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第三章 失活

 

一 長崎出島甲比丹部屋​ 次を読む 前節に戻る 次に戻る ブログを参照

 

 文化十四年(一八一七)七月三日、長崎は朝から夏の太陽が照りつけ、今日も暑い日になると思われた。出島ではすっかり和風になってしまった朝食の最中だった。カリカリに焼いたシュペック(ベーコン)を喰いたいとぼやく者はとうにいなかった。数年間、毎日続いた倦怠の日が、今日もまた始まるのかとさえ思わなくなって、オランダ人達は寡黙な食事をのろのろと喰った。

 窓から、一筋、狼煙(のろし)の上がるのが遠望され、食事を終えた若い商館員が屋根の上に設けた見張り台に惰性のように向かった。また支(チャイナ)ジャンクかと思いながら、けだるく梯子段をのぼって見張り台に立った。朝からぎらぎらと遠慮のない太陽に舌打ちするように、億劫そうに望遠鏡を覗いた。

 若い商館員は視野の中に、はっきりとはしないものの、ごく小さく、大切な何かを見た気がした。心を落ち着けるため、一回唾を呑み込むことにして、再度、望遠鏡をゆっくり覗いた。視野には間違いなく大切な物が小さく見えた。思わず、大きな声が腹の底から湧き上がった。

「ドゥリ・クレールだぁー」

 食堂では、階上から響いた歓喜の一声に、突如、皆が総立ちとなった。ともかくも、震える手に望遠鏡を握り、急いで湾口に向けて覗き込んだ。商館中が大騒ぎしているうち、肉眼でも、蘭三色旗(ドゥリ・クレール)を堂々と靡(なび)かせた船が入港してくるのが見え始めた。八年ぶりの祖国の船だった。

 長崎奉行所から検使船が出され、出島からも数人が同乗し、久々の祖国の船に向かった。船上、日本人とオランダ商館員を迎えたなかに、ブロンホフの姿があった。

 四年前、イギリス側が謀略を仕掛け、出島を乗っ取るため船を長崎に派遣してきた。この時ブロンホフは、謀略に気付いたドゥーフに命じられ、その船の帰航に同乗し、総督府に状況説明と指示を求めるため一時的にジャワに帰還した。ジャワに到着したのも束の間、あえなく拘留されイギリスに送還されたのちは、捕虜として拘禁下におかれた。

 そのブロンホフが解放され、今や、フラウ・アハタ号に搭乗し次期商館長として四年ぶりに長崎に戻ってきた。長崎奉行所の検使の手続きも早々に、乗組員が出島に上がってきた。この日ばかりは、煩雑な手続きを差し控え、一刻も早くオランダ人が再会できるよう長崎奉行所は温情を示した。

 商館長在任十四年に及ぶドゥーフはもう交代の時期をとっくに過ぎていた。ブロンホフは久々にドゥーフに再会し、涙を浮かべ、声も出せない抱擁を交わした。在任八年に及ぶ商館員と交代要員も次々に握手と抱擁を繰り返し、感謝と慰労の言葉を掛け合った。

 再会の熱狂的な歓喜が終わると、ブロンホフは、出島が音信不通となった時期の世界情勢を語り始めた。ナポレオンは、一八一二年(文化九年)ロシア遠征で敗退し、一八一三年(文化十年)、ライプツィッヒの戦いで敗北し、一八一四年(文化十一年)、退位を余儀なくされてエルバ島に流された。一八一五年(文化一二年)流刑地から脱出して兵を募り、ワーテルローの大会戦でイギリス、オランダ、プロシアの連合軍に大敗した。

 ついにオランダは独立を勝ち取り、イギリスから、ジャワ総督府と広大な蘭領東インド植民地を返還された。ブロンホフは、長い動乱と出島孤立の背景となった世界情勢を語り、商館員は貪るように聞き入った。

 国王が出島商館長ドゥーフにオランダ獅子騎士勲章を授与したので、ブロムホフは王命を奉じて名誉の略(りゃくじゅ)を持参してきた。

「祖国は、つらい時期、出島を護り抜いた商館長を嘉(よみ)し給(たも)うたのです」

 ブロンホフが高くドゥーフを顕彰し、略綬を胸に取付けた。ドゥーフの上着はすっかり色褪(あ)せ、すり切れていた。

 ドゥーフに万感の思いがこみ上げるのを見て、ブロンホフは敬意をこめて頭を下げた。フランスがヨーロッパを席捲し、イギリスが東インドを制圧した時でさえ、蘭三色旗(ドゥリ・クレール)がここ出島に翻(ひるがえ)っていたことに誇りを懐(いだ)き続けたドゥーフの心中を知っていた。

 

 略綬を胸に、ドゥーフは商館長として皆に語りかけた。苦しい時代は祖国の勝利で終わった。長崎のオランダ商館は祖国の矜(きょうじ)を守り抜き、蘭日関係を維持し通した。ヨーロッパではオランダだけが対日貿易に従事し、これを独占する権益は何も変わっていない。

 オランダ船が来港しなくなって長崎奉行に不審を持たれたこともあったが、誠実に説明し理解を求めることによって、日本人に同情と支援の心を掻き立て、援助を受けはしたものの商館を維持することができた。重要なのは、今ここにいる全商館員六名が自ら生命を守り、力を合わせ、ともかくも従来の二国間関係と貿易の独占的権益を護ったことだ。

「それができたのも、諸君が私についてきてくれたからだ……」

 一同は、商館長が感無量の感情を抑え、皆に満足の笑みを浮かべるのを見た。商館員一同は久々に見る祖国の人々と対面を遂げ、長年の窮乏と不安の日々を喜びのうちに終えられたことに感謝し、神に深甚たる祈りを捧げた。夜は、潤沢な大祝宴(フロート・パルティー)が待っている。

 

 三年前、ブロンホフはイギリスで捕虜拘禁の日々を終えると、まずは体力の回復をはかった。しばらく落ち着いた時期を過ごし、ジャワに向かって船出した。祖国がこれから国をあげて対日貿易を立て直さなければならない時期に、自分ほどドゥーフの後任商館長にふさわしい人間はいないと考えたからだった。大きな機会が待っていると確信した。

 言うまでもない。日本滞在経験が長く、日本の事情に精通し、荷倉役としてドゥーフを長年助けた実績があり、佐十郎をはじめ多くの若い優秀な蘭通詞に英語を教えた人間関係があった。

 ブロンホフはジャワ総督のゴデルト・ファン・デル・カペレンから出島の次期商館長の辞令を受け取ったとき、大きく期待されていると感じた。総督から、満足そうな確信に満ちた顔で、肩を叩かれた。

