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八 新貨を吹く 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 明和二年(一七六五)六月五日、朝から真夏の日が照り付け、江戸の町はじりじりと焙(あぶ)られていた。銀座年寄、平野作左衛門と、大黒常是(だいこくじょうぜ)名代、長谷又右衛門の両人が勘定奉行所の召しに応じて、大手御門に到着した。銀座は銀地金(じがね)を調達し幕府に納めるのが役目。常是役所は大黒常是の許で丁銀を鋳造し極印を打ち、包封するのが役目である。

 両人は、御門前の広場に供の者を待たせ、勘定所の下僕に案内されて大手高麗門から櫓(やぐら)門をくぐって三之丸に入った。下勘定所は正面に見えた。よほど大きい建物だった。通常、勘定奉行と勘定吟味役は本丸内の御殿勘定所に詰めるが、残りの所員の多くはここで事務をとる。

 左手の天神濠が鉤(かぎ)の手に曲がった対岸隅部に巽(たつみ)奥三重櫓(やぐら)が建ち、濠沿いに東多聞が連なるはるか先に東三重櫓が小さく見えた。多聞越しに、並び立つ巨木の先端が仰がれ、蝉の声がうるさいほどに響いていた。

 銀貨製造にかかわる二つの組織から主だった者が到着したと聞いて、勘定奉行所の役人は大切な会合が行われると知った。式台に通された両人は、勘定組頭吉川三郎右衛門に付添われ、奥まった座敷に通された。あたりは厳粛な雰囲気だった。

 平野と長谷は、銀貨発行に関わる幅広い知識を有し、銀座と常是役所のそれぞれで有力な地位にあった。この日、勘定所に呼ばれ、何事かと強い緊張を感じていた。

 下座に待つこと暫(しば)らくして、背後の襖(ふすま)の開く音に両人は平伏した。側を衣擦れの音が通り過ぎるのを聞いた。会談の主と思しき役人が上座に着いた気配を感じた。

「面(おもて)を上げよ。勘定吟味役の川井次郎兵衛である。本日は呼び立てに応じ、よう来てくれた。嬉しく思う」

 恐る恐る両人が顔を上げると、温和な表情を浮かべた小柄な幕吏が座していた。

 この年二月十三日、関東郡代の伊奈半左衛門忠宥(ただおき)が勘定奉行に就任し、その直後の二十五日、勘定吟味役に任命されたのが川井だった。銀座では、勘定所の人事に一方(ひとかた)ならぬ関心をもち、当時、銀座に所用で訪ねてきた幕吏から人事の内情を詳しく聞き出した。

 ――勘定奉行にご昇進された伊奈忠宥さまは、将軍御側室の御養父に在(あ)らせられる

 ――川井久敬さまは、十七年間も小普請組頭でくすぶっておられたところ、勘定吟味役に大抜擢された方で、田沼様の覚えめでたきとか……

 川井は銀座に好意的と言われたものの、この日の会合で平野と長谷が緊張を解くことはできなかった。

「今日、内々に呼び立てたのは、その方どもの考えを知っておきたくての。忌憚のないところを聞かせてはくれまいか。遠慮は無用じゃ」

「江戸表は、知る通り、銀が通用しにくい所で、まことに不自由である。勘定方で少し工夫してみたいのじゃ」

 大坂の銀遣い、江戸の金遣いという俗言から切り出して、川井は勘定所で考える新しい通貨の構想を語り始めた。

「まず、銀貨を新たに新鋳する。元文元年新鋳の元文銀と同品位とし、元文丁銀、元文小玉銀と併用することにいたす」

 金貨の小判と、銅貨の銭(ぜに)は貨幣一つの額面が定まっている。貨幣の数を数えればすむ。一方、銀貨の丁銀、小玉銀では、品位(銀含量比)は保証されたが、重量は一定でない。元文丁銀一つは三十から五十匁で、個々の重さが異なる。銀貨と言っても銀塊にすぎないから、重さを計って流通していた。

 川井は、新銀貨に元文銀の品位千分の四百五十一を踏襲するという。品位を下げて幕府が出目の儲けを取ろうというわけではないらしい。二人は、幕府の新貨発行の意図がつかめなかった。

「新しい銀貨は量目五匁、丸でなく矩形とし、銀五匁(もんめ)と刻印を打っておく。こうすれば、一両の物品を購(あがな)うとき、五匁銀十二個で購(あがな)える道理じゃ。秤量せずに、江戸において銀で買い物ができることになるではないか」

 金(きん)(ぎん)(ぜに)の比価でいうと、金一両は銀六十匁(もんめ)で銭四貫文(四千文)と、幕府が一応は法定したが、実際にはその時々の実勢価格に委ねてきた。日々、相場が変わる。

