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六 磐根の亀裂 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を見る

 

 会津藩の房総の警固は嘉永に入ってますます増強された。容保はこうした話題を身の回りでよく耳にするようになったと感じ、家中の緊張感を意識した。嘉永元年(一八四八)二月、父は自ら警固の地を巡視する旅に出た。

 房総両営合わせて千四百人、大小の銃四百七十門、新造船十九隻からなる軍備、軍勢を閲兵し、発砲、操船の演習を観た。容保は、帰邸した父からその様子を詳しく聞いた。会津藩士は諸藩の中で最も軍事演習に習熟し、慣れたものだったという。会津藩には長年の積み重ねがあるのだと父の口ぶりに自信のようなものが感じられた。容保はいずれ己の務めになるのだと思うと、熱心に聞き入った。

 嘉永四年(一八五一)五月二十五日、容保は藩政見習いのため、芝の中屋敷を出立して国許に向かうことになった。初めて国許に帰るため、父が将軍の許可をえてくれた。出達の前日、父に連れられて登城し、お暇(いとま)の挨拶に御目通りを賜った。将軍から特に餞別として鷹と馬を拝領した。

「銈之允(けいのすけ)は何のために封に就くのじゃ」

 家慶は穏やかな笑みを浮かべて静かに容保に問うた。

「ははっ。初めて藩政を実見することだと心得ます」

 家慶は容敬の方を向いて小さく頷いた。そして、声を張って容保にこう言った。

「藩政の実見もそうじゃが、それだけではないと心せよ」

 将軍から何事か託された気がした。

 道中猛暑が続いたが、六月二日、無事着城し、容保は初めて城の空気に触れた。堂々たる天守は赤い瓦と白壁が美しく映え、名城の名に相応しいと思った。守り伝えなければならない城だと心を新たにした。

 容保は、翌日から早速、多くの家臣と対面を果たし藩政の状況を聞いた。村落や町中を視察して回り、民情を知って領国の成り立ちを学ぶことに勤めた。

 それだけでない。容保の国入りのもう一つの目的を実施しなければならなかった。それは藩士たちの言う追鳥狩(おいとりがり)だった。ここで総大将の采配を揮うのが容保の役目だった。家中、世継ぎを迎え準備は万全だった。会津藩は、寛政年間に長沼流軍学を取り入れて以来、全軍あげて大操練を実施してきたと父から教わってきた。五十年を超える積み重ねがあった。

 会津藩の武威はこの操練にあると聞いた。文化年間、蝦夷地で露西亜(おろしあ)に備えたのも、嘉永年間、安房上総で砲台を守っているのも、この武威があったればこそだった。藩主在国の年、城下郊外の大野ヶ原で大操練を行うことになっている。

 追鳥狩初日、六千余の全軍を四隊に分かち、追手門と搦手門に布陣した。各隊を率いるのは千石以上の家老たち。先鋒から出陣して大野ヶ原に行軍し、先陣が到着すると烽火(のろし)を上げて城中に通報、総大将の出陣を仰いだ。

 大野ヶ原に到着した総大将は全軍が総備えの隊列を組むのを閲兵し、夜に入ると全軍が厳重な警固体制を取って野営した。時折、夜中連絡のため副将や番(ばんがしら)が本営に出頭するたび門衛の誰何(すいか)の声が響いた。戦と変わらぬ統制のとれた夜を過ごし、第二日目払暁、中軍の法螺貝を合図に全軍鬨(とき)の声をあげて操練が始まった。

 容保が先鋒の陣将に命を下すと、その命は直ちに組頭、銃長へと伝達され、銃長が銃士を率いて銃撃しながら進撃した。次いで左右の軍が進撃し騎兵が槍を構えて突撃した。

 まさにこの時、多くの鳥が放たれると、兵は競ってこれを捉え、後刻、容保に献上して誉を上げた。容保の下命の許、一糸乱れぬ兵の繰り引きは、日頃の鍛錬を思わせて見事なものだった。

 他藩でもいくつか軍事演習の試みはあったが、会津藩ほど規模が大きく、練度の高い演習は例をみない。容保は大いに満足し、家臣らも世子ながら藩主の役割を果たした容保の采配ぶりを褒めた。容保は、追鳥狩を通じて培われる君臣一体の本当の意味を悟った。

 秋、冬の間、容保は鷹狩りで山野を駆け巡り、時に藩校日新館の修学生と共に語り、村々を巡察しては領民と親しく言葉を交わした。生家の家風もあって、驕りも高ぶりもない実直な性格は家臣と領民の信頼を得た。容保は会津で十七歳の素晴らしい日々を過ごした。

 嘉永五年(一八五二)正月十四日、突然、江戸より飛脚が届き、容敬の不例が伝えられた。四日より風邪を召され、日々、御容態芳しからずとあり、容保は十七日、会津を発し江戸に向かった。雪道に難渋しながら五日目に上屋敷に到着した。

 二月十日、容敬は数奇で、しかも充実した藩主の生涯を終えた。享年四十七。容保は十八歳にして幕府柱石の大藩を襲封した。大きな緊張をはらむ時勢のなか、容保は会津藩の采配を担い、亡き父の官名、肥後守を名乗った。

 

                            *

 

 嘉永六年(一八五三)六月三日、ペリー提督率いる亜米利加(あめりか)東印度艦隊の四隻が浦賀湾口、鴨居沖に碇を下ろした。四隻の巨船に居座られ、幕府や江戸の町は大騒ぎとなった。

 ペリーがどうしても大統領国書を提出したいと主張し、老中首座阿部伊勢守正弘は不本意ながら受理せざるをえないと決断した。受け取り場所は久里浜となった。

 容保は藩船を出し周辺の不慮の事態に備えるよう家臣に下命した。容保は大船を新造しておいた父の準備に感謝した。ペリーが翌年再び来ると言い捨てて、退去したのが十二日。艦隊は十日間の停泊で浦賀を離れた。

 幕府内では議論百出した。ペリーのような来航は口で言っても追い払えず、武力を行使するのでは戦になるやもしれず、幕府の方途がゆらいだ。特に、江戸の町から艦隊を望見できるまで江戸湾深く侵入されたことは幕府の深刻な問題になった。

 阿部から諮問された溜間詰の容保や井伊らは、我が国は外国と共に和すべきで、絶つべからざることを答申した。

 六月二十二日、将軍家慶が、黒船騒ぎの混乱の中、この一件を心配しながら逝去した。享年六十一。常に、容保に慈愛の眼差しを向けてくれた将軍だった。

 十一月十四日、容保は房総の砲台守衛を免じられ、新たに品川沖の第二台場砲台の守衛を命じられた。容保は、将軍の足元の防備だから本来の御役として喜んで受けた。ただ、台場はまだ竣工に至っていなかった。

 翌年、正月十六日、ペリーが再び来航してきた。夏から秋にかけてであろうと予断した幕府は、ペリーが半年も早く来航して慌てた。品川沖の台場造成が間に合っていなかった。それだけではない。前年と違って、ペリーは七隻もの艦隊でやってきた。

 艦隊が浦賀沖に差し掛かったころ、小旗を立てた無数の日本の警固舟が検分のために向かっていったが、ペリーはこれを黙殺した。ペリー艦隊は針路を変ぜず速力を緩めず、一路、江戸湾内を目指し、追い縋(すが)った日本の手漕ぎ舟を難なく振り切った。

 上総の富津砲台では、ペリー艦隊が富津と観音崎を結ぶ線を越えて江戸湾深く侵入するのを遠く認め砲撃を考えたが、大砲の射程がとうてい届かず、砲撃を諦めざるをえなかった。富津と観音崎とは隔てる事、およそ二里半。中間水路を航行されれば、両岸の大砲には手も足もでなかった。

 あとは砲艦外交の常で、ペリーが存分に示威するのを見ているより外なかった。ペリーは亜米利加初代大統領の誕生日の祝砲と称して十七発の一斉射撃までやってのけた。江戸の町人も魂消(たまげ)て大騒ぎとなり、これを屈辱と感じない日本人は誰もいなかった。帰れという日本の説諭を聞こうとせず、これまでの異国船のなかで特に質(たち)が悪かった。