 ブロンホフは、若い妻ティティア・ブロンホフ・ベルフスマと二歳になる息子ヨハネスとを伴ってジャワに戻って来た。二人を連れて長崎に行き、出島に住まわせるよう長崎奉行と交渉するつもりだった。ブロンホフは、前例のない大胆な試みのために、策を練り上げた。

 普通では、異国の女子供が出島に在住することを日本は決して許さない。何かいい案はないかと思い悩んだとき、牛痘苗を持って日本に行き、牛痘種痘を普及させる第一歩になれば、長崎奉行は恩義を感じ妻子の出島在住を許すのではないかと思い付いた。

 そのため、牛痘苗を持ちこむだけでなく、日本初めての牛痘種痘をまず我が息子に行い、安全なことを示す。日本人たちがこの療法に安心を感じれば、普及するに違いないと長崎奉行に訴える。このような筋立てなら、、家族同伴で来日した理由を長崎奉行に疑念をおこさせず、説明できると考えた。

 ブロンホフは、佐十郎が江戸に向かう際に交わした九年前の約束を真剣に守ろうと決心した。約束を果たして牛痘苗を導入すると同時に、その功績によって妻子と出島で暮らす許可を得られれば一石二鳥だった。ブロンホフは己の計画に希望を持った。

 ジャワではすっかり牛痘種痘が定着し、天然痘が激減した。日本に牛痘種痘を広め天然痘の被害を減らせば、長崎奉行に、ひいては幕府に感謝され、これからの対日政策に必ずいい効果が生まれるに違いない。

 ブロンホフは、通常の牛痘苗運搬法にならい、人からとった牛痘膿漿を二枚の硝子板のくぼみに挟んで封入するよう、ジャワ総督府付きの医師に依頼した。勇んでブロムホフは長崎に到着し、再会を遂げたドゥーフに相談した。ドゥーフから、大胆な計画に驚かれたが、応援の約束を得た。

 ブロンホフは長崎奉行、筒井和泉(いずみのかみ)政憲に挨拶に行った折、妻子同伴で来航したと告げて筒井を驚かせた。その理由を告げ、種痘が日本に役立つと誠意を込めて語った。筒井は頷きながら聞いて、理の通った話だと考えたようだった。

 この奉行は気さくで、話のわかる人物だったから、ドゥーフが大きな信頼を寄せていた。オランダ人に好意を持っているように見えた。筒井は、商館長妻子の長期在住を許可してよいか、幕府に照会することに同意した。回答が届くまでの間、秋から冬にかけて船が出港するまでと限定し、商館長妻子が船を降りて出島で過ごすことだけは奉行の裁量で認めた。

 ブロンホフは商館医フェイルケに頼んで、早速、わが息子ヨハネスに種痘した。日本の蘭方医に話を通して、息子が善感すれば、その膿漿を使ってすぐにも日本の子供に種痘できるよう準備を整えてあった。

 しかし、ブロンホフの家族愛を込めた種痘はいつまでたっても発痘しなかった。種痘がうまくいけば、妻子の出島在住の交渉のしようもあったのだが、種痘がつかないのでは交渉に迫力がでない。結局、長崎奉行から妻子の長期滞在の許可を得られなかった。

 

 ドゥーフは、完成に近づき四千頁を超えるまでに編纂の進んだ蘭和辞典を日本に残した。出島がオランダやジャワと通航不能に陥った時期の苦しい思い出が込められていた。ドゥーフは、これこそが、両国にまたがる学術、文化の大きな成果だと自ら賞賛し、オランダと日本の友情を置き土産とした。

 ドゥーフは、蘭和辞典のできている部分だけでもと思い、五十巻ほどにもなった一式をオランダに持参したいと願い出て、長崎奉行に許された。十八年間の滞在中に交際した日本人は誰しもドゥーフと別れを惜しみ、贈り物を交換した。幕府は、多年にわたるドゥーフの功績を賞し、銀五十枚を贈った。これほど日本と親密になった商館長は、かつていなかった。

 十二月六日、ドゥーフはじめ商館員六名は満足感に満ちた笑みを浮かべ、別れを惜しみながらジャワに帰っていった。心痛むのは、落胆して泣き崩れるティティアとヨハネスを連れて帰らなければならないことだった。

 ティティアの落胆は気の毒だったが、ヨーロッパ女性が初めて出島に滞在し、その期間が五か月に及んだ歴史を残した。この間、もの珍しさに絵師が出島に出入りし、ティティアの肖像を多く残した。

 ブロンホフは己の試みが失敗し落胆したが、牛痘苗を日本に導入する計画は諦めなかった。ただ長崎奉行ともう少し牛痘種痘の話を深め、その効用を理解してもらう必要を感じた。蘭方医は十分理解し、牛痘苗を熱望しているが、奉行はそこまででなく、真価をわかっていないようにも見えた。どうするか、ブロンホフはしばらく策を練る必要を感じた。

 

 文化十五年(一八一八)は、オランダ商館長が江戸に参府し、将軍へ拝礼の儀を行う年だった。正月九日、ブロムホフ一行は長崎を出達し、三月七日、江戸に到着した。ブロムホフは、ついに江戸で佐十郎と再会を果たした。ちょうど十年ぶりの再会だった。多くのことがあって、短時間では互いのことを話し尽くせなかった。

 ブロムホフは佐十郎から、捕縛したゴロウニンの審問に立ち合って、ゴロウニンからロシア語を習った話を聞いた。ブロムホフの方はナポレオンに関わるヨーロッパ情勢全般を話し、今だから言える事情までも説明した。佐十郎はひどくナポレオンに興味を持ち、書いたものがあれば是非、読みたいとブロムホフに依頼した。

 天文方ではナポレオンの台頭、覇権、没落の顛末を調べていると佐十郎から聞いた。ブロムホフは、幕府が、混乱した最近二十年間のヨーロッパの政治情勢を正しく知って、整理、分析しておくつもりなのだと推測した。幕府の調べに協力すれば、日本との関係を良好に保ついい材料になる、今後、ナポレオン関係の蘭書を手配するよう交易リストにいれておこうと考えた。

 最後に佐十郎から牛痘種痘の件を聞かれ、ブロムホフは、うまくいっていないことを伝えた。また改めて試みると言って、十年前の約束はドゥーフから引き継いだつもりでいると確言した。

 ブロンホフらは三月二十九日、江戸を発った。四月二十二日、改元があって文政元年になったとき、ブロムホフは帰路、四日市にいた。後から振り返ると、年号が変わる日本の奇妙な習慣を体験したことに気付いた。

