらとした思いで見て、さらに気迫をこめて次の言葉を出そうかと思った矢先だった。

「相わかった」

 中山の野太く低い声を聞いた。

 中山は、長い沈黙の間に、藩主の弟に生まれた甥の義和の立場と、奥女中に産ませた赤子の先行きをじっくり考えたのであろう。

 ――できた男よ、よくわかっておる

 三郎兵衛は、暫くの間、中山の目を見詰め、微笑んで深々と礼を言った。

「一応、藩主の意向を確かめて御返答申し上げましょう」

「どうか、よしなにお取り計らい下さいますよう」

 会談はあっさりと終わった。座敷の先には、池の畔(ほとり)に菖蒲の濃紫が群がり、初夏の風に揺れる姿が爽やかだった。

 

 三郎兵衛は間もなく中山から承諾の書状を受取った。与えられた時間のうちに、あっけなく念願の世子御控えを得ることができた。冷や汗を拭って内心ほっとし、中山に、心をこめて相応の音物(いんもつ)を届けさせた。

「これで、今は亡き先代容(かたおき)様の御遺児さまは二人おわすことになる」

 兄にあたる当主の金之助さまがお健やかにご成人あそばすよう心を尽くさねばならない。しかし、万々一の場合、弟の慶三郎君がおわせば、また家運の拓きようもあろうと密かに思った。三郎兵衛は、三男慶三郎の出生の秘密をごく限られた藩要路に伝え、その二年後、六十一歳で死んだ。

 結局、金之助、のちの容(かたひろ)は子を成さず二十歳で死んだ。三郎兵衛が危ぶんだ通りだった。公的には容住の三男と称される慶三郎が十七歳にして家督を継ぎ、会津藩八代藩主松平容敬(かたたか)となった。

 

 いつの頃からか、容敬が高須藩主義和の息子にあたることがごく限られた諸侯の間でさり気なく囁かれ、少しずつ広まり、次第に公然の秘密となった。もうその頃には、容敬の堂々たる藩主振りと真摯な人柄が広く人望を集め、幕府の権威ある溜間詰を代表する大名となっていた。かつて会津藩名家老の仕組んだ偽りの生い立ちを咎めるものは幕閣に一人もいなかった。

 容敬は跡継ぎに恵まれず 、ただ一人、女(むすめ)の敏姫が成人した。容敬は自らの数奇な出生を知って、わが女(むすめ)に実の甥、高須松平家の銈之允(けいのすけ)を添わせたいと願った。水戸德川家の血筋が不可思議の縁によって、幕府柱石の名家と結びつくのは天命だと感じ、その縁を重ねたいと希(のぞ)んだ。

 足繁く行き来する異母兄範次郎の柔らかな語り口も容敬の願いを後押しした。容敬は心から良縁だと思った。幕府も容敬の願いを喜んで許した。

 弘化三年(一八四六)六月十一日、会津藩家老、簗瀬三左衛門が堂々たる行列を組んで、四谷高須藩邸に迎えの使者に立ち銈之允(けいのすけ)十二歳を連れ帰ってきた。かつて三郎兵衛が運命の赤子を夜分人目につかぬよう自ら抱きかかえ、女駕籠で会津藩邸にひそかに貰い受けてから、まさに四十年目のことだった。

 

 銈之允、改め容保(かたもり)は屋敷に迎え入れられたその日から世子候補として、多くのことを教わった。先ずは養父容敬に挨拶し大小の銘刀を授かり、晩には祝宴に出て、主だった家臣の挨拶を受けた。

 翌日から銈之允は、養父容敬自ら教える講義を懸命に聴いた。江戸詰家老の横山主税(ちから)常徳や、江戸に上ってきた国家老山川兵衛重英を師として多くを学んだ。家訓はじめ、容敬直筆の心得を叩きこまれる生活が始まった。次の藩主になるのだから学ぶべきことはあろうが、これほどに多いのかと容保は内心驚いた。ただ口にはださない。

 経書を読んで儒学を学ぶのとは違う。この家はいかに成立したか、藩祖はいかなる人物だったか、いかなる事跡を残したか、藩はいかなる歴史を重ねたか、藩はいかに幕府に尽くしたかなど、詳しく講義された。一つ一つが忘れてはならない藩の歩みであり、藩士の想いの丈が濃厚に詰まっていることは容易に想像できた。

 特に、この家の当主は代々、神式で祀られることを知った。藩祖保科正之公は土津(はにつ)霊神と霊社号で呼ばれ、実家の父祖が仏式の戒名で呼ばれるのとはわけが違う。

 容保は、単なる藩主教育を越え、徳川宗家に対する忠義立てがすなわち藩の存在意義だと訓えられた。武家倫理体系に収(しゅうれん)する濃厚な精神性を内包する独特の藩風に初めて触れた。

 ――何事につけ、御家風の濃い家よ

 十二歳の少年ながら、容保は養家の深い印象を得て、淡々と受け入れようと思った。

 八月、容保は将軍家慶に謁見を賜り、世子として初めての御目見得となった。家慶五十四歳、容保は己に向けられる将軍の眼差しが優しく、もし祖父がいればこのように見つめられるのだろうと想像した。

「容敬、よい養子をえたものじゃ。余も嬉しい」

「容保とな。余は以前より、そなたの父から幾度も相談を持ち掛けられ、今日、そなたに初めて会った気がせんのじゃ」

 家慶から長い間、じっと見つめられ、こう言われた。

「宜しく励め」

 家慶の信頼あつい会津藩の世子御目見得だからこそ、温かい言葉を賜ったと容保はあとになって意味がわかった。

 十二月十六日、容保は従四位下侍従に叙任して若狭守を名乗った。会津藩世子が幕府柱石たる勤めを果たせるよう着々と官位が整えられ、職責にいざなわれるように見えた。家例を以て溜間詰とされ、容保は大きな使命感と責任感とを感じた。

