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七 毒棘を刺す 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 安永三年正月、江戸は極寒の真っ只中にあった。前年末から一気に寒気が募(つの)り、江戸中を巡る堀と水路は分厚い氷に閉ざされた。市中の舟運が完全に止まっただけでなく、大川の浅草付近の川面までもが結氷して、江戸に運ばれる各地の物産が途絶えた。凍り付いた市中では、正月というのに松飾を整えられず、正月必需品が払底した。

 一橋邸の堂々たる表門を、星梅鉢を打った駕籠が通っていった。白河松平家の家紋である。まだ松の内だったが、この年一橋家は喪中で、門松を据えてなかった。

「松平越中守様、御着到にござりまする」

 一橋治済(はるさだ)は居室で報せを聞くと、座敷に向かい、初老の来客を静かに待った。部屋の隅には火鉢に火を埋(い)け室内を温めてあった。

 床之間には白菊と南天と水仙を喪中らしくひそやかに活けた水盤だけを置かせた。床之間を背にせず、客と相対するよう庭側の障子を背に座した。席の上下を付けない配慮は、治済なりに気を遣(つか)ったもてなしだった。

 越中守定邦が案内(あない)され座敷に通されると、治済は御家門にして白河藩主たる初老の男に向かって丁重に挨拶をなした。家格の上下を表さず、長幼の順を重んじる態を恭(うやうや)しく装(よそお)った。一通りの挨拶を交(か)わす治済の挙措は爽(さわ)やかでさえあった。

「御当家に参る途中、駕籠に揺られ夢想窓から眺めますれば、なんと大手御門から平川御門にかけて内堀は凍っておりました。長く江戸に住み申したが、このような寒さは初めてでござる」

 定邦が気さくに話の穂を継いでくれたのを治済は嬉しく思い、一頻(ひとしき)り天候のことなど雑談を交わした。座が和らいだころを見計らって治済が言った。

「実は、一度、越中守殿に御領内の白河の関趾(せきあと)のことを伺いたく存じておりました」

「さてもさても、これはむつかしき御訊ねにござる」

 定邦は、やや面食らった様子で答えた。そもそも白河の旧関趾は、陸奥(みちのく)の三関の一つとしてして歴史上よく知られ、それ以上に歌枕で有名だった。ただ、歴史好き、和歌好きの間で有名であるにすぎず、関のあった場所さえはっきりとは分かっていない。

 治済は歌枕などに興味はない。定邦に阿(おもね)るつもりで話題にしたが、領主の定邦もさほど和歌に関心をもたず、白河関の旧跡のことなど知らないようだった。座が白々となった。

 治済は、定邦と会う理由があったが、両家に接点がなく、どう言い出していいか困っていた。こちらからは切り出しにくい。そもそも、この日の座を設(もう)けることさえ、家臣の多くの労を要し、やっと約束までに行き着いた経緯があった。

 白河松平家との間に人的なつながりを探したが見つからず、伺候席が同じわけでなく、藩邸が近いわけでなく、領地が近いわけでなく、趣味を同じくするわけでなかった。共通の出入り商人や植木棟梁さえいなかった。

 お富が出産した直後、家老の田沼意誠(おきのぶ)に松平越中に会いたいと言うと、参勤で在府しているのを知っていたのだろう、なんとか計らってみると答えてくれた。意誠がどことなく精彩を欠くように見えたが、気にも留めず任せた。意誠なら、どうにかしてくれるに違いなかった。

 そのうち、意誠は体調を崩して勤仕に耐えず、自邸で療養するようになった。ただ、頼まれたことは家士に引き継いであったから、この日の座談がようやく実現した。治済は、先年師走、五十三歳で意誠を喪(うしな)ったことを改めて残念に思った。

