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三 驥足を展ばす 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 明和六年(一七六九)八月十八日、東の空に月が上(のぼ)る頃、意次は神田橋御門内の屋敷に戻ってきた。この日、城中では大きな人事異動が発表され、何かと気疲れする一日だった。それも全て済んだ。

 人事で、西之丸老中板倉佐渡守勝清(安中藩三万石藩主)が本丸老中に、京都所司代阿部飛騨守正允(まさちか)(忍藩十万石藩主)が西之丸老中になった。最後に、側用人の意次が老中格に任じられ、五千石を加増された。これによって相良藩主、田沼主殿頭意次は、二万五千石を領することになった。五十一歳の誉(ほまれ)だった。

 これまで意次は、側職最高位の側用人を二年間勤めたが、この日からは老中格として侍従に任じ、側職でなく表職に専念せよとの辞令に見えた。ただ、将軍の真意は必ずしもそうではなかった。

 

  老中之格、御用部屋へ相詰め、只今迄之通り御用相勤める可く候

 

 この申渡しによって、今迄通り側用人を本務とし老中格を兼ねよと命じられた。評定所第一の首座もこれまで通り。礼格は全て老中本職と変わらずとされ、正式に表職に関わるようにとの達しだった。

 屋敷奥で、意次はおふじに裃(かみしも)と袴を取らせ、寛(くつろ)いだ姿で夕餉を取ったあと、奥座敷に引きこもった。障子を開け放すと、時に秋めいた風が吹き渡り、庭の植栽の下草辺りから虫の音が聞こえた。秋海棠(しゅうかいどう)の淡紅の花は月明かりに照らされ、幽(かす)かに見えた。

 中秋の名月を過ぐること三日、わずかに欠け始めた月はそれでも満月に近く、広縁に座して見上げると、軒の端に掛かって煌々と叢雲(むらくも)を照らしていた。

 ――今日の人事の含みは幕府の誰しもが分かったに違いない

 意次は、これまで人を驚かすほどの昇進を遂げてきた己(おの)が歩みを振り返った。初めは側職でありながら評定所の正式審議者に任じられた宝暦八年(一七五八)、将軍の耳目となって表職の枢要な会議体に将軍の意向を反映させ、大きな功をあげた。

 ついで、側用人に昇進し、加えて評定所の最高位審議者に任じられた明和四年(一七六七)、新しい財政政策を実行するため調査、調整機能を集約して、名実ともに権限を委(ゆだ)ねられた。今回は、表職最高位の一角に名を連ね、猶(なお)、側用人の御用を続けることになった。

 ――先代の惇信院さまのお考えは、当代の上様にしかと引き継がれている

 意次はそう呟(つぶや)きながら、幕府の力のありかたの移り変わりを思った。

 ――惇信院様は御代(みよ)を通じ、門閥譜代の力を削減するよう図られた

 家重が一揆に事寄せて老中を罷免した時は門閥譜代が驚いて粛然となった。それは将軍側近の発言力を強める試みであり、権威の発生源を譜代中心の幕府行政機構から、将軍に移すことだった。

 ――上様は先代様の御遺言をよくお守りで、ありがたい限りじゃ

 家治は、父親譲りの人事手法を忠実に踏襲し側衆に篤い。側衆が二代の将軍に仕えることなど前例のない、あってはならないことだった。意次が家重、家治に重用されるのには、親政を志す将軍父子二代の意図があった。

 意次は、近く、正式の老中に昇任させると家治の内意を聞いている。将軍の手足として、意次に側職と表職の最高位を兼ねさせるのは、将軍の威光の下に幕府の本格的な改革を断行するのに必要な人事だった。従来の譜代中心の政治を変えなければ、幕府財政は立ち直らない。

 ――幕府の新しい骨組みも、あと少しで完成じゃ

 意次は、虫の音と月の光を身に受け、時折、口角を下げて黙想を続けた。

 

 九月朔日、意次嫡男、意知が雁之間(かりのま)詰めとなった。二十一歳。持鎗二本を許され、二年で菊之間(きくのま)から席が上がった。雁之間は、幕府成立後に取り立てられた城持ち大名や、老中、京都所司代の継嗣が詰める。意次が老中格に昇進したのだから穏当な人事だった。

 帝鑑之間(ていかんのま)に詰める譜代は、幕府成立前から徳川家に仕え関ケ原の戦い以降に大名となった格高い門閥譜代である。雁之間は、これより格が下がるが、一ついいことがあった。大名では唯一、雁之間(かりのま)詰めだけが毎日登城し、老中の視察を受ける。その分、幕閣の眼に止まる機会が多く、当然、抜擢につながった。幕府の事情に通じるにも好都合だった。幕府はこの席に優秀な若者を期待していた。