 二人は、川井が重要なことを微妙にさり気なく言ったことに内心、驚いた。銀を銀塊ではなく、銀五匁の額面を明示した貨幣の形にするという。両替商で秤量が不要になる。

 川井の話がここまで進めば、いずれ、金銀銭の比価を固定し、三貨間の相場の解消につなげるお心算(つもり)かと二人は何となく気付き始めた。川井は続けた。

「五匁銀は銭三百三十三文に相当し、一枚一文の銅銭と共に小額貨幣として使える。これなら、田舎でも便利に使えるのではないか。いかが思うか」

 平野と長谷は、川井から考えを聞かれ恐る恐る言上した。

「昨今、銀相場が下がり、一両が六十二匁から六十八匁で取引されてござります。一両を得るのに五匁銀十三枚が必要になれば、お考えが通らぬことになりませぬでしょうか

「それはそうだの」

 川井はあくまで聞く一方の態度を持した。

「大きく申して、結構なお話のように拝聴いたしました。これまで江戸に持ちこんだ銀は両替商で、いったん金に換えた後、決済に使って参りました。新しい銀貨で秤量が不要になるなら、両替も簡単に済みまする。両替商に払う口銭が安くなるなら、江戸で喜ぶ商人(あきんど)は多(おお)うございましょう」

「そのとおりじゃ」

「ご大名家でも金銀の交換が簡単になれば、お喜びでございましょう。金遣(きんづか)いの江戸でも銀が通用すれば、便利だと喜ぶ者は多(おお)うございましょう。ただその分、両替商はなりわいが減ってしまいますが……」

 銀座の平野は懸念を示しながらも一応は賛同した。一方、常是の長谷は消極的だった。

「それを嫌い、おそらく全ての両替商は五匁銀の流通に抵抗するでしょう。両替商の協力を得られなければ、新しく吹いた銀貨の金回(かねまわ)りに支障が起きませぬでしょうか」

「たしかに。そうなれば支障が起きようの」

「そもそも、金(きん)がお武家様のお金(かね)なら、銀は商人(あきんど)の金(かね)。かりに御公儀が出目を取るため品位を下げた小判を発行なされれば、商人(あきんど)は金銀相場で対抗し、品位を下げた小判の相場は自ずと下がりまする。損をこうむるのをおとなしく待つ者どもではござりませぬ」

「それはそうじゃの」

「お考えの新銀貨は、元文銀品位と変わらぬ由、その限りでは御公儀の出目狙いではありませぬから、商人が対抗するようなことにはなりませぬ。ただ、相場が張れなくなるきっかけになることを心配いたすでしょう」

「うむ」

「銀五匁だから十二枚で一両じゃと言われて、はい、そうですかと商人(あきんど)が素直に申しましょうか。商人にとって相場は大切な手立てにござります」

 川井は二人からあれこれ細かなことを聴き取って会談を終えた。

 

 翌七月、幕府は、銀座、常是役所に吹き立てと極印打ちを命じ、九月朔日、ついに新銀貨発行の旨を布告した。世に知らしめ、追々と民の間で使い回されれば、世評も聞こえてこようと勘定奉行所は考えた。

 川井はかつて石谷の立てた策を知っていた。幕府は、大坂から江戸に向かう銀為替を中止し、現銀を江戸城にため込んだ。それに加え、俵物三品と銅を売って唐から銀を輸入する約定を結んだ石谷の手腕を尊敬していた。近く、阿蘭陀(おらんだ)とも銀輸入契約を結ぶと聞く。長崎奉行を兼任する勘定奉行のお陰で輸入銀が江戸に上納されている。

 ――田沼様と石谷様のお息の合ったことで銀が調達でき、ここまで辿り着いたのじゃ。欧州では銀が随分と安くなっているから、阿蘭陀(おらんだ)から今、銀を輸入するのは有利だとも申されていた

 川井は、意次が日蘭の間の銀相場まで知っているのかと驚いたことを思い出した。当面、五匁銀をさほど多くは発行せず、まずは、秤量の要らない銀貨がいかに受け入れられるか、じっくり見るつもりだった。

 ――秤量不要になった銀貨を喜ぶ声が多いか、秤量の口銭を稼ぎにくくなる両替商の不満が強いか。まずは瀬踏みをせんことには、大きな試みは始まらん

 川井は冷静に先の見通しをあれこれ考えていた。

 ――小普請組で長いことくすぶっていた俺を拾ってくだされたのは田沼様と石谷様じゃ。お二方の期待には応えねばならぬ

 川井は、小普請(こぶしんしん)組組頭で十七年間、閑職に耐えた年月を無駄にしない自信があった。もともと度胸はいいほうである。

 

                                 *

 

