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十一 足元に響く音 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 将軍家茂の麻疹は軽く済んだ。じきに快癒し、十一月二十七日、三条実美、姉小路公知の正副両勅使が登城することになった。ほぼ一ヶ月、将軍の回復を待つ間、両勅使は、微行(しのび)で山内容堂、小笠原長行と会って勅諚の内容を揚言し、さらには二千五百三十坪の伝奏屋敷が手狭であると支障を申したてて清水家上屋敷に移った。朝廷の威光を精一杯に見せ付けて一ヶ月を過ごした。幕府にねちねちと文句を付けるのが立派な政治行動だった。

 この日、正副勅使は、君臣の名分を正し上下の別を明らかにするため、旧習を全廃し新たな儀礼で登城した。いや、登城ではなく、入城と称した。登ると言えば、将軍が高きに居ることを自ら認めることになってしまう。

 城内では、将軍自ら勅使を本丸玄関の真正面、遠侍(とおざむらい)の奥にある殿上の間上段より案内し、虎の間を経て松の御廊下を延々と先導した。ついに白書院まで案内の上、将軍自らは中段に止まり、勅使は直ちに上段に上った。

 一目礼、将軍は直ちに膝行、勅諚を拝受、退いて披見、これを終わって口上を述べる、という仰々しさである。これでもかというほどに虚礼の限りを尽くして将軍に臨み、親しく家茂に勅書を授与した。

 将軍が城内を長距離に渡って、勅使の先に立って案内するところに三条らの狙いがあった。将軍は朝廷から国政の大権を委任されているに過ぎず、あくまで臣下であれば、天皇の使いを延々と恭(うやうや)しく城内でご案内すべきであるという建前だった。

 幕府がこの新儀礼を受け入れるために相当の抵抗があったが、公武合体を推し進める松平春嶽、松平容保、小笠原長行らに唱導された結果、三条、姉小路の満足するように新儀式が滞りなく済んだ。

 従来の将軍上位の儀礼も複雑な体系だったが、勅使上位の儀礼はさらに入り組み、繁文縟礼の一大集積だった。さらに、儀礼だけでなく、将軍が上京して攘夷の実施計画を立てることを幕府は受け入れ、三条、姉小路の両勅使は巨大な成果を手にした。

 

 勅使登城の翌日、一橋慶喜が常盤橋御門内の松平春嶽の上屋敷を訪ね、相談にきた。一橋家など御三卿の当主が大名屋敷を訪問する前例はなかったので、供膳の用意に春嶽邸では相当に慌てた。

 慶喜は、仏国艦隊が摂海(大坂湾)に寄せてくる可能性に言及した仏字新聞の記事を紹介し、自分が兵二万を率いて大坂に駐留し、海岸を防禦し京都を守護する任につきたいという希望を述べた。

 以前から、慶喜は上京して開国論を上奏したいという考えを持っていたが、開国の話題では天皇が聞きたがらず、会ってくれないかもしれないことを懸念していた。そこで、会わないと言われないためには兵を率いて上京すればよいと考えついた。

 武力で恫喝するわけではない。ただ大兵を擁すれば、自ずと自分の存在に重みが増して上奏する機会が必ず得られるだろうと考えた。それには、仏国艦隊の来襲に備えるという役割は、兵を率いて上京する格好の大義となる。

 大兵を擁して議に及ぶのは島津久光がつい半年前、幕府に使った手だった。慶喜は、一度は腰が引けた開国論の上奏計画を捨てなかった。兵二万があれば、天皇から面会を拒否されないと見て、改めて計画を練ってきた。

 春嶽は春嶽で、島津久光とともに京都で国家の大計を図ろうと考えていた。ただ計画は容堂と内談した折に軽く示唆しただけで、幕閣には敢えて伝えないでおいた。当然、慶喜の率兵上京は春嶽にとって好ましくはなかった。春嶽は、重大なことだからもう少し熟考したいと煮え切らない返事をするに止めた。内心腹立たしく思った慶喜の様子が見て取れたが、それを押してまで、この計画に確信を持っていたわけではないようだった。

 長行は慶喜の考えを洩れ聞いて興味深く思った。兵を率いて行けば、きっと上奏できる。上奏さえできれば、世界情勢を説明し、帝も開国に理解をお示しになるだろうと同じ構想を持つ同士を見出した思いだった。

 天皇から開国に同意を得るためには、天皇に話すだけでは足りない。朝廷要路の公卿に事前に説明して、天皇の説得を脇から助けてもらうことが必要である。その役割を任せるには、姉小路公知などがいいのではないかと飛躍した発想を抱いた。長行は兵を率いて上京する機会をひそかに温めることにした。

 十二月、長行は、将軍に先立って上京し将軍の上京に備えるよう命じられた。これに合わせ、軍艦奉行並の勝麟太郎に、順動丸にて老中格小笠原図書頭長行を大坂まで送り届け、図書頭が摂海警備を巡見するにあたり、これを助けるよう命が下った。

