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六 長崎出島外科館 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照
 

 嘉永元年(一八四八)夏、楢林宗建は、牛痘漿を日本の子供に接種する場に立ち会った。新たに赴任してきた商館医オットー・モーニケがジャワから持ち込んだ牛痘漿だった。そして、十一日後、今まで同様、どの子も発痘しないことを確認した。相次ぐ失敗だった。もう一回頼んで、来年の夏に持ち込まれた牛痘漿でも失敗したら、どうなるか。

 ――今度こそ諦めるしかなか

 宗建はさすがに追い詰められた思いだった。ブロンホフが文化十四年(一八一七)以来、何回となく牛痘漿を長崎に送るよう手配し、悉(ことごと)く失敗してきた苦闘を思い出した。

 夏の暑い海を一か月以上も航海し、その間に牛痘漿は失活する。宗建もそう考えるしかなかった。幾日も考え、これが最後かと切羽詰まる思いで、これまで書かれた書物をあちこち繰(く)った。ある頁を見て思わずはっとした。

 それは緒方春朔の書いた『種痘必順弁』で、もう五十年も前の書物だった。痘痂を挽(ひ)いてその粉末を鼻に吹き入れる手順のあとに、痘痂は患者の発症から十一目に採取し、陶製の密閉容器に入れて冷暗所に保存すると書かれてあった。そして、痘痂を保存できるのは冬で五十日。夏では三十日しかもたないと注意を発してあった。

 それは、『種痘必順弁』をあらためて読むまでもなく、宗建もよく知っていた。痘痂は夏には三十日しか持たない。ということは、宗建は考えた。

 ――夏でも三十日は持つんやなかろうか

 膿漿より持ちがよいかもしれない。ぎりぎり一(ひとつき)で長崎まで航海できれば、失活寸前であっても、まだ活性を残す痘痂が届くかもしれない。

 ジェンナー以前、オランダ始め、ヨーロッパの国々では、膿漿を腕に刺すトルコ式種痘しかやらなかった。支那式の痂皮粉末を鼻に吹き入れる方法を用いず、だからこそ、ジャワのオランダ人医師は痂皮を牛痘苗に使うことに思い至らなかったに違いない。

 宗建は、牛痘苗を依頼する立場に立って、初めて気付いた。日本では、膿漿でなく痂皮こそ牛痘苗にふさわしい、そう確信した。

 ――ばってん、どがんなるか、わからん

 わからなくても、外に道はないと腹をくくった。

 

 嘉永二年(一八四九)三月十五日、玄朴は、幕府から示達が出たのを知った。再び漢方医にしてやられた敗北感は抑えようもなく、悔しさの余り唇を噛んだ。

 ――近来、蘭学医師が追々と増え、世上でも信用する者が多くあると聞く。蘭方は風土が異なる彼の地で効くだけであり、日本では効かない。御殿医が蘭方を用いることを禁ずるので、堅くこれを守るよう。ただし、外科、眼科は蘭方を用いても苦しからず。

 この公布で、蘭方医学は風土が異なるため日本人には効かないと断じていた。どこかで聞いた噺と同じだった。

 それだけでない、蘭医書の翻訳刊行の許可は天文方が審査することになっていたものを、再び、医学館に戻すと命じてあった。綱引きをしているようだった。

 蘭方禁制は、江戸城の奥医師、表医師に宛てたもので、町医者は対象ではない。玄朴も町医者でやる限り蘭方で問題はない。しかし、奥医師になって将軍とその家族を診察する権威から遠ざけられた以上、医学界で漢方の下風に立たざるを得ない。いつか再び、蘭学壊滅の危機に陥(おとしい)れられることさえ懸念される。

 ――漢方から蘭方ば強う圧(お)しよっと

 玄朴は、シーボルト事件と蛮社の獄を忘れてはいなかった。おそらく、此(こたび)の布達は、医学館世話役の多紀元(もとかた)と甥の医学館督事の多紀元昕あたりの工作か、と玄朴は見当を付けた。大奥か幕府要路にうまく取入って蘭方を圧迫してきたに違いない。

 玄朴は、数か月後にジャワから届けられるはずの牛痘苗が、失活せず、うまく発痘することに賭けるしかなかった。今度は、楢林宗建の考案によって痘痂が来る。今では、それが漢方の圧迫に抗する唯一の策だった。なんとしても無事に届いてほしい。

 ――どがんしてでん、見事、発痘させんばならん。宗建殿、頼むばい

 蘭方の未来がこの一事にかかっている。玄朴は祈るような気持ちで遠く長崎を思った。

 

 嘉永二年(一八四九)六月二十三日、真夏の日差しが照り付ける中、オランダ船スタート・ドルトレヒト号が長崎湾に入港してきた。慣例に従い、伊王島から中海に入り高鉾島の脇に停泊した。

 ここで長崎奉行所の検使が乗り込み、オランダ船であると確認作業に入る。終われば、出島近くまで入港を許し、人別改めを行う。積荷目録を受け取って、乗船人名簿に沿って点呼する。この手順は例年どおり、厳格に行われた。

 ただ、例外があった。オランダ人が上陸したあと、出島では炎天下、幾日にもわたって積荷と目録を照合する通常の手順は、一つの荷に限って免除された。さも急ぐかのように、素早く、一つの鞄(かばん)が長崎奉行所員の手で商館医オットー・モーニケに手渡され、外科館内に運び込まれた。すでに鍋島藩から長崎奉行に事情が説明され、許しを得てあった。

 六月二十六日、急ぎに急いだが、それでも入港から三日がたっていた。楢林宗建は気が気でなかった。ともかくも、最も急いでこの日、三人の日本人小児と牛痘種痘を見学する日本人蘭方医が出島の門をくぐった。小児二人はオランダ通詞の子で、もう一人は宗建の三男、健三郎だった。宗建は藩主鍋島斉正の命を受け、長崎奉行の許可のもと、今日この場に臨もうとしていた。

 宗建が聞かされた話では、ジャワ総督府は、前年、日本からの依頼を受け、バタヴィアのオランダ領東インド諸島医務局長ボッシュ自らが今回の牛痘苗運搬の世話役となり、直々に、痘漿と痘痂の両方を日本に向けて発送したという。

 ――阿蘭陀(おらんだ)人もようやってくるっ

 宗建はオランダ人に感謝しながら、モーニケが痘漿を二人の子に接種するのをじっと見つめた。最後、健三郎には、痘痂を粉に挽(ひ)き水に溶いて接種した。

 宗建は前年、膿漿を用いた牛痘種痘に失敗したあと、モーニケと話し合い、痘痂による種痘を提案した。モーニケが健三郎を選んで痘痂を接種したのは、宗建への友情と敬意の証(あかし)であることは明らかだった。

 十一日後、モーニケが通詞の子供の腕から繃帯を取ると、小さく切開した傷は殆ど治っていた。皮膚はきれいにすべらかで発痘を認めなかった。次の子も同じことだった。宗建は、モーニケの診療室に、次第に落胆の気分が漂うのを感じた。

