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十 蝦夷宗谷 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 文化四年(一八〇七)七月、大通詞名村多吉郎と小通詞格馬場為八郎は長崎奉行所に出頭し、江戸にて天文方お勤め、蝦夷地御用を命ずる辞令を受け取った。

 二年前、馬場為八郎は、レザノフを応接し無事出港させることに功あり、と大いに認められ、大通詞の石橋助左衛門とともに長崎奉行から褒賞に与かった。その時、為八郎は二十七年間勤めた稽古通詞から一気に三職級を超えて小通詞格に昇進した。

 為八郎の昇進は、レザノフとの交渉を大過なく取り計らった功績に報いるだけでなく、今後、ロシアを担当し、交渉の必要が生じれば、通詞としてこれに当たることを含んだ人事だった。それ以来、為八郎は、小通詞格として順調に勤務を重ね、この日、この辞令を受けたのだった。

 二人は、準備に追われ、忙しく長崎を発って江戸に向かった。江戸市中では、前年の樺太に続き、今度は択捉島が劫掠(ごうりゃく)されたと大騒ぎの真っ只中だった。

 十一月、早々に名村が石橋助左衛門と交代となった。レザノフに応対した石橋と為八郎の息の合った二人が、今度は江戸の地で魯西亜(おろしあ)関係の調査と蘭書翻訳の仕事に就くことになった。

 幕府は、魯西亜(おろしあ)から北方に侵攻を受けたため、新たに二つの策を決定した。一つは松前藩から蝦夷の領地を召し上げ幕府直轄領とすること。蝦夷北部に幕府役人を派遣し、松前藩以北の地域まで監視を広げ、蝦夷地の兵要地誌を調査し、将来の兵力派遣に備えることが目的だった。幕閣からは若年寄の堀田摂津(せっつのかみ)正敦(近江堅田藩一万石藩主)が自ら視察に出向いた。

 二つは、異国の事情に通じるため、幕府の調査能力を高めること。幕府は、阿蘭陀(おらんだ)だけでなく、英吉利(いぎりす)、魯西亜(​おろしあ)にまで調査を広げる必要を認め、その任に阿蘭陀通詞を用いることにした。為八郎はいずれの策にも必要な人材と目された。

 この年、津軽藩兵、南部藩兵が蝦夷地警備に派遣され、秋田藩、庄内藩にも出兵命令が届いた。幕府の対魯西亜警備行動が実行され始めた。

 文化五年(一八〇八)、戊(ぼしん)の年が始まると、正月の一か月にわたり、会津藩から樺太、宗谷、利尻、松前に向けて、千六百名の藩兵が雪の中、極寒の地に出征していった。この藩にとって、戊辰の年にいいことは起きない。

 会津藩の後を追うように各藩の出兵が相次ぎ、南部藩千二百名、津軽藩千二百名、秋田藩六百名、庄内藩三百名、仙台藩二千名が箱館、厚岸(あっけし)、根室、国後、福山、宗谷など要地九地点に配置された。幕府既定の方針が着実に実行され始めた。

 蝦夷地に兵力が配備されつつある中、二月二十九日、為八郎は蝦夷地差遣の幕命を受けた。この出張で為八郎は通詞の蘭語力を発揮するというより、事務方、書役として現地調査の一行に加わり、ロシアによる襲撃を想定した情勢調査を命じられた。将来、一朝事あらば直ちに駆けつけるため、地誌と魯西亜事情を整理しておく任務に心を引き締め準備にかかった。

 為八郎は蝦夷地に向かう前、己が不在となったあと天文方の蘭書翻訳と蝦夷地御用が手薄になることを真っ先に懸念し、上司の天文方、高橋作左衛門景保に相談した。

「高橋様、御相談申し上げたきことがござります」

「なんでございましょう」

「拙者が蝦夷地に出(でば)ったあと、拙者の担当致しおりまする魯西亜(おろしあ)関係の蘭書調べをいかがいたせばよろしいか、お考えを承りたく存じます」

「私も気になっておりました。大通詞の石橋殿はいかがお考えでしょうか」

「石橋様もご心配に及ばれておりまする」

 為八郎、四十歳。作左衛門、二十四歳。作左衛門は上司とは言え、為八郎を心から尊敬し、丁重な口を利く。為八郎は、作左衛門から敬意を表されていることを感じ、作左衛門に誠実専一に接していた。