 

 佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」一節「長崎出島甲比丹部屋」(無料公開版)

二 相州浦賀​ 次を読 前節に戻る 目次に戻 ブログを参照

 

 文政元年(一八一八)五月十四日、梅雨に入って、しとしと雨が降り続いた。浦賀の入江では、普段、海の向こうに安房(あわ)、上総(かづさ)の山なみを見通せたが、この日、磯時雨(いそしぐれ)で視界は利かなかった。

 朝、浦賀御番所前には、下り船三十艘ほどが舫(もや)って奉行所の御(​おあらた)めを受け終わったところだった。会所に上がってきた船頭たちの中に、与力に話があると申し出た者がいた。この船頭は三河の平坂栄三郎といった。平坂によれば、前夜九つ時(どき)(午前零時)、久里浜沖を航行中、海鹿(あしか)島付近で怪しい船を見かけたので今も近くにいるのではないかという。海鹿(あしか)島はごく小さな島で、久里浜の南東十町(一・一キロメートル)の沖合いにある。

 海鹿(あしか)島のあたりは座礁の怖いところで、昨晩、梅雨の時期には珍しく十三夜の明るい月明かりのもと、総員で海面を見張って居ったところ、二本の帆柱と、船首に長く突き出た斜め柱を持つ大きな船影を遠望し、お国の船には見かけない姿だったと克明に報告した。奉行所では、異国船であろうと判断して、船を派遣し探索に努めた。日本の船は、一本帆柱と決まっている。

 しばらくして奉行所の役人が沖合で異国船を探し出し、全く言葉が通じないなか、乗組員が地球儀で指差したことによって英船とわかった。さらに船内から大砲、小銃(たねがしま)、刀剣、槍など武具が多く見つかったため、日本側は緊張した。英船を湾頭に引き入れ、周りを日本の小船で幾重にも取り囲んで動けないようにした。

 さらに会津松平藩の警備する城ヶ島台場、松輪崎台場、仙崎台場、平根台場、観音崎台場などが厳重な警備体制に入る一方、奉行所は江戸に急使を出した。十六日、在府の浦賀奉行と代官が江戸を出達し、十八日、浦賀に到着した。江戸では、通詞を出すよう天文方に要請があり、佐十郎と足立も、この日、到着した。すでに異国折衝の御用は二人の担当に決まっていた。

 鴨居浦には旗指物が林立し、浦賀周囲の台場が厳重な警戒をとる中、二人は湾に停泊して四日目となった英船に乗り込み、来航目的や事情を聴き始めた。蘭英辞書を携帯していた。佐十郎はブロンホフ仕込みの英語で語りかけた。

 初め、緊張していた船長が、二人の通詞の英語を話すのを聞き、安堵の表情を浮かべたのを佐十郎は見逃さなかった。オランダ語の得意な英船乗組員がオランダ語で応えてきたため、会話はオランダ語に切り替えた。佐十郎もそのほうが楽だった。

 英船はブラザーズ号、船長は海軍将校ピーター・ゴルドン。天(てんじく)のベンガラ(カルカッタ)から魯西亜(おろしあ)のヲラツカ(アラスカ)への航海の途中、交易しようと日本に立ち寄ったとわかった。

 日本側から、交易は罷(まか)りならないこと、日本の港に入港してはならないことを諭(さと)したところ、英船に事を荒立てるつもりはなく、入港時、日本側に取り上げられてあった武器の類いの返還を受けて、速やかに帰ることに同意した。穏やかなものだった。

 船長は、丁寧に応対してくれた礼に、通詞に感謝の気持ちを贈ろうとした。紙に包んだ草花の種と生きた豚、牛を受け取ってほしいと申し出た。

 ――誠意ば尽くして船長ん心に響いたんなら、よかったばい

 佐十郎は、英船の穏便な応対に、内心ほっとした。

船長は、それだけでは足りないと思ったか、さらに、痂皮の入った硝子瓶と硝子盤をとり出した。

「これは牛痘の痂皮である。この硝子盤で磨(す)り下ろして使う。これを読めば牛痘の種痘法がわかる」

 説明しながら、一冊の小冊子を見せた。

 佐十郎は、船長の突然の申し出に驚きを隠せなかった。十五年前、ドゥーフから牛痘種痘の話を聞き、五年前に牛痘種痘解説書(オスペンナヤ・クニーガ)を手写しロシア人に短期間、読解を教わった。結局、ロシア語本の翻訳完成に行き着かず、最近では進展のないまま放置してある。それが、浦賀の海で、偶然にも、三度目、牛痘種痘の話に出くわした。今度は英国筋の話だった。

 佐十郎には、他に土産がないため、種痘道具一式も呉れようという船長の心遣いが伝わった。ただ、それだけではない。船長の心映えは、佐十郎の因縁めいた旧縁に突き刺さった。

 佐十郎は、英語で書かれた種痘解説書と牛痘苗が喉から手が出るほど欲しかった。受け取ってしまおうと何度も思いかけたが、必死に抑えた。世に知らしめ広く牛痘種痘を実施するには、非合法に受け取った牛痘苗と解説書では意味がないと考えなおした。

「心の籠もった贈物を賜るとのお申し出に、まずは感謝申し上げる。ただし、国法の禁ずるところ、贈物を受け取る訳にはいき申さず」

 佐十郎は丁重に辞退し、船長の好意に笑顔を以って応えた。英船の退去について、あれこれ打ち合わせをすませ下船した。御役を円滑に遂行した旨、浦賀奉行に報告し、江戸に帰るばかりとなった。

 この間、牛痘を巡る三度目の奇縁に佐十郎の心の内は波立った。何か不可思議で崇高な意思が己に働きかけ、痘瘡に苦しむ日本人を早く救えと命じているのではないか、と思わずにいられなかった。この年は、妹のたけが逝(い)って二十一年目だった。善(んなー)が牛痘種痘を発表してから、ちょうど二十年目に当たることを佐十郎は知っていた。

 佐十郎は、医師でもない己(おのれ)に何故、牛痘種痘の方から三度も近寄ってくるのか不思議に思い、偶然のようで偶然ではないと覚った。己が異国語を知るが故に、異国人と会い、語り、意思を疎通し、その限られたわずかな狭(はざま)の向こうに、世界が広がっている。

 ――異国ば見る機会ば与えられたんはおいばい

 稀有で、持ち重りのするほど貴重な機会を与えられた者が、牛痘種痘の話を国に伝える機会を捨て去って、許されるだろうか。佐十郎は江戸への帰途、ロシア語の牛痘解説書の翻訳を放置してあることをひたすら考え続けた。