 さて、忙しくなってきたと思いながら、長行は上京の前に、かねてからの計画を実行に移した。安井息軒、塩谷宕陰、吉野金陵を昌平黌教授に任命するよう若年寄に命じた。

 昌平黌は林家が一人管轄しているように見えるほど朱子学一本の学風であったが、長行は、この学風を変える時期になったと考えていた。

 息軒は荻生徂徠に連なる古学を標榜し、そこに朱子学の長所をとりいれる柔軟な学風を作ってきた。三人が力を合わせ、昌平黌の学問に新風を吹き込んでくれるだろうと、長行は息軒らに全てを任せ、己も一度は志した世界に別れを告げた。

 

 十二月十六日、長行は従者七十余人を連れ、外国奉行、監察をはじめとする幕僚十一名とともに、築地沖に碇泊する順動丸に乗込んだ。乗組員は士官二十四名、水夫、火焚夫五十一名だった。

 勝は、天保期、三大剣客の一人と名を馳せた直心影流、島田虎之助から免許皆伝を受けた男で、はじめ剣客として世に出た。島田の代わりに多くの藩邸に出稽古に行く日々を送った。その後、一念発起、蘭学をやって軍事技術者となり、安政二年(一八五五)、新設された長崎海軍伝習所の頭取に任じられオランダ海軍教師団と各藩学生の調整役を勤めた。

 本来が刻苦勉励をいとわない強烈な集中力の持主で、弘化四年(一八四七)秋に蘭日辞書ズーフハルマを一年十両で借り受け、翌嘉永元年(一八四八)八月二日、全五十八巻を二部筆写し終えたという逸話は当時から蘭学徒の間で有名だった。一部は売って借料の払いにあて、一部は自らの勉強用とした。勝二十六歳のことだった。

 長崎海軍伝習所でも、勝は猛烈に学び、海軍技術、操船術、航海技術を体系的に身につけ、その背景をなす西洋文明論にまで理解を深めた。その後、日米修好通商条約の批准のためにワシントンに派遣された遣米使節団に付いて、日本人の手で咸臨丸を操船しサンフランシスコにまで行った経歴を持っていた。

 安政五年(一八五八)四月、長行が藩主名代として唐津に帰り、長崎を巡視したことがあった。唐津藩の重要な御役目である。朝から、長崎奉行や目付らと公式な会談をこなし、長崎町年寄など多くの人物と会って有意義な一日を終えた。やれやれと宿館でくつろいだ夜分、長行を訪ねてきたのが、当時、海軍伝習所頭取の勝だった。

 長行は、嘉永五年(一八五二)九月、新しく鉄砲の設計を頼もうと蘭学者を探していた養父、長国に勝麟太郎の名を推薦した覚えがあった。六年たって、その人物が長崎海軍伝習所の頭取であることを知って、御高談を賜りたいと、長行の方から勝を招待しておいたのだった。

 勝の設計になる鉄砲は評判がよく、小笠原家と藩主奥方の実家土浦藩土屋家の家中のために次々に五百挺も製造した。勝はこの仕事で成功を収め蘭学者として世に出るきっかけをつかんだようだった。小笠原家に納めた鉄砲は、勝の輝かしい経歴の一つとなり、かつて長行に宛てて感謝を述べた書状を送ってきたこともあった。

 その夜、勝は喜んで長行を訪ねてきた。長行は心から勝を迎えて酒肴をまえにいろいろと話を聞いた。それまで二年半に及ぶ伝習の成果があらわれ、日本人の海軍技術は相当に高くなったという。勝は、前年の末、五島、対馬、平戸から朝鮮釜山沖にまで練習航海を敢行し成功を収めたことを話した。さらに、勢いを駆って前月には鹿児島まで航海し、懇意にしていた島津斉彬公を訪ねたという。斉彬逝去の四ヶ月前のことだった。

 薩摩では、藩をあげて歓迎され、勝は斉彬公とオランダ海軍教師団長リットル・ホイスセン・フハン・カッテンデイケ大尉の会話を上手に取り持って斉彬に酬いたという。

 長行が長崎で勝から聞いたのは、薩摩藩訪問時の挿話、人物譚、薩摩藩における西洋技術実用化の見聞談に始まり、日本近海の兵要地誌、外国情勢、世界の海軍事情まで広範にわたった。驚くべき話だった。勝はわずかの酒で顔を赤くしながら、やや伝法な江戸弁で小気味よく丁寧に話してくれたものだった。

 この時、勝と話をしたことが縁となって、長行は二年後の万延元年(一八六〇)、家臣を遣わすから大砲鋳造の技術を教授してほしいと勝に頼んだ。勝はアメリカから帰国した直後だったが、快く引き受け、半年後には大砲鋳造の技術を身につけた小笠原家臣が意気揚々、唐津に戻ってきた。

 唐津藩では、文久元年(一八六一)四月一日、勝に伝授された技術で鋳立て終わったばかりの真新しい十八ポンド砲一門、六斤砲一門、十五ドイム臼砲一門、二十九ドイム臼砲一門を妙見浦に引き出し、長行自ら試射した。

 試射成功の喜びに浸るのもつかの間、その三日後に江戸に向けて唐津を出達してきたのも、いい思い出だった。長行は、長崎の四年前の出会いを思い出し、あのときの人物と今また縁がつながるのを楽しみにしていた。

 

