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三 具眼の士たち 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 長行が心を傾けるのは文雅の世界だけではなかった。高島秋帆、江川太郎左衛門など、第一級の識者に師事し西洋流砲術を懸命に学んだ。長行は秋帆から、天下三名筆と称揚される秋帆愛蔵の山馬の毛の太筆を贈られ、ゆるぎない師弟関係を結んだ。

 嘉永五年(一八五二)九月、藩主小笠原長国が大量の新式銃を整備するにあたり、長行は、当時無名だった勝麟太郎に設計させてはどうかと進言した。長行は、蘭学者の間で気鋭の者と評判が高かった勝に早くから着目していた。

 嘉永六年(一八五三)の黒船来航時に、知遇のあった藤田東湖を通じて水戸斉昭に意見書を提出した。翌年、側近の村瀬文輔、長谷川立身を幕府の蝦夷樺太調査団に同行させた。長行は、かねてより北方の兵要地誌に強い関心を抱いていた。こうして背山亭で世に埋もれて過ごし、いつしか十年を超えるに至った。

 

 長行は、深川高バシの藩邸下屋敷のごく小さな一角に住みなし、世間を見ている。藩主の地位にくよくよ拘泥しなければ、この世は十分に生きる甲斐があるとでもいうように、淡々と処し、生き生きと学び、会い、語り、その令名は嘖々(さくさく)と府内にひろまった。背山亭に出入りする儒者が諸藩の屋敷に出講に行った折、長行の人物評を好意的に語ってくれるのである。

 長行を気に入って、背山亭に足繁く出入りする学者の中に安井息軒という大儒がいた。日向飫(おび)藩士で、若いときから昌平黌で学び、秀才の誉れが高かった。息軒は幼少の頃、疱瘡をわずらって片目を失い、その心の傷をはね返す勢いで、片眼で猛烈に勉強し、当世屈指の学者になった。酷(ひど)い痘痕(あばた)の残る顔貌で獅子吼(ししく)して時勢を論ずる気迫は、猥(みだ)りに人の狎(な)れを許さない。 

 息軒は、黒船来航直後の嘉永六年(一八五三)、混乱した政局において、つきあいのあった藤田東湖を介して水戸斉昭から意見を求められ、「海防私議」、「靖海問答」の二書を上呈し国防指針を献策したことがある。単なる字面の古義穿(せんさく)を旨とする儒者ではない。堂々たる国家観を見据え一家言を存分に開陳した。

 息軒もまた、長行の心根を大いに気に入り、大才と見込んで長行を世に出したいと切望する一人だった。多くの大名屋敷に招かれ講義した折に、

「深川背山亭に小笠原長行あり、これを廃人という。もし彼、廃人ならば予もまた廃人たらんを望むのみ」

 と切々と語った。

「息軒先生をしてそこまで言わしむるは、如何なる人物じゃ」

 席がざわめくことがしばしばあった。

 迂仙と二人で杯を交わす時、長行の境遇に話が及び、息軒はしばしば涙を噴き上げた。長行の廃人の不遇を慨嘆する気持ちと、野に隠れた器才が国難に用いられない可惜(あたら)の念が嵩(こう)じ、痘痕(あばた)の一穴一孔がどす黒く、てらてらと赤みを帯びた。片眼の異相が鬼気迫って嘆き、号泣に変わった。よほど長行が気に入ったと見えた。

 かつて息軒が二度目に昌平黌に在籍した直前、山田方(ほうこく)という六歳下の書生が昌平黌にいた。備中松山藩の豪農の出身で、これまた、とてつもない秀才だった。

 方谷はたちまちに頭角を現し、佐藤一斎の私塾で塾頭を勤め、後に藩主、板倉周防守勝静(かつきよ)の懐刀となって藩財政を鮮やかに立て直して見せた。全国津々浦々から一言教えを乞おうと多くの藩士が蝟集し、方谷はこの時代きっての経済学者となった。