 モーニケが最後に健三郎の繃帯を外しにかかった。宗建の目には、モーニケが、おそるおそる、殊更ゆっくりと繃帯を取り去るように見えた。緊張の高まる手で最後の覆い布が静かにめくりあげられた。注視の集まる中、健三郎の腕に、はっきり赤く腫れた初期の水泡が見えた。教科書どおりだった。種痘のついたのは健三郎だけだった。

 宗建は、牛痘種痘を目指した人々の努力の積み重ねを知っている。今や伝説となった蘭学の先達、馬場佐十郎がドゥーフに話を聞き、父(おやこ)して吉雄献作を訪ねたことに始まる長い物語だった。その発端から言えば四十六年、佐十郎が『遁花秘訣』を完訳してから二十九年の時が重たく経過した事実が心の中に滓(おり)のように溜まっていた。

 この月日に、佐十郎は洋々たる前途も空しく、若くして急死した。その父、為八郎は大通詞の要職にあってシーボルト事件に連座し、出羽に流罪のまま客死したと聞く。宗建は、父子がこの場に居合わせたらどれほど喜んだだろうと思わずにはいられなかった。佐十郎が『遁花秘訣』序に書いた三度の奇縁が健三郎の腕に結実するのを見てどう思っただろうと胸が詰まるのを感じた。

 その長すぎる年月は、一握りの日本人と、その熱意に応え続けたオランダ人の苦闘を意味していた。宗建は、人智を超え、国と国とが関わった壮烈な歴史が、健三郎の水泡の上に、音もなく鳴り響いているような気がした。

 宗建が我が子の水泡を見つめる内、次第に視野が潤(うる)み、はっきり像を結ばなくなった。宗建は呆然とモーニケの診療室に立ち尽くした。肩が小刻みに震えるのを如何(いかん)ともできなかった。健三郎が、不思議そうに父の顔を見上げていることにさえ気付く余裕はなかった。

 

 宗建はモーニケの協力を得て、長崎の痘瘡未感染の子供を集め、健三郎の膿漿を継代し始めた。日本で健三郎の体にしか生存していない牛痘苗ワリオラエ・ワッキーナエをここで失うわけにはいかなかった。

 モーニケは、長崎奉行に宛てて書簡を出すよう蘭商館長レフィスゾーンに頼んだ。その書簡には、九州各地から痘瘡未感染の子供と医師を速やかに長崎に集めるよう進言し、この療法を広めることが日本の幸福につながると説くものだった。モーニケからこの話を聞いて、宗建は深く感謝した。

 モーニケは、長崎から各地に痘痂を配り歩くのではなく、継代する子供を長崎に集め、子供の体で牛痘苗を各地に配ることを主張した。宗建も大賛成だった。牛痘苗を持ち運んでは失活の可能性が常に伴う。長崎は夏の盛りだった。慎重を期して、期し過ぎることはなかった。

 藩主鍋島斉正はオランダ船入港を知って、侍医の大石良英を長崎に派遣してきた。宗建とはシーボルト同門の間柄だった。宗建は大石と相談しながら、藩主へ牛痘種痘成功を報告する段取りをつけた。長男、永吉に弟健三郎の膿漿で種痘して、永吉を伴い大石とともに佐賀に向かった。 

 佐賀では、大石と宗建が藩主斉正に牛痘種痘の成功を報告した。そののち、早速、大石は、藩主斉正の御前において、永吉の膿漿を世継ぎ直(なおひろ)四歳に接種した。

 即座に、継嗣に種痘させたのは、斉正がこの療法の海外状況を知って、有効性と安全性を確信していたからだった。それだけではない。佐賀藩内で、藩主自ら領民に向かって発した命でもあった。

 ――異国伝来の療法を恐るるでない。これは痘瘡に罹らずにすむ安全な方法なのじゃ。余がなしたように、己(おの)が子に牛痘苗を植えよ

 佐賀藩主がこの療法にお墨付きを与え、他藩へも普及するよう支援する表明と見えた。

 もとより九州には人痘種痘の経験を持つ医師がかなり居た。牛痘種痘の新技術を読んで知っている医師はもっと多く居た。牛痘種痘を切望し実行する土壌は長いこと耕され、あとは種を植えるばかりとなっていた。牛痘種痘は瞬(またた)く間に九州に広がり、さらに京都、大坂に達し、全国各地に普及し始めた。

 玄朴は、佐賀藩から急送された牛痘痂を受け取り、まずはわが女(むすめ)に植えてうまく付くことを確認した。十一月十一日、女(むすめ)の膿漿を用いて、藩主斉正の長女、貢(みつ)姫(みつひめ)十一歳の牛痘種痘を成功させた。

 玄朴は、善那(ジェンナー)が牛痘種痘を公表したのが寛政十年(一七九八)だったことを知っている。己の生年の二年前だった。牛痘種痘を己の手で成功させた今、善那の発見の歩んだ道を振り返り、佐十郎の足跡に思いを馳せた。

 玄朴は、これを機に牛痘苗を分苗して種痘を広め、全国の子供を痘瘡から守れることを示したかった。漢方の圧迫を跳ね返し、逆に圧倒する日がとうとう訪れた。名声を得て、得た名声で敵をはね返す策が当たるだろうと確信した。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」六節「長崎出島外科館」(無料公開版

七 神田お玉ヶ池 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 嘉永二年(一八四九)、分苗を受けた各地の医師が熱心に牛痘種痘を実施しながら、組織を整え始めた。種痘を継続するには、接種するだけでなく、子供を通して痘苗を継代し、常に維持する必要があった。

そのため種痘を希望する痘瘡未感染児を確保し、決められた日に通院させ、継代が途切れないよう万全の体制が不可欠だった。整った施設と、現実的な運用規則と、多くの人の協力が不可欠だった。

 ひとたび牛痘苗を手にした日本人は、各地で牛痘種痘を開始し、除痘館を設立するために動き、庶民を啓蒙し始めた。たとえば、この年十月には京都で日野鼎(ていさい)らが、翌十一月には大坂で緒方洪庵らが、除痘館を設立した。嘉永四年(一八五一)には福井で笠原白翁が中心となって組織だって種痘を行う所が出てきた。

 玄朴は、各地から聞こえてくる種痘の普及を嬉しく聞いた。これらの地域では漢方医、あるいは蘭漢折衷医も種痘に積極的だった。ただし、どの地域でも、多くの庶民は種痘の意味がわからず、怖がって種痘に躊躇することを知った。そのうち牛の痘を植えることがわかると、角が生えてくるという迷信を信じて、ますます恐れ嫌うという話を聞いた。

 時がたつにつれ、医師たちはわかりやすい啓蒙活動を懸命に展開し始めた。喜んで親が子を種痘所に連れてくるようになるまで、蘭方医の地道で息の長い努力を要した。

 江戸では、嘉永二年(一八四九)十一月十八日、玄朴から分苗を受けた桑田立斎が、翌年十二月一日までの一年間で、千二十八人の子供に種痘した。大変な実績だった。以前から人痘種痘をやってきた経験がものを言った。

 嘉永三年(一八五〇)、完成から三十年を経て、佐十郎の『遁花秘訣』が出版された。ここまでこぎ着けた利(としみつ)仙庵は二十年以上も前、長崎で『遁花秘訣』の手写本を自ら筆写した。