 結局、阿部は日米和親条約の締結を決断した。下田、箱館の二港で薪水食糧石炭など欠乏の品を買うため来港の儀を差し許し、亜米利加捕鯨船が難破すれば日本側で乗組員を保護してやることとした。

 容保は、後日、事に当たった幾人もの幕臣から、二度のペリー来航と条約締結に至る経緯を詳細に聞き取った。

 ――ビッドル艦隊の来航と退去の経緯は父上に教わったが、その父上ももういない。自ら学ばなくてはならんのじゃ

 父を喪った重みが胸に迫った。

 

                             *

 

 幕府が日米和親条約を結んだ翌月、四月六日に京都御所が炎上した。容保の聞いた話では、梅の木に大量発生した毛虫を竹棒の先に藁を結びつけ火で焼き焦がして退治していたところ、飛び火して近くの湯殿の屋根に燃え付いたという。

 ――とんだ失火ではないか。国難に向き合っているこの時節に……

 容保は呆れる気持ちを抑えるしかなかった。御所は一宇も残さず殿舎を焼失し、その火が、西は浄福寺、北は今出川、南は下立売におよぶ町々を襲っておよそ二百三十の町、六千余戸を焼亡した。口さがない京雀からこの大火は「毛虫焼け」と綽名(あだな)されたという。

 老中の阿部から、なけなしの幕府の金を工面し、不足分は町人から借りるつもりだと溜間詰の諸侯に報告があったとき、容保は幕府の苦衷を思った。

 

 安政二年(一八五五)十月二日夜も更けた頃、江戸は大地震に見舞われた。元禄十六年(一七〇三)の大地震以来の激震で、今次の地震被害がはるかに上回った。

 武家屋敷、町屋、寺院、土蔵に至るまで殆んど倒壊し、その後、大火が起こり、平均二町の幅で長さ二里十九町(幅二百メートル、長さ十キロメートル)が焼亡した。町人、武家合わせて死者一万人に上る未曾有の大災害だった。

 国許に戻っていた容保は、江戸から次々届く飛脚によって被害を知り呆然となった。和田倉御門内の上屋敷はいくつもの殿舎がほぼ全壊、芝の中屋敷でも幾棟も倒壊した。それだけでない、品川沖第二台場砲台の守衛のため兵営に使っていた元鳥取藩邸も倒壊し、圧死するは百六十五人に上ったと報告を読んだ。

 容保はあまりの被害に落胆したが、気を取り直し、早速、復興の態勢を整えた。江戸では家老の差配の許に屋敷の復興にあたり、容保は国許で復興財政を指揮することにした。江戸と領国の協力こそが復興の要だった。

 大震災の翌日、老中阿部正弘が、老中連署で佐倉(さくら)藩主堀田正睦(まさよし)を召命し、老中に任命した。阿部自らは老中首座の地位を堀田に譲って堀田に次ぐ立場に引いた。江戸家老の書状で新しい人事を知った容保は、あれこれ思いを巡らせた。

 幕府にとって、京都御所再建に多額の金を要した直後のこと、これから海防に金がいくらあっても足りないところ、さらに江戸城の補修、町方の復興支援に多大の費えを要することになる。

 ――人に悟られないよう、阿部殿は外見上、冷静な振舞を保っておられるだろうが、内心、気力が萎えそうなのではあるまいか

 阿部殿の御心痛やいかにと思った。

 昨今、外国勢力の圧力で多事多難、これ以上の問題に応じるには限界を覚え、海外事情に詳しい堀田を老中の列に加えたのだと容保にはわかっていた。

 江戸大地震から二十六日後、一年余を費やし、ようやく新たな禁裏が竣工したと聞き、再建の手配を脇でみてきた容保は阿部の苦労を遠くからねぎらいたい気持ちになった。天皇や公卿は、阿部の誠意にたいそう感激して、公武の間柄はさらに良くなり、幕府の信任はいやでも高まったに違いない。容保は幕府大変の折にいい知らせだと喜んだ。

 ――帝(みかど)は、新築なった御所で檜(ひのき)の香りに包まれ、阿部殿に感謝しながら日々の生活をお楽しみになられればよい

 容保は、直面する海防の危機に思い悩むことが、天皇の仕事でないと承知している。

 

 新たに老中となった堀田の様子や幕府内の評判が会津在国の容保に知らされてきた。堀田は、天保十四年(一八四三)、三十四歳にして一度老中を辞めたことがあって過去の人と思われていた。容保は、辞職後、名誉を与えられ長く溜間に詰めて閑々と過ごす堀田の人となりを見知っている。

 此度、四十六歳にして再度、老中に就任し世間をあっと言わせることになった。その驚きは佐倉(さくら)の返り咲(ざ)きと落首にまで詠まれたらしい。

 

      地震(ぢしん)から ひらくさくらの 返りさき

 

 容保は堀田が開明的であることを知っている。これからは開国して西洋の文化を大いに取り入れたらよいと考え、人にもはっきりそう語る人間である。領国佐倉藩十一万石の城下に有力な蘭方医を招聘し順天堂と名付けた立派な医院を建てるなど、西洋技術の導入に積極的である。

 堀田は、日本と西洋を比べ、日本が技術で劣ることを率直に認め、理の通った話を好む人間である。物言いの率直な分、保守派、攘夷派からは蘭癖(らんぺき)と呼ばれ、オランダかぶれという悪口を貼られている。

 堀田をはじめ、開明派の一群の人々は、日本が精神と能力で西洋に劣ると毛ほども思っていない。鎖国した二百数十年の間に、工夫、発明、技術において一日の長を西洋に許したのだから、これからどしどし追いつけばよいではないか、追いつき追い越し、西洋の脅しに屈しない軍事力を早く備えることが肝要。そのためには開国し、通商し、利を上げて富強を目指すに限ると考える。

 容保はこうした考えの一団の大名が現れてきたことを知っている。容保は己の考えを公言する立場にないことを弁えているが、この大名たちに近い考えを持っていた。

 開国派は、世界の列国に仲間入りし、海外に雄飛して国威を高めることこそ、これからの日本の道だと信じている。薩摩藩主島津斉彬、佐賀藩主鍋島直正、福岡藩主黒田長(ながひろ)もこの考え方だった。

 特に、堀田は、この議論の一体どこに異論の余地があろうかと不思議にさえ思っているようだった。堀田の頭の造りというのは、攘夷論におどろおどろしい情念を感ずるばかりで、攘夷論者の心情をわかるにはおよそ縁遠くできているに違いない。容保にとって、攘夷か開国かという論争が国論を二分しかねないと、気を揉むことが確かに増えている。

 

 

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」六節「磐根の亀裂」(無料公開版)

 

 

 

 

 

七 公武の根本 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を見る

 

 追いつけばよいではないかという論法で蘭癖から開国、開港を論じられると、逆に、この様(ざま)で通商条約を結べば、破落戸(ごろつき)の恫喝に震え上がった処女(むすめ)がやすやすと手(​てご)めにされるのと同じではないかと感ずる男が小石川にいた。

 水戸の老公、徳川斉昭は些細な事柄に崇高な精神性を見出したがる気質が濃厚で、自然科学的な現象にまで観念論をべっとりと塗りつけるところがあった。思い入れに捉われず実証的に淡々と事を進める堀田と対極に立つ性癖だった。

 容保は父から聞いて、斉昭の気質の一端なりとも解っている。父は、斉昭の従兄弟の間柄で、生前、小石川の水戸藩邸と行き来も多く深い親交があった。互いの性格が全く異なるせいか、不思議なことにうまが合うらしかった。容保は、斉昭の性格や水戸学の影響を考え併せれば、斉昭の唱える攘夷論の言わんとすることが、賛同はできないものの、それなりに分かりはする。何も、西洋技術を全く受け入れないわけでもない。

 斉昭は領内で種痘を施し、自ら指揮して大砲を鋳造し、西洋船を建造するほど、西洋技術の取り入れに熱心だった。斉昭にとって技術の取り入れをいけないというつもりはないらしい。大切なのは、取り入れる側の精神と矜持である。己の精神性は、異風の文物にかぶれた蘭癖とは全く違うのだと高く矜持を保ち、厳格に一線を引いているのだと容保は知っている。