 譜代大名で才覚の優れた者は、むしろ雁之間詰を希望する。ここには、手腕家(やりて)、自信家、野心家たちが蝟集し、老中の目を待っている。意知はすでに、老中松平周防守康福(やすよし)(岡崎藩五万四百石藩主)の二女を正室に迎えていたから、父だけでなく、岳父の後ろ盾さえ期待できた。

 ただ、意知は若年にして、そのようなものに頼らずとも、自らの才知でなんとでもやってのけそうな男だった。父親譲りの人当たりのよさも身上の一つだった。

 

 それから十日とたたないうちに、意次は御台所を訪ねた。大奥筆頭老女の松島が同席し三人は和気藹々(あいあい)と挨拶を交わした。何よりもまず、意次の老中格就任と加増と侍従叙任を祝わなければならなかった。

 倫子から、親しい語調の内にも高雅な祝いの口上があり、松島がそれに続いた。意次は少し頭(こうべ)を垂れて拝聴し、倫子のどこか鼻にかかるような甘い声を格別に聴いた。意次は、老中格任命の御礼として、倫子と松島それぞれに白金(しろがね)を贈った。事前に老中松平康福(やすよし)の許しを得た公然のものだった。

 挨拶が終われば親しい間柄の楽しい時となって近況を語り合った。意次は将軍との約束を果たし、お知保の方の幼馴染(おさななじみ)おふじを側女に入れてからというもの、何くれとなく、おふじを大奥に遣わした。

 倫子始め、お知保の方、お品の方は言うに及ばず、松島ら主だった老女衆、御中﨟に至るまで時季折々のささやかな心遣いを怠らなかった。特に、四月(よつき)で将軍二男を喪(うしな)ったお品の方は長く傷心だったので、随分と心を込めて慰めさせた。

 意次がおふじを初めて大奥に遣(や)る前に言って聞かせた話があった。倫子が御簾中様と呼ばれた若い頃から、優れた審美の目が行き届き「贅(ぜい)を尽くさず趣(おもむき)を凝らす」という嗜(たしな)みが奥女中に及んだ逸話をおふじはじっと聞いた。聞き終えたおふじは、全てを呑み込んだようににっこりと頷(うなず)いたものだった。

「引き算の美しさでございますね」

 おふじは、さほど高価なものを贈るではなかったが、いかにも高貴な女性(にょしょう)にふさわしい品定めが心憎くかった。その瀟洒な品々は「おふじさまのおこころ尽くし」とひそかに呼ばれ、常に人気が高かった。

 意次は、贈答品選びから大奥の人々との応対に至るまでおふじの世慣れた才覚に助けられ、大奥を存分に味方に引き寄せた。おふじは、若い頃の苦労が実を結び、人の心に敏で、人遇(あしら)いに聡(さと)かった。人好きのする巧みな折衝の技は大奥に十分通じた。

 意次が家治と駆け競べをやって三年負けはしたものの、おふじは男児を出産した。意次にとって七男だった。それからというもの、おふじの人遇(あしら)いはさらに冴(さ)えた。

 折につけ、意次は陰に陽に大奥の支持を得た。大奥で、人徳と言っては大仰(おおぎょう)に過ぎるが、広く人気が高いのは確かだった。此度(こたび)の昇進にも表立って大奥が推す訳ではないにせよ、隠れた熱い支持が不利になるはずはなかった。大奥は表立たない微妙、隠微な影響力を幕閣人事に及ぼすことがあると意次は十分に知っていた。

 おふじは、倫子、松島にも気に入られ評価が高かった。意次は、おふじがいかに機転を利かせたか、いかに誠意を尽くしたか、いくつもの逸話を二人から聞かされた。中には大笑いするような話もあった。好意に満ちた笑いが収まったあと、よき御側女をお持ちだと二人から真面目な顔で言われた。

 倫子の話題では、特に、九歳になった万寿(ます)姫と弟竹千代の日々の成長が語られ、意次は感慨深く耳を傾けた。万寿姫が前年、尾張徳川家継嗣の治休(はるよし)と婚約を結んだことを語る倫子は嬉しそうに見えた。万寿姫と竹千代は、同母の姉弟と変わりなく育ち、家治と倫子に慈しまれ健やかな毎日を送っているという。頷(うなず)きながら意次は胸に込み上げる熱いものを抑えるために、時々天井を仰がなければならなかった。

 師走になれば、そうした家族安らぎの日々が終わり、竹千代は八歳にして西之丸に移ることになる。竹千代にとって母と姉から離れ、西之丸老中に輔弼(ほひつ)され将来の将軍を目指す第一歩が始まる。その話になると倫子の甘い声が心なしか湿って聞こえ、意次は、倫子の母の心を確かに感じた。

 

                             *

 

 明和七年(一七七〇)の夏は、よからぬ兆(きざ)しが多く現れた。五月、田植えの時期を迎えても十分な雨が降らなかった。六月上旬には、星が月に接近し、ついに一旦、月に隠れて、反対側に姿を現した。星が月を貫くのは、天文方に言わせればひどい凶兆だった。

