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七 辰年に悔やむ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 宝暦九年(一七五九)秋、石谷(いしがや)清昌が佐渡奉行の任を終え江戸に戻ってきた。三年半の任期中、佐渡の窮状をありのまま幕府に伝え、その背景、対策、年貢政策のあり方などを具申した。幕閣に財政問題の本質を考えさせ、年貢増徴策の問題点を認識させる契機となった奉行だった。

 そればかりか、買石(かいし)と呼ばれる精錬請負業者がいいように鉱石価格を操作し横流しする不正を防ぐため、奉行所が精錬を直接監督するよう鉱山仕法を改革した。さらに坑道深く溜まった雨水をいかに排水するかなど、佐渡鉱山の採掘改善法を案出した。意次は清昌の財務、農政、鉱山管理技術に及ぶ知見の深さに大いに嘱望した。

 そもそも、意次と清昌の父親同士は紀州藩士で、吉宗に付き従って共に幕臣になった間柄である。そのうちに、意次の妹が小納戸七百石新見(しんみ)正則に嫁ぎ、正則の妹が清昌に嫁いだ縁で、田沼家と石谷家は新見家を介して縁戚となった。

 西之丸目付だった清昌を佐渡奉行に推薦し、心機一転、城中奥深い勤仕から遠国の現地に出すよう上申したのは意次だった。佐渡奉行が治める佐渡は、最盛期に比べれば採鉱量は減ったものの、今なお金、銀を産出し、幕府財政に関わり深い御役だった。

 十月四日、石谷(いしがや)備後守清昌を勘定奉行勝手方(財務担当)に任ずる旨、辞令が発令された。意次が家重に提出した幕府の財政改革計画案のなかで、最重要の要件にあげて満を持した人事だった。意次四十一、清昌四十五、脂の乗り切った盟友同志だった。

 

 宝暦十年(一七六〇)辰年の新春を迎え、正月の一連の慶賀式典も大過なく終わった。この年、将軍家重が五十歳の区切りの年齢を迎え、内大臣から右大臣に昇進が決まった。

 二月四日、本丸大広間で、京都から派遣された勅使、柳原前大納言(さきのだいなごん)光綱卿と広橋前大納言勝胤卿によって、家重は右大臣を授けられた。これで家重は名誉ある昇叙を遂げ、複雑な気持ちで満足感を得たようだった。右大臣は将軍の登る最高位の位階だから、家重には最後の昇進だった。

 一門、親藩、諸侯から献上品が贈られ、盛大な儀式が執り行われたその夜、明け七つ時(午前四時)の頃だった。赤坂今井谷から失火し、火の手は、麻布、日が窪、雑色(ぞうしき)、十番綱坂(つなざか)、三田寺町までを舐め尽くし、伊皿子(いざらご)聖坂から田町を経て八ツ山周辺、品川海手に至って、朝四つ半時(午前十時)ようやく鎮火した。幕府では、五日、勅使饗応のために能楽の宴を予定していたが、中止せざるを得なくなった。

 五日、夜五つ半(午後九時)、今度は麻布狸穴(まみあな)の武家屋敷から出火し、近辺を焼いて九つ時(午前零時)前に鎮火した。

 翌六日、暮れ六つ時(午後六時)芝神明前太好庵向かいの湯屋から失火し、浜松町片門前、金杉、増上寺片町から本芝四丁目の浜通りまで焼き尽くした。この火事で金杉橋は焼け落ち、火勢は二日前に焼けたばかりの田町辺りに達して焼け残りを再び丁寧に焼き返した。

 夜四つ時(午後十時)を過ぎて鎮火した頃には、別の火事が五つ時(午後八時)、神田旅籠(はたご)町一丁目の足袋屋、明石屋から出火して、乾(いぬい)(北西)の強風に煽られ猛威をふるった。火元に近い佐久間町を焼尽した火炎は浅草辺りから両国橋、馬喰町、本町、日本橋、江戸橋一帯に猛火を広げ、霊巌島から新川を焼いた火勢を駆って新大橋、永代橋を焼いて大川(隅田川)を越え始めた。

 二月六日深更、意次は、連続する火事の凶報を幕吏が整理するのを見守っていた。

 ——俚諺どおり、辰年十年に大きな災事(わざわいごと)が起こったと、市中で噂されるだろうか

 この点も心配だった。大火のあとで民情をとげとげしくさせてはならない。

 火事は、こうしている間も、新大橋、永代橋を焼いて大川を越える最中のようだった。

 結局、深川へ飛び火した業火によって木場から洲崎一帯は灰燼に帰し、翌朝四つ時(午前十時)、さしもの業火も鎮火した。江戸は、四日夜から繰返し大火に見舞われ、七日朝になって、悪夢がようやく終わった。息を呑むような被害だった。