 

 江戸城内では、藩主が詰める座敷は家格によって決められ、なかでも御家門と有力譜代大名の詰める溜間(たまりのま)には最高の格式が与えられる。誇り高き溜間詰大名のうち、彦根井伊家、会津松平家、高松松平家の三家に限って歴代藩主は必ず溜間詰伺候とされ、別格の家柄の扱いだった。

 井伊直弼は藩主直(なおあき)の末弟で、この年、井伊家の世子となるため、彦根から江戸に上ってきたばかりだった。直弼は容保より二十歳の年長だが、世子になったのは、二人とも同じ弘化三年(一八四六)。直弼が従四位下侍従兼玄蕃頭に叙任し溜間詰となったのも容保と同じ十二月十六日だった。溜間詰の同期というわけだった。直弼三十二歳、容保十二歳。

 二人は世子の立場から、井伊直亮と松平容敬が溜間詰重鎮として事を捌(さば)く様を見る機会を与えられた。

 

    このごろは子供二人もうけ候心持にて候。十一歳の男子と十二歳の女子と、
    にわかに二人子持ち
に相成り申し候

 

 直弼が国許の家臣宛書状にこう書いたことは、容保が知る筈もなかったが、容保には優しく接してくれる小父さんのようだと思えた。

 直弼は、しばしば会津藩邸に遊びに来て、にわかに我が子を持ったようだと、容保と養女の姉、照姫をたいそう可愛がってくれた。 

 ――井伊様は父が大好きで、敬意を抱いているのだ

 容保にとって、直弼は親類の小父さん、溜間に詰める先輩という親しい間柄だけでなく、父に準ずる先達でもあった。

 容保は、溜間詰を命じられるや、いよいよ厳しく養父容敬から政治情勢を叩きこまれた。一刻も早く重責を担う力をつけなければならないと常に言われ続けているようだった。

 容保が会津藩邸に迎えられるその僅か四日前、居座っていた亜米利加(あめりか)の巨艦二隻が浦賀から退去したばかりだった。閏五月二十七日 、日本に開国と通商を求めて来航してきた米国軍艦を、幕府が開国を拒絶し十日間で追い返した経緯を教わった。

「考えてもみよ。そなたがこの屋敷に来た数日前に、亜米利加の軍艦二隻を退去させたばかりだったのじゃ」

「松平下総守殿は兵を出して浦賀一帯を厳重に警衛しておった。下総殿といえば我が隣人ではないか、同じ溜間詰ではないか。決して、他人事(ひとごと)ではないのじゃ」

 容保は、ビッドル率いる亜米利加東印度艦隊の浦賀来航が国際情勢を学ぶ格好の教材になったと思った。容保は、この危機が机上のものでなく、ごく身近に迫った現実であることを痛切に理解した。

 ――父上の危機感は、すなわち幕府の危機感。されば老中首座の阿部伊勢守様は何か手を打つに違いない

 並の十二歳が思うことではなかった。

 弘化四年(一八四七)二月、幕府は江戸湾警備を強化した。これまでの警固体制では、相模は松平大和守斉(なりつね)(川越藩主)に、安房、上総は松平下総守忠国(武蔵忍藩主)に命じてあった。これを増強するため、相模に井伊掃部頭(かもんのかみ)(なおあき)(彦根藩主)を、安房、上総に松平肥後守容敬(会津藩主)を新たに追任した。

 ――江戸湾警備は三家までが溜間詰……

 容保は父から上総警固の件を聞いたとき、溜間詰大名の本来の職責と異なるのではないかと違和感を持った。

「その通りじゃ。そなたもそう思うか」

 父の話では、会津藩は将軍の親属であり、奥羽を鎮護し将軍をお護りするのが第一の責務。奥羽でもない房総の地を藩領から遠く守るより、江戸にあって将軍不慮の親衛に任ずるのが本来の姿ではないのかと老中阿部伊勢守に大いに反論したという。

 城郭にも等しき大船で異国から攻めてこられれば、艀(はしけ)のような小舟で立ち向かうより、将軍の側にあって内乱が起きた場合に備えて親衛するのが会津藩の元々の姿なのだと主張しても、なお阿部伊勢守は会津藩の江戸湾警固に拘泥したと聞かされた。

 ――頼りになる藩が関東にいないということか

 容保は、我が藩が文武に長け風儀が整っているから選ばれたのだと思った。だからと云って、藩領から遠路懸隔の地まで何もかも押し付けられていい筈はないと子供の智恵では思い至らなかった。

 会津藩は、まず大砲十門を江戸で鋳造し富津(ふっつ)と竹ヶ岡に設置した。追々と数十門に増強するつもりだと父から聞かされた。その一環として、韮山代官の江川太郎左衛門の許に、藩から火術者を派遣するとも聞いた。

 ――父上も着々、手を打っておいでだ

 この年、父が国許に帰る予定を返上して海防準備の指揮に勤(いそ)しむ姿を容保は眼(まなこ)に刻んだ。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」五節「新たな芽吹き」(無料公開版)

「荼枳尼天の祝福」一章三節
「紅葉を散らす」一章二節
第一章四節 永別の系譜
五節「新たな芽吹き」第一章
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