 利光は、牛痘苗が日本に入ってきたため、いよいよこの書物が真の価値を発揮すると考え『魯西亜(ろしあ)牛痘全書』の題名で世に問うた。佐十郎の労作は広く歓迎され、五年後には再版されるに至った。 

 すでに、佐久間象山の『増訂荷(おらんだ)語彙』が医学館から出版不許可とされ、林洞海の『窊篤児(ワートル)薬性論』が留め置かれていることを考えると、 『魯西亜牛痘全書』だけに出版許可がおりたのは注目に値した。玄朴は、医学館でも牛痘種痘の広まりと効果を知って、出版を許可せざるを得なかったのだろうと思った。牛痘種痘が時の勢いを作り、不許可にできる筈がない。いい兆しだった。

 玄朴は、さまざまな筋から伝えられる日本中の種痘の動きを見ながら、策を練った。

 ――次は、医学館ん多紀家にどがん手ば打つか

 もう緩(ゆる)い手を打ってはならなかった。

 

 嘉永三年(一八五〇)十月、玄朴は南町奉行所の同心の訪問を受けた。その時、同心から見せられたのが、筆者は不明ながら、軍事関係の翻訳文の写しだった。玄朴はこの文書について尋ねられた。

 暢(ちょうたつ)した明快な翻訳文を見ると、書いた者の蘭語の力はよほど優れているだろうと、玄朴は率直な印象を語った。

「このような見事な翻訳ができるのは、高野くらいしか思いつきませんな」

 玄朴は、この発言に、同心が瞬時に顔色を変えたのを見て、奇妙に思った。何気ない玄朴の言葉が同心に何かの疑念を与えたのかもしれなかった。玄朴は、同心が出さなかった人名を己の方から口にした意味に、ようやく気付いた。

 案の定、長崎の鳴瀧塾で同門の間柄だったという理由で、同心から次々畳みかけるように、高野のことを聞かれ始めた。高野が訪問してきたことはないか、高野とはどのような付き合いだったのか、高野の暮らし向きはどうだったか、高野の消息を知ってはいないかなどと、強い関心を寄せてきた。

 同心は、高野が脱獄して逃亡中に死んだという噂があることを玄朴に伝え、そして、最後に静かに言った。

「先ほどみせた文書の原本は、ごく最近に書かれたものでのう……」

 玄朴は、同心が高野の生存を確信したことを知った。

 十月三十日、幕府の目を逃れ潜伏していた高野長英が、青山百人町の隠れ家を突き止められ、捕吏に囲まれて自決した。享年四十七歳。蛮社の獄が始まって十一年が経っていた。

 玄朴は、図らずも、己の些細な一言によって、尊敬と妬(ねた)みと反感の入り混じる奇妙な宿縁を酷(むご)く断ち切ったなどと思う間もなく、多忙な日々を過ごした。ただ、高野の件が、再び、蘭学排除の機運を高めるきっかけにならないよう祈るだけだった。

 

                          *

 

 嘉永六年(一八五三)六月、ペリー提督が米国東洋艦隊四隻を率い浦賀に来航した。それまで、多くの異国船が日本に寄港するたび、幕府は説諭しておとなしく引き取らせていた。この度、江戸の町では

 ――今度ばかりは、そうもいくめぇ

 もっぱらの下馬評だった。異国船は大砲を撃ったという噂まで飛び交った。

 玄朴はこの種のことに高揚できない質(たち)で、江戸の町で噂される浮薄な緊張感をよそに、黙々と診察をこなして過ごした。異国人をことさらに怖がるような素振りは、長崎鳴瀧塾仕込み、シーボルト高弟の名が廃(すた)るというものだった。

 十月晦日(みそか)、勘定奉行勝手掛の川路左衛門尉(さえもんのじょう)(としあきら)、大目付の筒井肥前守政憲ら一行が老中代理の格で長崎に向け、江戸を出達した。米国のペリーの次は、ロシアのプチャーチンなる者が軍艦で長崎に乗りつけ通商を申し入れてきたので、その交渉に向かうという。レザノフから四十九年ぶりにロシアが来日した。町の評判の高かったかつての長崎奉行、江戸南町奉行が今や大目付になっていた。

 川路のたっての要請で、一行に箕(みつくり)(げんぽ)を加えてよいと幕府の許しが下りた。蘭語の語学力と世界情勢に通じた見識がかわれたものらしい。玄朴が表向き、訳者になっているものの、箕作は『医療正始』の翻訳に深く関わっていると見られ、高い評価を受けていた。

 箕作はもともと医者だったが、開業した家が火事で焼けたのを機に、喘息持ちであったため医業を断念した。この頃は翻訳一本で活躍する気鋭の蘭学者だった。

 最近、蘭方医が各藩の上屋敷に往診に行くことが増え、諸侯と深い付き合いを持ち始めた。玄朴にしても、宇和島伊達家の姫に人痘種痘を施しただけでなく、請われて、藩主正室の侍医にもなった。近江三上藩遠藤家とは、若年寄を勤める藩主の母堂の主治医を勤める間柄である。こうして諸藩、諸侯と蘭方医のつながりが強まるにつれ、諸藩の消息が聞こえてくる。

 それが、幕閣、幕僚となるとそうはいかない。江戸蘭方医は天文方を介して幕府とつながりがあるが、幕閣、幕僚と関りがあまり濃くなかった。玄朴にとって、漢方と競(せ)り合うと心に決めた以上、これが悩みだった。箕作が数カ月にわたって川路と行を共にし、ロシア使節との交渉で川路を助けることは蘭学者にとってこの上ない朗報で、玄朴が喜ぶのは当たり前だった。

 

 牛痘種痘は全国に広まり始め、大きな町では除痘館の設立が相次いだ。ただ江戸だけがそうではない。    

なにぶん漢方医の政治力が強い。

 ――種痘ん普及から取り残されてしもうた

 玄朴は悔しがった。江戸には種痘施設が未だに設立されず、組織的な運営ができない。医者個人の種痘活動には限界があった。

 漢方医の政治力の根源は医学館だった。ここが漢方医の牙城で、本家の多紀元昕と分家の楽春院多紀元堅(もとかた)、それに為春院辻元崧(すうあん)の蘭方嫌い大立者三人が傲然と控えている。玄朴は迂闊(うかつ)に手を出せず、様子を見続けるしかなかった。

 安政四年(一八五七)二月三日、江戸中に大雪が降り積もった。雪はしばらく融けず、道が凍り付いて難渋する頃、感冒が流行し始めた。二月十三日、浜町元矢ノ倉の多紀家で、当主の多紀楽春院元(もとかた)が歿した。享年六十三歳。家斉(いえなり)、家(いえよし)家定の三代の将軍に仕えた御匙(さじ)医で、医学館世話掛にして、督事の多紀元昕を助け、考証派漢方医の巨魁だった。目立たぬように大奥を動かし、将軍に言いなし、蘭方を陰で圧迫し続けた人物だったと玄朴は疑わなかった。