 息軒は昌平黌同窓の伝手(つて)を生かし、方谷に長行を強く推薦したことがあった。当然、その名は藩主板倉勝静の耳に入るはずだった。

 塩谷(しおのや)宕陰(とういん)は昌平黌以来、息軒とは大の親友で、共に背山亭に出入りして長行を応援する仲間だった。宕陰と息軒は、松崎慊堂(こうどう)の相弟子で、ともに学才を高く称えられた。宕陰は恩師の推挙によって水野忠邦に仕え、天保の改革では顧問として政事上の進言を行なった。宕陰は藩主となった忠精にも仕えて長行の人物と数奇な境遇とを語り、取り上げるに値する人材だと強く推した。

 こうして、令名高い儒者が知る辺(べ)を頼って長行を推し、世に出そうという気分が澎湃(ほうはい)として起こった。当の長行は知るよしもなく、学問以外、何の望みも持たず淡々と文事に浸って暮らしていた。

 

 安政四年(一八五七)六月、首席老中の阿部正弘がわずか三十九歳にして死んだあと、老中堀田正睦が後を引継ぎ、幕府は何かと気ぜわしかった。

 前年、下田に到着したタウンゼント・ハリスが米国総領事と称して、なにや、かにやと下田奉行に交渉を仕掛けてきた。下田では、領事(コンスル)職が転訛して、ハリスはこんしろうさんと呼ばれ、この地域の日本人に紺四郎さんと分りやすく膾炙(かいしゃ)するまでになった。

 ハリスは本領を発揮し、いよいよ小うるさいことを言い出した。あろうことか、第十四代米国大統領フランクリン・ピアスの親書を江戸城にて自ら直接、大君に捧呈したいと下田奉行に強く要求しはじめ、奉行の拒否にも決して引き下がらなかった。

 ハリスはぷれじでんとの親書、親書と、ひどく勿体を付け、とうてい下司に渡せるものではないとの言い様だった。「せけれたりす ふはん すたーて」、いずれ日本語で国務長官と当てられる高官の親筆署名も添えられるのだと高揚した口調で下田奉行に説明した。

 下田から困惑しきった報告が届き、これを聞いた堀田は、ハリスの江戸入府と将軍謁見を許そうと決意した。蘭癖と呼ばれた堀田の真骨頂と言われた。

 この決定を聞いた諸侯のうち、阿波藩主蜂須賀斉(なりひろ)、越前藩主松平慶(よしなが)以下、備前、高松、忍、桑名、姫路など幕府寄りの歴々たる藩主たちでさえ、批判めいた声を上げた。

 当時、日本の認識はこの程度に留まり、異人を江戸に入れ、城中に上げ、将軍の謁見を許すなどとんでもないという気分だった。堀田一人が、図抜けて開明的だった。

 この年の夏から秋にかけて、ハリスの謁見問題で幕府はまた一つ負担を強いられた。この時期、人材はそれなりに多くいたが、問題が山積し、幕府は見識ある実務家をいくらでも必要とした。

 小笠原家に賢公子ありとの声が高まり、世に用うべしとの意見が広がった背景にはこうした世情があった。長行に心服する家臣たちは、以前から家譜を繰(く)って縁ある大名を探し、長行に支援の心を寄せてくれそうな先を物色した。ついに阿波藩主蜂須賀斉(なりひろ)が最もふさわしい大名だと思い定めた。

 

 二百五十年も前の話である。宗徧を召抱えた藩主小笠原忠知の七歳上の姉が家康の養女となって阿波藩初代藩主、蜂須賀至(よししげ)に嫁した。これは有力な縁といってよかった。長行家臣たちにすれば昔の細い縁ではすまなかった。蜂須賀家は小笠原家の赫々たる御親類なのである。

 現当主の斉裕は十一代将軍家斉の二十二男に生まれ、七歳にして蜂須賀家に養子に迎えられた。藩政を整え、海防に関心があってペリー来航時には品川海岸の警護にあたった。松平慶永、島津斉彬とともに、将軍家定の継嗣に一橋慶喜を推し、公武合体による幕政改革を唱える一派に属した。まずまずの聡明さを持ち政治的な動きの取れる大名だった。

 一橋派とも呼ばれるこの一派は、頭のいいことを重んじ頭がよく廻る人材を好んだ。その中心人物、松平慶(よしなが)(春嶽、福井藩主)、島津斉(なりあきら)(薩摩藩主)、一橋慶喜(よしのぶ)(一橋家当主)、山内豊(とよしげ)(容堂、土佐藩主)に共通するのは、才気煥発、頭が切れることである。家禄や家格の高さに興味がないかのようだった。