 文久二年(一八六二)十二月十七日朝、御軍艦操練所のある築地の沖から順動丸が出帆した。幕府が購入して二ヶ月目である。三百六十馬力の外輪蒸気船は、長さ四十間(七十三メートル)、幅四間三尺(八・二メートル)、排水量四百五噸の英国製で、昨年就航したばかりの新造船である。砲装は二門、世界一級の商船だった。この鉄船はいい、と船体の各部分を丁寧になでながら、勝は順動丸を長行に説明し始めた。

 江戸前の海を南下すると、品川沖にうずくまる台場が間近に見えてきた。勝は第三台場と第六台場の間の航路をとったため、台場に詰める川越藩と松代藩の藩士が間近く見てとれた。調練に備えるのか、藩士たちはきびきびと動いていた。

 長行の目には、台場はまとまりよく機能しているように見えたが、いざ戦いになって、外国船によって遠くから大砲を撃ちかけられたらどうであろう。台場から撃ち返し、江戸の町を守りきれるだろうか。長行は懸念を拭えなかった。

 こうした状況を考えると、この台場と外国船が砲撃しあう事態は避けなければならないと長行は思った。そのときこそ、砲撃によって破壊されるのは台場どころではない、幕府は威信を破壊され、政治を破壊され、日本は国の基盤を破壊されるだろう。

 世界的に見て、勝の親しんだ木造風帆蒸気船は安政年間でそろそろ退役し始め、万延から文久年間にかけて、海軍と海運の主流は鉄製蒸気船に移行し始めた。

 欧米の造船思想が日本にも及んでいる。長行は、四年前、長崎で勝に木造蒸気船を案内されたことはあるが、鉄製蒸気船は初めてだった。

 順動丸が帆航から蒸気航に切り替えたとき、甲板から屹立した二本の煙突が煤煙をなびかせ外輪が力強く回り始めた。巨大な船体が悠然と波をかき分け速度を増した。

長行は雪駄の裏に、機関音と振動の確かな勢いを感じ、船の速さと途方もない力感に度肝を抜かれた。唐津へ帰国の途上、瀬戸内海を風帆和船で往来するのとは訳が違う。

 ――これが欧米の力か、これが万里を経巡(へめぐ)って日本、アジアに出没する連中の正体か

 圧倒される思いだった。この船に乗って機関音と震動を感ずるだけで、攘夷がいかに空論妄説か、即座にわかると長行は思った。

 議論で思想を変えさせるのは難しい。しかし足裏に力強い震動を感じ、船の圧倒的な馬力を体験した後なら、思想でも容易に変わるかもしれないと心に刻んだ。

 ――百聞は一見に如かず、ということか

 江戸湾を出ると、長行は、船中、甲板を歩いて、士官、水夫を問わず、船のことを尋ね回った。大坂に着けば、直ちに摂海の海防計画を策定しなくてはならない。西洋蒸気船の能力と特性を知らなければできることではなかった。冬の海は時に時化(しけ)たが、夜遅くまで、勝と日本の未来について話を交わした。船中、時間はたっぷりあった。

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」十一節「足元に響く音」(無料公開版)

十二 冬の海にて 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

「日本は周り残らず海に囲まれている国でんす。砲台だけで、とうてい守りきれるものではござんせん」

 ある晩、勝は長行に言った。船は相当に揺れている。

 はりねずみのように全周を砲台でおおうなどできることではないと言われて、長行は苦笑しながら当たり前だと思った。台場を築くことも要所に限って重要だが、それよりも、日本の海防には船が不可欠であると勝は説きたいのだ。品川沖に点在する台場を見てきたから長行にもよくわかった。

「船は金を積めば手に入(へえ)る、わけもねぇ」

「それより大事(でえじ)なのは、操船に当る人でんしょう」

 これを育てるには、指導者と金と手間隙が必要で、それほど容易ではない。海軍は、船を動かす軍人で成り立つのだ、金を工面して船を揃えることにとらわれ過ぎてはいけない。勝は、独特の反語と皮肉に満ちた言い回しで、海軍人材の育成こそが海防の本質であることを説いた。

 開国して技術を取り入れ、必死に学び、懸命に追いつかなくてはならない。その人材を幕府のために幕臣から選んで、幕府による海軍士官養成機関は築地にすでに建てた。では日本のために全国諸藩から人材を求める必要はないのか、これが次の課題になると勝は言う。

 ――築地だけで、日本全体を守れるとお考えですかい

 と、言わんばかりの目つきだった。

 勝は幕府に忠誠心が薄いというのではない。いったん世界を見てしまった目からすれば、幕府を越えて日本全体で物事を考えないわけにはいかないのだと長行は理解した。それにしても、勝が幕府海軍を越えて日本海軍を見通すその考え自体が眩しかった。

 

 いく晩も長行は、船中、勝と話しを重ねた。長行の胸中には、攘夷論は採りようもなく開国論だけが日本の明日を拓くと確信がある。天皇、朝廷にいかにお分かりいただくか、その悩みがくすぶっている。将軍より天皇が偉いと言う者には言わせるがよい、しかし、攘夷を早く実行するよう幕府に執拗に迫り、国を焦土と化しても攘夷を実行するのに悔いはないと放言する輩はどうしたらよいか、長行は、根っからの開国論者の勝にそれとなく聞いてみた。