 斉昭は、自ら主体的に選び取り、日本の文化と伝統を損なわない工夫の末に西洋文物を堂々と移入することをよしとした。外国の圧力に屈して己の矜持を失い、うろたえるように文物を入れるのは恥ずべき態度だと見る。そのような精神では、いずれ日本の日本たる由縁を失ってしまうと考える。斉昭にとって、それは亡国と同じことなのだと容保には分かる。

 斉昭は、同じ蘭癖でも島津斉彬とは、内心の疑念を隠しつつ、書面で西洋技術に関する質疑応答をやりとりし、それなりに交りを結んだと聞く。しかし、こと堀田となると、蘭癖と悪し様に公言し、忌み嫌い、何としても相容れない。

 斉昭は、堀田が西洋文物の移入を急ぐ余り日本古来の武士(もののふ)の崇高な精神を打ち捨てるのではないかと常に疑って白眼視し、辛辣な批判を浴びせかけるという噂をよく聞く。斉昭の通例で、策を弄し常に陰で堀田に悪く謀ると、斉昭を嫌う幕僚から聞いたことがある。

 斉昭は水戸学で育ったせいか、名分にこだわり軍事にも観念的だった。その斉昭が意気揚々、自藩で鋳上げたばかりの大砲を試射した話を幕僚から聞いて、容保は強い印象を持った。

 その水戸藩鋳造の大砲が海浜の小高い丘に据えられたとき、青銅製の砲身上部に「太極」の二文字が肉厚に鋳込んであって、春の日差しに鈍色(にびいろ)に輝いていた。大和魂を目にも見たくばこれを見よ、と言わんばかりの太々しい存在感に仕上げてあった。

 奉行の大声一下、新鋳の大砲は百雷の大音響を発し濛々たる黒煙を吐いて丸い砲弾を撃ち放った。撃った弾が丸いとあからさまに見て取れ、その丸々とした弾が山なりの孤を

「つーっ」

 と描いたことも立ち会った皆に、たしかに見て取れた。弾がさほど遠くない海面に落ちるや、

「ポッチャーン」

 と小さな飛沫(しぶき)が上がって同心円状にあわあわと小波(さざなみ)が立ち、あとは何事もなかったように、春の海原がのたり、のたりと穏やかに広がっていたという。それでしまいだった。

 視察を許された一団の中から

「おーっ」

 という声にならない気息があがった。俳味を解する者がいれば、なにか一句をひねりたくもなろうかという風情だったらしい。

 斉昭は飛沫(しぶき)の騰(あ)がるさまに壮烈な心を掻き立てられたのであろう。床几からすっくと立ち上がり、両の拳を握り締めて

「むむっ」

 一声うなったと聞いた。斉昭にとって西洋技術がおおよそ、こうしたものであれば、蘭癖の堀田とうまの合う筈がないと容保は思った。水戸学の矜持が邪魔して、西洋文明をそっくり真似る勇気がない。そっくり真似なければ性能は西洋に劣ることになる。

 

                           *

 

 安政三年(一八五六)七月になって、幕府には思いもよらず、ハリスが突然下田に来航し、駐日米国総領事を名乗った。幕吏と談判し、この地に滞留することを受け入れないなら直接、海路江戸に向うと脅し上げて強引に玉泉寺を借り受けた。

 ハリスはこの寺に入る前夜、少しの達成感を得てこれから遂行する大仕事を思い浮かべ、興奮で眠れなかった。眠れなかったわけはそれだけでなかった。蚊に襲われた。ハリスにはよほど印象的だったか、翌日、蚊はたいへん大きいと、その驚きを日記に書いた。

 ハリスはこの寺を米国領事館と称し、苦労して旗竿を押し立て領事旗を翩翻(へんぽん)と掲げた。奇矯な初老の亜米利加人が大騒ぎで何かしていると幕吏から冷ややかに見られていることなどハリスはなんとも思わず、冷笑を返すくらいの人物のようだった。厄介な亜米利加人が来たものだと下田奉行が江戸に言って寄越した。

 八月、容保は江戸に参覲して、地震で倒壊したあと江戸家老が再建した新しい屋敷に入った。その直後、二十五日になって、江戸中に大風雨が吹き荒れ、高潮のために溺死する者が多く出た。それだけでない。築地西本願寺の御堂が倒壊した。前年の大地震に続き、またもや大災害に襲われた。

 容保にとって、翌月に敏との婚儀が控えていた。何かと忙(せわ)しい日を過ごす中、ハリスのとかくの噂を耳にした。よく意味がわからない噂ながら、開国とはこういうことなのだと自らを納得させた。

 

 阿部はハリスの来日の目的が通商条約締結にあると知って、十月、堀田を外国事務取扱に推任した。堀田にはこれまで、老中首座として勝手掛を任せ幕府財務を主管させてきた。これからは、外務も兼務させる。さらに阿部は、目付と勘定奉行の中から幕府きっての俊秀九人を抜擢し、外国貿易御用取調を命じ、ここに外交、通商の専任組織を幕府に初めて立ち上げた。

 幕府は、この時から、外(と)つ国(くに)、異国、蕃国などの否定的語感のこびりついた言葉を止め、以後、外国という手垢のつかない呼称を用いることにした。新たな事態に新たな造語で対応し、外国の概念を客観的に把握したと暗に言ったようだった。こういう配慮を見て取り、容保は溜間詰の立場から表立(おもてだ)たないように配慮しながらも、老中阿部を支持した。

 容保は、阿部の得手が広い視野と平衡感覚に基づく政治的調整にあると思っている。阿部は、これからますます内政で調整機能が必要になると見て、海外事情に精通した堀田に外交、通商を委譲したのだと分かった。阿部が内政、堀田が外交。いい人事だと容保は思った。

 この人事と新組織は、当然のことながら、阿部伊勢守がいよいよ、通商へ舵を切ったと受取られた。政務参与を勤める水戸の老公が切歯扼腕し、こう言ったという噂が容保の耳に入ってきた。

「おのれ勢州、わしを差置き、蘭癖の堀田めを採ったか」

 開国し通商を始めるにしても、日本の精神を高々と掲げた別のやり方があるだろうと、斉昭が常日頃言って回るのを容保はよく知っていた。斉昭が幕政に関与する立場にありながら幕閣に深い恨みを含んだことを知り、容保は阿部に掛る負担が大きくならないことを祈った。

 斉昭は幕閣から次第に疎(うと)んじられ、幕僚からは触らぬ神に祟(たた)り無しとばかりに、さりげなく距離をおかれ、黙殺されるようになった。異様な雰囲気は城内で誰もが感じるようだった。

 それもこれも、とっつきの悪い意固地で頑(かたく)なな人柄から発する毒炎のような極論のせいか。さりとて斉昭にすれば、このまま黙ってはおれないだろうと皆が薄気味わるく感じているとか。容保は幕僚から聞いて憂慮した。

 容保は、父がかつて語った話を思い出した。天保年間、斉昭が急激な藩政改革を断行したおり、容敬は、かくも急で厳しい変革は失敗すると何度も忠告した。果たして、斉昭はその忠告を聞き入れず、水戸の藩政は却って乱れたという。

 容保は、反感の故に斉昭が幕府の不為を謀るのではないかと懸念する一方、父でさえ止められなかった人物に己が何か言えるはずがないと諦めていた。

 のちに聞いたところでは、この時期、斉昭はいつものように策を練ることに夢中だったらしい。ただ、斉昭の策とは、自分でそれと意識しないものの、多くの場合、強引な謀略だった。姉聟の関白鷹司政通を通じて帝(みかど)に働きかけた。幕府の気に入らぬ動きを天皇に言いつけるような子供っぽいやり口を普通は想像できないから、斉昭の策は当初、静かにうまく運んだようだった。

 天皇に外国人を醜悪と印象付け、醜夷に日本侵略の密謀ありと危機感を掻き立てた。夷狄(いてき)、打ち攘(はろ)うべしと強調し、幕府の極秘事項を朝廷に漏らし続けた。朝廷から幕府の開国方針を牽制させる策のようだった。

