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 宝暦十年(一七六〇)五月十三日、家重は家治に将軍職を譲り、本丸から二之丸に移った。家治の住んだ西之丸に移るのが順当だったが、家重は小ぶりな二之丸を望んだ。

 もはや西之丸のような広い殿舎より、こぢんまりと安らぎ深い庭に囲まれ、静かに草木と花を愛(め)でて住まうのが家重の残り少ない望みだった。家重は若い頃から、口を利かない草木と花を愛で、これからは、愛する者に囲まれて余生を過ごしたいと願った。

 家治が本丸に入り、家重が二之丸に移るに伴って、御側の者に多くの人事異動があった。異動といっても、仕える主君は変わらず、主君が世子から新将軍に、あるいは将軍から大御所に変わったために、職名の変更が生じたものだった。

 ただ、意次だけは将軍付き御側御用取次の役職が変わらず、家重から離れて本丸で家治の側職を勤めることになった。御側の者は表職の者以上に、主君に最期まで付き従うのが慣例だった。意次の職が変わらなかったことは、幕臣の間で異例の人事と取沙汰された。

 御側御用人や御側御用取次とは将軍に側近く仕え、将軍の体臭さえ染みているような役柄である。新しい将軍の許で居場所のある筈がなかった。新将軍の就任後、真っ先に職を解かれるのが側職だった。意次が側衆として二代の将軍に仕える初めての例になるのは、はっきりした理由があったからだった。

 新将軍の許で、意次に御側御用取次として幕政の中核を目立たぬよう仕切らせるのが家重最後の政治構想だった。

「政(まつりごと)の輪をつなげ」

 家重は家治に、将軍職を引き継ぎ親政の実(じつ)を執るよう何度も言って聞かせた。幕府の財政再建という遺された大仕事を引受け、家重から家治の世に輪をつなげるのは意次をおいて外にないと息子に言い続けた。

 意次は、家治を誕生の頃からよく知る者である。家治が倫子と結婚してからは若夫婦に心配りを尽くし、目立たぬ忠義をきめ細かく捧(ささ)げ続けたことをあらためて家治に言う必要はなかった。意次とは、家重に仕えることと将軍家の家族に仕えることとに同じく心を砕くと信じてやってよい者だった。新将軍は家重に言われるまでもなく、全てを心得て父の言葉に従った。

 家治が新しく本丸に住まい始めて間もなく、意次は、家重のために二之丸御殿の普請を差配し滞りなく竣工させた功によって、家治より時服六領を与えられ、手づから青江秀次銘の名刀を賜わった。家治が意次に賜る初めての褒賞となった。

 西之丸から移ってきた家治子飼いの側衆たちも意次の才と人柄に心服した。家治の御側を速やかに整えた意次の功が褒賞の本当の意味だと噂する幕臣もいた。

 新将軍就任に伴う儀礼と挨拶、菩提寺と先祖廟への報告参拝、祝賀献上品と返礼の管理など、典礼関係の諸事がいっときに側衆へ集中したが、将軍職の継承は驚くほど円滑で、継ぎ目なく連続性が保たれた。

 将軍に何事かを言上したある幕僚は、家治が本格的に政(まつりごと)に采配を揮(ふる)う日を待つかのような、落ち着いた余裕を感じたと同僚に語った。この話が流布し、皆が感心して新しい世に新鮮な期待をかけた。

 

 宝暦十一年(一七六一)二月八日、老中首座堀田相模守正亮(まさすけ)の訃報(ふほう)が二之丸にもたらされた。家重は二之丸にあって、生まれがひと月と違わぬ同年代の訃報を身動(みじろ)ぎもせず黙って聞いた。

 享年五十歳、下総(しもうさ)佐倉藩十一万石藩主だった。十六年前、家重の将軍宣下の大礼直後に老中となって以来、長く幕府を支えてきた。郡上一揆の僉議では、当初、年貢増徴派に同情的なところを見せたから、いかがなものかと観(み)ているうちに、老中首座の立場から意次を目立たぬよう支援するようになった。それならばと、信任してやった覚えがある。

 ——余の真意を意次にでも教えられたか

 それならそれでよい、と家重は思ったものだった。

 堀田は老中首座だったから、先例に沿って勝手掛となって、勘定(財政)全般を十二年間にわたって専管した。家重は、意次と清昌の働きやすさを考え、堀田以降、勝手掛老中を置かない方針をすでに決めていた。前年、勝手掛若年寄板倉勝清が西之丸側用人に異動したあと、後任の勝手掛若年寄を補填しなかったのもこの方針の一環だった。

 幕府には、老中首座が勝手掛を専管するとの了解があった。古く綱吉の御代に始まり、変更された前例もあるが、長く踏襲され確固たる慣例となって久しい。

 家重の考えでは、意次と清昌が取り組む財政改革は先例のない大仕事であり、幕府百年の大計にしなければならなかった。

 大改革に着手しようという時、従来の幕政に慣れた軽い気分で、老中首座が勘定掛を専管し、門閥譜代の既得権を守ろうとする発想を遺(のこ)していいはずがなかった。

 家重は、従来の慣習を破ってでもやり抜くつもりで、少なくとも一年間は財政改革を意次と清昌の二人に任せ、再建の大枠が固まるまでは勝手掛老中を置かないと決めた。家治に、勝手掛老中をおかない人事の意味を教え幕政改革の意義を説いた。家重の大胆な基本構想が幕閣に知らされず、若い将軍にしかと引き継がれた。 

