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二 双葉より臭う 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照する

 

 明和五年(一七六八)十月十七日、ついに、近き内に上様が日光山に御詣(もうで)あるべしと幕臣に布達され、将軍直々の御言葉が伝えられた。もう後には引かないという宣言だった。家治が意次に言ってから一年以上もたっていた。

 十一月十五日、水野豊後守忠友は五千石の加増を賜り勝手掛若年寄を命じられた。水野は一万三千石の大名となった。

 水野は宝暦十年四月朔日、間もなく将軍となろうという家治の御側御用取次となって以来八年間、意次の指導の下に実力をつけてきた。目から鼻に抜けるような優秀な男で、実務に精通していた。このとき脂の乗り切った三十八歳、野心を爽(さわ)やかに隠す術(すべ)を心得ていることを意次は高く評価していた。

 将軍の日光社参に反対する有力老中は、勝手掛老中松平武元(たけちか)。勘定奉行をその支配におくが、かといって勘定所の実務に精通しているわけではない。武元と勘定所の間に割って入り、実務の面から勘定所を日光社参に向かわせる人物を意次と家治は窃(ひそ)かに選び抜き、幕閣に送り込む一手だった。

 

                              *

 

 今年も年の瀬に至り、一橋家の家老としてそろそろ仕事を納める日が近いと思った。田沼意誠(おきのぶ)は日々の上申とは別に、年四回、季節の終わりに必ず、主君と雑談を交わすことにしている。

 奥座敷で主君を待つ間、冬枯れた庭に目をやると、植木は綺麗に刈り込まれ、大きな庭木に雪吊りが設(しつら)えられて立つのが見えた。意誠は、己が手配させた植木職の棟梁が今年もいい仕事をしていったと納得するかのように、時々、軽く頷(うなず)いて静かな庭を眺めた。

 廊下から遠く摺(す)るような足音が聞こえてきてからしばらくして、襖が開き一橋治済(はるさだ)が入ってきた。  一橋家当主で十八歳。意誠が一橋家の家老となったとき、九歳の幼童だった。

 父一橋宗尹(むねただ)が亡くなり家督を継いだのが十四歳。以来、足掛け五年、意誠は家老として一橋家の若い当主を補佐し、訓導し、御三卿の家の役割を説いてきた。昨年の師走四日、京極宮公仁(きんひと)親王の姫、在子十二歳を正室に迎え、飯事(ままごと)のような夫婦となった。丁度一年が経って、若当主も少しは成長したようだと、意誠は嬉しかった。

 衣擦れの音がして上段之間に上ったのは、妙に老成した顔つきの小柄な青年だった。意誠は平伏し、主君の着座するのを待って時候の挨拶を述べた。人を逸(そ)らさぬ物慣れた言い方が直ぐに、意誠に返ってきた。

「時の立つは早きもの。前回から季節が移り、また何ぞ、おもしろき市中の話など聞かせくれるかと、この日を待っておった」

 三月(みつき)ごとの雑談を楽しみにしていたと言うのは若い割には嗄(しわが)れた声だった。なにはともあれ、大名として如才なく受け答えができるまでに成長して、よかったと意誠は思った。

「まずは、越前福井藩の話からにいたしましょう。騒ぎから九か月がたち、城下も落ち着いているようで、重富様のもとで藩士が藩財政の立て直しに懸命になっておるよし、書状で報せて参りました」

 福井藩では、三月、破れ笠蓑(かさみの)をまとった異様な風体の百姓七百人が城下に乱入し、米をよこせと豪商宅を打ち毀(こわ)す騒ぎがあった。その前月、藩主の帰国費用にあてるためと称し御用金一万五千五百両を藩内に課したことがきっかけだったともっぱらの噂だった。

 打ちこわしから、あっという間に一万人を超える騒ぎに発展し、手のほどこしようがなくなった。藩は、御用金の免除だけでなく、困窮者へ米を配給すると約束させられたあげくに、郡代、奉行、目付など藩役人を処分し、一揆側はお咎めなしとして、辛うじて騒ぎを収めた。

 福井藩には屈辱だった。藩主は、一橋家から養子にいった重富、二十一歳。騒ぎ以降、実家の一橋家に福井藩の財政上の苦しい内情を伝えてきた。

「さようか。そのうち助けて欲しいと言ってくるやもしれぬ。されど、ほどほどにせよ」

「そうなれば幕府と相談いたし、当家の掛かりが嵩(かさ)むことにならぬよう図りまする」

 治済(はるさだ)は養子に出た三歳違いの異母兄に冷淡だった。兄は贅を尽くした行列で国入りしたかったのであろうよ、と見透かしたように、ふん、と鼻先で笑った。これを見て、意誠は状況説明の責を果たしたとみなし、早々に話題を切り替えた。