 ――この座談は意誠が遺(のこ)してくれたのじゃ。意誠の最後の忠義なのじゃ

 この機会を無駄にするわけにはいかないと、治済は自らを励ました。

「越中守殿とは、城内の詰之間(つめのま)も異なり、普段、親しくお言葉を交わす折とてなかなかありませぬ」

 殊更に「詰之間」と口に出し、それとなく伺候席のことに触れた。やや強引とは思ったが、一歩進んだ話を切り出した。

「詰之間と申せば、御宗家の隠岐守殿が溜間詰(たまりのまづめ)に御復帰されて、もう二年半ともなられましょうか。お家の御運隆昌でなによりのことに存じます」

 話しながら、治済は、じっと定邦の顔を見つめた。瞼(まぶた)の辺りに引き攣(つ)れるようなかすかな影を見た気がした。意誠が生前言ったことは本当なのかもしれなかった。

 ――宗家の松山藩主松平定静(さだきよ)が溜間詰に復帰した話をされて少しでも心が波立つなら、やはり、定邦も自(みずか)ら溜間詰を望む心を抑えがたいのではないか

 治済はそう思いながら、じっと定邦を見つめ沈黙を保った。定邦からも視線が射込まれ、互いに見つめ合っていることを意識した。気まずい沈黙に耐え、相手に口火を切らせようと思案していると、果たして定邦が口を利いた。

「先年、弟君を亡くされ、御当家ではお寂しい正月なのではございませぬか。まだお若かったのに、お心残りのことでございましょう」

「さようです。十七で逝くとは若過ぎました。これで我が家に残る弟はいなくなり申した」

「兄君は越前松平家に、弟君は筑前黒田家に御養子に出られた一方で、民部卿殿には先年秋、御嫡男がご誕生だったとか。お家の勢いがつくと申すもの」

 互いに急所に踏み込まず、その周りを巡る会話を続けるに及んで、とうとう治済はしびれを切らせた。えいとばかりに心を決め、こう述べた。

「越中守殿は久松松平の名誉ある御家門を背負われてござる。も少しお家の格を上げる算段などをなされてはいかがかと、考える者が幕閣にもおるように聞き申した」 

「………」

「はっきり申さば、お家は、御宗家の久松松平と並び伍してもいいのでは……」

 治済は言い過ぎたかと思った。定邦の目が見開かれ、急におどおどと下を向いて自信無げな素振りを見て、言い過ぎではない、今こそ押すべきだと確信した。

「御宗家では、田安から豊丸を養子に迎え、数年して隠岐守殿が溜間詰にご復帰召された。これはよき前例となりましょう」

「そのようなことが叶(かな)いましょうや」

 震えるような小さな声で定邦が呟(つぶや)いた。長幼の順が逆になったかのような奇妙な会話のなか、治済は言い足した。

「我が家と違い、田安には養子に出せる弟がおりまする。賢丸(まさまる)と申します」

「お噂は聞き及びます。なんでも、若いのに武芸学問に秀で、御先代様の再来とか」

「噂はともかく、明けて十七になったはず。よい年頃ではござらぬか。いや、ぐずぐずすれば、どこぞの大名が目を付けぬとも限りませぬ」

 定邦があっという顔をするのを見て、治済は、これで己の掌中に入ったと思った。

「お気に召されるなら、もう少しお話申し上げましょう……」

 その後、定邦は随分と長居をして帰っていった。夕刻、寒さが軋み始めるころだった。

 

 二月、意次は、田安邸を訪れ、賢丸を白河藩松平家に養子に出さないかと話を持って行った。意次は、久松松平家が御家門の一つであることをくどくど言わなかった分、松平定邦がいかに賢丸を望んでいるか、穏やかに噛んで含めるように語った。当主の治察(はるあき)が大人しく耳を傾けるのを確かめ、まずはよしと屋敷を下がってきた。

 数日後、再び、意次が田安邸を訪れると、今度は先代宗武の正室にして治察の嫡母、宝蓮院が同席し、京言葉混じりの強い口調で養子話に反対を唱えた。くどくど述べ立てる話は、要するに、治察がまだ継嗣を得ていないから、万が一のために賢丸を控えにおきたいということだった。

 田安、一橋、清水の三家は、当主となる者が健在なら家を継がせもするが、いないのなら明屋敷(あきやしき)とするのが先々代有徳院の方針、敢えて養子を他家から取ったり、養子の口がある当主弟を継嗣控えにするという話ではないと、敢えて口にはしなかった。