 そもそも、この年は元旦から大変な寒さで、正月七日、かなりの雪が降った。ついで十日立春に大雪が降って、二十日、今度は大雨になった。おかしな天気だったと正月を振り返り、殊更にあれこれ凶兆をあげつらう声が市中に聞こえた。

 

 六月十七日、石谷清昌は八年にわたる長崎奉行の兼帯を解かれ、専任の勘定奉行に戻った。清昌は、兼帯当初、支那やオランダから銀を輸入し、銅と俵物三品で対価を支払う大きな仕法を目指した。これが長崎貿易を立て直す始まりになった。

 清昌が提案したのは、銅座を大坂に開設し、国内銅を一手に扱わせる仕組みだった。一年当たりの諸国の出銅を凡(およ)そ四百二十万斤(二千五百噸)と見込み、輸出あるいは輸入品の代価に回す長崎廻銅三百万斤(千八百噸)を優先的に確保する構想だった。こうした仕法は巧く運び、今ではすっかり定着した。長崎から幕府御金蔵(おかねぐら)へ年に二万二千両を上納するまでになった。

 それだけでない。鱶鰭(ふかひれ)増産のため、新たに鱶(ふか)漁を始める浦々を募り、当分運上を免除して保護育成に努めた。近頃では高品質の品が増産され、大きな輸出品に育ってきた。

 

  清昌、長崎を兼ねしより、心を用いひて國のために益ある計(はか)らひどもし、彼の地も今はよく治まるよ
  し聞し召す

 

 業績は将軍の耳にも届いた。当たり前である。将軍と意次と清昌でやってきたようなものだから将軍は逐一知っている。滲(にじ)ませるように、幕府の文書がこの機微の一端を書き残した。

 清昌は信頼に満ちた褒詞を公式に受け、三百石の加増に与(あず)かって禄は八百石となった。これからは常に在府し、勘定奉行として次の財政立て直し策を実行するのが三人の間で煮詰めた計画である。

 幕府の財政収支は明和になって、ほぼ毎年、米は四、五万石の不足、金は四、五万両の不足が続いている。財政赤字を黒字化するため、何らかの策が必要だった。ただ、奥御金蔵(おくおかねぐら)や蓮池御金蔵(はすいけおかねぐら)などには、合計で三百万両を越える金銀が積み上がっていた。

 奥御金蔵の百七十万両は非常時用だから考慮の外に置くとしても、蓮池御金蔵や大坂城御金蔵などに収蔵された百三十万両は通常の支払用で、強みと言ってよかった。この三百万両を越える金と銀は、五代将軍綱吉以降、最高の収蔵高で、意次と清昌をはじめとする勘定奉行所と評定所の面々による努力の積み重ねだった。

 清昌はこの年の後半を心静かに、新しい財政を構想して過ごしたが、近頃、市中から聞こえてくる風聞が気にかかった。勘定奉行所内で交わされる雑談の中にも憂慮すべき話柄があった。

 夏になって、神奈川の海で鯛三千尾余りが海面に浮いた。漁民は苦潮(にがしお)だと恐れ、情けなさそうに腐魚を浚(さら)ったという。

 旱(ひでり)のために麦や稗(ひえ)が高騰し、野菜は魚よりはるかに高い有様だという。加えて、江戸近郊では蝗(いなご)が大発生し、風に乗って江戸市中にまで飛び歩く始末。大きな虫害になるかもしれなかった。秋になると、いよいよ旱(ひでり)の惨状が明らかになり、関東から関西まで広範囲に被害が出るだろうと町の者が慄(おのの)いていると聞いた。

 京都では旱魃(かんばつ)が六十日に及んで涸れる井戸が続出し、大文字焼きが中止になって精霊を送ることさえできなかった。水不足に悩む庶民の声が世に満ちた頃、空に彗星が現われ、騒ぎがいっそう大きくなった。

 現地で、仙洞御所の造営に采配(さいはい)を揮(ふる)っている勘定吟味役の川井次郎兵衛久敬から、世上が騒がしく工事中の仙洞御所で怪しい風が吹いただの、天狗が虚空を飛行しただの、不安気な流言が京の町に多く聞かれると奉行の清昌に書いて寄越した。

 七月二十八日夜、江戸の乾(いぬい)(北西)の空が異様に赤く染まったのを清昌も見た。後で聞くと、町では、丹のようじゃと辻々で騒ぎ、赤爛(あかただ)れた幡雲(はたぐも)を気味悪そうに見上げる町人が多かったという。

 何か悪(あ)しきことが起こるのではないかと不安感が世に広まることが、職掌のうえからも清昌の気にかかった。かと言って、どうすればいい、というものではなかった。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第三章「栴檀の棘」三節「驥足を伸ばす」(無料公開版)

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