 

 五年前、翻訳を断念して以来、ロシア語を進歩させる何かがあったわけではない。ロシア語原書に専念するには忙しすぎた。ロシア語読解力が伸びるはずはなかった。オランダ語ならば、新しい書物を読んで読解力が進む。新しい論考を書けば視野が広がる。あれ以降、佐十郎のロシア語に、そんなことは起きはしなかった。学び合う学友とていない。

 五年前に翻訳が無理であれば、今も無理なのである。五年間も無為に翻訳を放置したと言える。

 ――五年間、ロシア語ば進歩させる機会も教材もなかったとよ

 佐十郎は、さんざんに悩み、言い訳めいた思いを懐(いだ)いた。己のロシア語の足らなさをひどく意識し、同じことを何度となく考えて堂々巡りに陥った。

 牛痘種痘解説書(オスペンナヤ・クニーガ)の文章は、十のうち二、三はよく理解できない。では無理だといって翻訳を放り投げてしまうのか。三度も起きた牛痘種痘の奇縁は他の誰でもない、己(おのれ)に起きたことなのだと苦しい思いで振り返った。己が諦めれば、日本が諦めることになる。たけの残影のような記憶が脳裏をよぎった。

 ――痘瘡でようけん子供ば失い続けてよかもんか

 たけのことを思うと、日本中の子供に申し訳ないという気持ちが高まった。

 佐十郎は、ロシア語を翻訳するのに役に立ちそうな手持ちの辞引きを思い返してみた。ゴロウニンから贈呈されたタチシチェフの仏露辞典上下二巻がある。それに昔から愛用する蘭仏辞書と仏蘭辞書である。わずかにそれくらいだった。露蘭辞書や露仏辞書が舶来されたことなどなかった。ゴロウニンに教わりながら作成した露語、仏語、蘭語、日本語の手書きの対訳表では、オスペンナヤ・クニーガの翻訳に歯が立たないことは五年前に思い知らされた。

 露仏辞書があれば、わからないロシア語をフランス語で知り、それを仏蘭辞書で引けば、オランダ語にたどり着く。これならロシア語から仏語と蘭語を経由して日本語へ翻訳できるのだが、手持ちの仏露辞書ではそれもできない。仏露辞書は、わからない仏語を引くためのもので、ロシア語からは引けない。だから五年前にいったんは翻訳を中断したのだった。

 佐十郎は、仏露辞書を使って、わからないロシア語をフランス語で探し出してやる、と今度ばかりは決意を固めた。振り返れば、先人たちは殆んど字引もなく文法も知らず、蘭書を翻訳してきたのだ。師の柳圃先生にしてニュートン力学を知ろうと蘭語の文法を極めたのだ。タチシチェフの辞書はいったん全てを覚えてしまえば、露仏だろうが仏露だろうが恐るるに足らない。佐十郎は広大な語学の大海を前に怯(おび)える心をなんとか奮い立たせようとした。

 幸い、当面、天文方で急がなければなければならない蘭書翻訳はすでに終わっている。今なら精力の全てをオスペンナヤ・クニーガに集中できる。佐十郎は、露、仏、蘭の異国語の海を泳ぎ抜くと決意した。

 天文屋敷で数日間、考え抜いて、それからというもの佐十郎はタチシチェフ上下二巻を、引くのではなく読み始めた。疲れると、上巻裏表紙を眺めて己を励ますのが常だった。そこには、ゴロウニンの肉筆でこう書いてあった。 

 

      ワシリー・ゴロヴニーン蔵書

      於ペテルブルグ

      一八〇二年五月十六日 

      値段 二冊 十四ルーブリ

 

 

 

 佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」二節「相州浦賀」(無料公開版)

三 王子音無川 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 文政元年(一八一八)から、佐十郎の著作がぴたりと途絶えた。書斎に籠もり寝る間を惜しんでロシア語と格闘し続けた。

 妻は、夫がいつ寝ているのかもわからず、夜、昼なく、季節のない余りの勉強ぶりに、

 ――おみ足も萎(な)えていらっしゃるのでは……

 と、おろおろと心配し、時折、涙ぐんだ。それでも滋養あるものを買ってきては、せっせと食べさせた。そのうち、夫婦で向き合う食事はなくなり、書斎に膳を運んで、しばらくすると空となった食器を引き上げるだけになった。

 考えあぐねて、津軽藩邸を訪れ父玄隆に相談した。父は全てを心得ているかのように佐十郎を褒(ほ)め、そのような男に嫁いだのだから、と言って、気丈な心を持つよう励ました。

「決すて、勉強のお邪魔立でば、すてはなんねぇ」

 五日と空けず、鶏卵、葱、韮、鮮魚、干物など精のつくものを天文屋敷に届けてくれた。冬の早朝は、言いつけられた幼童が、獲ったばかりの蜆(しじみ)を元気よく届けてきた。冷えた体が温まると、佐十郎が朝食の蜆の味噌汁を喜ぶ一言が、妻には涙のでるほど嬉しかった。

 屋敷で、窃(ひそ)かに皆が噂した。佐十郎はほとんど顔を出さず、作左衛門が、静かに見守ってやってほしいと、所員に頼んだきりである。ただ、夜、佐十郎の書斎は毎夜、常に灯が点(とも)っていた。朝まだき、なお点(つ)いていることが多かった。佐十郎が生きていると思われる兆しは、毎晩の行燈の灯と、たまに聞こえる呻(うめ)きのような障子越しの声だけだった。

 夏から秋へ、冬から春へと季節が移り、ついに二年を経て、佐十郎は三か国の異国語の海を泳ぎ切った。オスペンナヤ・クニーガの翻訳を終え、題を『遁花秘訣』と決めた。「花」とは唐国で痘瘡のことを言う。

序には、ようやく訳了に至った数奇な経(いきさつ)を淡々と辿(たど)り、三度の奇縁を記(しる)した。

 

    最初、長崎ニテ和蘭(おらんだ)人ヨリ聞キ、後、松前ニ於テ魯西亜(おろしあ)人ヨリ
    其書ヲ得、今、又相州ニテ諳
厄利亜(あんげりあ)人、其書ト痂トヲ与ヘント云フ。

    既ニ 其事ヲ見聞スルコト三度ニ及ブ。実ニ奇ト謂(いい)ツベシ。

 

