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三 長崎出島主官館 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 

 

 一八〇三年(享和三年)九月に入って間もない日だった。長崎の出島で、ようやく一日の暑さの盛りを過ぎた頃、阿蘭陀(おらんだ)商館荷倉役ヘンドリック・ドゥーフは、弟子の馬場佐十郎に、このあたりで授業を終えようと伝え、次回は三日後にすると告げた。

 ドゥーフは、数時間、密度の濃い時間を蘭語教授に費やしたので、少し散歩をしようと思い立ち、佐十郎が帰り仕度を済ませるのを待って共に主官館の部屋を出た。夕凪に入ったと見えて海風が途絶え、外はまだまだ残暑が厳しかった。

 炎暑の日差しは稲佐山の左にあって、間もなく山の端に傾けば少しは涼しくなるだろうと、ドゥーフは思った。二人は、花畑で桃杏(あんず)の木陰に孔雀が羽を広げるのを見ながら、口数少なく出島の門に至った。狭い島の中のわずかな距離だった。

 

「Au revoir. Merci beaucoup (オレヴォワ メルスィボクー). 」

 

 ドゥーフは、佐十郎がフランス語で礼を言い、鄭重に別れの挨拶を言って門に向かうのを見送った。

 ――今日は奇数の日なのか

 ドゥーフは佐十郎の背を見ながら、日付を頭の中で繰(く)った。

 陽暦の奇数日にはフランス語で、偶数日にはオランダ語で挨拶して帰っていく佐十郎のやり方にドゥーフがようやく気付いてから、随分とたつ。気付いた時、ドゥーフは、内心、ひどく驚いた。

 ――この子は和暦だけでなく、陽暦でも日付を承知して私の許に通ってくる……

 ――子供の身でありながら通詞の心得を意識しているのか

 内心舌を捲いた。この門の先、数ルーデの長さの石橋を渡れば、佐十郎は日本人世界に帰っていく。ここが出島と長崎の町をつなぐ唯一の橋だった。

 振り向いて今一度会釈した佐十郎に、ドゥーフは右手を上げた。門番は折目正しい師弟の別れを見慣れているせいか、ドゥーフが出島の阿蘭陀(おらんだ)人の第二の要人とわきまえて、いつものように丁寧に会釈を寄越した。

 佐十郎は十七歳、オランダ人から見ると、日本人の常でまだ少年の匂いを多分に残していた。

 ――もう二年にもなろうか……

 仕事のつながりができた馬場為八郎と名乗る蘭通詞から、息子を弟子にしてほしいと頼まれ、初めて佐十郎に会ったときは、ほんの子供だと思った。引き受けてから、優秀で学問熱心なことに驚いた。

 狭い埋め立て島を出られないドゥーフの生活の中で、少年がめきめきとオランダ語に上達する様はとりわけ大きな楽しみとなった。そのうちオランダ語だけでなくフランス語も教えることになった。

 少年は教えたことを即座に覚え、忘れることがなかった。言わないことまで筋道立てて類推し理解した。ドゥーフは少年をみると、母国の俚諺を思い出すのが常だった。

 

 Een goed luisteraar heeft maar een woord nodig 

 良き聞き手はわずか一語でこと足りる

 

 柔らかな脳髄の中にいくらでも言葉が吸い込まれて整然と収まり、ドゥーフの発した音声が少年の舌の上で正確に再現されていくように思えた。少年の発音は際立ってきれいで、読み書き、聞き話しのどれをとっても、長崎のオランダ通詞の水準を超えるのに、さほどの時間を要さなかった。稀にみる才だった。

 ドゥーフは狭い出島の内を散歩しながら、各所を視(み)て回った。四年前の夏、書記官(シケイフル)として初めて長崎に来航したとき、出島は先年の火事で多くの建物が焼失していたことを初めて知った。

 ――あのときはひどく驚いた

 当時の荒廃した阿蘭陀商館の様子が思い浮かんだ。

 一七九八年四月二十一日(寛政十年三月六日)夜半、縫物師部屋から出火して、商館長(かぴたん)部屋(棟)をはじめ、乙名(おとな)部屋、通詞(つうじ)部屋、紅毛人部屋、土蔵などが炎上し、出島空前の火事となったと聞かされた。