「わからねぇ御仁ってのが、いつの世にもいるもんでんす」

 勝が言うには、黒船来航以来、多くの献策が寄せられ、なかなか進まないようでいて、実は幕府もいいことを少しずつやってきた。長崎に海軍伝習所をこしらえ、諸藩から人を受け入れ、まずは日本人が海軍を修得する第一歩とした。

 その後、長崎でオランダ仕込みの伝習を受けた日本人の手で太平洋を横断し、米国に渡って彼の地を観てきた。いまや、築地の軍艦操練所から日本人教授の手で少しずつ海軍士官を輩出できるようになり、現にこうして蒸気船に御老中をお乗せして大坂に送り届けることが幕府の手でできるようになった。それでいて、日本では、西洋船など知らない人間がほとんどで、折を見て、少しずつわかってもらうしかないのだと言う。

 長行はしばらく沈黙を守り、ある公卿をこの船に乗せて西洋蒸気船を知ってもらうことに協力してほしいと頼んだ。勝はにやりとして、喜んでお役に立ちたいと胸を張った。

「それはどなた様なので……」

 勝が聞いてきた。

 当然である。長行は、今、ここで名を明かしていいか、気になることがあった。

「そうよの……。あの字か、さの字じゃ」

 そういう情況になれば、この図書頭の手配りだと思って、気合を入れて蒸気船と海外情勢を教えてやってほしいと繰返した。

「是非とも公卿をこの船に乗せて、考えを変えさせたいのじゃ……」

 長行がつぶやくと、勝は、長行の思うところをはっきり悟って、じっと長行の目を見つめ返した。

「私も、その公卿にお乗りいただくために、何かをさせていただきとうございます」

 勝のあらたまって真摯な返答に、長行は何も言わず、何度も何度も小さくうなずいて、温顔を勝に向けた。勝を見詰める眼差しには、光るものが浮かんで見えた。

 勝は、天候を選びながら、荒れ模様の冬の航路を進め、十二月二十四日、順動丸を大坂の天保山沖に投錨した。長行は七泊の航海において鉄製蒸気船の性能と概念を実体験から把握した。西洋を理解するのにこれほどいい教材はないと思った。

 長行は大坂の町に上陸し、この日、久太郎町の東本願寺、南御堂を宿館とした。さっそく攝海の沿岸を視察して回って台場建設予定地を決め、沿岸防衛計画を立て始めなければならない。忙しい中、間もなく文久二年(一八六二)も終わるかと思えば、この半年に起きたわが身の転変に深い感慨を覚えた。

 十二月二十八日、長行は四日間にわたり大坂城で打合せを済ませて、ようやく順動丸で天保山沖を出港した。尼崎、西宮、兵庫方面を巡視し、勝の意見を聞きながら台場建設の地を戦略的に吟味した。

 船があればこそ、大坂から兵庫に行って候補地を検分することも速やかにできるというものだった。行く先が僻陬(へきすう)の地であっても船で行く限り宿の手配は無用であり、現地で小舟を手配して海側を検分する手間も不要である。

 陸地を検分するには端舟を下ろして上陸すればすむ。蒸気船は、速度と移動の容易さと荷物の大量運搬能力によって、間違いなくこれまでの出張と通信の概念を変えると長行ははっきりわかった。

 江戸、大坂は陸行十二、三日の行程だが、海路なら、天候にもよるが、さほどの好天でなくとも五、六日か、それ以下に短縮され、船酔いの問題を別にすれば疲れもない。

 将軍が上洛するため、一口に百万両を費やすと言われる陸路の大行列を組むくらいなら、順動丸が十隻ほども買えてしまう計算である。船を活用すれば、世の中が変わらないほうがおかしい。

 勝がむきになって蒸気船の購入を申立てるのも無理はないと長行は幾度も思った。

 ――ここのところが朝廷や公卿にわからない。これがわかれば攘夷だの再度の鎖国だの言える道理はないのだが……

 

 勝は勝で、長行に随行して兵庫方面に出張る多忙な日々を送っていた。一方で長行の言わんとすることを腹に収め、独自に機会を作って海軍士官養成機関の設立呼びかけに動きだした。

 文久二年は十二月二十九日が大晦日に当っている。この日、勝は順動丸で兵庫沖に来ていたが、温めてきた論考を船中で一気呵成に書き上げた。前もって言ってあったので、弟子入り間もない坂本龍馬、近藤長次郎、千葉重太郎が京都から兵庫に到着し、船中、初更まで控えているところに、ぽんと書状を渡した。

「若手公卿も西洋船に乗らざぁ、わからんもんだわ。乗せるが何よりの口説きだぜ」

 軽口を叩きながら三人に口上を授け、ある二人の公卿に書状を持っていくよう托した。

 こういうことは一度では上手くいかない。何度となく手を打ち、積み重ねた努力が、ある一度っきりの機会に生きてくる。勝は、坂本に託せば土佐勤王党のつながりで、必ず、目当ての二人の若公卿に書状が届くと信じていた。勝は勝で布石を打ち、日記の元旦条にこう記した。