 幕臣なら誰もが心得ていること、御三卿は独立した家を持つわけでなく、上様の御身内という扱いを越えてはならなかった。意次は、一言、穏やかに言上した。

「幕府が、弟君を御当主のお控えとすることを許せば、今後、上様の御身内としてお世話申し上げることが出来かねる仕儀と相なりまする」

 この一言を言い置いて、速やかに辞去した。意次は有徳院以来、引き継がれた方針をはっきりした言葉で、少しの誤解もないように伝えた。田安が縋(すが)る気持ちを持てば気の毒だと思い、敢えて柔らかい言葉を用いなかったのはむしろ温情だった。

 意次は、松平定邦が賢丸を養子に欲しいと真摯に願い出た経緯をみて、十分、その気持ちを理解し、悪い話ではないと思った。養子先として家柄に不足はない。

 白河藩が家格を上げたく思っているとの噂を聞いてはいたが、それはそれ、また機が熟したら考えることで、今の時期には念頭におくべきでないと考えた。

 ――何も、定邦が儀礼上、届けてきた僅かばかりの金子(きんす)に引き摺(ず)られてのことでなし、佳(よ)き養子縁組の話なら進めてみるべきか

 三月十一日、家治は、白河藩主松平越中守定邦を召して、田安大蔵卿治察(はるあき)の弟賢丸(まさまる)を養い、女(むすめ)に娶(めあ)わせよと命を下した。女(むすめ)の峯姫が二十二歳の行き遅れで、賢丸の五歳の年長、容色麗(うるわ)しからざることは考慮の外である。

 十五日、賢丸から将軍に宛てて、白河松平に養子に行く旨請書(うけしょ)を出して縁組がしかと決まった。四月、養父定邦から「定信」と名乗りを与えられ、五月にはすっかり養子縁組が整った。松平定信の誕生である。

 田安家は賢丸を養子に出さざるをえなくなり、宝蓮院の心配と不満が高まっていることを幕閣は心得ていた。

「母から見て、治察に子が授かるとは思えず、ましてや、長命するとは想像できぬのじゃ」

「万が一のことは考えとうはないが、そのことに備えておかなくてはならぬのじゃ」

 宝蓮院がいらいらと罵声を放ち田安家家老に当たりちらしたことは、即座に幕閣の耳に入った。意次は宝蓮院の要望を入れ、賢丸が北八丁堀の白河松平家の江戸上屋敷に移り住む時期を急がなくてよいと猶予した。少しの時をおけば穏やかに済むことも多いと知った緩急自在の対応だった。

 

 七月末、意次は、石谷、川井の両勘定奉行から南鐐二朱判を上方で流通させるよう図りたいと上申を受けた。鋳造量を増やし毎月大坂御蔵へ移送せよと京都、大坂の銀座に命ずることとした。二朱判も二年が経ち、いよいよ普及に力をいれるべき時だった。

 秋は先年に続きまたも寒かった。早々(はやばや)と初冬の寒さとなって北風が吹いた。八月二十八日、宝蓮院が危惧した通りなのかどうか、田安治察が二十二歳で逝(ゆ)いた。定信の養子縁組手続きが終わって三か月後のことだった。

 田安家では当主の喪を秘して発せず、九月一日、宝蓮院から大奥老女高岳(たかおか)を通じ、白河松平家との養子縁組を破談とし、定信に田安を襲封させてほしいと悲痛なる嘆願が幕閣と家治に上がってきた。

 七日、幕府は御側御用取次の稲葉正明(まさあきら)(五千石)を田安邸に遣わし説明させた。先々代有徳院様の御議定があって、御三卿の御領地は部屋住料に過ぎず無嗣なら収公するのが定めであるため、願いの筋は聞き遂げられないと回答した。

 宝蓮院が五十四歳の老い先を悲嘆し半狂乱となった翌日、治察の喪を発し、田安邸では葬礼の仕度でおおわらわだった。

 とは言え、田安に悪いことだけではなかった。老中の松平右京大夫輝高(高崎藩七万二千石藩主)が来訪し、領地はこれまで通り田安領と唱え、家人も田安附と称してよいと伝えた。一家の収入と祭祀は保たれた。