 かろうじて蛮酋館、百合(レリー)の蔵(伊之蔵)、いばら(ドールン)の蔵(呂之蔵)、牛小屋などが残ったに過ぎなかった。復興のため、長崎奉行所から借財し半年かけて一部の建物を再建した。このとき出島の道幅を二間半から三間半に拡幅したらしい。

 しかも悪いことに、その年、八年ぶりに江戸に参府した甲比丹(かぴたん)ヘイスベルト・ヘンメイが帰路、遠州掛川という宿場にて病死し、三ヶ月ぶりに、参府一行は甲比丹を欠いて出島に帰り着いた。

 一行が戻った日から、出島は商館長死没のため主席書記官(シキリーバー)のレオポルド・ウィレム・ラスが焼け残った建物に陣取り、代わりに指揮をとって再建に取り組んできたということだった。

 オランダ船は夏、長崎に来て、秋、ジャワに帰って行く。この年の夏、長崎に来航したイライザ号が、出島の火事と商館長死没の一大事をジャワ総督府に伝える義務を負ったが、秋、ジャワに向かう帰航途中に沈没し帰り着かなかった。ドゥーフはじめジャワのオランダ政庁は誰も出島の異変を知らず、商館長が不在のまま一年余りを経過したのだった。

 一七九九年夏、ドゥーフは主席書記官(シキリーバー)として赴任するためフランクリン号で初めて来日し、出島の火災と商館長死没の混乱を知った。二か月間あまり、出島に滞在した結果、ラスが代理にせよ、商館長職にふさわしくないと見て、これが、ひいては対日貿易の危機だと判断した。

 ドゥーフは敢えて辞令に背き、機転を利かせ、長崎に来た同じ船に乗って、秋、ジャワ総督府にとって返した。そして、次の年の夏、新任商館長ウィレム・ワルデナールとともに長崎に再度、来航したのだった。それから三年がたつ。

 ドゥーフが立ち止まったのは、見たことのない商館長(かぴたん)部屋の建っていた敷地の前だった。資金の問題でこの棟は再建の目途が立っていない。ドゥーフは、放置されたまま雑草の生い茂る空地を見渡し、やっとの思いで混乱を収拾した苦心を思い浮かべた。新任商館長ワルデナールを助けて、振るわなくなった対日貿易をなんとか回復しようと努力を重ねた日々だった。

 新たに勃興したナポレオンの軍事力の前に本国ネーデルランド連邦共和国は独立を失い、フランスに従属することになった。インドからジャワに広がるオランダ領植民地は、今や敵国となったイギリス海軍の攻撃を受け、ジャワ総督府は長崎に交易船を出すことさえ困難になった。ヨーロッパの地政学的な枠組みを変える大きな動乱を前に、長崎商館が交易維持のため何をなすべきか考えてみた。

 ――なにもない。全く無力だ

 ドゥーフは諦めにも似た思いを繰り返した。

 ドゥーフが苦汁に満ちた思いを抑え、後ろを振り返った。書記館の向こうに旗竿が高々と立って、オランダ国旗の掲揚される日を待っていた。それは、五月三十日のバタヴィア占領記念日のような祖国の重要な日か、長崎奉行の来訪日に掲げられる栄誉ある国旗である。

 上から赤、白、青の水平三色の意匠は世界初の三色旗で、全てのオランダ人の誇りだった。今この国旗は、本国で掲揚禁止となっていると聞く。革命後、フランスでは左から青、白、赤と配色された垂直三色の旗が新たに制定された。水平三色の意匠は、縦横が異なるだけで紛らわしいという理由から、二百年の歴史を持つ蘭三色旗(ドゥリ・クレール)が禁じられ、制定間もない仏三色旗(トリ・コロール)が掲げられているらしい。

 ――亡国とはそうしたものだ

 ドゥーフは苦い思いを抑え、奥歯を噛みしめた。

 蘭三色旗が堂々と翻(ひるがえ)るのは、世界で、ここ出島しかない。国旗のない日本という国の片隅で、ちっぽけな埋め立て島に、祖国を失った国旗が揚がるのだと、一瞬、自嘲がよぎったが、ドゥーフはすぐさま思い直した。