 

    昨夜、愚存草稿を龍馬子へ属(しょく)し、或る貴家へ内呈す

 

 日記にさえ宛先の名を秘した。長行の考える相手は三条実美と姉小路公知だと秘かに察知し、その前提で動き始めた。

 ――図書頭様がほのめかされた御方もおおかた、このあたりでんしょう

 勝は一人決めしたが、長行の心中を過たず見通していることに自信があった。

 さらに長行、勝らは視察を続け、正月三日、長行は勝の操船する順動丸に乗って大坂に帰ってきた。砲台築造の位置を確定し、資材、人足の数を見積もり、長行は下僚を使って綿密に計画を立案し始めた。

 十三日、京都から使いがあって、至急、上京するようにと命を受け、即日、上京した。京都では、慶喜が尊攘急進派の公卿や志士から攘夷をせきたてられ、二日前も、長州藩の久坂玄瑞、寺島忠三郎、肥後藩の轟武兵衛、河上彦斎らが慶喜の宿館に推参し謁見を請うてきたという。慶喜は病と称し謁見を許さず、大目付岡部駿河守が代わりに会って話を聞いた。

 攘夷の期限を決め、上は叡慮を安んじ奉り、下は万民安堵の策を回(めぐ)らすよう、と例のごとくの言い様で彼らは大いに語った気分になって帰っていったという。呑気で無邪気なものだったらしい。

 

 長行が大坂から京都に向っている頃、慶喜は初めて学習院に呼ばれ、議奏、伝奏の両役と会見した席で、話が攘夷のことに及ぶと、居並ぶ諸公卿を前に慶喜はこう切り出した。

「ひとたび外夷を拒絶するのは容易なことでござるが、これをやれば事変が必ずや起きましょう。慶喜は武将であれば、身を以て事変に当たる覚悟はできております。一方、皆様方は攘夷発令の大本(おおもと)です。変に臨んで驚きうろたえることのないよう願いまする」

 凛然として気迫が辺りを払い、公卿らは立ち竦(すく)むような気分になって反論できる者はなかった。

 ――長州藩や肥後藩の志士と称する下級武士から、いいように踊らされているのではありますまいな……

 慶喜の無言の鋭鋒を感じない公卿はいなかった。二日前に慶喜のもとに久坂らが強引に来訪して暴論を吐いていったから、慶喜の言い方は棘を含んでいた。慶喜、恐るべし、と噂がただちに朝廷を駆け巡った。

 

 長行は、慶喜とあれこれ打ち合わせた。江戸にいる時より、よほど話す時間は多かった。正月二十二日、長行は参内し、天皇に拝謁して天盃を賜った。長行は、このあと、胸に温めたある秘計を実行した。大坂に戻る前に是非ともやっておきたかった。

 長行は密かに姉小路公知に書状をやって、用意した目立たぬ町家で密会することができた。姉小路に筋をつけることはなかなか難しかったが、勝の配下で、勝の意を含んだ坂本龍馬なる土佐浪人から密かな援助を得て、ようやく承諾をとった。

 ことは極秘を要する。長行はこの日一日、家を借り受け、家人は誰もいなかった。中庭も京都の寒さにひっそりと静まりかえっている。なかなか凝った造りの町屋で、密談にはもってこいだった。江戸で、自邸に姉小路を招待してから三ヶ月とたっていない。

 ひっそりとやってきた姉小路を座敷に通して挨拶を交わしたところへ、胸高に帯を締めた武家風の若い女中が茶を運んできた。

「これは我が江戸屋敷より伴った者で、御心配は無用にござる」

 ひと言断って茶を含み、長行は静かに語り始めた。

「一体、最近の京都は、天誅と称し、斬奸を唱え、殺戮の風が猖獗(しょうけつ)して凄然(せいぜん)たるものがあるが、これは、いかなる意図で行なっているのでござろうか」

 長行はずけりと聞いた。姉小路も天誅に一枚噛んでいることを十分、承知している。そのような手段は国を誤るのではないか、もっと率直に意見を交換し互いの考えを通じ合わせる必要があるのではないか。長行は、今夜ばかりは寡黙を保つ公知に、ゆっくりと訊ねてみた。

 姉小路は、いずれの問いにも、はきとは答えず、もはや勢いを抑えることはできないと言うのみで、長行の話に乗ってこなかった。さらに、外国の情勢、世界の軍事事情、日本の海防状況について聞いてもらいたいのだが、と長行が水を向けた。姉小路は長行の提案を聞くや、攘夷が難しいという話にもっていくおつもりかと、とげとげしく反論してきた。取りつく島がない。

 姉小路は時折、不安げな表情を浮かべ、背後から白刃を擬せられているような様子を見せた。何かに圧(お)され脅(おど)されでもしているようだと長行は見た。

 しばらく間をおき、長行は、どう考えても攘夷と称し、直ちに異国船に大砲を撃ちかけるの無謀ではないか、そのあと異国と講和して城下の盟を結ばされるよりは、そのような事態を避けることがいいのではないかと問うた。