 一派の周縁には、堀田正(まさよし)(佐倉藩主)、鍋島斉(なりまさ)(閑叟、佐賀藩主)、伊達宗(むねなり)(宇和島藩主)、蜂須賀斉(なりひろ)(阿波藩主)らが気脈を通じ、やはり皆が皆、頭の切れで共通していた。養子上(あ)がりの多いのも特徴だった。

 これら大名は、開明的で旧習を改めるのにとまどいがなく、人材の登用にひどく熱心だった。人材と見れば、出自、家格などほとんど気にしなかった。その振る舞いは明るく率直で、身分をこえて下僚とも打ち解けて交わった。さらに、遅れた分を取戻す勢いで西洋の文物摂取に積極的だった。

 この派の誰もが、伝統的な幕府のやり方に固陋(ころう)の匂いを嗅ぎ取り、家格の順位付けなどは大の嫌いだった。家柄の良さに平然とあぐらをかき偉ぶった大名の姿を見よいものと見なかった。だからこそ、自身は殿様ぶった尊大なところがなく、気さくで、率直で、反応が機敏だった。この時期に現われた新たな大名たちだった。

 この人々は、口に出す筈はなかったが、盆(ぼんくら)の並び大名などは眼中になく、先を見通す能力こそが新時代を切り拓くために必要だと固く信じていた。この発想の故に、一橋慶喜を将軍家定の継嗣に据えたいと心から願っていた。

 これらの大名に共感をいだいたのは、優秀で開明的な幕僚たちだった。こうした人々が自ずと集まって、政治的に明確な主張をもち、この時期、頭が切れ弁の立つ際立った一派になっていった。

 阿波藩蜂須賀家の上屋敷は鍛冶橋御門内にあって土佐藩上屋敷と隣接している。蜂須賀家は一万五百八十九坪、山内家は七千三百五十五坪の屋敷を構え仲良く並ぶ隣人だった。公称石高は、阿波藩二十六万石、土佐藩二十四万石。実高は何れも、その倍ほどもある大藩だった。両藩は石高でも似たようだった。

 長行に心を寄せる家臣らが蜂須賀家上屋敷をこわごわと訪問すると、藩主斉裕自ら会って気さくに願いの筋を引き受けてくれた。どうやら、藩の儒者から長行の話がすでに通っているように窺(うかが)えた。それもそのはず、蜂須賀家の儒臣片山天雅は安井息軒の親友なのである。

 なにより、小笠原長行は頭のよさでは人後に落ちず、この一派の好みにぴったりだった。斉裕はすばやい動きを見せ、早速、仲のよい山内豊信に長行のことを相談した。

 土佐藩には容堂の右腕といわれる執政、吉田東洋が息軒と親交があっただけでなく、容堂は塩谷宕陰と親しく、多くの筋から長行の為人(ひととなり)を聞かされていた。話は速かった。四国の大名で、隣人にして同志の二人は、何回か大名小路の隣家を訪問し合い、なにやら成案を得た。

 

 安政四年(一八五七)五月、唐津藩小笠原家から奇妙な届が幕府に提出された。なんと、聾唖の廃人であった嫡子行若(みちわか)は、廃人がすっかり癒(い)えて常人に復したという。文政七年(一八二四)、行若三歳にして、

「嫡子行若、聾唖(ろうあ)之故を以て廃人」

 と幕府に届けられた書状があった。此度(こたび)、三十三年前の届を、埃を払いつつ幕吏が引っ張り出して来た。二通の届を並べ、照合し、幕吏は、はたと首をひねった。上司に相談しなければならないと思った。

「ここに聾唖の廃人を常人に戻したいと届がだされておりまする。廃人だった者が常人に復することなどありましょうや。解せぬことでござりまする」

「聾唖は病、病であれば治ってもおかしくはあるまい。されば廃人も常人に戻るのじゃ」

 上司から訳知り顔で力強く指導された。幕吏は、なにもこのようなことで上司と言い争うこともあるまいと、決められた通り手続きした。あっけなく行若は廃人でなくなった。上からの一声があれば、役所ではこうも速やかに手続きされる見本のようなできごとだった。

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」三節「具眼の士たち」(無料公開版)

 

 