 

                           *

 

 意次が気にかけるのは幕政だけでない。家治が一刻も早く世継ぎを儲けることを願い続けてきた。新春に御台所懐妊の内々の吉報を聞いた時は嬉しかったが、生まれてくるのが男児とは限らない。

 ——御台所さま、意次はまだ心よりの御祝いを申し上げるわけにはまいりませぬ。御世継(およつぎ)様をなんとしても授けてくださりませ

 諸手を挙げて寿(ことほ)ぐには早いと心を引き締め祈るように願いを呟いた。姫だった場合、さらに、御台所に第三子の嫡男を期待してよいものか、期待するとしても何子までのことなのか、思案は尽きなかった。

 側室を薦(すす)めれば、家治と倫子の仲を裂くことになるかもしれず、倫子の哀しみを思うと安易な気持ちでできることではないと考え倦(あぐ)ねた。そうしたある日、大奥御年寄(おおおくおとしより)筆頭を勤める松島から意次の許に文(ふみ)が届いた。会いたいという。

 職務上、大奥御年寄とはしばしば内談に及ぶ間柄だから松島と文のやりとりは珍しくない。此度(こたび)、松島はどことなく、いつもと異なる文面を使者に持たせて寄越した。

 約束の日、意次が大奥に出向き座敷に案内されると、すでに松島が待っていた。床之間には、紅白の木瓜(ぼけ)が茶花風にあっさり活けてあるだけで、簡素な設(しつら)えだった。意次は着座し時候の挨拶を簡潔に述べた。ひと呼吸おいて、松島に温容な笑顔を向け、用の趣きを無言で促した。

 用談の趣(おもむ)きは予測がついたが、会談を呼び掛けたのは松島であるとの構えを崩さなかった。意次は、あくまで松島から頼みごとを持ち掛けられ、それに応じたという形をとらなければいけないと思っていた。

「主殿(とのも)どの、ちと御相談を申し上げたく、お呼び立て申しました」

 松島は、家治の生誕直後、その乳母として召出され西之丸に入って以来二十四年、家治に側近く仕えてきた。家治が十代将軍になると、松島は将軍について本丸大奥に移り、今では、大奥御年寄筆頭の権勢をふるっている。

 職位は老中に匹敵し、外出時は十万石の格式を許される身分である。松島は細心の分別を、堂々たる大奥御年寄の貫禄に包み、大奥を存分に仕切っていた。

 意次がにこやかに頷(うなず)くと、すぐに昔ながらの親しみ深い眼差しを返してきた。ともに家治の成長を見守った仲である。意次は、松島が倫子の健やかな体調を話すのを静かに聞いた。

「すでに、御台様には、大奥新座敷から北部屋に御移りいただき、おくつろぎにて毎日をお過ごし遊ばされてございます。はや五月(いつつき)を迎え、七月か八月には御産(う)まれ遊ばすと奥医師が申しております」

 北部屋とは将軍の子を宿した者だけに許される御産所である。意次は嬉しく思い、時折、松島に軽く頭を下げながら謹聴した。

 家治は毎日のように御台所を見舞い、本当に仲睦(むつ)まじい御様子だと松島が言うのをにこやかに聞いた。松島はしばらく無言の間をおいて、少し戸惑(とまど)い、少し躊躇(ためら)う風情で語り継いだ。

「されど、主殿(とのも)どの。いかように申せばよいか。御仲睦(むつ)まじく麗(うるわ)しき御夫婦(ごみょうと)で遊ばされても、ほどが過ぎれば、また別の気掛かりもあろうというもの」

「はて、御仲睦まじく遊ばされ、めでたき限りではござりませぬか……」

 松島は意次から口火を切ってほしそうな気色だったが、意次はとぼけて、あくまで松島の話を聞く体を保った。やむなくという風情で松島は、産まれたのが女児だったとき、いかにすべきか縷々(るる)、懸念を語り始めた。

 側室をおくか否かという問題は、通常、大奥で決めてよいことだった。松島は家治の愛妻家ぶりから、そうするには、無理があると見た。夫婦が意次に寄せる信頼を取り込んで、ことを進めるに如(し)くはないと松島は考えたらしい。意次は、松島の老獪な智恵に感付いた。