 火事が終熄し、幕閣、幕僚によって対策が練られているころ、意次は家重に召され中奥御小座敷に向かった。萩ノ御廊下で待つ若い小姓に案内され、御小座敷下段に平伏すると家重から「近(ちこ)う」と促された。これを聞いて小姓の者たちは皆、退出していった。

 いつものように、家重はいきなり本題に入った。

「主殿(とのも)、余は近く将軍職を辞そうと思う」

 これまで意次は、家重の前で感情を昂(たか)ぶらせたことはないと自負があったが、今度ばかりはうろたえを抑えられなかった。

 必死に狼狽を押しとどめ、意次は思わず喘(あえ)ぐように息をした。心の動揺を落ち着けたい一心で、平伏して畳の目を見ながら返答した。

「上様、まだまだやらねばならぬことがござりまする。右大臣にお成り遊ばされて間も無き日に御隠居召さるるは、ちと御性急に過ぎるかと……」

 家重は、長い沈黙のあと、ためらうようにゆっくり語った。

「そなたの申すのも無理からぬこと。されど、余は此度(こたび)の大火で、余がめでたからざる業(ごう)を負った身であることをつくづく思い知った」

「決してそのようなことはござりませぬ。火事の起こるは火元の不始末。上様とは少しも関りがございませぬ。ございませぬとも……」

 いつもは家重の下問に直ちに的を突いた答えを言上してきたが、今日ばかりは困惑を隠せず歯切れ悪い返答になるのがもどかしかった。意次は肩の震えを止められなかった。家重の隠居の願望が何に由来するのか、必死で推察しながら、緊張に堪(た)えていた。

「考えてもみよ。余はもともと将軍職に最も不向きに生まれ付いたのじゃ。父上が余を可愛がってくれ、家治を嫡孫と重んじてくれ、そなたと忠光が余の話を聞き解いてくれ、やれる筈のなかった将軍職を足掛け十六年もやってきた。齢五十にして右大臣にまでなった。余はよくぞ、ここまで歩んだものをと、あの晩、この部屋でしみじみ振り返って長いこと眠れなかった。それを、余が寝に就いた直後に出火したというではないか」

 意次は家重の言いたいことを察した。

「上様、意次は今、悔やんでおりまする。実は、辰年十年に災事が多いとは、昨年の内から町の噂になっておりました。そのような言い伝えをお伝え申しておきさえすれば、上様と何の関わりもない此度(こたび)の火事に、上様がお悩み召されることはござりませなんだものを……」

 悔やむ心を滲(にじ)ませ、意次は必死に訴えた。

「つまらぬ町の風説などを申し上げ、御心に御不安の染(し)みを作ってはならぬと思ったのが意次の過ちでした」

「余は、右大臣になって生涯最高の名誉を授かったその夜から、膝元で続けて四日間も大火に見舞われたのが、堪(た)えがたいのじゃ」

「……」

「身に相応(ふさわ)しくない名誉を受けたから、その傲(おご)りを戒(いまし)めるために大火が起きたのではないか」

「……」

「父上は、その御代に瓦葺(かわらぶ)きを推奨し、火除地(ひよけち)を構え、大名火消と町火消(まちびけし)を設け、火事の手立てを講じてこられた。それ以来、小さな火事はあっても、これを消し止め、大火に至らずにすんでいたものを、なぜ余の代に、四、五十年ぶりの大火が起きるのじゃ。よりにもよって、余が右大臣になった当の夜に、なぜ、かくも禍々(まがまが)しき大火が起きるのじゃ。なぜ、四日間にもわたり、長々しく大火が続くのじゃ」

「ははぁ」

 意次は答えようもなく平伏した。全身が震えた。

「そなたの立てた幕府勘定の立て直し仕法がすでに始まったではないか。それを家治の許(もと)で成し遂げよ」

 家重は、すでに幕府の財政立て直し計画に承認を与え、将軍の大仕事を済ませてあって良かったと、ぼそっと言って、長い沈黙を保った。しばらくして、家重はぽつんとつぶやくように喃語を発した。

「余は疲れた……」

 

 それからの幕府の日程は、家重辞任に向けて、意次の実質的な差配で整然と進んだ。意次が目立ってはならなかった。二月二十一日、将軍辞任の願いを朝廷に伝えるため、高家前田信濃守長泰を京都に差向けた。

 三月朔日(ついたち)、月次(つきなみ)の大名総登城の席で、あらためて田安、一橋、清水の御三卿家と水戸、尾張、紀伊の御三家と諸大名を前に、近く将軍が隠居し家治に譲位する旨を伝えた。すでに朝廷にも辞意を伝える使者を立てたことに触れると、将軍の覚悟のほどが諸侯に伝わった。

 三月二十三日、家重の五十歳の祝賀の式が開かれた。多くの献上品が寄せられ、家治御簾中倫子(ともこ)からは慶事を祝って紅白縮緬(ちりめん)、二種一荷が贈られてきた。

 家重が返礼を届けさせると、後日、倫子から寿詠歌が贈られてきた。

 