 三月六日、今度は為春院辻元崧庵(すうあん)が歿した。享年八十一歳。蘭方医を派手に罵(ののし)った逸話で市中に知られ、長い耳毛で有名だった。医者にしておくのは惜しいと言われたほどの漢詩の巧者でもあった。本家、分家の多紀家を支えて医学館講書として枢機に関わり、医学館と漢方の隆盛に尽くした長老だった。

 種痘所設立の構想を練っていた玄朴が、この好機を見逃すはずはない。漢方の二大巨頭が歿し、一方で、蘭方による牛痘種痘が各地で広まりつつあった。ただ江戸だけで広まらない。

 玄朴は、いよいよ動き出した。親交篤い大槻俊斎と何度も会って、確固たる基盤を作らなければ蘭学の発展はないというところから構想を語り始めた。

「江戸にまずは、種痘所ば作って牛痘種痘を広むっとが大事じゃ。ここを拠点に蘭方医学を若い者(もん)に教授し、人材ば組織的に育つっばい」

「賛成じゃ」

「牛痘ん入ってきたんじゃから、これで蘭方ん優れた力ば発揮でくっとばい。漢方ん奴らん好きにはさせん力ば蓄える。」

「……」

「次いで、幕府の許可を得て人体解剖(ふわけ)を継続的に実施すっばい」

「なるほど、腑分けのう」

「腑分けこそは、蘭方ん漢方と決定的に異なる考えだけんの」

玄朴は、次々と蘭方医学教育の計画を語った。俊斎にはもっぱら、種痘普及、蘭学発展という積極的で明るい面から話した。

 玄朴は、俊齋が『銃創鎖言』を翻訳し、出版の許可まで不当に長く待たされた苦い思いを知っていた。俊斎は、当然ながら医学館の多紀家にいい印象を持たない。

 玄朴は、漢方の容(ようかい)を許さず、反撃したい。

 ――多紀家の奴らをどがんしてん、黙らせてやろうじゃなかか

 漢方医に対する暗い情熱を俊斎に語らなかった。まして、蘭方が盛んになれば、名声に伴う金が入ってくるだろうとは言わず、銅臭を少しも匂わせなかった。玄朴にとっては同じ事柄の表裏両面だったが、俊斎にはそうではなかろうと見た。

 ――裏面は、俺(おい)が呑み込んでおくばい

 玄朴なりの友情を示し、俊斎を不得手な事に引き込まなかった。

 俊斎は、陸前桃生郡赤井村の生まれ。玄朴の四歳下。江戸に出て医学を学び、長崎で蘭学を学んだ。どこに行っても秀才の誉が付いて回ったと聞く。姓は同じながら、大槻玄沢、玄幹、磐渓父子と血縁ではない。天保十一年(一八四〇)に下谷練塀小路で開業して以来、玄朴とは通り一本西の近所付き合いの仲になった。

 俊斎は、高野長英が逃亡して訪ねてきた折、身支度を助けてやり、あとで奉行所からお咎めを受けたことがある。玄朴が一切、取り合わず高野を追い返した人情とは全く違う。玄朴は、俊斎の、どこか断り切れない親切と人の好さが滲(にじ)み出たところが己にはない人徳だと思い、好いていた。

 玄朴と俊斎は、多紀元堅(もとかた)や辻元崧(すうあん)の亡きあと医学館がどうなるか、消息を聞き集める一方で、種痘所の構想を固め、同志を広げ始めた。戸塚静海、竹内(たけのうち)(げんどう)、林(はやし)(どうかい)、箕(みつくり)(げんぽ)三宅(みやけ)(ごんさい)ら有力な蘭方医が集まってきた。

 安政四年(一八五七)五月の寄合いでは、勘定奉行川路(としあきら)の拝領屋敷の敷地内に土地を借用できる見通しがたった。ここに種痘所を建てれば好都合だった。後ろ盾が川路だと明らかとなる。

 神田お玉ヶ池の元(もと)誓願寺前の拝領屋敷は、玄朴の住む御徒町からほど近い。趣旨に賛同する者から浄財を集め種痘所を建設することを取り決めた。

 箕作は、川路の供をして対露交渉を助け、幕府と川路から大きな信頼を得た。この縁で、川路を種痘所設立の支援者に担いだことが計画を力強いものにした。玄朴は箕作の働きに満足だった。

 

 この頃、痘瘡が蝦夷地のアイヌの間で大流行となった。余りの惨状を見かねて、箱館奉行村垣淡路守範正が幕府に上申書を提出した。幕府は、これを受け、蝦夷地で牛痘種痘を実施すると決定した。種痘に当たる町医を募集して桑田立斎と深瀬洋春の二人を選定し、蝦夷地に派遣した。玄朴たちは、こうした一連の動きに注目した。

 二人の種痘医は、四か月の間に六千四百人のアイヌに種痘して回り、流行を終熄させた。玄朴は、蘭方に順風が吹いたと思った。幕府は牛痘種痘の効果をあらためて理解し、蘭方の実力を認識したに違いない。

 八月、玄朴は、下谷練(ねりべい)小路の俊斎の家で有力者たちと寄合いを持って、計画最終案を煮詰めた。これを受け、月の終わりには、川路から拝領屋敷の敷地一部を種痘所のために貸地してよいか伺書が幕府に提出され、計画が公然と動き始めた。玄朴は、喜びながらも、自ら戒(いまし)めた。

 ――気ば緩めてはいけんばい

 

 十月になると、駐日米国領事ハリスが江戸に参府してきた。二十一日、ハリスは登城して将軍家定に拝謁した。

 時代が大きく動く中、十月二十七日、今度は本家の多紀元昕が歿した。享年五十二歳。医学館督事として幕府の医療行政にかかわり、町奉行とやり合いながらも、殆んどの蘭書翻訳を認めない方針を貫いた。筋金入りの蘭方嫌いだった。

 この年に入って、医学館を支える三巨頭が相次いで死んだ。医学館督事は三十三歳の多紀元佶が継いだ。三人の老獪な長老を失い、元佶の若さでは、多紀家の誇った大奥と幕閣と諸侯の人脈が一気に縮小したのも仕方ないことだった。江戸の種痘所開設の計画を陰で潰せる漢方の大立者がいるとも思われなかった。玄朴は、いい風が吹いてきたと、にんまりした。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」七節「神田お玉ヶ池」(無料公開版

八 江戸城本丸御用部屋  次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 安政五年(一八五八)四月も終わろうという頃、柳の間 に詰めていた岡(おか)櫟仙院(れきせんいん)良允は大老、井伊掃部頭(かもんのかみ)直弼(​なおすけ)に呼び出され、老中方御用部屋に急いだ。御用部屋の内座に通され、二人きりになって将軍家定の病状を尋ねられた。井伊はこの月の二十三日、大老に就任したばかり、岡は前年春、四十三歳で、将軍御匙の後任となって一年。この日、将軍主治医として初めて大老に拝謁した。

 岡は、多紀楽春院元(もとかた)、辻元為春院崧庵(すうあん)が相次いで死んだあと、十分な引き継ぎ連絡もないまま御匙の任に就いた。前任者の方針と処方をほぼ踏襲し、この日まで勤めてきた。