「然らば、幕府に攘夷の意図はないと言うか。これは異なことを聞く」

 捨てぜりふを残して、この問いかけを機にそそくさと帰っていった。交わらざる線にも似て何も接点を生まなかった。姉小路は何かに怯(おび)え、早々に切り上げたようだった。

 長行は、姉小路に外国事情を聞かせる機会がすんなりとは得られないと思い知った。この上は、姉小路がどうしても勝の船に乗らざるをえない状況を作り出し、船上、勝から話をさせるのが一番だと、思いにふけった。

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」十二節「冬の海にて」(無料公開版)

 

 

 

 

十三 十万ポンドの斬撃 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 長行が京都で仕事を終え、ようやく大坂に戻ったのは二月朔日だった。翌日夕方、長行は、今度、宿館とした西本願寺、北御堂に勝を召した。長行は、つい数日前に京都で秘密にしつらえた場所で姉小路と密談を持ったことを勝に伝えた。

 長行が姉小路と話す場をもてなければ、姉小路がいやでも順動丸に乗らなければならない事態を作り出すしかない。長行は何と言っても老中格。遠い親戚とは言え、姉小路に警戒されても無理はない。

「船上、勝さんに説いてもらうよりほかないね」

 そろそろ、英国が生麦事件の始末を言ってくる頃で、長行が横浜で交渉に当たる日も間近い。長行に時間がない。

 京都では急進派が天誅を叫んで斬奸相次ぎ、凄惨な状況である。京都守護職の松平容保は千名の手勢で一気に下手人を捕縛するわけにもいかず、力づくの策を用いられない幕府の苦しい立場を勝に伝えた。志士を自称する長州、土佐あたりの輩が急進派公卿としめし合わせて事を起こしているのが実態だった。

 長行は勝と京都情勢、英国事情、幕府の備えなど広く意見を交換した。勝は、このあと、春嶽公にも呼ばれていると言って、帰っていった。

 

 勝は小笠原長行と近づきになったことを幸運だと思った。長行と肝胆相照らし、託された課題について一人考え、策を練ってきた。いかにして攘夷急進派の公卿に世界情勢を説くか、である。その場になれば、欧米の軍事力を実感させ、攘夷がいかに愚かしいかを一気に納得させるつもりだった。

 急進派をもって任ずる若手公卿二人に、英国艦隊から砲撃を加えられた江戸市中の惨状を間近に見せるのは無理としても、江戸の台場で幕府の迎撃体制の検分を頼み、大砲試射の場に立ち会わせる案を考えた。

 ――攘夷を強いた結果がどんなことになっちまうか、わかろうというもんだぜ……

 二人を江戸に呼んですぐ来る筈はないが、布石だけは打っておくかという気になった。

 

 文久三年(一八六三)二月八日、長行が兵庫から大坂に戻った直後、速やかに京都に上るよう達しが届いた。順動丸から下船しわずかな時間で宿館に戻って仕度し、すぐさま、八軒屋の船着場に急行した。

 借り切った三十石舟に家臣とともに乗り込んで、夜の早舟の中、疲れきって長行は熟睡した。翌朝、目醒めれば、伏見平戸橋の船着場だった。席の暖まる間がない。

 多忙とは有能の別名と信ずるのは、慶喜と春嶽だった。重要な仕事ほど多忙な者に命じる。特に長行に政略的に重要な仕事が集まったのは当然のことだった。一方で、長行は勝の協力を得ながら、短期間のうちに兵庫の台場建設予定地を検分し用地を確定した。

 長行は大きな方針を明らかにして、下僚の勘定奉行、外国奉行、目付などを担当にあて、てきぱきと人事通達を発令した。下僚に才覚を自由に揮(ふる)わせる水際立った采配だった。誰もが生き生きと仕事に集中した。これで、政略に関する老中の仕事に傾注できると長行は思った。

 文久三年(一八六三)が明けると、政事総裁職の松平春嶽は勝の操艦する順動丸で海路、大坂に至り、二月四日、京都に到着。そのまま二条堀川の藩邸に入った。将軍の先遣として京都守護職の松平容保(かたもり)、将軍後見職の一橋慶喜(よしのぶ)、老中格小笠原長行(ながみち)はすでに京都にあって、山内容堂、伊達宗城、徳川慶勝ら大藩の藩主が続々と京都に集結した。将軍に供奉して、近く老中板倉勝静、水野忠精が合流すれば、幕府そのものが京都に移転したのも同然である。

 正月の時点で、将軍家茂は、海路、上京する計画だった。そのころから英国軍艦四隻が神奈川に来航し、来意を明らかにしないまま碇泊を続け、生麦事件の賠償問題に不気味な圧力をかけ始めた。

 順動丸に将軍の臨御を仰いだはいいが、大坂に向う海上で英艦隊に包囲され将軍の身柄を押さえられでもしたら、政権を揺るがす恥辱になりかねないと懸念された。幕府は、海路、将軍を京都に送り出すことを躊躇し、悩んだ末、海路計画を中止した。

 前年末、朝廷は国事御用掛をあらたに設置し上級公卿を任命した。狙いは穏健な公武合体を目指すためだったが、江戸から帰ったばかりの三条実美、姉小路公知ら少壮急進の尊攘急進派公卿によって手ひどく攻撃された。