 同じ頃、芝の伊達家上屋敷では、藩主伊達重村(しげむら)が何度目かの怒気を発した。重村は、従四位下陸奥守(むつのかみ)左近衛権少将という大層な官位を持つ。それが気に喰わないと言って、側近の古田源左衛門良智(よしとも)に当たり散らした。二十四歳の青年は九年前に陸奥(みちのく)の大家(たいけ)を継ぎ、若年の藩主ゆえに起きた藩の内紛がようやく収まって、本当の治世を始めようという時だった。

 前年十一月、重村より三歳年下の島津重豪(しげひで)が従四位上左近衛権中将に叙任されたと聞いた時から、怒りを抑えかねた。もともと、仙台藩六十二万石は薩摩藩七十二万九千石と並び称せられ、藩主はともに従四位上左近衛(さこんえ)権中将(ごんのちゅうじょう)まで昇進できる家柄だった。重村は、年下の重豪が先に極官(ごっかん)まで昇進するとは何事かと、側近の古田をなじった。柳生流を学んだ剣術好きの重村にとって、武術に長じた古田はいい兄貴分であり、我儘(わがまま)を言いやすかった。

 重村は不審の念を抑えて、重豪昇進のいきさつを調べさせると、どうやら重豪は、家治の新将軍就任祝賀のために琉球王の遣わした慶賀使を同伴して江戸に上(のぼ)り、幕府の心証をよくしたようだった。

 重村は古田に言って、島津に先んじられた昇進の遅れを取り戻そうと画策させたが、少しも埒(らち)が明かなかった。己(おのれ)に格段の実績がないから昇任にあずかる理由がないことに気付いた。それもあって、今日という今日はいよいよ堪忍がならなかった。

 古田と話して、公儀向き手入の重点を老中首座の松平右近将監武元(たけちか)(館林藩五万四千石藩主)と御側御用取次の田沼主殿頭意次(相良藩一万五千石藩主)の二人に定め、その用人に接触せよと命じた。幕府の考えを聞き出し、実績がなくとも、結局、最後は小判が片を付けるだろうと高を括(くく)った。

 

 明和四年(一七六七)正月二十九日、仙台藩江戸家老に、関東諸国の川普請の御手伝いが命じられた。藩主伊達重村は在国だったので、幕府から別途書状を送り、遺漏をなからしめた。

 ここ一年ほど、古田は八方手を尽くして幕府の歓心を買う策を探した。老中首座の松平武元にそれなりの小判を届けもした。武元から、甚だ満足に存ずる、との言葉があり、次回からは、目立たぬよう供の人数を減らして長屋の方へ回るよう指示を受けた。再度、届け物を受け取るつもりと見えた。

 そんなことを何度か繰り返し小判を贈り続けたが、はかばかしくはなかった。老中首座ながら幕閣内で求心力が強くないのか、その気がないのか、これだけでは不足というのか、理由はどうであれ、小判は空しく老中首座の懐に呑み込まれていった。

 同じように、田沼意次用人に面談を申し込んだところ、こちらからは、思いもかけない返事が届いた。

 

   御丁寧(ごていねい)之御事、態々(わざわざ)御出(おいで)ニも及ばず候事

 

 意次本人の直筆で、用があれば書面で十分だと面談を断ってきた。小判の用意があるとの意向を察したうえで、面談を断るほどに清廉な男なのかと、最初、古田は面食らった。

 やりとりを繰り返し、やっと会ってもらった座でも、受け取ろうとしないところに押し問答を重ね、迷惑そうにされるままに、金子を置いて屋敷を辞してきた。出した物を引っ込めるわけにもいかず、さりとて、この男に金子(きんす)は適当ではないと苦い思いが胸中に広がった。老中首座の方がよほどやりやすかった。

 大奥筋の手入れは、大奥御年寄筆頭次席の高岳(たかおか)を狙った。こちらは高位の御女中を何人も介し、介するたびに小判を幾人にも贈り、ようやく依願の趣きが伝わった。高岳は魚心あれば水心ありの風情でやりやすかった分、その代償は相当に大きかった。高岳の為に桜田御屋敷内に里下り用の屋敷を造らされた。

 空しく、馬鹿らしくなるような日々を過ごすうち、関東で大きな川普請をやると聞きつけた。島津とて、相当の金をかけて琉球王の使者を江戸に同行し、実績を積んだことは容易に想像が付いた。川普請の国役を仙台藩が御手伝いしたいと、わざわざ名乗り出て、苦しい勤めを買ってでた。実績のためには止むを得なかった。藩財政や国元の百姓が負うことになる負担のことが頭をよぎったが、古田は、若い藩主の自尊心のために割り切った。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第二章「田に実らざる富」八節「新貨を吹く」(無料公開版)

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