 序の最後は、こう謙虚に締めくくった。

    前(さき)ニ魯西亜語ノ板本ヲ訳セシ者ナシ。予ヲ以テ最初トス。

    故ニ誤解、謬訳、固(もと)ヨリ多カルベシ。後ノ君子、宜シク訂正

    センコトヲ希(こいねが)フノミ

 

 文政三年庚申(かのえさる)ノ秋の日付が二年間の苦闘を示していた。ドゥーフの話を聞いてから十七年の歳月がたっていた。

 

 佐十郎は『遁花秘訣』を完成させてからというもの、精気が抜け果て、虚(うつ)けるように呆然となった。数日後、居間に来て、ぼそりと一言、口にした。

「終わった」

 告げられた妻は、はっとして居住まいを正し、深く辞儀してねぎらいの言葉を述べた。

「長きにわたり、本当にお勤めご苦労様でございました。少しは、お休みをお取りあそばし、お身体(からだ)をおいとい下さいませ」

 泪を浮かべ、こみ上げるものを堪(こら)えて申し述べた。佐十郎は、妻の楚々たる所作に気付く風もなく、この時に至ってなお、頭の中で魯、仏、蘭の三か国語の単語と語句と構文が交錯して鳴り止まず、今なお残響が続いているような顔つきだった。どことなく世界を異にするような気色のままだった。

 数日を過ぎると、佐十郎の遠くだけを見つめているような眼差しが元に戻り、近くの生活に焦点が合うようになった。次第に本来の快活さを取り戻し、さらに数日して、ついに常人に立戻った。

 そんなある日、佐十郎は妻を連れて物見遊(ゆさん)に出かけようと思い立った。気のいい同僚は、二年間というもの書斎に籠もり切りだった佐十郎から思いも寄らぬ相談を受け、ひどく驚いてしまった。

「そ、そりゃあ、いい。ぜ、ぜひにも、そうなされよ」

 同僚は、佐十郎の相談をあたふたと喜んだ。

「そうですなあ、御新造さまもお喜びになる所といえば……」

 早速、額に手を当て、考え始めた。

「時節柄には紅葉(もみじが)り……。ふむ、紅葉狩りには王子がいい……。ふむ、王子といえば、瀧野川。音無川(おとなしがわ)も面白い。滝を眺めて紅葉(もみじ)を愛(め)でる。廻(めぐ)る秋にも茶屋の旗。よくぞ江戸には生まれけり、という塩(あんばい)ですかな」

 調子も鮮やかに、立ちどころに趣向を考え出した。要をえた説明に佐十郎がすっかり乗り気になると、早速、柳橋の船宿に口を利いてやろうと、親切を極めた。

「痘瘡の魯西亜(おろしあ)本にあれほどの苦労を重ねた御仁だ。ちったぁ、頭を空にしたがいい」

 労をねぎらいたい一心で、佐十郎を連れ出した。天文屋敷からすぐそこだった。同僚は、平右エ門町の船宿の長暖簾(ながのれん)をいなせに払うと、柳橋の河畔から屋根舟に乗って隅田川を上(かみ)に向かう手筈を掛け合ってくれた。

「一艘仕立ててくれ」

 さっと注文した。船頭一人立(だ)てで、柳橋から山谷堀まで三百文が並みの舟賃。今度の遊山では、さらに上(かみ)の豊島村の渡し場までやるから、もう少し要ると船宿が言うところを、物慣れた様子で巧(たく)みに話をつけた。佐十郎は、余りの手際に唖然として、嬉しそうに深く頭を下げた。

 

 数日たった遊山当日、佐十郎夫婦は夜明け前に起きだし、朝早く官舎を出て柳橋に向かった。雲一つない朝空の彼方に、雪をかぶった富士がくっきりと映え、間違いなく、素晴らしい天気に恵まれそうだった。 天文屋敷から浅草橋通りを南に行くわずかな道のりを、妻が楽し気に寄り添うのが佐十郎には嬉しく、片や、それ以上に不憫でもあった。

 二年間、盆も正月もなく、ひたすらロシア語と取組み、妻を構いつける余裕もなかった。翻訳に不安の残る箇所がないではない。

 ――どがんか、こがんか、『遁花秘訣』ば仕上げたばい

 そう思うと、佐十郎はやり遂げた達成感やら、肩の荷を下ろした安気やら、妻への申し訳なさで、胸が一杯になった。こみ上げそうになるのを堪(こら)え、船宿前に舫(もや)った屋根船にそそくさと乗込んだ。

 船頭が大川の流れに漕ぎだすと、左手に、浅草御蔵の棟高い米蔵が並び立つ様が間近く見えてきた。蔵と蔵の間を荷揚げ用の堀で仕切って八番堀まであると、船頭が説明してくれた。

「四番堀と五番堀の間に首尾ノ松が御覧なされるでんしょ。その先が御(おんまや)(がし)の渡しでさぁ」

 親切に、大川の名所を一つ一つ教えてくれた。川面を吹く風は殆んどなく、穏やかに秋日の照る絶好の行楽日和となった。遠くに筑波山の双耳峰が鮮やかに見えた。

 吾妻橋をくぐれば右手は向島。堤の上で桜並木が葉を落とした奥に、牛島神社と長命寺のこんもりとした鎮守の森が見えた。その向こうには、玄隆の別邸があるはずだった。

 二人は、つい先日、佐十郎の仕事が終わった旨、玄隆を訪ねて報告し、篤く礼を言ってきたばかりだった。船上あらためて、助けてくれた父親の配慮に感謝し、心遣いを語り合った。妻と話が弾(はず)み、佐十郎の食事の話題になった。

「あの時は、父上の届けてくだされた蜆(しじみ)の味噌汁が大層、美味かった。温かいお心遣いを賜った」

「本当に、旦那様は、お勉強に脇目もふらず、お食事のことなど、すっかりお忘れでしたもの」

 川をゆっくりと漕ぎ上(のぼ)る船で、今は昔語りとなった当時の話に興じ、二人は大いに笑った。

 右手に鐘ヶ淵を見る辺りで川筋が大きく左に蛇行し千住大橋が見えてきた。これをくぐり、長閑(のどか)な草ノ原の土堤を見ながら、しばらく川を上(のぼ)ると、もう、そこは王子川が左手から合流してくる豊島村の渡し場だった。二人はここで船を降りることになっている。

 王子川は上流に向かって、音無川、石神井川と名を変える。王子権現社のあたりから上流にかけて、川筋は蛇行し、渓谷を穿(うが)って両岸は崕雪頽(​がけなだれ)となり、急な清流に幾条もの滝を落として瀧野川と別称される。これが今日の遊山の先だった。