「左様でしょうな。魯西亜関係の蘭書を石橋、馬場の御両人ほどに読みこなす御仁となると、なかなかおりませぬ。長崎から優秀な方に来ていただくことも、すぐには難しゅうございましょう。馬場殿の御帰還まで、石橋殿おひとりになるやもしれぬのが気掛かりです……。それとも馬場殿に、何か御名案がおありですか」

 為八郎は意見具申の機会を喜んだ。

「されば申し上げまする。仰せの通り、蘭語に精通した者を長崎から呼び寄せるのは、急には難しゅうございましょう。特に昨今、長崎は長崎で、異国事情の調べに力を入れ始めている最中、易々と人を割けるはずもございませぬ。そこで、誠に私儀ながら、愚息を江戸に呼んではいかがかと思案仕りました」

「ほう。それは、それは。して、いかような御子息で」

 作左衛門の前のめりな口調に対し、為八郎は、己の子息であるが故に、抑制的に、淡々と佐十郎の学問を述べた。

「二十二歳になりまする。愚息ながら、蘭語は、かなり出来まする。十五の歳より長崎商館の甲比丹(かぴたん)ずーふなる者に蘭語と仏語を師事いたし、最近では荷倉役のぶろんほふなる者に英語を教わることもございました。蘭語は、まあ、父親の私並みか、それ以上に読みまする。今は、稽古通詞を拝命していますが、長崎奉行所で重い御役目につくほどの者ではなし、江戸に呼んで呼べぬわけではないと勘考仕ります」

「さようでござったか。そのような御子息に来ていただけるなら、これにまさることはありませぬ。早速、石橋殿と馬場殿連名で、正式に願いを上げて下され。堀田様と相談いたし、宜しきように計らいましょう」

 為八郎は作左衛門の賛意を得て、この好機を生かそうと思った。長崎奉行所勤務の二十二歳の稽古通詞にとって江戸の天文方転勤は大抜擢に違いない。

 為八郎は、佐十郎の学問を振り返って、天文方の役に立つと、私情抜きに確信していた。それだけではない、二年前、佐十郎が恩師中野柳圃の逝去にどれほど悲嘆したかを思い出し、今こそ受けた学恩を世に返す機会にしてやりたいと願った。

 為八郎は、世界の動向を読み解く見識が、幕府において、これからますます必要とされることを見通していた。佐十郎には蘭仏二か国語を自由に操る学識があり、魯西亜の難局に立向かう気概があり、魯西亜語を短期間に習得できる才知がある。江戸にくれば、存分に力量を発揮できる広い活躍の場が佐十郎の前に拓けるに違いないと窃(ひそ)かに思った。

 三月二十二日、為八郎は後顧の憂いなく松前に向けて江戸を発っていった。

 

                                *

 

 文化五年(一八〇八)四月四日、ドゥーフは稽古通詞の馬場佐十郎の訪問を受けた。出島に迎えるのは久しぶりだった。蘭語を教え始めたとき、佐十郎はまだ少年だったが、個人教授を一通り終え、今では立派な青年になったとドゥーフは改めて思った。昔を思い、柄にもなく感傷的な気分となって、少しばかり照れ臭かった。そんな気分になるのには、理(わけ)があった。

 焼失した甲比丹部屋(棟)の再建がようやく二月に着手されたばかりで、今、出島は活気に満ちている。日本の職人が出入りし賑(にぎ)やかなだけでなく、オランダ商館員にとって出島随一の邸館がようやく再建にこぎつけ、みな心が弾み元気がよかった。焼け落ちて、ちょうど十年がたっていた。ドゥーフは感無量だった。

 甲比丹部屋に代用されている蛮酋館では窓が開け放たれ、さわやかな風が通るよう、佐十郎を迎える用意が整えられてあった。前部屋(ホワイエ)には幾鉢もの蘭が色とりどりの花を咲かせ、気品高く香を匂わせていた。

 ドゥーフは、ジャワから一(ひとつき)余りの航海を経て出島に持ち込まれた蘭の株を丁寧に世話し、見事な花を付けさせた。ジャワ島には多くの種類のオーヒッド(らん)が自生し、それは見事なものだった。長崎も温暖な土地だから、うまく手入れすれば蘭はよく育った。