「この四月に発行された真鍮四文銭の評判が聞こえ始めました」

「そうか、どのようじゃ」

「悪(わる)うはありませぬ」

「ほう」

「近頃、市中では、諸色の値を四文、八文、十二文にする動きがありまする。真鍮四文銭で払いが便利なようにでござる。例えば、放生会(ほうじょうえ)の亀は一匹四文、鳩一羽十二文となりました」

 意誠は、菩薩行の善行を積むため、放生会に放(はな)してやる亀と鳩の値に触れた。

「四文(よんもん)は 泳ぎ十二文は 飛んでゆき。町で聞いた川柳でございます」

「ふふ。おもしろいのう。うまく詠んであるではないか」

「砂糖水が一杯四文。風呂賃八文、そば一杯十六文、髪結いが三十二文となり始めました。串団子は、これまでの一本五個五文が四個四文に改められました。広く使われ、みな真鍮四文銭で簡単に支払うのでございます」

「わっはっは。そなたの兄は遣(や)り手よの。町人どもの心の内を見通しじゃ。銭などは、広く使われれば使われるほど便利になり、それが即ち、勝ちというものじゃ」

「兄ではなく、勘定方の智恵でござりましょう」

「その敏なるをもって、そなたの兄は御側御用取次から御側御用人に昇進し、従四位下を賜ったそうではないか。城持ちの列に加わり相良(さがら)に城を構えるお許しも頂戴したとか。たいしたものだと思うがの」

「畏れ入りまする」

 治済は、先年七月、意次が昇進し加増を受けて二万石の禄高になったことに触れた。

「相良では城普請が始まったのか」

「一年足らずで準備を整え、今年四月、いよいよ鍬入れに及んだと聞いております。兄は江戸を離れるわけにいかず、家臣を遣(つか)わし差配させておるとか」

 意誠は、治済が事あるごとに兄意次に強い関心を向けることに気付いていた。意次の動きを通して幕政を理解しようとするかのようだった。

「して、四文銭はなぜ真鍮なのじゃ。銅には、せなんだか」

 意誠は、治済が話を元に戻し、四文銭の素材を聞いてきたことに驚いた。

「真鍮ですから亜鉛を混ぜてございます。近頃、銅は、長崎で異国の諸品買入れに多く用いるゆえ、不足気味と聞き及びますれば、節約したのございましょう。とはいっても銅七分の品位があり、まずまずの銭でございまする。色目は黄金にも似て、銅よりよほど綺麗に見えまする」

「三年前は新しく五匁銀を出し、今度は四文銭か。そなたの兄はいろいろ考えるの」

 その問いかけに、意誠は黙って懐を探り、主君のために見本二枚を取り出し、懐紙に載せて進めた。

「ほう。これは、たしかに美しい。小判に似た色目じゃ。裏は青海波(せいがいは)の文様だの」

「されば、波銭とも呼ばれます。波は歯に通じ歯痛(はいたよ)けになるという迷信まで広まってございます」

「はっはっは。勘定方も喜んでおろう。一枚一文の寛永通宝にくらべ、同じ量の銅で四倍の価(あたい)じゃ。人気がでれば世に広く出回って、幕府の智恵者は笑いが止まるまい」

 治済が、名門の頂点に立つ貴家に育っていながら、貨幣価値と発行益の関わりについて知った風な口を利いたのには、意誠(おきのぶ)も再び驚いた。

 ――名望を極めた貴家の出でも、こうした理屈を知らなくてよいはずはない。歌学じゃ、有職故実じゃと  変に公家趣味に凝らぬところが殿のお強みか

 意誠は、時に、下世話に通じた所を垣間見せる主君を嫌っていなかった。

 ――このお若さで、紛(まぎ)れもなく俗臭のお人柄である。鋭(すすど)い俗物とでもいうところか。抜け目ないところがおありなさる

 ――幕府の政(まつりごと)にもそれなりに目を配られておわす。公家趣味の芳(かんばし)さを香らせるというより、俗物の腥(なまぐさ)さを臭(にお)わすほうが御家のためにはよほどましかもしれぬ

 意誠が少し考え込んだところに、再び治済の言葉が降ってきた。

「公儀の幾種もの貨幣の価(あたい)はどのような関わりになるのか」

「されば普段の相場で申しますと、例えば小判一両を二十万の価(あたい)とすれば、一分金は五万価となり、三年前に出た五匁銀は一分金の三分の一ですから一万六千六百六十六価でございます。新しく出た真鍮四文銭は二百価、昔からの一文銭は五十価に相当いたします。これが当今五種の貨幣の価(あたい)比べにございます」

(註 中断するようだが、二十万価を二十万円と読み替えていただければ、現代の感覚に近づく)