 就任当初、辻元が残した将軍御拝診の書付を読むと、将軍は、どことなく体に力が入らなくなり、症状が出始めたのが数年前。その後、辻元が御脈をとって、ごく早い段階から、脚気腫(かっけしゅまん)、短気(息切れ)、心腹痞積(しんぷくひしゃく)、気血凝(きけつぎょうたい)などの証を見て脚気の診断を付けた経緯を知った。その頃はまだ軽度と言ってよかった。

 書付によれば、辻元は多紀楽春院と相談しながら、九味檳榔湯(くみびんろうとう)や八味地黄丸(はちみじおうがん)を使い分け、呉茱萸茯苓(ごしゅゆぶくりょう)で利水を付けて浮(むく)みを抑えることもあったらしい。時に、蟾(せんそ)の強心作用を巧く使いこなしながら、治療を続けてきたようだった。辻元は、若い頃、『脚気集要論』を著し、脚気を得意としていたから、こうした処方はそれなりに信が置けると岡は思った。

「上様におかせられましては、まずまず御健やかと拝診仕ります」

 まずは当たり障りのない、めでた気な口上から始めることが御殿医のたしなみと考えていた。

「さようか」

 岡は、井伊から鋭い目つきで、じろりと見られるのを感じた。

「ただ、近頃、些(いささ)かなりとも、陰の証をお見受けいたすことがござりますれば、これに合うよう御進薬を申し上げておりまする。」

 実は、この年に入り、将軍家定に軽く短気(息切れ)が見られ、足の浮(むく)みが目立つようになった。岡の目に、将軍は体調が捗(はかばか)しくないまま、徐々に症状が悪くなるように見えたが、そこは、あまりあからさまに口にしないほうがいいと考えた。

「引き続き、上様に御進薬を申し上げよ」

 井伊から大きな声で申し渡された。

「ははーっ」

 岡は平伏した。畳に鼻を擦りつけるほどの姿勢をとったとき、井伊の強い視線が頭頂に感じられ、冷たい汗の流れ出るのがわかった。大老と相性がよくないことを岡は感じた。

 

 井伊は幕府の政局を睨み、解決の道を模索していた。このところ、幕府で対立が続くのは、日米修好通商条約の締結問題に絡(から)み合うように、将軍継嗣問題が取沙汰されているからだった。

 ――よう、ここまで縺(もつ)れたものよ

 井伊は思案を重ね苦笑した。己の構想を実現し幕府を安泰に置かなければならないと思った。それが大老たる者の責任である。

 幕府は、すでに、通商条約を亜米利加(あめりか)と締結すると決断した。老中堀田備前守正(まさよし)は、その策を進めたにもかかわらず、最後の段になって朝廷から首尾よく賛同を得られず、幕府の調印方針に勅許を貰(もら)い損(そこ)ねた。

 ――備前め。とんでもない失態じゃ

 勅許がおりない事態となって、条約に強硬に反対してきた水戸藩の徳川斉(なりあき)が、それ見たことかと言わんばかりに、あらためて幕府の方針を批判し始めた。斉昭の言動を見聞きするにつけ、井伊は我慢ならなかった。尾張藩の徳川慶(よしくみ)も水戸に同調し、紀伊藩でさえ、藩主の若年を理由に、賛否の態度を明らかにしなかった。

 幕府の条約締結方針は、水戸、尾張、紀伊の御三家から賛同を得る見込みが立たないままだった。条約締結は武家が一致して賛成した方針と言えなくなった。

 ――この調子では……

 条約締結の要望を改めて朝廷に申請し、勅許がおりてから調印することになりそうだと井伊は思った。順を踏んで、それで巧く行かなければ、大老の権で押し通すしかない。

 井伊にとって、さらに重要な問題は、将軍継嗣のことだった。二人の候補者を巡って幕府内は二派に割れた。異国から通商を迫られ攻められるかもしれない国の危機に臨み、将軍には年齢、器量ともに熟した人物が就くべきだと考える幕僚は、一橋慶(よしのぶ)、二十二歳を推す。水戸徳川斉昭の七男である。

 一方、宗家嫡流の血筋を重んずる幕僚は、徳川慶(よしとみ)、十三歳を推す。紀伊藩の藩主で現将軍の従弟(いとこ)に当たる。

 人物が大切か、血筋が大切かの論点は表向きのことだった。実のところ、斉昭を嫌う者は、皆、慶喜が将軍継嗣に就くのをいやがった。いずれ、慶喜が将軍になった折に、斉昭が将軍の実父という立場から幕府を壟(ろうだん)するに違いないと、皆が恐れた。井伊は人に知られた大の斉昭嫌いで、火花が飛び散るほどの関係だったから、なおさらだった。

 ――水戸の爺(じじい)が将軍実父となれば、もう幕府は終(しま)いじゃ

 あの灰汁(あく)の強さで、人事と幕政を踏みにじるに決まっている。何をおいても、紀伊の慶福こそ将軍継嗣に就けなければならない​。井伊は必死だった。

 井伊の許には、通商条約締結に賛成で、徳川慶福を将軍継嗣に推す者が結集した。条約締結に反対で、一橋慶喜を推す者は井伊に反発した。

 勘定奉行の川路聖謨や目付の鵜殿長鋭のような開明的な切れ者の幕僚は、米国との通商条約締結を急ぎ、英仏から攻撃の口実を封じた方がいいと、大老や老中に進言してくる。井伊にとって、この意見は聞き入れようもあったが、将軍継嗣に一橋を望む者は許せなかった。川路ら有力な幕僚らは、国の危急存亡の時に十三歳の少年を将軍継嗣に推す気になれなかった。こうした幕僚の気持ちなど井伊にわかるはずもなかった。

 ――将軍が子供であっても、水戸の気狂いにあれこれ差し出口を捻(ね)じ込まれるより、よほどましじゃ

 井伊は将軍継嗣に一橋慶喜を推す者を許すつもりはなかった。

 

 五月七日、玄朴らはついに種痘所開設の日を迎えた。正月に八十三人から浄財五百八十両を集め、幕府の建設許可のもと、直ちに普請に取り掛かって、ようやく、この日を迎えた。江戸の民のためになると一途に喜ぶ俊斎らを見ながら、玄朴は、また別の想いもあった。

 ――これで、漢方ん奴らに対抗しきるごとなっばい

 玄朴らは、日本橋小田町の弁当屋松五郎、通称、弁松から笹折を敷いた幕の内四十人前の仕出しを取って、まずはめでたい開所式を祝った。

 すでに前日、川路は勘定奉行から二十等級も降格されて西の丸留守居役に左遷されたことは、玄朴らが知る由もなかった。この時期、幕府は次の将軍候補を決められずにいたため、次期将軍の居所、西の丸は無主の城郭で、とんでもない閑職だった。

 川路の左遷がはっきり伝わるのはずっとあとになった。それを知って残念に思ったが、玄朴ら種痘所設立者たちは、幕府の政局とは別に、計画通り、順調に種痘事業を進め、整然と種痘所を運営した。着実な進捗は蘭方の信頼を増し、見えない力で漢方の勢いに対抗し始めたようだった。

 