 オランダの国名に「蘭」の漢字を宛てるのは日本も清も同様で、それを知るにつけドゥーフは蘭の世話が好きになった。今では相当の腕前である。蘭は阿蘭陀のこと、蘭語を使う通詞がいて、蘭学が日本で花を咲かせている。

 

    蘭は苑(えんちゅう)に薫(かお)り 風色芳(かんば)

 

 日本人から贈られた額装の書を掛けた。見事な花を咲かせるに違いない優秀な若木を江戸に送りだすドゥーフの心遣いだった。ドゥーフはブロンホフとともに佐十郎を迎え入れ、給仕(オーベル)の運んできた紅茶を勧めた。ドゥーフは、よく来てくれたと、今日の晴れの日を祝福し、佐十郎から、明朝、いよいよ長崎を出達すると別れの挨拶を受けた。挨拶はフランス語だった。

 佐十郎の口上は、オランダ語とフランス語を学ぶ貴重な機会を与えられたとドゥーフに対する感謝の言葉に始まり、英語の指導を受けたとブロンホフに謝辞を述べた。江戸にいくことになった事情を語るのをドゥーフもブロンホフも真剣に聞いた。綺麗な発音で少しのよどみもないオランダ語だった。

 これほどオランダ語に上達した日本人は、多くない。読み書きに熟達した通詞は多くいるが、佐十郎の発音の見事さと語り口の流暢さは稀有と言ってよい。それどころかフランス語にも熟達した。己が手ずから育てたのだとドゥーフは誇らしく思いながら、佐十郎を食(エートカマー)に案内した。かけがいのない己の作品を食卓に付かせ、給仕(オーベル)に食事を始めるよう指示した。

 昼食は、フルーンソップ(鶏挽肉団子の温スープ)から始まり、主菜はスペナーシ(ほうれんそう)のボートル(バター)煮を添えたパーリンギスペーチィ(鰻のボートル揚げ)で、若い稽古通詞の壮行を祝う立派な正餐だった。終わりにカーネルクウク(シナモンクッキー)とコーヒーが出た。

 はずんだ座談の中で、多くの思い出話が語られた。珍妙なドゥーフの失敗談や佐十郎の勘違いも、今となっては皆の笑いを誘った。

 最後に、佐十郎のたっての願いに快く応じ、ドゥーフとブロムホフは牛痘苗を爪哇(じゃわ)から持ち込む努力を怠らないと、こればかりは真面目な顔に戻って約束した。佐十郎は、牛痘苗の導入に、ことのほか熱心だとドゥーフは前から思っていた。約束の終わりに、オランダ政府から日本政府への誠意をこめた医学の贈り物にしたいと忘れず、強調した。

 ドゥーフは赤葡萄酒(ローデ・ウェイン)をやや過ごし、佐十郎との別れのひとときを楽しんだ。ブロンホフも喜んで心から祝福した。佐十郎が熟達したオランダ語でこの国の役に立ち、それがオランダ商館長ドゥーフの献身、オランダ国の貢献であることを幕府が思い起こしてくれればいい。その時、佐十郎はオランダにとって対日政策の要になるはずである。

 ――佐十郎に幸あれ、蘭日関係に栄あれ。

 ドゥーフは胸中、真剣に祈った。

 翌日、ドゥーフは商館日記の西暦一八〇八年四月三十日土曜日の条に、今朝、佐十郎が江戸へ向けて出発したと記(しる)したあと、五十年に一度の傑出した通詞になることは間違いないと己の誇りと確信を認(したた)めた。ドゥーフの本心であると同時に、優秀な弟子を育てたことを記録し、ジャワ総督府による将来の論功行賞に備えるためでもあった。

 昨日は陽暦の奇数日だったと、佐十郎のフランス語の挨拶をあらためて思い出し、一人、にんまりと笑(え)んだ。佐十郎が日本の至宝になることは、ドゥーフとブロンホフと長崎の通詞仲間には明らかだった。

 ――その外に、日本の誰もがまだ佐十郎を知らないだろう

 ドゥーフには、佐十郎が仕事を始めて、江戸の人々の驚嘆する姿が容易に想像できた。

 

 

 

 佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第一章「遠鳴」十節「蝦夷宗谷」(無料公開版)

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