 朝廷では、攘夷論によって幕府を追い詰めようと考える急進派と、公武合体で幕府と協力的にやっていこうと考える国事御用掛の間で表立った政争がいよいよ激しくなった。長州、土佐の尊攘急進派らによって、公武合体に賛同する公卿はさまざまな恫喝を加えられ、目をそむけたくなるような天誅事件が頻発した。

 京都が攘夷と公武合体を巡って大騒ぎするさなか、将軍家茂は二月十三日、江戸を発向し陸路京都を目指した。寛永十一年(一六三四)、三代将軍家光が三十万人を従えて上洛して以来、二百三十年ぶりのことだった。十四代将軍家茂は三千人を引き連れ、家光の百分の一の規模で質素に東海道を行った。

供奉に立つのは、高松、津山、福井、明石、加賀、薩摩、仙台、熊本、福岡、広島の十侯にとどめ、他に講武所の三大隊、八王子千人組の三百余人を随(したが)えるのみだった。それでも、七十万両を要し幕府には重い負担だった。

 

 二月十九日、英国軍艦八隻があらたに横浜港に集結した。英国東洋艦隊の十二隻が静まり返って碇泊する無言の圧力は強烈だった。予告通り、英国公使館のおかれた東禅寺で、英国政府の訓令に基づき、英国代理公使エドワード・セント・ジョン・ニールの書状が英国書記官によって外国奉行に手渡された。

 書状には、生麦事件の下手人を処刑し十万ポンドの賠償金を支払うよう厳しく求めていた。家茂が京都に向けて出発した六日後のことで、江戸の留守を任された老中だけでは、到底、回答のしようもなかった。

 公使オールコックが日本を離れているこの時期、ニールが代理公使を務めている。かつてスコットランド歩兵連隊に所属してポルトガル、スペインを転戦し、一八三七年(天保八年)、陸軍中佐に昇進したところで、一転、退役して外交官になった。

 それから二十五年、文事だけでなく軍事にも目配りの利く老獪な外交官となって極東(ファーイースト)の外交を見据えていた。半年前、生麦事件当夜、同胞を斬殺されたことに激昂した横浜の英国商人をなだめ、叱りつけて、保土ヶ谷に宿泊した島津久光一行を攻撃しようとする動きをついに抑えきった。

 軍艦搭乗員を陸に上げ、仮編成の陸戦部隊が深夜、保土ヶ谷の薩摩藩一行の宿泊地を攻撃すれば、どのようなことになったか。おそらくは英国水兵の多数が薩摩示現流によって、月明の中で斬殺されたであろう。英軍水兵が夜間の陸戦で薩摩藩精鋭七百を破れる道理がなかった。英国の名誉と国益のためにこの判断は実に正しかった。ニールとはそんな男だった。

 ニールは書状の中で、回答期限を二十日以内と切って寄越した。三月八日までに明確な要求受諾の回答がなければ、横浜港の艦隊司令官は、要用と思うところの処置をほどこす用意があると不気味に警告するのを読んで、留守を預かる幕閣は慌てふためいた。

 とるものもとりあえず、使者を立てて将軍一行を追わせ、使者は駆けに駆け抜いて、二月二十三日、掛川で将軍一行に追いついた。老中板倉勝静は、京都にいる将軍後見職の一橋慶喜と政事総裁職の松平春嶽に相談するとして江戸の使者に回答を与えなかった。

「とにかく、なんとしても時間を稼ぐのじゃ。決して英国に回答してはならん」

 回答すべからずと明確に厳命し、即刻、使者を江戸に帰した。

 生麦事件の賠償問題は、払う、払わないの話に止まらない。攘夷実行問題と関わって、攘夷の立場からは払ってはならない金だった。攘夷か開国かの話と錯綜し二転三転することが予想された。

 朝廷からは、支払うことまかりならん、と強く止められるに決まっている。江戸から、賠償金を支払わなければ江戸が英艦の砲撃を受けて焼払われると悲鳴が届けば、どうするか、誰もが尻込みする決断を迫られる。

 ――薩摩の奴らめ

 幕府は、心底、久光のやり方を憎んだ。

 

 三月朔日、将軍一行は近江の土山に到着した。ここで、長行は将軍を出迎え、即刻、お目見えを許された。家茂は、長行に会うことが嬉しくてたまらない様子だった。長行はあつい信頼を寄せられることを自覚し心から嬉しかった。

 三月四日、七ツ半時(午前五時)、挟箱(はさみばこ)が大津を発し程なく将軍が続いて、最後の行程が始まった。長行は山科安祥寺で休憩を取るよう予定を組んであった。行路中、密偵が立戻り、この日、朝廷が伊勢奉幣使を派遣することを伝えてきた。この一行に京都の街中で出会えば、道を譲れだの、勅使に敬意が足りぬだの、また面倒なことを言われかねない。

 長行は、休憩を中止して道を急がせ、五ツ時(午前八時)、将軍は京都二条城へ早々と到着した。道中、何事もなかった。もはや徳川の盛時ではないことを、将軍はじめ、供の誰もが知った。後日、伊勢奉幣使をこの日に派遣したのは、案の定、将軍の行列に言いがかりをつける公卿の策謀と知れた。