 安政五年(一八五八)六月十四日、下田の駐日米国領事ハリスから、重大な消息が幕府に報じられた。英仏艦隊が日本に条約を強要するため、近く広東(カントン)を出港するとの報せが米船ミシシッピによってもたらされたという。井伊は、あらためて勅許を取って条約に調印する時間的な余裕のなくなったことを知った。

 幕閣、幕僚の多くは、江戸湾に来航する英仏艦隊によって、武力で条約締結を強要されるくらいなら、先に米国と条約を結んでおくほうが、まだ、ましである、と主張した。井伊はこの意見を容れ、勅許がなくとも日米修好通商条約に調印することを許した。井伊は、縺(もつ)れる懸案に大老の断を下した。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」八節「江戸城本丸御用部屋」(無料公開版

 

九 江戸城本丸土圭之間 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを​参照

 

 安政五年(一八五八)六月十九日、幕府は米艦ポーハタンの艦上にて日米修好通商条約に調印した。三日後、井伊は、在府大名に総登城させ、条約締結の事実を告げた。さらに三日後、紀伊の徳川慶福が将軍継嗣に決まった旨、総登城した諸大名に告げた。これらの決定にあくまで反対する者は処断を下すと心窃(ひそ)かに決めていた。処断の命は断固、将軍家定の名で下す。

 井伊にすれば、己の名で処断の命を下すと、大きな刃傷沙汰か、悪くすると徒党を組んだいずれかの藩士によって、江戸の町で武力の争いに発展する懸念があった。処断される側の不満を抑え、幕府の混乱を避けるには、重い鎮(しず)めとして将軍名による下命がどうしても必要だった。将軍継嗣問題と条約締結問題が、大名間の感情論と絡み合っていた。

 ――手を触れられないほど、政局が熱くなっておる

 井伊は、強い危惧を持っていた。将軍の余命が心配だった。

 

 井伊は人払いの上、御匙の岡(おか)仙院(れきせんいん)を呼びつけ、将軍家定の病状の見通しを訊ねた。岡は熟達の域にあるはずの年齢だが、井伊の知りたいことに直截な回答を避け、持って回った言い方に終始した。

 ――こやつは鵜殿の聟でもあり、一橋派に通じると聞く。斉昭の息が掛かっては居るまいの

 鵜殿(うどの)少輔(みんぶしょうゆう)長鋭(ながとし)は有力な一橋派で、つい先日、井伊は目付職から罷免したばかりだった。岡はその聟と知って、いよいよ気に入らなかった。

 ――鵜殿の奴め、儂(わし)より早く、上様の御病状を知っているのかもしれぬ

 井伊は、岡に御匙を任せるのは政治的に危険だと思った。この際、いっそ評判の高い諸侯の藩医から蘭方、漢方を問わず新しく御匙を選んでみようと考えた。

 藩主を選べば、一橋派の息のかかった藩医が上がってくることもあるまいと思った。上様の脚気を治(なお)せれば勿(​もっけ)の幸い、よしんば重い脚気で治る見込みがなくとも、上様に残された御寿命を知っておくことは大老の大切な務めだと、心を固めた。

 井伊が急がせたから、早々に名医の誉高い幾人もの医師が挙がってきた。漢方、蘭方を問わなかった。奥御医師を支配する若年寄の意見を聞き、蘭方では薩摩藩医の戸塚静海、肥前藩医の伊東玄朴を選んだ。江戸三大蘭方医とされる内の二人だった。 

 漢方では津山藩医の遠田澄庵、今治藩医の青木春岱を選んだ。遠田澄庵は為春院辻元崧庵の弟子で脚気の大家だった。早速、四人を召すことにした。井伊は将軍生母の本壽院に拝謁を願い出て、事情を説明した。蘭方医を召すことに反対はなく、治してくれるのなら蘭方医とて苦しゅうないと本壽院の言葉を得た。

 

 七月三日、幕府の使者が象先堂を訪ねたが、玄朴は患家回診の途上にあって不在だった。幕府は、八方手を尽くして市中を探し回り、ついに遠藤但馬守の家臣が、往診中、駕籠で移動している玄朴を見つけだした。ともかく城に登ってほしいと泣きつくように懇願し、駕籠ごと引っ攫(さら)う勢いで、説明もなく城中に担ぎ入れた。

 玄朴は、本丸で、老中、間(まなべ)下総守詮(あきかつ)から委細を聞いて、ようやく要件を知った。以前、間部に象先堂の扁額を書いてもらった縁があり、旧知の間柄の会話となった。玄朴は、戸塚静海も召されたと聞き、喜んだ。鳴瀧塾の同門で種痘所を共に立ち上げた仲だった。

 戸塚は外科、産科に秀でる。将軍の脚気には、主に玄朴が内科をもって当たるが、何かの折に戸塚が相補(あいおぎな)ってくれるはずだった。妙な政治技を使う男でなく、医学以外のことに口を出さないわきまえのあることを玄朴はよく知っていた。

 玄朴は、このお勤めが単に医学だけの話で済まないと読んで、即座にあれこれ考え始めた。またとない機会なのかも知れなかった。

 早速、二人はその場で奥医師に任命され、将軍を拝診したところ、脚気衝心が進んでかなり悪いと診た。玄朴から、蘭方医二人では手薄であり数名をさらに招いてほしいと上申した。その場で、竹(たけのうち)玄同六十四歳、林洞海四十六歳、坪井信良三十六歳、伊東貫斎三十三歳を推挙した。将軍の不例に奇貨を居(お)いたのは玄朴の咄嗟の判断だった。

 玄朴は、この好機を利用しない手はないと思いながら、銅臭を一切覚らせず、城中奥深く、息を吸うように自然に振る舞った。竹内、林は誰が見ても順当だった。玄朴は長女、加代の聟の伊東貫斎を医師団に加えたかった。年齢的に釣り合いをとって坪井信良を入れた。誰もが心服した江戸三大蘭方医の一人で、今は亡き坪井信道の養子である。

 戸塚静海六十歳、伊東玄朴五十九歳を中心に、老練円熟から新進気鋭まで六人を布陣した。玄朴には、最強の人事だと自負があった。

 

 井伊は戸塚と玄朴を土(とけい)の間に呼んで、人払いしたあと、将軍の容態と見通しを下問した。井伊は、玄朴が烱々たる眼光で、十分な間合いを取って答えるのをじっと聞いた。

「上様は、脚気衝心であらせられまする。すでに心の臓を弱らせ給い、存分の御治療を心がけるも、御聖壽は、恐れ多い事とは存じますが、近くお尽き遊ばされると拝診仕りました」

 明確に、診断と余命のほどを指摘したのは、低めのゆっくりとした声だった。

「それは、いつのことじゃ」

井伊が重ねて聞いた。

「丸二日かと…」

 玄朴が鋭く見つめ返す眼光を受け止め、井伊は、ゆっくりした重々しい声を聞いた。井伊には、玄朴が勝負所をわきまえて答えたことがわかった。漢方の遠田澄庵が先ほど「半日とは持ちますまい」と答えたことと引き比べた。