 斉昭の考えの内実は、幕閣に容れられない己の考えを悔(くや)し紛(まぎ)れに朝廷にぶちまける質(たち)の悪い企てだった。天皇にしても、関白から見せられる斉昭の書状が感情的な筆勢だとは思うものの、そこは御三家の一人が言うのである、そっくりそのまま信じた。

 阿部がこうした朝廷の内情を知るには時間がかかった。ようやく斉昭の悪謀を知り、幕府は京都手入と呼んで恐れた。斉昭は前年の安政二年(一八五五)江戸大地震で藤田東湖、戸田忠大夫の側近を失った。

「この二人が生きてさえいれば、斉昭の毒策ははるかに穏当なものだったろうに」

 阿部が窃(ひそ)かに嘆息したと容保にも聞こえてきた。

 安政四年(一八五七)秋、堀田は、ハリスの江戸城登城を許し、通商条約の締結を決意した。岩瀬忠(ただなり)ら幕僚に命じ、ハリスと激しい交渉の末、年の終わりまでに合意案をまとめ上げた。現実的に見て、日本が持ちうる最善の案だと幕府は自信を持った。

 

 容保は、徳川の御代には犯すべからざる大法があると、父に学んだ。幕府創設以来、徳川宗家の当主に限って征夷大将軍の職位を帝(みかど)から付与され、征夷大将軍率いる徳川幕府が国家主権を丸々、受託することにしたという。これが幕府の本質で絶妙な国家設計だった。朝廷は国権執行の委託者、幕府は受託者と、法的な立場が明らかになった。

 徳川家にとっても、国政を執る正統性が単に私的な軍事的威権に拠るだけでなく、天皇からの付託に応えるという名目が立った。朝廷と幕府の役割を明確にした思想こそが幕府の安定をもたらし、長年にわたり日本に平和を保ち続けた根本だった。朝廷も政治的に一定の機能を果たし、その代償にささやかながら経済的な裏付けを幕府から得た。

 四年前、日米和親条約を締結したとき、幕府は法理的に当然のことだが、勅許の介在する余地を認めなかった。朝廷の合意を顧慮することなく、再来航したペリーと交渉を重ね、幕府だけの責任と判断で条約を締結した。容保は父の言った犯すべからざる大法とはこれだと納得した。

 完全に委託された国政の枠内では、幕府が和親条約を締結しても、勅許という朝廷の合意など要する道理がなかった。それは差出口というものだった。この枠組みにおいて、安政元年、天皇は和親条約締結に何の不満も持たず、聞き捨てにしておけばよかった。事実、天皇は幕府を信じ、これまでどおり国権執行を任せ続けた。その故に安定した政治体制が継続した。

 斉昭が、亜米利加と通商条約を結ぶためには勅許が要ると主張することは、幕藩体制の大本に斧を撃ち込むようなものだと容保が気付いたのは容敬の教えのおかげだった。これまで幕府は、条約締結に勅許を得る必要がないという立場を固くとってきた。ただ斉昭が、勅許が必要だと脇からあまりに小うるさく、ねちっこく騒ぎ立てた。条約締結を阻止するためである。

 堀田は異例ながら、日米修好通商条約を結ぶために勅許を求めても、難なく降りると見た。日米和親条約を結んだときは、勅許を求めなくとも不都合はなかったのだから、こう見ても無理はなかった。

 堀田は開明的な分、理の通る話を好み、理の通らない話や情念的な国防論は理解さえできないことが多かった。堀田は斉昭の執拗さから逃れ、反対を重ねる斉昭に胸を張って条約を締結できるのなら勅許をもらうのも悪くないと考えた。

 安政五年(一八五八)一月、堀田は、ハリスと合意した通商条約案締結に勅許をうるため、自ら京都に向けて江戸を出達することを決意した。

 京都では、堀田が主だった公卿に理を尽くし懇々と世界情勢を説いても、ついに天皇に上奏する機会を与えられなかった。天皇は攘夷一点張りの叡慮を改めず、鎖国を続けて国を侵される危機感を堀田と共有できなかった。隣の清国が陥った国難を自国と重ね合わせて見られなかった。感情に訴えかける斉昭の書状よって、すっかり開国反対の立場になっていた。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」七節「公武の根本」(無料公開版)

 

 

 

八 知らぬが亡鬼 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 天皇はじめ公卿たちは、この国が開闢(かいびゃく)以来、異国人を寄せ付けず、そのため清浄清潔な国柄を保ってきたと信じていた。鎖国などは、ほんの二百三十年前、三代将軍家光がたまたま当時の政治情勢を見て決めたにすぎないことを知らなかった。

 京都の蛸薬師通り室町の尾張徳川屋敷が建つ辺りに、二百八十年前、正親町(おおぎまち)天皇の御代には南蛮寺の三層の教会堂が聳(そび)え、南蛮人師父(パードレ)の礼拝に多くの日本人切支丹(きりしたん)宗徒が集まった日常風景を知らなかった。鷹司邸や九条邸からほんの二十町足らずの距離でしかない。

 ある絵師がペリー像をわざと醜悪魁夷に描き、印象深く仕上げた瓦版が広く世に出回った。目は吊り上り髯の剃り跡が濃くて、むさい市井のごろつきを上回る悪相だった。天皇はそれを見て、人か禽獣かと大いに驚き、腕をわななかせた。

 天皇は絵師の誇張した異様な描き振りに、かえって絵の信憑性を納得したかのようだった。夷狄(いてき)は醜く、臭く、禽獣と変わらず、清浄な国土が汚(けが)れると、揺るぎない信念をいよいよ固めた。

 ハリスは、母国でもあまり評判がよい男とは言えず、日本では、ことさら芳しくない噂がつきまとった。下田奉行と交渉し、思うに任せないとき洋剣を抜いて奉行を脅しあげたとか、故意ではないにせよ、畳に置かれた日本の通詞の刀を踏んだとか、粗野にして下品、粗忽にして傲岸であると風聞が飛んだ。

 極めつけの悪評によると、安政四年(一八五七)十月二十一日、ハリスが江戸城に登城し将軍拝謁を待機していた折、火鉢の縁に足を乗せて暖をとったという。この噺には尾ひれが加わり、火鉢には葵の御紋所がついていなかったため、御数奇屋茶坊主衆が大いに安堵し、御紋所のついた隣の火鉢を選ばなかったことを逆にハリスに感謝したと、情けない落ちがついた。

 別説では、この時、炭火で靴下を焦がし穴があいたため、将軍の御前で謁見した時は足指がぬっと出ていたと、滑稽仕立ての噂になって流布した。こうした風聞が天皇の耳元にまで及んで、ハリスへの嫌悪をかきたてた。

 さらに、ハリスと通詞のヒュースケンが、看護婦を二人、雇いたいので斡旋してほしいと下田奉行に要望したという風聞も日本人の反感をかった。洋夷二人はどう見ても看護婦を要するほどの病気とは見えず、奉行所の役人が首をひねって、よくよく問いただしてみると、看護婦は一人ではいけない、若くないといけない、美しければなおよい、と言い出した。結局、それぞれに女がほしいだけのことだとわかった。

 ハリスは懇願し、この懇願が黙殺されると、下田奉行所の役人に殊の外、立腹し、そのあと必死の嘆願を行なって下田奉行に承諾させたらしいと噂が広まった。顚末を聞いた者たちは、だれもが皆、筋の通らぬおかしな要望だと思い、幕府の弱腰に腹立たしくなり、ついには、大和撫子(なでしこ)を醜夷の貢物(みつぎもの)にするのかと怒りをたぎらせた。

 このような風聞とも虚説ともつかない噺が流布するなか、条約の相手としてハリスの信頼感が損なわれた。老中堀田が京都にきて、ハリスを相手に日米修好通商条約を結びたいと言っても、朝廷は聞く耳をもたなかった。

 堀田は斉昭による京都手入がここまで深く効を奏していることに初めて気付き愕然とした。堀田の甘さだったが、堀田を咎め立てばかりもできなかった。朝廷では公卿を集めて群議を重ね、なお国是を攘夷に統一できないときは伊勢神宮の御神籤(おみくじ)を引いて国の決断を委ねると勅諚を出す始末だった。 

 堀田は籤(くじ)で国運を決すると聞かされ、余りの情けなさに両手で面を覆って男泣きに泣いたと噂がたつほどだった。結局、米国との通商条約に勅許は降りず、堀田は空しく江戸に帰還した。