 渡し場で降りると、西福寺の本堂大屋根が見えた。二人は、寺の脇から王子川に沿いつ離れつ、王子権現を目指して歩み始めた。江戸郊外の遊山のせいか、佐十郎は妻と手をつなぐことに、回りの目が気にならなかった。手を取っても妻は驚くでなし、嬉しそうに見上げて佐十郎に委ねた。

 王子権現社に詣で、息災で、無事、仕事を完遂できた感謝を胸に、夫婦揃って手を合わせた。筑波山が杉木立の間から見えた。

 昼も間近くなるころ、名高い扇屋は飛鳥橋のたもとで、すぐに見つかった。扇揚羽蝶(​おおぎあげはちょう)の紋を打った暖簾をくぐり二階座敷に案内されると、障子戸を一杯に引き開けた先に、秋の日に照らされた音無川の流れが見渡せた。瀬音を聞きながら、対岸の遠(​おちこち)に艶を競う紅葉を愛でる趣向のようだった。

 膳部には、千住の鯉の洗い、音無川の山女魚(やまめ)の煮(にびた)し、川海老の天麩羅、松茸飯、味噌汁は秋の吹寄せなどが体よく供され、二人は健啖を満足させた。最後に、ほんのり甘い玉子焼きを楽しんだ。

 食後、権現別当の金輪寺から少し下って行くと、堰(えんたい)を溢れた川幅一杯の大滝が間近かだった。付近は、滝野川七滝と称す幾条もの名瀑が落ちていた。

 川ぞいの道を上流に辿(たど)って、橋の向こう、高みの上に金剛寺を見上げると、楓(かえで)が紅(くれない)真っ盛りだった。日に透(す)く紅葉の鮮やかさは深山の風情を湛え、名所とされるだけのことがあった。佐十郎は、岩屋弁天を詣でた時、足元を清流が音を立てて流れ、渓谷の秋が静かに揺(たゆと)う情緒に感じ入った。

 ――こがん時間もあったばい

 しみじみと思った。

 正受院の本堂裏の坂道を音無川に降りてゆくと、幽(ゆうすい)たる谷(たにあい)に不動の滝がどうどうと真一文字に落ちていた。滝の水滴は細かな霧となってあたりに降り潅(そそ)ぎ、苔むした岩肌が余滴を受けていた。時折、照り入(い)る晩秋の日差しに苔が煌(きら)めき、嵐気が棚引くのを、二人そろってじっと見つめた。随分と長く見つめてから、二人は顔を見合わせ、互いに莞爾(にっこり)と笑みを浮かべた。それだけだった。それで二人の苦労は吹き飛んだ。

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」三節「王子音無川」(無料公開版)

四 江戸城本丸焼火之間​ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 佐十郎は、再び元気に仕事を開始した。今度は、英船と交渉した経験を活かし、再び異国船が来航した時に備え、折衝事項に関する英語の会話集を編もうと考えた。蘭語、英語で備えておけば大抵の異国船と折衝できる。

 こうして、佐十郎が完成した『訳司必用諳厄利亜(あんげりあ)語集成』には、異国船の船上で交わさなければならない必須の問答六十七例の英文に、蘭語と日本語を対照させて配列し、必要性の高い語句、単語を上げてあった。

 問答は、どこの国の船かを問い、船中の乗組員の数を問い、出帆した港を問い、来航目的を問う標準疑問文を載せた。さらに必要単語の項には、異国船から要望されることの多い船中欠乏品名を載せ、親切な編集を心がけた。

 第一例「儞(なんじ)等無事ナル哉」、第二例「此方共ハ江戸ヨリ来ル役人ナリ。此者ハ通弁者、是ニ問答セヨ」と挨拶から自己紹介する流れになって、この通り英語なり、蘭語を喋っていけば、異国船から必要事項を聞き出せる形に工夫した。第二十五例には「船中ニ病人アリヤ。何病ナリヤ」とまで配慮を見せた。防疫の発想があった。

 そして中段になると、第二十八例「交易之儀ハ此国ニ於テハ決シテ叶(かな)ハス」のように交易を拒絶し、第三十四例「其ハ此国ニテハ法度(禁止事項)ナリ」と、何にでも使える拒絶の文例を上げた。痒いところに手が届くような異国船折衝教本を目指した。佐十郎の意気は高い。天文方は幕府の意を受け、異国船来航に備える体制作りを進めていた。

 

                                *

 

 文政四年(一八二一)八月、オランダ船ジャワ号とフォルティテュド号の二隻が長崎に入港した。ジャワと長崎の通航が再開してから五回目の夏、この年も二隻が来港し、ブロンホフは対日貿易が安定したことを嬉しく思った。ナポレオン戦争の混乱で被(こうむ)った交易の痛手は元通りに回復しつつあった。

 この船には、前年秋、ブロムホフが依頼した牛痘苗と種痘器具一式に加え、種痘解説書も積んであった。ブロムホフは、前年から何回も長崎奉行に上申し、種痘の意義を説き続けた。日本の蘭方医とも親しく語り合った。その手応えを見て、もう日本の受け入れ態勢は整ったと判断して、牛痘苗導入の活動を再開したのだった。

 ブロムホフは逸(はや)る心を抑え商館医のニコラス・テューリンフに頼んで、蘭方医が集めてきた日本人小児に牛痘種痘を試みた。そして二週後、落胆して頭を掻きむしり、発痘しない原因を考えた。

 不注意な日本人の親が好奇心に駆られ、待ちきれずに接種部位の繃帯を取ったのだろうとしか思いつかなかった。なぜ、ジャワでは必ず発痘する牛痘苗が、日本ではうまくつかないのか、悩んで、商館医に相談したが、答えは得られなかった。ブロンホフは再び牛痘苗を送るよう、秋に帰る船に手紙を託した。

 

 佐十郎が書いた『訳司必用諳厄利亜(あんげりあ)語集成』の役立つ機会は案外早く訪れた。文政五年(一八二二)四月二十九日、またも英船が浦賀に来港した。足立と佐十郎は早速、浦賀に出(でば)り、この書を用いて船上、通訳に当たった。奉行所与力の尋問を第九例「此舶ハ軍艦商船漁舶ナルヤ」に沿って通訳し、第四十八例「近来鯨漁之船、度々此国江来り薪水ヲ乞へり。此舶も漁舶なるや」と英語で聞いたところ、果たして捕鯨船だった。