「それほど長くお持ち遊ばすのなら、御本復はどうなのじゃ」

 井伊はあらためて聞いた。

「大病は猶(なお)、大火の如(ごと)しと申します。炎焼烈(はげ)しき時は水を以って防ぐも難きものでござりまする。幸いに悪風止み火消ゆるも、これは天命にして人力に非ずと申し上げるよりほかありませぬ」

 井伊は玄朴の答えに納得した。回復はまずありえないと玄朴の考えがよくわかった。井伊は、もともと漢方を好み、死んだ楽春院とも付き合いがあった。ただ、此度(こたび)ばかりは漢方をやめ、上様への進薬を蘭方医に任せようと決めた。

 蘭方医に任せれば上様のお生命(いのち)が長く持つ。何より、玄朴が、率直に、自信を持って答えるところが気に入った。いったん、二人の蘭方医を下がらせ、井伊は、一人、考えに耽った。

 玄朴の言う丸二日間の猶予が与えられるのなら、やりたいことをやる余裕ができる。遠田澄庵の言う半日なら打てない手立ても、二日あればいろいろやれる。

 ――玄朴とやらは、物の見える医師じゃ

 感心しながら、眼光烱(けいけい)と人を射る目つきを思い浮かべた。

 ――まさか、あの小男は、幕府の政局をわかって二日と言ったのではあるまい

 されど、請け負った以上はなんとしてでも二日間を持たせるつもりであろう。井伊の目には、お望みなら、そうしてみせましょうと自信をもって答えたように映った。

 あの男は、幕府が時間を欲しがっていると鋭く察知したのか、しかとはわからなかった。もしそうなら、漢方医にはとうていできない政治の上の答えだと言ってよかろう。

 ――あやつの答えは、すでに医学を越えておる

  やや生臭いところもあるが、役に立ちそうな男だと見て、井伊は、躯(くかん)短小の身に自信をみなぎらせた言いぐさをもう一度思い起した。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」九節「江戸城本丸土圭間」(無料公開版

十 江戸城本丸大奥御小座敷 次を読む 前節に戻る 目次に戻 ブログを参照 

 

 井伊は、七月三日が玄朴によって政治的な展望を啓(ひら)かれた日になったと思い、苦笑した。玄朴ら、六人の蘭方医は大奥に詰切りとなり、精魂込めて将軍の治療に当たっていた。治療の成功が蘭方医学の発展をもたらし、失敗は信用失墜につながることを十分知っているに違いない。井伊には玄朴の心構えがわかった。成功といっても将軍を回復させることではない。将軍の生命(いのち)を二日間持たせることだった。

 この夜、井伊は、六月二十三日に任命したばかりの三人の老中、太田資始(おおたすけもと)(遠江掛川五万石藩主)、間部詮勝(​まなべあきかつ)(越前鯖江五万石藩主)、松平乗全(まつだいらのりやす)(三河西尾六万石藩主)を引き連れ、家定寝所の大奥御小座敷に向かった。どの老中も、井伊に従順であることが取柄だった。

 家定の大奥寝所では足許に玄朴が控える中、井伊が枕許に上(あが)って、将軍に何やら小声で言上した。見ようによっては、将軍家定が井伊の話に頷(うなず)いたようだった。

 わずかの時間で、井伊は御褥側(おしとねそば)を下がった。下がりながら玄朴の視線をとらえ軽く顎を引いた。玄朴は一礼し、井伊の要望に適(かな)っているかと、念を押すような目つきを返して寄越した。井伊は、意志疎通の敏な男だと思い、満足して小さく頷(うなず)いた。

 その晩、井伊たちが翌朝の大事のため、入念な準備を終えて御城を退出したのは、夜九つ半(午前一時)だった。

 翌四日、再び、将軍から大奥寝所に召されたという形をつくり、井伊と三老中は寝所に出向いた。この場で、将軍から直々に下命を賜った。台命は、五人の処罰を命じたものだった。

    

​    水戸中納言徳川斉昭、急度(きっと)御慎(おんつつしみ)

    水戸藩主徳川慶篤、登城停止

    尾張中納言徳川義恕(よしくみ)、御隠居、御慎(おんつつしみ)

    松平越前守慶永(よしなが)、御隠居、急度御慎

    一橋刑部卿慶喜、登城停止

 

 生きた現将軍による堂々たる処罰命令だった。

 御三家の内の二家と、御三卿の一つ一橋家、及び田安家から養子をとった福井藩越前家から五人が処罰の対象となった。これほど家格が高く、将軍家と近しい家に、しかも同時に処分を下せるのは、将軍をおいて外にいるはずがなかった。

 五日明け方、前夜のうちに命じられた縁戚大名と大目付が上使となって尾張徳川家と水戸徳川家の上屋敷に赴き、上意を申し渡した。処断を申し渡された上屋敷で不測の事態が起こるやも知れず、上使を命じられた縁戚大名は緊張して大役を果たした。

 

 大奥の中の声に出ない騒(ざわ)めきは、治療に当たる玄朴たちにも感じとれた。御殿女中の沈黙の悲鳴のようにも聞こえ、いよいよ緊張感が増した。病者の褥(しとね)は政治の渦の真っただ中に置かれていた。禍(まがごと)が起こらないよう、上様にはどのようであれ、生き続けていただかなくてはならない。玄朴は、その意味をはっきりとわかっていた。

 玄朴たちは必死になって将軍の生命(いのち)を維持してきたが、この辺りが限界だった。夕刻、玄朴は、密かに井伊に宛てて短書を届けさせた。

 

    そろそろにて候 朴

 

 井伊は、玄朴の診立てを知った。ちょうど丸二日のぎりぎりの幕切れに、尾張、水戸、二家への上意申渡しが間に合った。いつ、上様にその時がきても、少なくとも明日一杯は、御存命とつくろって政務を執れる。

六日明け方、上使が越前松平家の上屋敷を訪れ、上意を申し渡した。水戸藩では、上意を受けて、中納言斉昭が駒込の下屋敷に移り急(きっと)(おんつつしみ)の扱いに入った。幕府では、将軍御匙だった岡櫟仙院に隠居、慎(つつしみ)を申し渡した。井伊は、やるべきことを二日の間にやり遂げた。

 七日、残務を片付け、八日、内々に将軍の喪を発した。井伊は念のため、上様毒殺の噂を窃(ひそ)かに流し、櫟仙院の陰謀を暗示するよう陰で布石を打った。櫟仙院の背後に一橋派、もっと言えば水戸の斉昭が糸を引いたように疑いを向けさせる工作だった。こうすれば、もはや斉昭は立ち上がれず、一橋派は疑いの目を向けられ打撃を被(こうむ)るだろう。井伊は顔色を変えず、今後のことを考え続けた。

 

 玄朴たちが初めて帰宅を許されたのは、お城に登って十日以上もたってからだった。玄朴は、回診先からそのまま城内に連れてこられ、自宅との連絡さえ許されなかった。家族には、玄朴が三日の朝、家を出たきり消息を絶ったとしか見えなかった。人をやって探し回り、駕籠がお城に入ったらしいと町の噂を聞きはしたが、しかとしたことは知れなかった。何が起きたかわからず、家族は心配し憔悴しきった。