四 花陰に香る 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 息軒は、頃はよしとばかりに要所に布石を打ちながら、長行のおおやけの道をひそかに拓いていった。

「一日の計は朝にあり、一年の計は春にあり、一生の計は少壮にあり」

 息軒の座右の銘である。私塾にも三計塾と名付けるほど計画性に富んだ緻密な頭脳の持主である。一方で、長行のわたくしの面にも気を配ることを怠らなかった。

 五月の暑い日、息軒は、背山亭に長行を訪ねた。通された書斎の縁の軒(のき)には、つりしのぶが涼し気に吊るされていた。息軒は軒下を眺め、その先、緑の梅枝越しに広壮な泉水を見晴らし、爽やかな涼風を楽しんでいると、奥から長行が出てきて鄭重な挨拶を交わした。

 四方山話(よもやまばなし)を語り、江戸の文人の噂など閑話が穏やかに続いた。息軒はあえて政治向きの話を避けた。

「それはそうと、来年は迂仙先生の七回忌。公は何かお考えでござりますか」

 ふと、話の途切れに至り、息軒は松田迂仙の七回忌を翌年に控え、どう計らおうか、長行に尋ねた。

「学問の仲間内で心のこもった法事に致すのが宜しゅうかと考えておりました。私が御内儀にご相談に上がるべきかと存じます」

「されば、その折には、拙者も伺おうと思うております。御同道仕りましょう」

「はい」

「ところで、公は迂仙先生の娘御が御幾つになられたか御存知でござるか」

「十七でござりましょう」

「さればでござる。公は美和どのをお貰いなされる気はござらぬか」

 息軒は法事の相談をしながら、これに事寄せ、迂仙末女(すえむすめ)の美和を長行の側に置いてはどうかと単刀直入ずばりと聞いてきた。

「はて、息軒先生から思いもよらぬことを伺うものかと……」

 息軒は背山亭を訪ねる前、すでに迂仙の未亡人に一任されていた。未亡人は、生前、夫が、美和の歳が十も上であればと残念がっていた気持ちをよく知っていた。美和が、十九も歳がはなれながら、淡い恋心を長行に寄せることを母の目から敏感に察し、亡父の遺志もふまえて息軒の意のあるところに賛同した。ただし、身分の垣根があって、正室というわけには行かない。

「これは公にとっても誠によいお縁談(はなし)

 息軒は長行に良い縁組であることを説き、何時までも身の回りを世話するもののない境遇が不自然であることを諭した。

「先生にそこまで御配慮を賜り恐縮でござります。されどあまりに年が違い過ぎるかと」

「公はこういう歌を御存知か。

   散りてなほ かほりをのこす白梅の たかき心のなつかしきかな

 いかがか」

「はて、存じませぬが……」

「これは美和殿十五の折に詠まれた歌。背山亭を囲む白梅を詠んだのかもしれませぬぞ」

「はあ……」

「されば、この歌の清明な調べにひそやかな乙女の恋心を読み取ってもおかしくはござらぬ」

「はあ……」

「えい、じれったい。公を詠んだ歌のようじゃと申しておる」

「なんと」

 長行にとって美和は恩師の息女で、幼少の頃から父に連れられ背山亭に遊びに来て、背に負い、あやしてやった間柄である。

「それがしは、迂仙殿亡き後、しばしば御内儀の許を訪ね時候の御挨拶を申し上げますが、そのたびに美和殿は成長しておられます。近頃は清楚な美しい娘御となられ、時に、驚くほど婉麗な風情がかいま見えまする」

「はあ……」

「美和殿十七歳、つぼみはようやく萌え始めたと申しておる。年の違いなどなにごとでもござらぬて」

 息軒はかつて美和の詠草を漏れ聞き、美和の歳が熟するのを丁寧に待った。親友迂仙に香華を手向けるような気持ちだった。

「公よ。かかる折は気持ちよう諾(うん)と言うものでござる」

 長行は少しの間、考える素振りを見せ息軒の顔をじっと見つめた。

「私に否やはござりませぬ。美和殿がおいやでなければ……」

 息軒は、長行に諾と言わせたことに気を良くし、長行の満更でもなさそうな様子を見てとったのであろう。この晩は大人しく帰っていった。

 