 佐十郎は直ちに、第四十九例「日本地方近海ニテ、異国之舶、鯨漁ハならす」と捕鯨の不許可を英語で言い渡し、第五十例「順風次第早ク此処ヲ出帆スヘシ」と命じた。船倉に納められた鯨漁に用いる銛(もり)などを提示させ、細かく検視する与力を補佐した。

 実に適切、円滑な通訳だった。浦賀奉行所は薪水、食料を与え、五月八日、英国捕鯨船を早々に出帆させた。足立、佐十郎の経験で、オランダ船以外の許されざる異国船の対応に標準形が出来上がった。

 この報告に、作左衛門は若年寄堀田摂津守から手厚く褒(ほ)められた。 こたびの英船折衝の骨折りを以って関係者が褒賞を受けた中で、足立と佐十郎が主役といってよかった。七月二十四日、佐十郎は城中焼火之間で安藤紀伊守信敦から申し渡しがあり、銀十枚を下賜された。

 佐十郎は、蘭語、仏語、英語、魯語に通じ、日本蘭学界に文法の知識体系を確立し、新旧の読解力を一変させた。そしてなにより、牛痘種痘の医療体系を初めて世に伝えた男だった。その晴れの姿を見て、幕府高官も天文台関係者も皆、これまでの佐十郎の業績を想い起こした。佐十郎が天文方で仕事をしたのは十五年間だった。

 ――そのわずかな期間に、これだけの仕事をなしとげた御仁じゃ

 大きな山を仰ぐような感を持った。

 佐十郎は、その夜、天文屋敷の内輪の祝宴で、突然に気分が悪くなり、三日後、天文方官舎にて急逝した。享年三十六歳。

 

                               *

 

 文政五年(一八二二)夏、長崎で、届いたばかりの牛痘苗が、やはり発痘しなかった。ブロンホフは諦めず、再々度、牛痘苗を送るよう秋に帰帆する船に手紙を託した。

 長崎の蘭方医は、ジェンナー論文の蘭訳版(一八〇一年刊)を読み、牛痘種痘の概念を十分に理解していた。最近では、江戸から『遁花秘訣』の手写本が長崎にも出回って広く読まれ、文献上の知識だけはヨーロッパに劣らなかった。

 ただ、牛痘苗が手に入らない。ブロンホフは、ジャワから届いた種痘実用手引書を親切に蘭方医に貸し与え、密な関係を維持しながら、種痘の関心を保つことに心をくだいた。

 蘭方医の間では、牛痘種痘の抄読会が開かれ、広く知識を広める活動が起こった。日本にも牛痘に罹った牛がいないか、探す試みが始まった。蘭方医にとって、ブロンホフの度重なる努力は成功しなくとも、その都度、種痘の接種手技を見学するだけで、大きな刺激となった。種痘の意欲は確実に高まっていった。

 そんな頃、ブロンホフは江戸で佐十郎が死んだことを知った。普段、佐十郎がオランダ語で書いてくる手紙で近況をよく知っていたから、突然の訃報に息をのんだ。三十六歳の若さと聞いて、佐十郎の夢や希望が失われたことを悼(いた)んだ。ブロンホフは多くの日本の友人を持っていたが、佐十郎との友情は、また格別だった。

 蘭日関係に大きく貢献するはずの将来の活性が失われ、胸が掻きむしられる思いだった。オランダにとって大きな損失だった。祖国のドゥーフに手紙を書きながら、オランダで彼がどれほど嘆くかと思うと、ブロンホフの羽根ペンはしばしば動きを止めた。

 ブロンホフは佐十郎の没後もその約束を諦めなかった。それどころか、約束を果たす熱意がいっそう高まった。また牛痘苗を送ってほしいとジャワ総督カペレン卿あてに手紙を書いて翌年に希望を託した。商館長在任年数を考えると、来年、牛痘苗を運んでくる船には新任の商館長が乗っているはずで、自分は商館長を交代して、秋、その船でジャワに戻らなければならない。牛痘苗導入の最後の機会になり、ブロンホフは佐十郎の友情に酬いる大きな賭けになると思った。

 牛痘苗失活の原因はジャワでも出島でもわからなかった。今度こそはと、期待をかけて、同じことを繰り返して悉(ことごと)く失敗した。ブロンホフが強く望んだように、日本で初めて牛痘種痘を成功させた商館長という歴史上の栄誉は得られないかもしれず、次第に弱気になった。

 最も確実なのは、ジャワの子供を幾人も船に乗せ、長崎への航海中、子供の体で継代することだとブロンホフも知っていた。それは日本に限って、決して許されない方法だと断念した。仕方のないことだった。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」四節「江戸城本丸焼火之間」(無料公開版)

五 ヴュルツブルグ​ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 一八二二年九月二十三日(文政五年八月九日)、晴れ渡った秋空の下、オランダ、ロッテルダム港を出港する船があった。艦長ジャコメッティ大佐率いるオランダ海軍フリゲート艦デ・ヨンゲ・アドリアーナ号だった。三檣三百噸の小型帆船だったが、その分、いかにも軽捷、俊敏な船型は、遠く、喜望峰を越え、東インドまで航海するに相応しく見えた。

 埠頭に集まった多くの人が手巾(ハンカチーフ)を振って見送り、頼もしくも、希望に満ちた船出が祝福された。この船には、ドイツ人医師、シーボルトが、やはり、希望に胸を膨らませて搭乗していた。ドイツ人がオランダの特別な任務を帯び、オランダ人を装って長崎のオランダ商館医に赴任する。奇妙な人事の発端は、前年にオランダ国王ウィレム一世によって承認された世界戦略にあった。

 

 ウィレム一世は、フランス支配から脱したばかりの国を率い、経済再建を最重要事項に据えて、日々、奮闘していた。「商人王(コープマン・コニング)」の綽(​あだな)を奉られるほどに、商売、交易にうるさく気を配った。「遅れてきた啓蒙専制君主(フェアリヒト・アブソルーティスム)」と揶(やゆ)されるのは、国家が経済活動を管理し、統制のもとに国内産業を保護、育成する重商主義政策を志向するからだった。

 英国に荒らされた東アジア地域のオランダ貿易を立て直し、再編し、利潤を増大させることが重要だった。その要となるジャワ総督にゴデルト・アレグザンダー・ゲラルド・フィリップ・カペレン男爵(バロン)を据えた。

 バロン・ファン・デル・カペレンは、オランダの保持する対日貿易独占権益を重要な資産とみなし、これを利用して日本の資源や民衆、政治、経済、習慣を熟知し、貿易の利潤性を高めることが王の信任に応える道であると考えた。