 そんなところに、小者が城から駆け戻った。汗みどろで息を切らせながら、これから大先生がお戻りになると注進に及んだ。家族はもとより、象先堂をあげて、いや、受診にきていた患者までもが、訳も分からず、ともかくめでたいと万歳を叫ぶありさまとなった。

 御徒町の一角で上がった歓声は道行く人々を驚かせ、何事かと集まって事情を知った人々から、次々に歓声が連呼された。患者にとって、玄朴は親切で、難しい病を完治させてくれる頼りがいのある医者だった。行方不明から、無事、帰還するのは町の慶事だった。妻の照はほっとする余り、顔を覆って泣き崩れた。

 

 八月八日、将軍家定の薨(こうぎょ)が正式に公表され、玄朴もようやく一(ひとつき)前、将軍の治療に当たったことを家人に話せるようになった。しばらくして落ち着いた頃、玄朴ら蘭方医六人が奥御医師に取り立てられたことを世間が知り、驚きの声が高まった。ついこの間まで、奥御医師は蘭方を禁じられていた。前代未聞、空前絶後の快挙ではないかと蘭方に好意を持つ人々の間で持ち切りの話題となった。

 蘭方の快挙は種痘所の運営にもいい影響を及ぼした。牛になってしまうと、種痘を忌み嫌う向きは少しずつ減ってきた。種痘児を確保して種痘を続け、牛痘苗を絶やさないよう円滑に運営されていた。開所から三(みつき)で立派な業績が上り始めた。

 この国で牛痘種痘が初めて成功して九年がたち、全国に普及した。漢方医の政治力の前に、開設の最も遅れた江戸の種痘所でも、順調に種痘事業が運営されるようになった。

 玄朴は名声を伴う金を得た。反対に、医学館は静まり返って、岡櫟仙院の隠居、慎(つつしみ)の処分と、この頃、まだ密(ひそ)かに尾を引いていた将軍毒殺の噂で、声も出せないありさまだった。

 

                             *

 

 好事魔多し、と昔からよく言った。安政五年(一八五八)十一月十五日、神田相生(あいおい)町から火が出た。ここは下谷練塀小路の南隣にある町で、玄朴や俊斎の屋敷の南側、ごく近所である。折からの北風で火炎は南へと広がり、佐久間町から神田川を越えて南に吹き募った。

 和泉橋は焼け落ち、火は柳原堤を越えて、神田鎌倉横町代地、龍閑町代地に及んだ。須田町からお玉ヶ池の元誓願寺前にも火の手が廻り、お玉ヶ池武家地を一帯に焼いた。半年前に竣工した種痘所も火の手から免れなかった。いったん南まで下がった火勢は、風が東に変わるにつれて向きを転じ、荒(あらめ)橋を焼き、神田一円を焼尽くした。

 長さ二十二町余(二・五キロメートル)、幅七町(八百メートル)、町数二百五十九町、武家八十余宇が焼け、この地区は甚大な被害を被った。火事のあと、佐久間町河(かし)通りにお救い小屋が建った。

 種痘所は焼け落ちても、牛痘苗を絶やしてはならない。玄朴と俊斎は焼けずにすんだ自宅を仮の種痘所として種痘を続け、牛痘苗を子供の体に継代し続けた。

 十一月二十三日、まだ大火の混乱も収まらない頃、玄朴は法(ほっきょう)に叙せられ、同日、法(ほうげん)に進んだ。世間は、井伊が忠実なる者に酬いたいきさつを知らなかったが、蘭方医の目覚ましい昇進には驚いた。

 その間、蘭方医の同志が集まり、種痘所再建の相談が続いた。いつまでもこのままにはしておけない。川路左衛門尉の拝領地内に借りた土地だったが、川路は左遷され、お玉ヶ池の拝領地を返還した。種痘所がいつまでもこの土地を使い続けるわけにはいかなかった。

 探し求めた結果、玄朴の象先堂から南に一筋行って左に曲がった一画に、御家人二人から合わせて四百十坪の地所を得て、種痘所再建の地と決めた。玄朴の屋敷のちょうど裏手に当たる。蘭方医たちは拠出金を出した直後のことで、再度拠出する余裕がなく、資金調達に苦労した。

 

 万延元年(一八六〇)三月三日、大老井伊直弼は登城中、桜田門外で水戸の浪士ら十八人に襲撃され、四十六歳を最期に首を討たれた。家定存命のぎりぎりに出された水戸老公処断の下命から一年半、ついに事件は起きた。

 井伊は、不測の事態を予想していたが、それにしては、大した警備増強もしなかった。大老が登城するのに普段以上の警備を潔しとしないのが井伊の考えだったと、玄朴は、井伊家の者にあとから聞かされた。

 大老が本当に蘭方を好いたかはともかく、蘭方医を奥御医師に任じ、それまで漢方の下風に置かれた蘭方に発展の糸口を与えたのは事実だった。玄朴は自宅で恩人の冥福を静かに祈った。

 この年七月十日、ついに新しい土地に竣工なった種痘所で、玄朴らは牛痘種痘を再開した。ここを蘭方医学の研究、教育の拠点にしようと動き始めたころ、十月になって幕府の経営に収められた。これまでの私立から官立となり、財政的に、規模的に、整備が進んだ。玄朴の鮮やかな手腕だと仲間内から賞賛された。

 多紀家の私塾、躋(せいじゅ)館が老中松平定信の許しをえて官立の医学館になったように、あるいは古く、林羅山の営んだ林家の私塾が官立の昌平坂学問所になったように、江戸では、成功し意義の認められた私塾は官立に取り立てられた。玄朴は、もはや蘭方は漢方と並んで対等の官学医学となったと思った。対等以上かもしれない。

 ――すでに勢いはこちらにあるばい

 玄朴は、この状況を子細に分析し、次の策にでた。

 翌文久元年(一八六一)十月二十五日、種痘所は西洋医学所と改組され、教育、解剖、種痘の三科に分けて西洋医学を講習する教育施設へと発展した。組織が整えられ、大槻俊斎が頭取となり、五名の幕吏が管理に携わった。教授に、伊東玄朴、戸塚静海、伊東貫斎、竹内玄同、林洞海、桂川甫周らが就任し、新しい発展の基礎が固まった。玄朴の筋書きが着々と実現した。

 十二月十六日、玄朴はついに法印を許され長春院と号すことになった。長崎から取ったか、名声伴う蓄財に至るまで長かったと意を込めたか、蘭方の隆盛が長く続けと願ったか、号の由来は伝わらない。ともかくも医師の最高位に就いた。蘭方医にして法印に叙せられたのは初めてのことだった。

 二十三日には、西洋医学所創設に功ありと将軍家茂より玄朴に時服一(ひとかさね)、白銀二十枚が賞賜された。ここに名声極まった。当然、名声に連れて金も大いに蓄えた。牛痘苗のお陰だった。銅臭の勝利だった。

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第四章「銅臭」十節「江戸城本丸大奥御小座敷」(無料公開版

第四章 七節「神田お玉ヶ池」
四章八節 江戸城本丸御用部屋
四章九節 江戸城本丸土圭之間
四章十節 江戸城本丸奥御小座敷
終章
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