 それから背山亭と松田邸の間に何回かやり取りがあり、全て息軒が使者に立った。話はとんとん拍子に進み、ごく親しい者たちのささやかな会食を経て、美和が長行の許に入った。

 旬日が経った頃、背山亭から息軒宅に長行の揮毫した扇が届けられた。金粉を吹いた淡い藤色の色目の扇面には

 

     窗 近 芲 隂 筆 硯 香 

          丁巳夏於長慶禅寺畔明山書(落款)

 

 とあり、丁(ひのとみ)(安政四年)夏の墨芳として、背山亭の裏手にある曹洞宗長慶寺を引いてあった。この禅寺には日本左衛門の墓があり、その故にというわけでもなかろうが、長行が和尚と話が合って、恩讐を超えた心境からよく参ることを息軒は知っている。

 窓近く花陰に筆硯香る、と宋末の詩人、黄庚の句が異体字使いの見事な隷書でしたためてあった。落款は長行自らが篆刻したものであろう、遊び心がのびのびと舞う飄逸な彫りだった。長行本来の端正な行、草の筆使いを隷書に変え、異体字を散らした洒落た筆致を見て、息軒はくすりと笑った。

 美和を芲(はな)に見立てて明山公子はわしに礼を申してきたか、背山亭書斎の窗(まど)近く、芳(かぐわ)しい芲隂(はなかげ)で公子はのろけておいでかと、にんまり微笑んだ。これで、公子がいつ世に出てもよいと、心の内で、亡友迂仙に語りかけた。

「来年、七回忌の何よりの手向けになろうというものじゃ……」

 

 この年八月三日、行若は、廃人あらため常人となって、小笠原茂手記の二男、小笠原敬七郎を名乗る旨、小笠原藩から幕府に届け出があった。これで一門に引き直されることになった。

 ついで九月十八日、藩主小笠原長国から敬七郎を養嗣子としたい旨、幕府に届出があった。特に、養子が養父より二歳の年長で、ややもすれば奇異に見えるが、若狭小浜藩の酒井家に同じ例があってこれを踏襲したい旨が別紙として丁寧に説明されてあった。

 二十一日、うまうまと幕府から許しが降り、こうして松平斉裕と山内豊信の二人が書いた長行登用の筋書きは綻びなく着々と進行した。

 十一月朔日、小笠原長行は年下の養父に付添われ、時の将軍家定からお目見えを賜るために初めて登城した。本丸大手門下馬に控えた諸藩士が長行の儀仗を望見し、

「是れ他日の閣老なり」

 と呟(つぶや)いたという噂が立った。それほど、長行の名は、特に学問に明るい諸士の間で有名だった。息軒ほどの大儒がその不遇を嘆いてみせた人材として、小笠原長行の名はあらためて世間に知れ渡った。

 家定は、長行謁見の十日ばかり前、江戸城大広間にてハリスを謁見し、ピアス米大統領の親書をハリスから受け取る儀礼の席に出たばかりだった。謁見の儀式では、ハリスが英語によって大君の健康と幸福、領土の繁栄を懇願すると挨拶した。

 ハリスが低頭したあとしばらくの沈黙を経て、将軍家定は左肩を越して頭部を後ろ背側に引きつるように幾度も反(そ)らしては打ち振り、同時に右足で、どどんと床をもつれるようにふみ踏み鳴らしたという。この見慣れぬ所作が三度か四度繰返された後、ハリスが日記に「愉快にして且つ強き音もて」と記したように、家定はハリス使節の口上に満足する旨、やや甲高い声で、はきと挨拶を返した。幕府儀礼において空前の式次第が完了した。安政四年(一八五七)十月二十一日のことだと聞いた。

 長行の謁見はこのようなハリスの謁見と違って、家定にとってごく普通のことであり、さほどの緊張はないようだった。ただ、この日も家定の頸から頭にかけて痙攣性の不随意で奇妙な動きが表われ、長行は謁見の席で初めてこのことを知った。時に家定三十四歳、とうてい普通の成人男子ではなく、子を成す望みはうすいと幕閣が公然と悩むわけを長行はこの時、知った。