 当時の日本における最高位の大法が、堤に蟻の一穴があくように、間違いなくおかしくなった。斉昭の煽動によってである。あって許されることではないと容保は強い危機感を懐いた。

 

 ハリスは、勅許が得られなかったので日米修好通商条約の締結を延ばしてほしいと幕府から通告された。言わぬことではないかと業が煮えたが、次の機会を狙うしかなかった。機会は案外早く来た。二か月と経たず、安政五年(一八五八)六月十三日、米艦ミシシッピが下田に寄港しハリスに重大な情報を伝えた。ハリスは素早く、とてつもないその情報を幕閣に送って寄越した。

 ハリスによれば、英国は、印度国の叛乱を平定しムガール皇帝を追放し、さらに、清に過酷な天津条約を受諾させて、軍事的な余裕ができた。そこで仏蘭西(ふらんす)の協力をえながら戦勝の余勢を駆って、四十余隻の艦隊を清から横浜に回航して来るかもしれないという。

 清国では、英仏軍が白河を遡航し大(たーくー)砲台を二時間で陥落させて天津に進攻したという。清朝の咸豊帝が屈辱的な条約を呑まされ、まさに城下の盟とはこのことだった。

 急報を聞いた幕府は、英仏艦隊が来れば武力を背景に過酷な条約を迫るに違いないと恐れ、清国の轍を踏むまいと焦慮した。かつてのペリー艦隊七隻を何倍も上回る英仏艦隊が品川沖に展開されれば、悪夢としか言いようがない。露骨な脅迫外交を展開する英国に比べれば、米国のほうがまだましだった。ハリスの虚言ではないかとも疑ったが、虚言と言い切る根拠もなかった。

 米国と条約を締結した後は、たとえ第三国から圧力がかかっても、米国が仲介の労をとるとハリスが約束したのが心強かった。それなら英仏艦隊の悪夢を見る前に、米国と条約を締結したほうがよくはないかと考える幕僚が多くなった。脅し上げられて結ぶ条約より、交渉してまとめ上げた条約の方がはるかによい。

知力を尽くしてハリスと交渉し、幕府も相当のところまで押し返してまとめた条約案である。ハリスがもともと英国を嫌っていることもあって、英国が圧力をかけたとしても、味方に立ってくれると日本側に期待があった。

 もはや猶予はならない、幕府は気長なやりかたで天皇から理解と同意を得ることを諦めた。もはや勅許などと悠長なことを言っている暇はない。危機を早急に回避するため、大老井伊直弼は逡巡しながらも、日米修好通商条約を無勅許で締結することを許した。

 

                              *

 

 勅許がおりないまま堀田が江戸に帰り、しばらくして幕府から、日米修好通商条約を締結したと書状で報せてきた時、天皇の怒りは激しかった。

「獣(けだもの)の国と初めて修好したと歴史に書かれ、朕の立場はどうなるのじゃ」

 さらに、幕府から主だった者が説明に来るでもなく、捨て届けの宿継奉書による一片の書状を以て、勅許のないまま条約締結を結んだと、平然と言ってよこした。その態度に、蔑(ないがし)ろにされた怒りも合わさり、天皇は譲位のことさえ口に出した。

 幕府へ抗議する意図もあったが、醜夷を容れた史上初の天皇、伊勢神宮の祖霊に報告もできない不祥事を許した天皇という立場を厭(いと)うのが強い動機だった。

 何もそこまでの事ではなかった。無知に基づく全くの誤解でしかない。異国というだけで付き合いを拒むのは理に適わないと諫言できる輔弼の臣を持たなかった。三百年前、日本人は南蛮人を招いて喜んで貿易をしていたという史実を朝廷全体が知らなかった。

 不勉強のためと言っては酷に過ぎようが、永く政事から遠ざけられた結果である。幕府でさえ、創業初期の頃は大いに海外貿易をやって利を独占していた。異国人を国内に入れても別に国土は穢(けが)れなかった。

 皇祖以来、異国と付き合いを絶った国柄だと思っているのだから、判断も何もあったものではない。この史実を知って異国との通商に障(さわ)りなしと発言したのは、古希を迎えた前関白鷹司政通ただ一人だった。この発言に朝廷中が目を剥いて驚いた。史実を知っていれば当然の発言である。誰もこの発言に取り合わないうちに、うやむやになった。あえて史実を説く煩雑さに高齢が耐えなかった。

 天皇や公卿たちが今の世界情勢を知らないために、瑣事妄言(さじもうげん)を言い立てる者にいいように流されてしまった。外国は穢れという印象が天皇と朝廷に植え付けられたあと、幕府は朝廷の蒙を啓きたくとも、聞く耳を持たない朝廷に世界情勢を説く機会さえ持てなかった。

 歴史的な前提を誤解し、そのあげく激怒した天皇は怒りを収めるすべを持たなかった。水戸藩に直接勅書を降して憤懣を伝え、外国との条約を拒否する味方を募(つの)る手に出た。安政五年は戊午(つちのえうま)の年であり、後に戊(​ぼご)の密勅と呼ばれる勅書がこうして作成された。

 天皇は、勅書を作成する前の御趣意書において、幕府から条約調印を済ませたと宿継奉書で捨て届けに言ってきたことに対し感情を爆発させた。

 

     厳重に申せば違勅、実意にて申せば不信の至りにはこれ無きや

 

 違勅にも背信にもあたるのではないかと指摘し、憤懣を籠めて幕府のやり方を咎めた。

 すでに、朝廷の意見を国政に反映すべしとの前提に立ち、幕府創業以来の大法に沿わないことさえ意識していない。天皇がこうであるため、勅書は厳しいものとならざるをえなかった。誤解が不信を呼び、反発が対立を引き起こす悪しき循環に陥った。その元凶は斉昭だと思う者がいても不思議はなかった。

 天皇は、勅書の中で、日米修好通商条約締結を批判した水戸老公斉昭と尾張藩主中納言慶勝を蟄居に処した井伊直弼を咎めた。慶勝は高須四兄弟の長兄、容保の実兄である。幕府は御三家以下諸大名と群議し、国内治平、公武合体を果たし、内を整え、外国の侮りを受けぬ策をとるようにと勅諚があった。

 勅書の真に言わんとするのは、大老井伊直弼は諸大名と群議せず独裁的に事を進め、有力大名を処罰して国の治平を損ない、朝廷をないがしろにして公武を離断したと幕政を責め、直弼に強い不信を鳴らすものだった。

 しかも勅書を幕府だけに降すのではなく、真っ先に水戸藩に降したため幕府の面子の問題にもなった。条約締結を捨て届けにした意趣返しというわけだった。井伊は謀略にも似た戊午の密勅の作成に加わった者を断固、処断しなければならないと腹をくくった。

 将軍家定の後嗣に一橋慶喜を推し、勅許なしで締結した条約を非とする大名から、処分が始まった。安政の大獄である。京都では、末端の尊攘有志や浪人の検束が始まり大量の処断者を出したあと、戊午の密勅に関った公家に及び、最後は密勅に署名した高位公卿たちに及んだ。免職、隠居、蟄居、遠島の処断がくだり、最も厳しくは斬首とされた。

 大獄は、安政五年(一八五八)七月から安政六年(一八五九)十月まで続いた。あまりのことに国中、灰神楽の立つような大騒ぎとなって、直弼に怨みが集まった。

 井伊家は親藩筆頭の勇武の家である。家康から精鋭の象徴として赤装の甲冑を許され、常に先陣を賜るため赤備(あかぞな)えと畏怖された。その連想から直弼は赤鬼と綽名され、恐れ憎まれた。こと、ここに及んで、幕府と朝廷の関係修復は手のつけようもなくなった。

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」八節「知らぬが亡鬼」(無料公開版)

九 新雪を染める 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 安政七年(一八六〇。三月、万延と改元)三月、容保は桜田門外の変を国許で知った。あろうことか、水戸藩血気の脱藩者が、登城する大老井伊掃部頭を要撃し、折から積もった新雪を鮮血で染めたという。和田倉御門脇の中屋敷にいた会津藩士と、親戚筋の遠藤但馬守家臣の実見談を交えて、江戸藩邸から会津に飛札が届いた。凄まじいことが書かれてあった。