    (かしこ)くも 君が惠みに万民(よろずたみ) 

        千代も榮行(はえゆ)く すゑぞひさしき

 

 家重にとって、倫子は己が見出し、家治との縁談をまとめ、簾中にふさわしい高い教養を授け、家治と幸福な夫婦となる機縁を整えてやった嫁だった。

 倫子は、家重の懐(いだ)く孤独感も、家治夫婦に寄せる温かい気持ちもよく察し、さり気なく心のこもった言葉を返す術(すべ)を知っているように思えた。家重には、その心映えの故に、またとない嫁だった。

 家重は、手許に届けられた高雅な料紙に、流麗な手跡を散らせた風情を長いこと眺めた。整った調べが心に染み入り琴線に響くようだった。

 万民が君の恵みに浴し千代(せんだい)もの子孫が栄え、後代も久しく続くと詠ずるのは、年貢増徴を抑えた家重の政策を詠み込んだ隠喩ともとれ、倫子は西之丸大奥にいながら、存外、幕政にも敏感だったのかと思いたくなった。

 形式の決まった寿詠歌だから「万」と「千」の祝字を用いて個性的な表現を避けたように見える。「千代(ちよ)も栄行(はえゆ)く」と無難に詠みこなして見えるが、早世した千代姫を忍ぶ句に違いなかった。いとし子を喪(うしな)って家重から慰められた倫子の感謝の情がせつなく伝わってきた。

 ——御父上様の温かいお励(はげ)ましがなかったなら、わたくしは、千代姫を喪った悲しみを乗り越えられぬところでした。わが玉の緒の絶えることさえ、あったやもしれませぬ……

 家重は、倫子の鼻にかかるような甘い声を聴いた気がした。指折り数え、存命なら五歳になったものをと、千代姫の運命(さだめ)を想った。

 幼い姫の早世を悲しむ嫁の心と、それを慰める舅の心が、次第に傷みを通い合わせ、一つの心に昇華したという含意を感じた。倫子の真の歌意を受け止めたと思った。ねぎらいと感謝がひたひたと寄せくる倫子の詠みぶりに、家重は料紙を持つ手が震えるのを抑えられなかった。

 

                                 *

 

 宝暦十年(一七六〇)四月二十七日、御側御用人、大岡出雲守忠光が身罷(みまか)った。従四位下、武蔵岩槻藩二万石藩主、享年五十二歳。先月より体調不良を訴え、三月十一日が最後の登城になった。家重五十の祝賀にさえ参列できなかった。

 半生以上にわたって仕えた老臣の死が伝えられた夜、家重は中奥御小座敷で夜具の上に胡坐をかいて、長いこと思いに耽った。家重の生涯の友にして忠良の臣へ弔(とむら)いを捧げるつもりだった。

 開け放した入側(いりがわ)の向こうに庭を眺めても、やや湿った空気の中に闇が広がるばかりだった。月は払暁(ふつぎょう)にならないと昇ってこない。昇ったとしても細く痩せた有明月に勢いはない。

 意次から贈られた野鵐(のじこ)の籠が軒にかけてあった。月明りがないせいか鳥籠は静まり返り、泉水も見えず、月も見えず、家重は孤独だった。

 己の人生を振り返るのと少しも変わらないほど、常に忠光は側にいた。忠光の才腕は鋭いというより、家重の身の回りをこまごまと整える配慮に富み、寛容で温厚な性格はなによりの慰めだった。心の挫(くじ)けそうなとき、幾度助けられたかわからない。

 ——余と忠光は光と影じゃった

 たしかに二つの生を陰陽交々(こもごも)に一本の糸に撚(よ)り合わせたような二重の人生だった。主君と仰がれた家重が光で、側で支えた忠光が影であったばかりではない。家重の意を聴き解いて朗々と臣下の前で代弁する忠光が光だったことも多かった。

 家重は、主従の枠を超えた家臣を亡くし、大きな喪失感に静かに抗(あらが)うしかなかった。家重にとって不本意な出来事のたびに繰り返した心の操作だった。時折、唸(うな)りとも歯ぎしりとも言い知れぬ声が暗い座敷に漏れた。

 涼しい一条の小夜風(さよかぜ)が座敷の中にそよぎ入り、家重が山梔子(くちなし)の微(かす)かな夜香に気付いた瞬間、一声、銀鈴の啼音(なきね)が闇夜に響いた。

 ——野鵐を聞け

 家重は、忠光に妙なる音(ね)を聞かせてやって良かったと思った。

 ——忠光を送るには、ふさわしいかろ

 家重の座敷に、深更までほの暗い燈火(ともしび)が絶えなかった。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第一章第七節「辰年に悔やむ」(無料公開版)

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