 十二月十六日、長行は従五位下に叙され図書頭(ずしょのかみ)を称した。長行は、僅か半年で、聾唖の廃人で厄介の身分から藩の世子にまで急な変化を遂げた。この間、容堂と斉裕がこまめに面倒を見て、幕府内を調整し、藩主小笠原長国へ説得を重ねた。一応、人がましい位置に据え上げたあとは、長行がどこまでの能力を発揮するのか、これを確かめる目利き仕事が二人に残っていた。

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」四節「花陰に香る」(無料公開版)

五 目利きの一喝 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 安政五年(一八五八)正月三日、江戸では黎明(れいめい)より降り出した雪が尺を超えて積もり、白一色の正月となった。松飾りが取れて間もない頃、深川高バシの小笠原家下屋敷では積もった雪が庭に斑に残り、侘びた冬景色が背山亭から眺められた。

 そんな折、長行の許に土佐藩主山内豊(とよしげ)から使いがあって、御清談を賜りたく是非とも鍛冶橋の上屋敷に御来駕を請うと伝えてきた。長行はしばしその文面を眺めていたが、別事に托して、辞退したい旨鄭重な返信を与えて使いを帰した。

 数日が経って正月二十一日、江戸は再び、朝からしんしんと雪が舞った。長行は、この雪の中、老中堀田正睦が江戸城を出達し京に向うと知っていた。配下の幕僚がハリスと必死の交渉をやって、まとめあげた日米修好通商条約案に勅許を得るためという。一方、ハリスら一行は芝より乗船し、下田への帰途につくと聞いた。条約案が成って日米双方の当事者が、この日、雪の江戸を離れる。

 背山亭では、早朝まだ小雪の中、十本に余る白梅の老木が馥郁と香っていた。書斎で文机に向った長行は、漏れ聞いた通りなら、堀田とハリスが今日、江戸を出達し、そのあとどうなるか考えていた。

 ――鎖国して二百三十年、近く日米で通商が始まるのだ

 ――それは米国に止まらず、多くの国と交易が始まるきっかけになるだろう

 雪と寒気の中、春に先駆ける凛冽たる梅香(うめがか)を聞けば、何事かが日本に起こると予感したくもなった。

 詩想が湧き、平仄を整えながら文机脇の筆を執ろうと手を伸ばしかけたその時、侍臣が、山内土佐守様から書状が届いたと書斎に持参した。鍛冶橋の屋敷に来るよう再三の誘いである。先日、鄭重に断りの書状を書き送ったが、どうやら容堂は許してくれなんだらしい。

 長行は噂を耳にしていたから、余り容堂に近づきたくはなかった。どうやら傲岸不遜、人を人とも思わない豪儀な気骨であるという。長行より五歳の年少である。

 この時期、松平春嶽の家臣で、俊秀を広く知られた橋本左内が越前の同志に寄せた書状に、容堂を評してこう書いた。

 

   その磊落(らいらく)剛果、中々、列藩侯中第一にこれあるべくと、小拙(わたくし)も初見より品評奉(たてまつ)

   儀に御座候。総(すべ)て世間の人物御睥睨(へいげい)なされ、誰れも一文銭に直(あたい)せずと思召(おぼし

   ​ め)され候御様子、唯(た)だ、東湖一人には御感服の御様子に伺(うかが)はれ候

   安政四年十一月九日

 

 長行は左内の容堂評を噂で知り、いよいよ想像した通りの人物だと思った。豪放磊落で、世の人々を呑んでかかり、この阿呆どもめ、と言わんばかりの気迫に満ちている。容堂から酒の肴に自分の人物を云々されても面白(おもしろ)うはなかった。

 長行は、山内豊(とよしげ)が藤田東湖を重んじるとの噂話を聞いている。豊信はかつて書斎の扁額に「忍堂」の二字を掲げ、奔放不羈の気性を自ら戒めていた。豊信を訪れた東湖はこれを一見し、忍堂をやめて容堂とするよう勧めたという。

 君主たるもの、その要訣は自らの不羈(ふき)を抑える忍耐にあらず、人を容(い)れる大器にこそありというわけで、聞きようによっては東湖流の臭みのある噺だった。豊信はたいそう気に入り、以来、断然、容堂を号するようになったと聞く。

 安政二年(一八五五)初冬、江戸の大地震で東湖が亡くなったとき、容堂はこれを悼(いた)み、五言詩を賦した。

 