 挙に加わった薩摩藩の大(だいひょう)の若侍が大老の首を大刀の鋒(ほうぼう)に刺し貫き、深手を負って八重洲河岸(やよすがし)沿いに馬場先門、和田倉門の前をよろばいながら通り過ぎて行った。新雪に残された足跡は乱れ、多量の血が滴っていた。

 若侍が辰の口に至ると、あたり一面、新雪に覆われた朝の静けさの中で、道三濠が高く水音を立てていた。この日、三月三日は上巳(じょうし)の総登城日にあたり、辰の口あたりは和田倉門を通って登城する大名行列が集まっていた。

 若侍は、驚いて遠巻きにしんと静まり返った各藩家臣を見渡した。若年寄遠藤但馬守邸の門前で胡坐を掻(か)き、新雪の上に討取ったばかりの首をごろりと置いた。関孫六兼元、二尺六寸の業物は丁寧に右脇に置いた。

 若侍は満身創痍、後頭部から背中にかけてざっくりと斬られ、大量の出血があった。荒い息をようやく収めると、左手で首級の髻(たぶさ)をむずと掴(つか)み眼前に掲げた。つい今しがたまで大老だった面(つら)を凝視した。首は大人しく瞼(まぶた)を閉じてはいなかった。若侍の人さし指は斬り落とされて無かった。

 しばらく眺め、これで見納めと若侍は首を傍らに置いた。身に付けた撃剣用の稽古胴を脱ぐため脇の紐を断とうとしたが、気息奄々(えんえん)、ついに紐を切れずに諦めた。

 鋭鋒を上に無銘美濃もの一尺八寸の脇差を雪に突きたて、のし掛かって何度か首を突いたが死に切れず、瀕死の苦しみに打ち震えていた。遠巻きにしている者に身振りで介錯を懇願したが、誰もすくんだように応ずるものがいない。遠藤但馬守屋敷の警士が死に切れない若侍を戸板に乗せて正面の辻番所に運び入れたという内容だった。

 容保は、その直後、今度は老中安藤対馬守信正から継飛脚を受取った。至急、上府せられたしと懇請を受け、幕閣の苦衷を思った。容保は、請われるまでもなく、素早く準備を整え供の者を動員して、速やかに鶴ケ城を発した。日頃の訓練が行き届いたすばやい出達だった。可愛がってくれた恩人の無惨な最期を思うと、道中の雪を蹴散らし江戸を目指してひたすらに急いだ。

 白皚々(はくがいがい)たる桜田門外に何が起こったのか、眼前に太刀風が颯颯(さっさつ)と乱れ舞う凄惨な情景が拭えなかった。八年前の正月、父容敬の病が篤いとの飛報に接し、雪中を冒して江戸に向って以来、これほど急いだ上府は初めてだった。

 

 三月中旬、江戸に到着した容保は、春爛漫の風情を顧みることなく、直ちに老中、溜間詰諸侯と会談した。

 老中、安藤対馬守信正(磐城平藩主)は、この年正月に若年寄から老中に昇進したばかりの四十二歳。切れ者の評判が高かった。何よりも井伊の手垢がついていない。

 安藤は久世大和守広(ひろちか)(関宿藩主)に助力を要請した。久世はかつて井伊の強圧的な処罰方針に、幕閣中、唯(ただ)一人反対して、罷免された硬骨の男である。井伊に穏やかに従ってきた他の老中に今次の事変処理を手掛けられるはずがなかった。久世は閏三月一日、老中に復帰した。

 安藤と久世は水戸藩士が大老を暗殺したことを不届きと断じ、尾張、紀伊両藩に水戸藩を武力で制圧させる案を溜間詰の諸侯に諮った。容保は、将軍家の身内同士に江戸市中で戦を演じさせる非を説きに説いた。これまで見せたことのないほどひたむきで、決して自説を譲らない切迫した気魄に溜間(たまりのま)は異様な重苦しさに包まれた。そうまで容保が説いても、安藤、久世はなお同意しなかった。

 危急の切所にあって、兇徒に藩主の首を獲(と)られた井伊家は武門の意地を守るため、憤怒の面差しを作り、怒りに震える手を佩刀に掛けて見せなければならなかった。なんらかの落とし所がなければ藩内の怒りを収めようもない。それが武門というものである。安藤、久世の腹案はそこを重視していた。

 危機的な状況下に、容保は間髪入れず、裏で手だれの家老たちを彦根井伊家と水戸徳川家、尾張徳川家に密かに遣わした。会津松平家は、井伊家と遠戚のみならず、普段から溜間詰重鎮の親しい間柄である。

 水戸徳川家とも遠戚。高須藩の範次郎を加えた水戸徳川家の血筋で、尾張徳川家の前当主慶勝は高須四兄弟の長兄、容保の兄である。今は、井伊によって、藩主の座を弟に譲らされ隠居謹慎の処罰下に置かれている。

 会津松平家は、どの家とも幾重もの絆(きずな)の合わさった家である。会えないはずがない。それどころか、頭を抱え困り果てているとき訪問を受けて地獄に光明を見た思いだと、会津藩家老は窃(ひそ)かに感謝される有様だった。

 容保は当事者の両家の真意を微に入り探らせた。そうした調停の試みは念を入れたもので、紀州徳川家をはじめ幕閣要路にも及んだ。

 和解したくとも、そうは言えない立場と意地がぶつかり合って、抜き差しならない戦があわや江戸の町で起きるかという間際、縺(もつ)れた糸を解きほぐす糸目を容保が機敏に探し出してきた。容保はすぐさま将軍家茂に拝謁し、将軍家身内同士の戦の非を説いた。眦(まなじり)に必死の決意が漲(みなぎ)り、忠誠溢れる熱い言上となった。

 会津松平家の代々の藩主は七人の将軍世子の元服において理髪の役を果たしてきた。さらに、天皇家に慶事の祝意を言上する将軍名代を務めた名誉の家である。近年は房総で沿岸警備の任につき、前年まで品川第二砲台を預かって江戸湾に睨みを利かせてきた。軍事的な貢献も十分に果たす有力な藩である。将軍にとってもその一言は重い。

 容保は遂に十五歳の将軍を動かした。将軍直々の言葉によって、今にも水戸藩邸に討ちかからんばかりの井伊家の憤激を辛うじて収めた。将軍家茂にせよ、井伊家、水戸徳川家にせよ、そして老中の安藤信正にせよ、内心密かに、胸を撫で下ろした。

 将軍家を巻き込み、御三家と譜代筆頭が相撃つ惨劇を避けるよう説得できる役回りは、家格といい、名望といい、縁戚関係といい、会津藩にしか果たせなかった。容保が会津藩五十年の血脈と軍事貢献と忠義一誠の集成をもって危機に立会い、軍事的な身内争いを未然に防いだことは奇跡と言ってよかった。

 幕府は、ひとまず争乱の危機が回避できても本来の政事が全く止まってしまった。どう動いていいか幕閣が困惑する中、あとを継いだ安藤、久世の政権が考え始めたのは、まず井伊を否定し、ついで朝廷と一体化することによってその権威を借り、失墜した幕威を立て直すことだった。

 天皇を尊重するという目標は、幕府を含め世の皆が皆、反対するはずがなかった。ただ外交政策はそうではなかった。前年から開国して横浜で生糸が面白いように高値で売れていく状況を維持、発展すべしという者たちと、締結した条約を破棄して夷狄を追出し元の鎖国に戻るべしという者たちがが真っ向からぶつかり、国論の分断がいっそう激しくなった。

 

                             *

 

 容保は、井伊暗殺のあと争乱を抑え調停に尽力したことを将軍家から高く評価され、この年十二月に左近衞権中将に昇進した。容保は、深夜一人、直弼の形見わけの銘国俊を抜き放って、冴え渡る冷ややかな刀身をしみじみと眺めた。胸中、思うところがあった。容保二十六歳。

 文久元年(一八六一)三月、和田倉門内の会津藩上屋敷で、家老の横山主税(ちから)常徳が鄭重に相対する人物がいた。開け放たれた障子の外には、九千余坪の邸内のあちこちに満開の桜が眺められ、遠くから春鶯の囀(さえず)りがしきりに聞こえてきた。

