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三 儲けを正す 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 宝暦十一年(一七六一)十二月四日、大坂西町奉行所に到着した一行があった。目付三枝帯刀、勘定吟味役小野左大夫一吉(くによし)、白山源太夫はじめ評定所留役ら九人からなる幕吏きっての能吏たちだった。一行は、安土町通りの東横堀本町橋(ほんまちばし)東詰に構える西町奉行所に入って執務の準備を整えた。宿は平野町の北組惣町会所に取った。

 翌日から、西町奉行所は厳(いか)めしく表門を閉じ、棒を構える門番が立った。大坂城代の下僚三人が御用掛として奉行所内に寝泊まりする厳格な体制をとった。幕府中枢の強固な意志と威権を示したうえで、御用金令と空米切手禁止令を発する準備を整えた。

 十二月十五日、西国九藩の蔵屋敷業務を請負(うけお)う蔵元たちが西奉行所に召喚され、空米切手の買い戻しを命じられた。熊本藩御用達の塩飽(しわく)屋仁左衛門に七万一千石、福岡藩御用達の鴻池善八に四万八千石、長州藩御用達の薩摩屋仁兵衛に二万九千石、広島藩御用達の鴻池善右衛門に二万石、外に土佐藩、薩摩藩、久留米藩、鳥取藩、岡藩御用達を合わせ、総計二十一万八千石相当、二万一千枚余りの空米切手が対象とされた。蔵元から幕府の示達を聞いた九藩の蔵屋敷留守居は真っ青になって言葉を失った。

 堂島米市場から、市場全体の米切手発行残高が七十二万石に達すると大坂町奉行所に報告があった。額にして三十八万両に相当する。西町奉行所の下僚は、市況と町奉行所の対応如何によっては、流通する米切手が大量に焦げ付くことを知っていたから、足許に奈落の底を見る思いがして震え上がった。

 十二月十六日、江戸から派遣された勘定所と評定所の幕吏は、西町奉行所で鴻池善右衛門、鴻池松之助、三井八郎右衛門、加島屋久右衛門ら主だった豪商十一人に各五万両の賦課を申し渡した。これを筆頭に、総計七十一人の豪商に御用金を仰せ付けた。

 大坂金融界を十分に震撼させた頃を見計らい、十二月二十三日および、明けて宝暦十二年(一七六二)正月五日に追加の御用金を仰せ付け、総計二百五人の商人に百七十万三千両を言い渡した。納付期限は正月末日、いくらも間がない。

 宝暦十二年(一七六二)二月一日、期限切れの翌日、西町奉行所は納付を渋る商人らを召喚した。商人側から、仰せの額は無理として、納付できる精一杯の額を改めて申し立てたことを咎(とが)めるためである。

 奉行所は、どんより曇った寒い空の下、戦々恐々と集まった商人らを白洲に並べ、奉行直々に、のらりくらり逃げ回るでないと一喝した。商人たちが互いに申し合わせて取るに足らぬ端(はした)額を上申したことを不届きと決め付け、発頭人は、後日、急度(きっと)、咎(とが)めて牢屋に放り込まずにはおかないと恫喝した。

 奉行所の門を封鎖し、奉行の退席の後、同心らは散々に怒鳴り散らし、時に優し気な言い様で説得を続けた。夜になって白いものが降り始める中、篝火(かがりび)が悄気(しょげ)返った商人らを照らし、陰気な火影が、時折、爆(は)ぜる音を白洲に響かせた。ついに八つ時(午前二時)に至っても許されなかった。大店(おおだな)を代表する商人らは、寒さの募る中、白洲に引き据えられ散々の目に遭った。

 そうして、むしり取るように集めたのが、七十万両という御用金だった。公式に掲げた目標の四割だったが、江戸から来た一行は、初めから見当を付けた額だったので、内心、満足だった。上納金ではない。あくまで融資金であり、利息を付けて返済する資金だった。