    衆を容(い)るるは人君の徳と  

    大声我に向ひて言ふ

    其人、今安(いずく)くに在りや  

    一たび逝(ゆ)いて英魂杳(はるか)かなり

 

 長行は、東湖の大声と人格上の独特の臭みを知っているから、容堂のこの詩もよくわかる。東湖の声の大きいことは有名で、藩主斉昭の耳が遠いため、東湖も声を張る習慣がつき、主従大声で語り合う仲だった。謀略さえも主従大声で練った。

 斉昭、東湖、容堂は、その豪放磊落(ごうほうらいらく)を好むあたりがよく通じる気風である。長行は、容堂と肌合いが違うため、わずらわしく感じ、あれこれ理由をつけて辞退してきたが、再度の招待に、これは受けざるを得ないと心を決めた。

 長行は、容堂の上屋敷を訪問する前日、深川の背山亭から外桜田の小笠原家上屋敷に入った。あたりは大名上屋敷が途切れることなく連なり、桜田御門、日比谷御門、山下御門、幸橋御門、虎之御門によって四周を囲まれる一画である。

 長行は、鍛冶橋御門内の山内家上屋敷を訪(たず)ねれば、容堂から時論の話柄を振られ、意見を述べれば、おそらくは豪快で痛烈な反論が返ってくるのだろうと想像した。豪傑ぶりの呵呵とした大笑が聞こえるようだった。

 長行は、息軒が何も言わないにしても、どうやら自分は口頭試問を受けさせられている気配を察し、内心、微苦笑をこらえたい気分だった。

 ――それもまた善き哉(かな)、何事もありのままじゃ

 弓を引く如く、自ら意識して矢を放つのではない。無心でいれば自ずと矢がひとりでに離れる。離れを無心にふわりと思えばそれでよい。いつの間にか不動の中心となって、会に入る心境になる。

 ――豪放磊落の御仁と話をするのも同じことではあるまいか……

 小笠原家上屋敷の表門は西に開き、水野和泉守忠精の山形藩上屋敷と向かい合う。当日の朝、長行は僅かの供を連れ、表門を出て右に道をとった。右側は長州毛利家上屋敷の練塀が延々三町半ほども続く。

 日比谷御門から大名小路に入り山内家上屋敷に向かった。あたりは広大な地区に大名屋敷が隙間なく建ち並び、練塀が長く延びている。鬱蒼(うっそう)たる巨木の間から大屋根の連なりが見え、壮観にして厳粛な空気が満ちている。

 長行ら主従は山内家上屋敷の座敷に案内され、茶が供されたあと、しばし待たされた。しばらくして新しく茶が代えられ、さらに待たされた。このようなことが繰返され、長行は端然と微動だにせず座していた。

待たせて人物を試そうとの企(くわだ)てか、と気付いた頃から一刻余り(二時間)も過ぎ、突然に襖がすぅと開くや、容堂とお付の老臣が入ってきた。長行は辞儀を正し、落ち着き払って悠然と挨拶の口上を述べ始めた。

 ふむふむと苦い顔をして容堂は挨拶を受け、暫くの間、軽く雑談を交わした。頃を見計らい酒食が供された。酒席は静かなもので、時折、容堂からの質問に長行が答え、時論に関して考察を述べ、かつて、家臣を樺太に派遣した経緯などを話しながら北方の脅威にも備える必要を説いた。

 そのような話を聞きながら、酒席たけなわにして、容堂は、突然、

「図書頭は不忠者かっ」

 雷声一喝、大音声で長行を叱りつけた。

 小笠原家は由緒ある譜代で、かつては老中も輩出した名家である。その世子に対して大声を放ったことに、容堂脇座で相伴にあずかっていた山内家の家臣は愕然とした。そうでなくとも、呼び付けておきながら一刻余りも待たせた無礼もあり、ようやく盛り上がった酒席で、藩主がさらに無礼を重ねたことに困惑を隠せなかった。

「この容易ならざる国難にあって、歴たる譜代ともあろう貴家なら、将軍家に如何なる御勤めを尽くすべきか、幕閣やら枢機に関る大名に教えを請うて、訪ねて廻るのが筋であろう。余がお招き申しても、あろうことか、断りをお寄越(よこ)しなされ、再三にわたりお招きいたしてようやっと罷(まか)り越すのでは遅すぎるではないかっ。譜代の忠を尽くしたと言えぬではないかっ」