 二人の田安家家老は一橋家家老の次席扱いとなったが、治察がいなくなったことを除き、実質的にこれまでと大きく変わらぬ屋敷の営みが可能となった。ただし、当主のいない明屋敷(あきやしき)たる扱いは厳然と申し渡された。

 輝高は宝蓮院が喜んでいたと復命し、嬉しそうな家治を見ると、あらためて意次の配慮を感じた。近く田安家に五千両を下し賜ることになったと聞いて輝高はすっかり安心した。

 ――主殿頭(とのものかみ)はああ見えて、筋を通しながらも情けある裁量を心得ておられる御仁じゃ

 有徳院の方針に違(たが)うことなく、それでいて意次によって田安家に最大限の配慮がなされたと幕閣の皆がわかっていた。

 

                           *

 

 この年の冬も極寒となって、再び江戸城の堀が凍り付いた。定信が田安屋敷の石垣から千鳥ヶ淵を見降ろすと、氷が張りつめ眼下に寒々しく広がっていた。

 屋敷はすっかり活気を失い、索漠たる風が吹き通る気がした。定信は、この年の二月から、この屋敷を襲った災厄は何だったかと考えた。突如、魔風が吹き抜けるかのように強引に養子にだされ、嫌だといくら願っても聴き入れられなかった。その直後に当主の兄が死んだ。田安は御三卿の筆頭と言われながら、あっけなく明屋敷とされた。単なる偶然の成り行きとは思えなかった。

 ――誰かが、当家に悪意を抱いた。当家はその悪謀を防げなかったのじゃ。そんなことを企みそうなやつと言えば……

 唇を噛み、冷え込む石垣の上で定信はいつまでも考え込んでいた。考え込むのが御三卿一族の習いでもあるかのように、憎悪と苦衷に満ちた顔付きはじっと、動くことがなかった。

 

 安永四年(一七七五)正月、一橋屋敷にも、やはり考え込む男がいた。治済は明けて二十五歳になった。さきほど家老から、田安の明屋敷で賢丸がどのように暮らしているかを聞いて、一人になって考え始めた。

 治済の気掛かりは、定邦の養子に収まったにもかかわらず、賢丸が明屋敷となった田安屋敷に居続けることだった。何を考えているのか、何かを待っているのか、単に久松松平の江戸上屋敷に行きたくないだけなのか、少しもわからなかった。

 ――幕府も幕府ではないか。宝蓮院に泣きつかれて甘い顔をしているのか

 ないとは思うが、養子縁組を破談にして賢丸が田安当主に戻ってくることがあってはならない。治済は、座して見ていればいいとは思えなくなった。

 ――もう一手が要る

 数日後、治済は来邸するよう、北八丁堀の白河松平家上屋敷へ使者を立てた。この時期、定邦は国許に戻って次に入府するのは五月だから、呼び付けたのは江戸家老である。

 このところ連日、江戸はしんしんと冷えた。暖国の駿河でさえ城の堀が凍ったと聞こえてきた。治済は、白河藩を呼び立てるときは、必ず厳しい寒さだと思って、可笑しかった。翌日、厳しい寒気のなか一橋家を訪れた客は白河藩江戸家老だけだった。

 

 四月、一橋屋敷の邸内では、桜がすっかり葉を纏(まと)っていよいよ明るく、藤棚に下がった薄紫の花穂は高貴な色相(いろあい)を惜しげなく輝かせ、そよ風に揺れていた。庭を散策する治済に、側衆の若侍が書状を届けてきた。白河藩江戸家老からだった。治済は期するところあって、書状を急ぎ開いて目を凝らせた。

 ――定邦が花見の最中、中風を発し、殊(こと)に篤(あつ)からずとも軽(かろ)んずべからず、とな

 治済には、来月、定邦が間違いなく参勤し江戸にくることがわかった。

 ――巧(うま)く考えたではないか。あまり重くない中風病みの仕草で、幕閣に嘆願する稽古を存分になされよ

 治済はうすら笑いを浮かべ、定信や宝蓮院がまた騒ぐかもしれないと思った。それなら次の手を打つまでと、治済は晴れ渡った空をせいせいと仰いだ。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第三章「栴檀の棘」七節「毒棘を刺す」(無料公開版)

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