 西町奉行所に集められた御用金は、正月半ばから各出資者による貸付という枠組みで、大坂市中、三百二十五の町に月利一毛(年利一・二パーセント)で貸し下げられた。町は、規定によって三分の二を米切手の買持ちに使うこととされ買米(かいまい)の義務を果たす主体に目された。

 残る三分の一は月利一厘五毛(年利十八パーセント)以内の利子で誰にでも、大名家にも貸すことができた。利鞘は大きく旨い話だから、町の惣年寄や町年寄が目の色を変えたのも無理はなかった。

 幕府は御用金を市場から吸い上げ、町に貸し下げた。資金を得た町は、藩蔵屋敷から米を買う。さらには、空米切手買戻しに必要な資金を藩蔵屋敷に貸し付ける。これで米価が下落を免れれば、大名救済策として成功と言ってよかった。

 米価は年明けから徐々に上昇に転じ、御用金納付期日の二月二十八日に筑前米が一石あたり銀七十匁(もんめ)にまでなったが、三月になって再び下落した。この策がなければ五十匁で米切手を発行しなければならないところ、短期間とは言え七十匁で発行できたのだから、各藩蔵屋敷は喜んだ。少なくとも危惧した大暴落は避けられた。

 市中では、豪商たちの行う金融が逼塞し、難渋を訴える声が高かった。その声は江戸の勘定奉行にまで聞こえてきたが、清昌は平然としていた。

 豪商の貸す金が減っても、二十万両以上の資金が三百二十五の町を経由し市中に流れるのだから、大名を含め、借り手は借りる相手を豪商から町に変えれば済むことであると見切っていた。これまで豪商の得てきた莫大な利が、町年寄に束(たば)ねられた町に移るだけのことであると意次に説いて、理解をえた。

 意次も清昌も、大坂商圏を逼塞させる意図は毛頭なかった。豪商に大きすぎる儲けを多少なりとも吐き出させ、その資金で新たな経済政策を打ち出す考えだった。吐き出させた金を何と呼ぼうとよい。意次と清昌にとって、百姓が負担する年貢のように、形を変えて大商人が世のために負担すべき金と見做(みな)した。

 二人は、武家が立ち行くよう、中小商家が立ち行くよう、そして日本全体として金回り良く立ち行くよう新しい仕法を考えていた。まずは緊急性の高い米価下落の危機を一時的にせよ収めた。

 意次と清昌は、いずれ実行しなければならない重要な政策は、何と言っても、貨幣の新鋳だと合意していた。勘定所と評定所のごく限られた所員に新貨発行計画を立案させ、成案を得ていた。

 今から手を打たなければならないのは、貨幣の原料となる金、銀の地金の調達で、新しく採掘される分は殆(ほとん)ど期待できなかった。

 

                          *

 

 宝暦十二年(一七六二)四月六日、御為替方(おかわせがた)の三井組、十人組、銀座、上田組の者たちが召しに応じ、江戸城本丸内、御殿勘定所に罷(まか)り越した。ここで勘定組頭、佐久間郷右衛門から申し渡された示達を聞いて、面々は腰を抜かさんばかりに驚いた。

 佐久間から、一切の表情を消した顔で、今後、大坂御金蔵(おかねぐら)銀の江戸への為替を取りやめ現銀輸送に切り替えること、大坂での幕府支出を江戸からの為替送金に改めること二点を申し付けられた。無神経かと思わせるほどの大音声(だいおんじょう)だった。最後に、老中次座、松平右近将監武元(たけちか)(館林(たてばやし)五万四千石藩主)による下命の書付を下された。

 元禄四年(一六九一)以来、七十年にわたって続いた為替制度は、高度に整備され何不足なく運営されてきた。為替は、現銀輸送よりはるかに費用の掛からない送銀法で、書付けを送りさえすればよかった。問題など何もなかった。御為替方には幕府の意図が全く分からなかった。