 

                          *

 

 長行は、砲台建設の大枠を決めて一段落をつけると、京都に詰めることが多くなった。慶喜や、板倉、水野の両老中に、その実務能力を頼りにされていると自覚した。

 横浜に居座る英国艦隊を背景にニールの恫喝外交がいよいよひどくなって、江戸留守居の老中から悲痛な報告が次々と京都に届いた。人一人死んで、一万ドル即ち六千七百両も出せば、世界相場で相当に誠実な賠償と見做(みな)されると長行は相場を知っている。

 生麦村で一人を斬殺、二人を負傷させた事態に十万ポンド・ステルリング(四十万ドル)、これに加えて前年の東禅寺事件の一万ポンド、合計十一万ポンド即ち四十四万ドル、邦貨にして二十七万両を幕府からむしり取ろうというのだから、英国外務大臣ラッセル卿の厚顔もなかなかであると見た。

 ――ニールにしても、それほどに取れるものかと不安に思い、よほど心して掛かっているのではあるまいか

 長行は、交渉の狙い目を必死に探した。

 

 文久三年(一八六三)三月二十三日、長行は、直ちに江戸に戻り英国と交渉に付くよう慶喜の命を受けた。慶喜は、もはや、いつまでも、長行を京都で留めてばかりもおれぬと思ったのであろう。留めてきた今までと打って変わって、急げと言いたげだった。

 そもそも、長行は生麦事件の外交折衝で対英首席交渉官に当てるために幕閣に取り立てた者である。そろそろ本来の任務に戻さなくてはならないはずだった。命を受けた長行は、早速、帰還の準備にかかり、大切なことが一つ残っているとあらためて思った。

 長行は京都を発つ直前、将軍及び将軍後見職の慶喜に宛てた意見書を老中らに提出し、残る一つを成し終えた。上書末尾に、くれぐれも攘夷を実行してはならないと度胸よい表現で言い置いた。幕閣要人に釘を刺したということだった。

 

    恐れながら、天朝御一念の御誤(あやま)りより、万民を御苦しめあそばされ候を、よそに御覧あそばさ
    れ候
(そうろう)ては、実に不忠この上なく、御尊崇を失はせられ候第一と存じ奉り候。朝命にさえ候(そう
      らえ)
へば、利害得失をも計られず、ひたすら御遵奉(じゅんぽう)あいなり候ことは、所謂(いわゆる)、婦女
    子の道にして、御職掌に叶
(かな)はさられ候御処置とは決して存じ奉らず候。

 

    天皇ご一念の誤りから万民を苦しめることを、幕府がよそごとのように見ているのは、実に不忠この
    上ないことであり、天皇への尊崇の念を失わせる第一のことです。朝命でありさえすれば、利害得
    失も計らず、ひたすら遵守するというのは、いわゆる女子供のやり方であり、職分にかなった処置と
    は、到底、思えません。

 長行はよくよく説いた。

 天朝御一念の御誤りとは、よくぞ大胆に言ったものよと、目にした者皆が衝撃を受けた。攘夷派にでも聞こえれば間違いなく大騒ぎになる字句であろうに、朝廷を憚(はばか)らざる剛直の言い回しで正論を述べてあった。

 天朝御一念の御誤りとは、世界を知らず、世間を知らない思い込みの大誤解から生ずるのだから、幕閣に世界情勢を説く機会を与え、朝廷がその話を聞きさえすれば、攘夷の愚が直ちに理解されるはずだという思いがいかにも滲みでていた。

 叡慮だ、勅命だ、との名分のもとに、幕府がそのまま愚令を実行することは不誠実だと手強く批難し、為政者のとるべき心構えを示して将軍、ひいては幕閣を激励した。

 長行はさらに書置きを続けた。

 攘夷が無理だという理屈(ことわり)を深く考究し、速やかに、勇気を振るって天皇に諫奏し、攘夷をやらないように祈るのみです。万々一、諫奏したために、かえって宜しくない事態におちいったとしても、この機に臨んでは、もう、そのようなことは気にせず、攘夷を実行することによって起きるかもしれない戦争から、ただ、民の命を救い、国の存続を保つ大義に着眼して、断然たる態度でご処置をなし、天皇を尊崇する真意が天皇のご事績に現われるようにありたいものです、と結んだ。

 勅命だからと言って、内容も考えず守ればいいというものではない、それは、国を滅ぼし、国民を死なすことになると血を吐くような思いが籠められていた。誤った勅許などは受けるに値しないと聞こえる。長行にしてはじめて言える言いがたい真実である。

 長行は、自ら勇断し天皇に諫奏つかまつる覚悟を決めたと、老中らがこの書状から読み取れなくても無理はないと思っている。長行は胸中深く固めた大胆な決意を、このような書置きにさりげなく残した。

 長行はかように書きおき、三月二十五日、京都を出立し、陸路、東海道を下った。

 

 

 

 

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」十三節「十万ポンドの斬撃」(無料公開版)

 

 

 

12節二章「冬の海にて」
13節二章「十万ポンドの斬撃」
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