「国許では、まだまだ根雪も残っておっての。江戸の桜が懐かしいのう……」

 一年半前に高齢を以って依願隠居を許された山川兵衛重英が、横山のたっての願いで数日前、上屋敷に到着し、本日の会談に臨んだ。山川は高齢だったが、俊英を鳴らした頭脳は衰えを見せない。黄みがかった白髪の細髷に明晰な眼差しがよく光り、老成した英知は誰の目にも明らかだった。

 山川は横山の十八歳の年長、父子ほどの先輩である。国許から江戸へ六十一里、通常、五泊六日を要する道中をさほど遅れも取らず上ってきた。

「昨日、敏姫さまにお目通りを賜りましての。お元気そうで、すっかり奥方さまらしゅうなられた……」

 山川は、幼少の頃より、容保と敏の養育に任じ、ほとんど祖父のような情感が若い藩主夫婦と通っていた。夫婦の仲睦まじい生活ぶりをお付の者から聞いて、何よりも喜んでいた。横山も嬉しそうに微笑んで、うなずいた。

 二人は閑雅な面持ちで時勢を検討し始めた。安政七年(一八六〇)三月三日、上巳(じょうし)の節句に大老井伊掃部頭が首を獲られてちょうど一年が経った。横山はこの間、政情、朝廷の計らい、外国公使の言動、幕閣の動き、国内世論、各藩の動きを丹念に見つめ分析を怠らなかった。こうした情報を公式に国家老に伝えるとともに、隠居した山川には横山から私信で逐一報告し、その意見を請うてきた。

 会津藩がこれからどう対処すべきか、二人は、書状のやりとりでしばしば語り合ってきた。

 ――そろそろ、世の動きをあらためて整理し決断を下す機が熟したのではないか

 横山はそう思い、是非にも山川と直接会って議論しなければならなかった。

「去年は多難な年でござりましたが、殿のご発奮もあって、かろうじて江戸市中の戦は避けられ申した」

「去年は三月、閏三月と、まことに肝が冷えたものよ。上様お身内が江戸で戦を始めては余りに情けないと、あの時期、殿をお助け申した貴公の働きも見事でござった」

「殿も、上様の覚えめでたく、中将にご昇進。多事多難の折、これから大いに働けとの思召しにござりましょう。我ら家老一同、心を引き締めましてござります」

 山川兵衛と横山主税は、ひとまず幕府、水戸藩の抗争を抑えきり、いよいよ、両者の咽喉に刺さった小骨を抜き去ることができるのではないかと互いの予測を確認し合った。勅書返納問題である。

 かつて幕府は、水戸藩に降った戊午の密勅を幕府に納めよと命を下した。その途端、水戸藩家中は、幕命に従い勅書を幕府に返納すべしという者、叡慮に従い諸藩に廻達すべしという者とが群がり出て油紙に火がつくような騒ぎとなった。藩論が沸騰し、党争が激化し、その争いは、ついに桜田門外の凶行となって幕威を大きく損なうことになった。直弼死後、いつまでも密勅が水戸にあってよい筈はなかった。

 会津藩の江戸家老と元家老は、この一年間、それぞれの人脈を使い、つぶさに水戸の藩状を観察してきた。殊に山川兵衛が亡き斉昭に高く評価されて培った水戸藩の人脈は広範で深かった。

 水戸藩内の潮目が変わったように思え、今や働きかけによって、勅書を自主的に幕府に納めるよう水戸藩を説得できると二人は見た。

「されば、いずれかの者を水戸に説得に遣ったらどうじゃ。論を唱えること水戸学で鍛えた相手じゃから、それ相応に弁の立つ者でなければのう……」

 会津藩きっての二人の知性は、盛んに囀(さえず)る鶯の戯れを遠くに聞きながら、それから暫く慎重に人選を重ねて、密談を続けた。

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」九節「新雪を染める」(無料公開版)

十 自慢の臣 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 容保が横山の献策を得て、外(としま)機兵衛と秋月悌次郎を水戸に派遣することにしたのはそれから間もなくのことだった。出達の前日、二人は容保に挨拶に来た。

 外島機兵衛は機知に富み雄弁の才に恵まれている。国許で優秀さを見込まれて、目付、勘定奉行助、学校奉行助などを歴任し、今は江戸留守居役の任を負う。このとき三十六歳。

 秋月悌次郎は江戸の昌平黌(しょうへいこう)で長く舎長を務め、全国諸藩、学問を志す者で、その名を知らぬ者はない。薩摩、長州を含め諸国を経巡った会津藩きっての俊英である。三十八歳。

 容保は、藩主冥利に尽きると感じるのはこのような時だと、挨拶に来た二人の家臣を見てしみじみ思った。

 容保が横山と山川から聞いたところ、水戸では、斉昭に忠実な尊皇攘夷派と、幕府との関係を重視する保守門閥派に分裂して藩のとるべき方針に大激論が交わされたという。尊王攘夷派内でも、叡慮に沿って藩に下賜された戊午の密勅を諸藩に廻達すべしと主張する激派と、勅書は朝廷又は幕府に返納すべしと主張する鎮派に分裂したらしい。激派の領袖が家老の武田耕雲斎である。

 かつては、藤田東湖、戸田蓬軒の二傑が党派を率い、鬱勃たる救国思想を鳴らして尊王攘夷を鼓吹していた。安政二年(一八五五)十月、江戸大地震で小石川水戸藩邸が倒壊し両人とも圧死した。斉昭は股肱の臣二人を一度に失って、議論の現実性が空疎になり急速に論鋒の冴えが衰えた。

 耕雲斎は激派の領袖として、勅書を返納せず諸藩に廻達すべしと攘夷の意地を通しながらも、水戸藩と幕府を巡る政治情勢に深く憂慮しているようだと、横山と山川が見立てのだった。水戸藩にとって、安政の七年間は余りにも多事多難だったはずである。

 井伊大老によって老公が蟄居謹慎の罰をこうむり、あげくの果てに大反発が起こった。耕雲斎の知らぬところで、ある一派が大老の首を討ち取ってしまったということらしい。耕雲斎は、もはや、どうしていいか方途を失いつつあるに違いないと横山と山川の意見が一致したことが、今回、使者を立てる根拠になった。

容保は藩屈指の家臣二名から出達の挨拶を聞いて頷いた。

「難(むずか)しき話だが、そなたら二人なら上手く運べるに相違ない。確(しか)と頼む。これは幕府と我が藩の大事ぞ」

「ははっ」

 容保自慢の二人が深々と平伏した。容保はたくましく心強い思いで二人を見て大きく頷(うなず)いた。

 ――それにしても、山川のじいに、なかなか楽隠居はさせてやれぬな……

 横山と二人して策を立てた山川に内心、すまなく思った。

 

 晩春のある日、耕雲斎は会津藩士二名の来訪を受けた。一人は生粋の会津訛りを話し、もう一人は爽(さわ)やかな江戸弁で語った。

「御用向きは勅書返納の件にござる」

 静かだが、どきりとするほど単純率直な物言いだった。耕雲斎は緊張して話を聴いた。

 二人は多弁を用いず、幕府の立場を簡潔に語り、水戸藩の面子にさりげなく言及した。此度(こたび)、会津藩が勅書返納問題に一肌脱ぎたいと質朴な言い方を最後に添えた。結論のつもりらしかった。その後、二人は静かに笑みを浮かべ、耕雲斎と、同席した原市之進のまなこをじっと見詰めた。

 耕雲斎には、外島、秋月の語り口が耳慣れた水戸学の生硬な響きと異なって、ひとりでに頷(うなず)きたくなる日常の言い回しと、土の匂いのする諧謔に富んでいるように思えた。おそらく漢籍を博捜し万巻の書に通じているが故に、漢文調の口説から解き放たれ温かみのある物言いができるのだろうと、不思議な雰囲気に引き込まれた。