 日本で収穫する動物、植物に有益な用途を新たに見つけ出せれば、世界に輸出できると提案し王の賛同を得た。たとえば、カカオ、オレンジ、ゴム、茶(テー)などに匹敵する有益な高利潤商品作物を見つければいい。黒貂や海(らっこ)などの毛皮獣は無理にしても、上質の機械潤滑油が取れる鯨の漁場を日本近海で見つけられれば、利潤は大きい。商人王はカペレン卿の話を熱心に聞いた。

 オランダでは、王の指示を受けて、近く出島に博物学者を派遣するため人選が始まった。これまで出島に赴任し、日本の博物学を研究した商館医の前例があって、ケンペルやツュンベリーによる日本の植物誌や動物誌はヨーロッパで刊行され、高い評価を受けていた。

 ウィレム一世は、博物学(ナチューレレイク・ヒストリエ)に精通した医師に、国益と直結する重要な任務を負わせ、商館医として出島に送り込む計画を構想した。広い学識だけでなく、戦略的に任務を理解する視点、任務を遂行する強い意志、学問的好奇心、異質な国への興味、異人種の住人とうまくやれる社交性など幅広い観点から人選する必要があった。

 次の商館医派遣に限っては、四年の間、出島で十人といない商館員の健康に気を配ればすむという任務にはならず、ジャワ島に在勤している医師の中から安易に選ぶわけにはいかなかった。国王の側近、高級官僚、上級軍人が各国に持つ人脈を手(たぐ)って、密(ひそ)かにヨーロッパの多くの医師を調べあげた。オランダ人医師だけではなかった。

 こうして、本人の知らないところで、何人もの医師が候補に挙げられ、王自身によってふるい落とされた。オランダがフランスから自由をえた今、新しい対日通商政策の拠(よ)って立つ情報を集められる男なのかを問う王の目は厳しかった。その厳しい選考作業もそろそろ終盤だった。ついに王の眼(めがね)に適(かな)いそうな有力な候補が上がってきた。

 王が注目したのは、この人物が自然科学と人文科学の二つの領域にまたがる教養を持ち、医師で、しかも博物学に精通している学歴だった。この人物は学生時代から、ジェイムズ・クックの太平洋航海に同行して科学探検隊を組織したジョセフ・バンクや、ドイツ地理学の泰斗アレグザンダー・フォン・フンボルトに憧れていたと聞いた。科学調査を夢見た青年時代の逸話が特に興味深かった。この人物は名門出身であるため、王の人脈の多くの筋から人物評が寄せられ、おおむね好意的であることにも安心感があった。

 

 一七九六年(寛政八年)二月十七日、フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトはヴュルツブルグ大学医学部産科婦人科教授の息子に生まれた。祖父、叔父もまた、同大学医学部教授を勤めた名門の家系だった。

 満二歳を迎える一か月前に父を失い、以来、母に大切に育てられた。一八一五年、十九歳でヴュルツブルグ大学哲学科に入学した。父の友人にして解剖学、生理学のデリンゲル教授が何くれとなく遠くから温かい視線を向けてくれたお陰で、翌年、再難関の医学部に入学した。

 シーボルトはデリンゲル教授の家に下宿する幸運を与えられた。教授を慕って集まる各方面の若き学究から広く知的な刺激を受け、近年、発展著しい博物学に触発された。今や最先端の学問となった博物学への関心は、新しい研究対象や新種生物の発見を指向し、自ずと未知の地域への興味につながった。

 フンボルトが南アメリカを探検調査した研究報告書はヨーロッパで一八〇七年から刊行が開始され、この当時、順次、刊行が続いていた。シーボルトは、若いころから夢中になって読み耽(ふけ)り、知られざる異国の地を探検し、動植物相を研究し、博物学的に体系立てることを夢見た。フンボルトの実行した探検と科学的調査がシーボルトの憧憬と人生の夢になった。

 シーボルトは、大学で博物学、植物学、動物学などの自然科学や地理学、民族学を学び、内科医、外科医の訓練を受けた。一八二〇年(文政三年)二十四歳のとき、優秀な成績で卒業し、内科学、外科学、産科学博士の学位を授与された。その後、母が住むドイツ、バイエルン王国のハイディングスフェルトで開業した。

 シーボルトにとって患者の診察に明け暮れる日々が続くあまり、かつての志望を抑え難く思い始めた頃、突然に立派な封書が届いた。オランダ陸軍の獅子の紋章が型押(エンボス)された封筒を表、裏と何度も見返し、シーボルトは訝(いぶか)しみながら丁寧に開封した。オランダ軍医総監からの手紙は、ハーグに来てオランダ国王の外科医にならないかという誘いだった。

 それだけではない。末尾に、将来、海外赴任の機会があるだろうと短く書かれてあった。生涯の夢が叶うかもしれない微かな香りを嗅いだ気がした。シーボルトは思わず唾を呑み込もうとしたが、口が乾いて、そうはいかなかった。紙面の後ろから女神が微笑んでいた。

 シーボルトは、大学の恩師、諸先輩や伯父に相談を重ね、オランダ軍医総監の誘いを受けると決めた。母国で単なる町医者や、うまくいって医学部教授に収まる人生は初めから考えてこなかったから、当然の選択といえた。

 独、蘭、二か国にまたがる多くの手続きを経て、一八二二年六月七日(文政五年四月一八日)、シーボルトはハイディングスフェルトを発って意気高らかにオランダのハーグへ向かった。途中、フランクフルト、ハーナウ、ボンを回っていくつもりだった。

 七月十九日、ハーグに到着したシーボルトは、オランダ王国軍医総監フランツ・ヨーゼフ・ハールバウアー博士の許を訪問した。オランダ領東インド植民地陸軍一等外科医少佐に任命され、年俸三千六百フローリンを約束された。名門の出自とそれに伴う豊かな人脈がもたらした破格の待遇だった。

 これまで多くの出島商館医が、ユトレヒトの陸軍軍医学校で訓練を受けたにすぎない学歴と比べ、別格の扱いと言ってよかった。ヴュルツブルグ大学医学部卒は全く異なる待遇を受けた。

 九月二十三日、二十六歳のシーボルトは、将来の大きな夢と希望に向かってロッテルダムから出帆した。喜望峰を回りインド洋経由で五か月を費やし、一八二三年二月十三日(文政六年一月三日)、シーボルトはオランダ領ジャワ島バタヴィアに到着した。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」五節「ヴュルツブルグ」(無料公開版)

第三章二節 相州浦賀
第三章三節 王子音無川
第三章四節 焼火之間
第三章五節 ヴュルツブルグ
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