「ふむ。〈民は便利に勘定方は、懐(ふところ)さすり主殿(とのも)(え)む〉とでも言うところか。智恵者がおって、幕閣も捨てたものではないの」

 都都逸(どどいつ)調に相槌を返すあたりは、俗に落ちたと言うべきだが、若気の客気と見逃すことにした。それより意誠は、若き主君が一端なりとも貨幣政策を理解していることに感心した。己以外にも、多くの家臣から、いろいろ聴いているのだろうと、主君の好奇心を高く買った。

「それはそうと、今日は、田安の豊丸のことを、も少し詳(くわ)しゅう聞こうか。たしか、先々月のことよのう」

 意誠は、案の定、この話を所望されたと思った。治済の俗臭が最も聞きたがる話柄に違いない。長くなるから最後にしようと思った話を先に治済のほうから振ってきた。

「殿はよくご存じで……。そもそも十月二十七日のことでしたが、上様が、田安家の豊丸様十二歳を松平隠岐守(おきのかみ)様の御養子に出すよう仰せになりました。隠岐守様はお願いを聞き届けられ、たいそうお喜びだったとか」

「伊予松山藩十五万石の口じゃな。久松松平家の中で定勝の流れを汲む家なら、豊丸の養子先として立派なものじゃ。田安の伯父御もお喜びであろ」

 治済が松山藩に限らず、諸大名家の系譜や縁戚関係だけでなく、家の内実にも詳しいことを意誠は気付いている。

「すでに当家から、相応の祝いの品々をお届けいたし、田安からも内祝いをいただいておりまする」

「ふむ。松平隠岐守は定静(さだきよ)といったかの。狙いは何であろうの。家格か、官位か、金の無心か」

 治済は賢い俗物だけあって、今回の養子縁組は、松平定静に何か狙いがあって田安家に申し出たと考えたようだった。御三卿は将軍の家族とみなされ、縁を結べば、それなりに幕府から厚遇されることがある。

 現将軍家治には嫡男竹千代がいる。側妾腹(そくしょうばら)だが、正室五十宮(いそのみや)倫子(ともこ)の許で養育され七歳に育った。竹千代に万一のことがあっても、徳川宗家の継嗣候補は、田安家では治察(はるあき)十六歳、豊丸十二歳、賢丸(まさまる)十一歳、一橋家では治済十八歳、清水家では重好二十四歳らが考えられる。五人もいれば、豊丸一人くらい他家に養子に出してもよかろうとでも、将軍か幕閣か側衆かが判断したのであろう。

「この話を進めたのは誰ぞ。老中どもか、側衆の者か。定静(さだきよ)が初めに願い事を持っていったのは誰ぞ。そなたの兄か」

 意誠は、治済から矢継ぎ早に下問された。一橋家では、長子が五歳で越前松平家に養子にだされ、養家先で若くして死んだ。そのあと、一橋家継嗣だったにも関わらず次子があらためて越前松平家の養子に出された。養家先で空いた穴を一橋家次子が埋め、一橋家継嗣の空(あ)きに次々子を繰り上げた。

 順送りで治済が一橋家継嗣になり、この家では年長順に養子に出されるかと見えたが、次に養子に出されたのは、治済の弟、十二歳の隼之助だった。養子先は福岡藩黒田家、四十七万三千余石。

 ――あの時、先代の殿は治済様を残し、弟君を他家に出された。治済様こそは一橋の御家を隆盛に導くに違いないと先代の望みを託された御方なのじゃ

 意誠は、宗尹(むねただ)の人を見る目を思い出した。一橋家を継げるとはっきりするまで、治済は、いつ養子に出されるかわからない不安を抱えて少年時代を過ごすのを見てきた。田安の豊丸の養子話が他人事であるはずはなかった。

「当然、老中首座の松平右近将監様には真っ先に話がいったでしょう。他の老中方にも相談が行き届いていたはずです。どなたかお一人が積極的に話を運んだというわけではございますまい」

 意誠は当たり障りなく治済の問いに答えたが、主君の顔に納得した表情を見い出せなかった。治済の知りたがったのは、この養子話の決定に誰が重要な役割を演じたかであり、もっと言えば、幕府内部で誰が真の実力者かということだろうと分かってはいた。

 意誠は、一橋家当主が幕府権力の機微に強い好奇心を寄せるあまり、政治感覚を研(と)ぎ澄(す)まし過ぎれば、危うさにつながると思った。手際よくこの場の話を抑えにかかった。

この家は万が一の事態にあって徳川宗家の血筋を補充すればそれでよく、普段は何もしないことを期待されている。目聡(めざと)く若い主君の好奇心を変に満たすようなことをして、危険な臭いを漂わせるのは一橋家家老として控えるべきだった。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第三章「栴檀の棘」二節「双葉より臭う」(無料公開版)

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