「もし、万が一にも、御台様が姫をお産み遊ばされたとき、さらに、第三子の御嫡男を御願い申し上げて宜しゅうございましょうや。主殿どののお考えを伺いとうございます」

 第三子を産むことは、生母の命に関わる危険が伴うとみなされ、大奥の長年のやり方にそぐわないことを意次は知っている。それを承知で松島はこの質問を発した。

 倫子に嫡男を望むのが筋だが、倫子は、男児が産まれるまで何人でも産み続けるわけにはいかない。きりを決めておかなければならないのは明らかだった。

 意次はしばし間をおいて、存念を短く語った。倫子が男児を産んだら、当面、家治に側室を薦めない。女児なら、即刻、側室を薦めるとの案である。松島は意次の率直な考えを聞いて安堵の息を洩らした。

「それを伺い、心を安んじました。頼もしき味方を得た思いです。三人のお子をお産みになられるのは、あまりに酷(こく)かと……。大奥の習わしもございますれば」

 もし秋に産まれる子が姫なら、即座に側室を置くよう大奥と意次の双方から、家治に説得することがいいと本筋で一致した。ただ松島には悩みがあった。すでに、家治に側室を薦めたところ呆気(あっけ)なく拒絶され、それ以降、却って家治が倫子を見舞う頻度が増えたことが大奥御年寄の複雑な悩みだった。

「上様は、御台様を御大切に思召(おぼしめ)すあまり、側室を置こうとはなさいませぬ」

 松島は小さな声で困惑したように打ち明け、意次の協力を請うた。その要請には、姫が産まれた時は側室を置くよう家治に勧めるだけでなく、上手に倫子に説いて、悲しませぬよう了解を得ることまでを含んでいるような口ぶりだった。

 意次にとって、夫に側室をおくよう妻に説き、側室を許容するよう宥(なだ)める役目である。いい役回りではない。松島は、意次が将軍と御台所に深く信頼されていることを知って、頼んできたように思えた。意次も神妙な顔をして返答した。

「斯様(かよう)なむつかしきことを上様と御台所様に申し上げ、首尾よう、ご承諾をいただけるものか、意次は請け合いかねまする。ただ、お請けできまするは、その節に至れば、首尾はいざ知らず、意次が誠心誠意、心をこめて上様と御台所様にお話し申し上げることのみにございまする」

 意次の答えに松島は満足したように、顔色がほっと明るくなった。意次の誠意が伝わらぬはずはない。

 

                             *

 

 堀田正亮(まさすけ)に逝(ゆ)かれてからというもの、家重は肩の荷を下ろしてほっとしたのか、どことなく体調のすぐれない日が続いた。大岡忠光を喪(うしな)い、側衆を減らして静かに暮らす境遇となった。

「寂(さ)び寂(さ)びとおわします」

 幕臣の間に噂がたったが、家重に不満はない。むしろ、重荷から解放されて、己(おの)が身の丈(たけ)に合った余生を淡々と楽しみ、花を愛で、思索にふける時間が長くなった。

 五月に入り、二之丸庭園では花菖蒲が盛んな花勢を見せ始めた。家重の好みで、菖蒲は素朴な三英花が多く、豪華絢爛たる六英花は少なかった。白、藤、紫、藍を基調に、ぼかしの入った見事な花列が続き、家重の丹精のほどが窺(うかが)えた。

 五日、本丸で端午(たんご)の節句の拝謁を済ませ、幾人かの諸侯が連れ立って、二之丸に挨拶にきた。家重は、少しだるさの残る体調を隠し、久しぶりに会う昔馴染みの諸侯から挨拶を受けた。機嫌よく笑みを浮かべて、ひとときを過ごした。家重の公式の謁見はこれが最後になった。

 八日、家重は床についた。二之丸に移ってちょうど一年を過ごした頃だった。尿の出がいよいよ渋(しぶ)くなり、排尿時に違和感が強まるようだった。時に、濁った尿がでた。

 家治と倫子が見舞いに来た機会に、家重は準備しておいた書付を家治に与えた。

 

    主殿(とのも)は全人(まとうど)の者なり。行々(ゆくゆく)こころを添(そへ)て召仕(めしつか)はるべし

 

 家治は枕もとで書付を押し頂いて一読し、端正な言葉遣いで覚悟のほどを述べた。

「しかと心得ましてございます。主殿(とのも)は忠義、正直の者にございますれば、ゆくゆく重く用い、存分に力をふるわせとうございます。かの者から、父上が成し遂げてこられた政(まつりごと)について、すでに精(くわ)しう聞き及びました。主殿(とのも)の確かな見識、整然たる語り口こそ、父上の意を体して働きたる御用取次の資質と見え、さすが父上の御信任遊ばされた者と心強(づよ)う思うております。御意は確かに承りました。どうか御安心召されますよう」

 家重は、妙な具合に顔をゆがめて最善の笑みを浮かべた。家治は、己が背負った障害は受け継がず、将軍職をこそ受け継いだ。家重は二十五歳の堂々たる姿に成長した息子を眩しく見つめた。

 家重は小さく頷(うなず)き、安堵したようにゆっくり瞼(まぶた)を閉じた。生命(いのち)の輪を確かに次代につなぎ、生きた証(あかし)を残した満足が静かな息遣いとともに、家重の口辺に漏れ始めた。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』の第一章八節「輪をつなぐ」(無料公開版)

 

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