 耕雲斎は、普段、口やかましい市之進でさえ穏やかな笑みを浮かべ二人の話に聞き入るのを見た。

 ――市之進は昌平黌時代、秋月にこんな調子で面倒を見てもらっていたのか……

 耕雲斎は、市之進が昌平黌に入学し秋月のおかげで幸せな学問研鑽の時期を過ごしたことを目の当たりにした気がして、羨ましく思った。己も、知らず知らずのうちに穏やかな微笑を浮かべていると自覚した。

 耕雲斎は会津藩士のなだらかな説得に救われるような、心が開かれる気持ちになった。

「お任せ申す」

 素直に言葉がでた。このひと言がでると、會津の二人はにっこりとして、ゆっくり穏やかに言った。

「されば、そのつもりで、ご高見を賜りたく存ずる」

 こうして、秋月と外島から発せられるいくつかの問いかけに耕雲斎が答え、慎重な言い回しで己の考えを語った。語るたびに、胸に凝った鬱(うっかい)が明るく溶けていく気分を味わった。

 ――不思議な御仁たちじゃ

 耕雲斎は、原が会津藩士二人を見つめる顔つきを見て、己と原の思いが共通しているのだとわかった。

 

 その後、率直な態度で、会津の二人が小石川水戸藩邸と速やかに連絡を取り、水戸の耕雲斎らと水戸藩邸首脳とが意思を通じ合えるよう整えた。耕雲斎に安心感を与えるよう容保から指示があって、二人は行届いた手配りを心掛けた。

 容保は、人に一歩も二歩も譲って鷹揚に構える政治姿勢を身上とした。容保は會津藩最上の教育を授けられ、山崎闇斎由来の独特の神道思想を養父容敬から直伝された。

 ――こういう時は、策を用いず誠心誠意を尽くしてことに当たるのじゃ

 ――父の教えのおかげであろうよ

 容保は、会津藩主代々のおっとりした雰囲気が色濃く身に付いてきたと自覚した。

 同じく闇斎の影響を受けた水戸学では、その学徒が声高に論を張り何かと異を唱え、圭(かど)の多い議論をせわしなく戦わせるのが常だと聞く。

 同じ闇斎の系譜に連なっても、会津の学問が水戸学と異なって穏やかな学風でいるのは、藩祖の中庸をえた考え方が藩に一貫して受け継がれたためだろうと容保は思った。そんな違いはあっても、容敬と斉昭は仲良く従兄弟(いとこ)付き合いを続け、容保にしても自らの出自につながる水戸藩を大切に思う心は少しも劣らない。

 容保が幕閣におおよその進展を報告すると、安藤、久世の二老中は、幕府と水戸藩の間の深刻な懸案が解決しそうだと知って、わだかまった疑念を徐々に解き始めた。容保の温かい口添えもあって、これほど高度で深刻な政治問題に、ついに一人の罪人を出さず一滴の血を流さず、水戸藩から幕府に勅書を納めることになった。驚くべきことだった。

 思想の入り混じった激烈な感情が、なぜか温順な心持ちに変わったように見え、勅書返納問題が穏やかに収まった。嘘のようになめらかな運びだった。この働きは、会津藩の君臣一体の政治力だと事情を知る幕府要路から高く評価された。

 のちに容保が水戸藩の挨拶を受けたとき、耕雲斎から心の内を聞いた。耕雲斎は会津藩の温情的な周旋に只ならぬ誠意を感じ取り、心が素直になって、快く勅書の返納を申し出たと己の心を明かした。人をして敬服させる温かくも不思議な藩風だと耕雲斎は感服した様子だった。

 事態が穏やかに収まった旨、容保が言上に及ぶと、十六歳の将軍家茂から、心のこもった礼を言われた。口調の端々に兄を慕うような親しみと信頼が感じられた。将軍から心尽くしの礼を言われるのは、江戸市中の戦を回避したことに次いで、二度目だった。容保は、将軍からこのような礼を言われるのはこれで終(しま)いにしなければならないと切に願った。

 

                              *

 

 文久二年(一八六二)正月十五日、今度は老中安藤対馬守が坂下門外で襲撃された。朝五つ時(八時)、月次式日(つきなみしきじつ)のため大勢の大名が登礼に集まってきた真只中の凶行だった。

 安藤はこれまでの公武一和政策を引き継ぎ、紆余曲折を経て皇妹和宮(かずのみや)と将軍家茂の婚約を苦労して整えた。前年十一月、和宮を江戸に迎え、二月十一日には婚礼が行われることになっていた。これが攘夷志士と称する兇徒を憤激させた。

 異人と親しく付き合って国を売っただの、天皇廃位の準備を密かに進めているだの、皇女を人質に取って幕府の横暴を通そうとしているだの、たちの悪い噂が広く流布された。あることないこと、ない交ぜになった噂と殺意で安藤は攘夷論者から狙われた。

 坂下門は下馬と称される広大な広場の西奥に位置し、登城する大名はここで行列と駕籠を置くことが決まりだった。そこから僅かな供廻りを連れ徒歩で坂下門を通って、いったん西ノ丸に入城し、右沿い蓮池御門を経由し、本丸御殿に至る。

 当日は、多くの大名が登城の行列を組んでこの広場に繰り出し、供待ちの者共があちこちで一団をなしていた。下馬に数千人が集まって、槍は土筆(つくし)のように至る所に立てられ、馬は四方に嘶(いなな)き、箱合羽籠は積み上げられてそこここに小山をなした。

 広大な広場は雑踏し喧騒していた。元旦に尺を超えて積もった雪はほとんど解けたが、まだそこかしこに斑になって残っていた。

 西之丸に五ツ(午前八時)の太鼓が響き渡ると、安藤の行列が広壮な役邸から御登城門を出て進んできた。坂下門までは二町(二百メートル)ばかり、指呼の間である。この途次、きざみ足と称し歩を細かく割って、老中、若年寄に限って許される駆け足態勢に入った。

 ざっ、ざっ、ざっと律動的な足音をたて、行列が進み始めたその直後、訴状を捧げる体(てい)で罷(まか)り出る者があった。何事かと駕籠右方に供する安藤家刀番が歩を転じた途端、その者が右手を払って短銃を取り出し、安藤の駕籠に向けて撃った。二年前の桜田門外の凶行と同じ手口だった。

 これを合図に左右より兇徒六名が襲来し辺りはにわかに騒ぎが起こった。安藤家供侍は得たり、とばかり一斉に鞘を抜き払い迎え撃った。剣戟が起こり、駕籠の周りで血飛沫があがる中、安藤対馬守正信は駕籠の小引戸をすべらせ、

「取り鎮めよ」

 と、供廻りに声低く下知した。

 十人の陸(ろくしゃく)が、急襲する刺客から駕籠を守って舁(か)き廻り、駕籠が大揺れに揺れた。遂に一刀が駕籠を貫いたとき、背当の板と布団の隔たりに助けられ、兇刃は安藤の背をわずかに掠(かす)めるに留まった。

 安藤はこの機に駕籠右方よりまかり出て、悠々、辺りを睥(へいげい)しつつ、廻りを固める供回りに護られ徒歩にて坂下門に入った。安藤は坂下御門番所に至り、目付を呼出し事の詳細を告げて後、一旦、帰邸した。衣文をあらためたところ、背部は鮮血淋漓たる有り様だった。

 備えは堅く襲撃者を残らず討ち取り、安藤は背部に一刃を浴びはしたものの、命に別状はなかった。武門の誉れは汚されずに済んだかに見えた。ただ、受けた傷が背中と後頭部であったことが難点だった。うしろ傷は敵から逃れた卑怯の傷とみなす古臭い遺風が今もって生きていた。

 後日の調べによると、凶徒らは、仲間内の連絡書状中、鮟鱇(あんこう)切りという隠語によって安藤襲撃計画を通謀し合っていた。むせ返るような憎悪と殺意が紙面から立ちのぼってくるようで幕僚たちは胸が悪くなった。安藤の領国平藩で名産とされる鮟鱇の吊るし切りの風景が安藤と鮟鱇(あんこう)の語呂合わせに纏(まと)わり付いて、人を喰ったような残虐な暗喩だった。

 

 

 

 

 

 佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」十節「自慢の臣」(無料公開版)

七節一章 公武の根本
一章八節「知らぬが亡鬼」
九節一章「新雪を染める」
十節一章「自慢の臣」
十節一章「自慢の臣」
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