 先月八月二十二日、ジャワ総督府の傭船(チャーター)した米船レベッカ号がオランダ船籍を装い、長崎に入港した。ジャワ総督府は英国海軍によって長崎までの海域を封鎖され、交易船をなかなか出せないでいた。そこで中立国の米国船を傭船(チャーター)することを考え付いて、かろうじてジャワ、長崎間の連絡と通商を回復した。

 この船は、ドゥーフに次期商館長を命ずるジャワ総督の辞令を届けてきた。あと二ヶ月もすれば現商館長ワルデナールはジャワに戻り、己(おのれ)が出島商館長に昇進するのだと思えば、自嘲的な考えは禁物だった。これからは先頭に立って、なんとしても対日貿易を立て直さなければならない立場になる。

 ――祖国の繁栄のために、蘭三色旗(ドゥリ・クレール)が翻(ひるがえ)る世界唯一の場所から勢いを盛り上げるのだと、どうして考えないのか

 ドゥーフは己に向かって戒(いまし)め、心の弱さを叱った。

 出島の当面の任務は、オランダ本国がカトリック国フランスに従属したことを長崎奉行から秘匿することだった。オランダは新教の国で、カトリックとは違うという理屈で交易を許されている。

 さらに、長崎に来航するのが米国籍の傭船であることを隠し通さなければならなかった。幕府が入港を許すのは、清のほか、オランダだけだった。その上で、ジャワが細々と繋いでいる長崎貿易を維持しながら、ヨーロッパ情勢を知り、総督府の方針に忠実に対処することが求められる。

 ――当面、できるだけ長崎奉行と巧くやっていかなければならない

 ドゥーフは己の立場を心がけ、出島商館長の任務をあらためて想い起こした。友好関係を耕しておくことが何より重要である。先ほど、授業の合間を見て、佐十郎に牛痘種痘の新発見をまずは口頭で伝えたのもその狙いがあってのことだった。

 一七九八年真夏、ジェンナーというイギリスの医者が牛痘で安全に種痘できると発表したらしい。ドゥーフがオランダを出港した直後のことだったので、この話は知らないでいた。先月、来港したレベッカ号の運んできた風説書にこの発見が書かれてあった。風説書は、ジャワ総督府が幕府のために世界情勢をまとめた年次報告書で、幕府の要望に応じ、オランダ船の来航時に提出される決まりとなっている。

 ドゥーフは風説書を読んだうえで、レベッカ号に搭乗してきた次期商館医のヤン・フレデリック・フェイルケから詳しい話を聞き、ともかくも牛痘種痘の効用を理解した。牛痘種痘は列国が次々と採用し、ヨーロッパ中に広まっただけでなく、今や、アジア植民地にまで牛痘苗を運び込む動きがある。牛痘種痘は、植民地経営の一環として、現地民生の重要な医療政策と目されているという。

 ドゥーフにはこの情報が重要だった。いずれジャワ総督府も牛痘苗を入手し、長崎にも送ってくると思われる。ジャワに届くのは、早くても来年か再来年であろうとフェイルケは言った。ドゥーフはすぐさま、オランダが日本に牛痘苗を提供する政治的効果に考えが及んだ。

 ――幕府に恩を売る絶好の機会になるに違いない

 種痘によって天然痘患者を減らせると知って、幕府が是非とも牛痘苗を欲しいと要請してくるよう仕向けるつもりだった。ドゥーフはこの件を自らの任務の一つに加えた。巧くことを運ぶには、牛痘苗は天然痘を安全に、確実に防げると事前に触れ回っておく必要がある。

 ――まずは前評判を高め、幕府が欲しがるように持っていかなくてはならない

 佐十郎に非公式に伝え、日本人の反響をみることにした。

 ――佐十郎なら蘭方医に伝え、日本人に期待を沸き起こす最初の一歩に導いてくれるだろう

 ドゥーフが考え付いた手だった。

 ――外交的にも、歴史的にも、医療行政的にも面白い

 ドゥーフは己自身が知ったと同時に日本人に伝え、祖国の立場を少しでも有利におくつもりだった。ジェンナーの発表からわずか五年後に、牛痘種痘の発見を初めて日本人に伝える。決して遅くはない。あれこれ尽きない思案を重ねるうちに、ドゥーフは旗竿の先端に蘭三色旗(ドゥリ・クレール)の翻(ひるがえ)るのを切に見たいと思った。

 佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第一章「遠鳴」三節「長崎出島主官館」(無料公開版)

 

 

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