 御為替方は、勘定組頭に下命書受領の請書を差し出して急ぎ下城した。皆が皆、青ざめた顔で本丸を退出し、石段を急ぎ足で下っていった。

 帰路を遣(や)るどの駕籠も往路と違い、六尺の足は速く、急いで神田橋御門、常盤橋御門、呉服橋御門を駆け抜けていった。中に乗った御為替方の慌てぶりが駕籠の外にも表れでるようだった。大店の旦那衆が店に戻るのは、もっとゆっくりしたものなのにと、怪訝に思う町人もいたかもしれなかった。駕籠が店に帰着してから間もなく、駿河町の三井両替店から仕立飛脚の急使第一便が勢いよく発(た)っていった。

 

「為替方の商人には驚天動地の大事件だったであろう」

 意次は報告に来た清昌に、にやにやしながら言った。

 二人は、大坂銀相場の下落傾向を懸念し、練りに練った手を打ったのだった。大坂御金蔵の銀為替を禁じて現銀輸送に切り替え、大坂での幕府支出を江戸から為替送金することに変えた。現銀の江戸集積を図って大坂町奉行にも知らせず、一気にことを運んだ。

 大坂市場から現銀を江戸に移してしまえば、相対的に銀相場が上がるに違いないと方針を煮詰めたのは、米価下落対策がそれなりに功を奏した三月の頃だった。それだけではない、近く、銀貨を発行するため原料となる銀地金を江戸に集めおく狙いもあった。

「何の前触れもなき御示達、為替方の顔色が一変したと聞いております」

 それを聞いて、意次は満足そうに頷(うなず)いた。

上方と江戸の間の送金を為替で行うのが当たり前となって久しい。江戸は消費都市だから上方から物を買う。支払は圧倒的に、江戸から大坂に流れた。

 一方、各藩は江戸に藩邸を構え、藩主と家臣と家族が江戸で生活している。その費用は、多くの藩が大坂で売った米の代銀を江戸に送って宛てていた。さらに、幕府でも、上方や西国から上がった年貢由来の金銀を大坂城御金蔵(おかねぐら)に収蔵し、適宜、江戸に送った。江戸と大坂の間で金銀の流れが行き交ったから、現金、現銀の直接運送を避け、為替が発達した。

 為替のために、大坂の両替商が江戸に支店を構えた。大坂の本店で、江戸に銀を送ってほしいと依頼を受けると、客から銀を受け取って為替を発行する。

 客はその為替を江戸の送金先に発送する。為替は書付に過ぎないから、軽くて、かさばらず送付は現銀よりはるかにたやすい。送金先に為替が届けば、為替に受領の旨を裏書し、両替屋の江戸支店に持っていくと現銀を渡してくれた。

 本店、支店ともに金、銀を送ってほしいと客から依頼を受け、預かった金、銀を支払いに使い、最後は、本店と支店の間で決済すれば済んだ。この制度のおかげで現物通貨が東海道を行き来する必要はなくなった。

 両替商は、一般客から為替額の一厘から二厘の口銭を取った。百文につき一文から二文の割である。幕府大坂御金蔵(おかねぐら)から送金する銀は口銭をとれない代わり、交付から六十日後か、時に九十日後、江戸御金蔵に銀を収める決済日まで、幕府に利子を払うことなく巨額の預かり銀を運用でき、延為替(のべかわせ)の形で大きな利を稼げた。

 両替商にとって大坂御金蔵と江戸御金蔵の間の為替は大きな儲け口だった。宝暦十一年(一七六一)は金三九、二〇八両と銀一二、七三六貫目、金換算で合計二十五万両を越える大口取扱いがあった。これをを禁じられれば、両替商の損失は大きい。

「うまうまと独占しておったのだ。少しは儲けを減らしてやっても悪くはない。寝耳に水だったろうさ」

 意次が珍しく伝法な言い方をすると、清昌は声を立てて笑った。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第二章「田に実らざる富」二節「儲けを正す」(無料公開版)

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