 容堂は青筋を立てんばかりに長行を難詰するや、杯を擲(なげう)ち、むずと立って座敷を出て行った。あとに残った山内家の老臣は呆然とし、突然のことにおろおろと額を畳に擦り付け、主人の無礼を幾重にも詫び恐縮の体でおののいた。

 憤然と席を蹴って帰るのが当然であろうに、長行は何事もなかったように穏やかな笑みを浮かべ、お気に召さるなと静かに挨拶を返した。詫び言が幾度となく繰返され、青ざめた山内家の家臣に、長行は、何を思ったか、

「山海の珍味を頂戴しておきながら、中途にするのも如何(いかが)かと存ずる」

 と言って、酒肴に再び手をつけ、悠然と賞味しながら老臣と歓談を楽しんだ。長行は最後に茶漬けまで所望したところ、老臣は、あっけにとられた様子だった。しばらくの間、長行の顔をじっと見詰めて、平伏し、

「只今、お持ちを」

 と言って部屋をそそくさと退出していった。

 

                           *

 

 長行一行が帰った、と老臣が容堂に伝えると、容堂から

「言え」

 促(うなが)された。長行の人物評をである。

 老臣は、殿の突然のお振る舞いに肝を潰しましたと苦笑しながら前置きして、長行の評価を語り始めた。

「まず、図書頭様はよほどに肝の据わった方と存じまする。殿のご叱声(しっせい)に眉一つ動かされませなんだ。かかる咄嗟のことには地が出るもの。あれはまっこと、本物であると見申した」

 ――殿もいたずらが過ぎようというもの、小笠原殿も災難でござりました

 老臣は内心思いつつ、次々と長行の人物を語った。

「一つ、図書頭様は、長い時間待たされて端然と座す様は気品にあふれ、自信と威風が辺りに冴えわたって心術尊きものがござった」

「一つ、図書頭様の杯を含む姿は品位に満ち、さらには茶漬けをさらさらと食し香の物を噛む音がいかにも爽やか、膳に向う姿は自然で気負いなく、こうした日常の身のこなしにこそ、自ずと人に将たる器を感じられるというもの」

「一つ、あのまま席を蹴ってお帰りあれば、当方の後味が悪かろうと慮(おもんぱか)り、お怒りの体(てい)もお見せなされず、恬然(​てんぜん)と食事を続け、最後に茶漬けなどを所望し雰囲気を和らげる気(きづか)いは、よほどに練れた御方でござる。己の心を見事に統(す)べておられまする。あれだけの健啖をあの場で発揮できるのも肝が太い証拠」

「一つ、茶漬けを食し終わられた頃にはすっかり打ち解け、それがしは図書頭様の陶冶されたお人柄に魅せられ申した」

 老臣は、さすが容堂に人の目利きを見込まれただけのことはあった。一つ一つ適確に要点を指摘し、やや好意に過ぎる言い方を添えた。それもこれも老臣が長行を好きになったからだった。

「おそらく、図書頭様のこれまでの日陰の御身上が人間に幅と奥行きを与え、本来の賢(かしこ)さと渾然一体、肝の据わった見事な御仁になられたのではありますまいか」

 老臣は絶賛して話を終えた。

 容堂はやや皮肉めいた薄い笑みを浮かべ黙って話を聞いた。その評に満足している様が見て取れた。老臣は許されて退出し、

 ――この国難にあれほどの人材。殿はよくぞ見つけて来られた。あとは殿が、いかようにも春嶽様に推すことだろうて……

 内心、長行への好意と感嘆に満たされながら、ほくほくと廊下を下がって行った。

 

 翌日、容堂から長行に詫び状が届いた。

 

    昨日は御来駕下され候(そうろう)(ところ)、爾来、御安全雀(​じゃくやく)(たてまつ)り候。主人、酔中の振
    舞、別して御目撃、御驚愕せられ候と存じ奉り候。是
(こ)れ則(すなわ)ち容堂先生の本色、若し倨傲

    敬(​きょごうふけい)、御嚇怒(かくど)せられ候はば、此(こ)れの如き無礼者、御遠避にて可なり。若(も)し又、

    足下量大海の如く御叱責これ無く候はば、相(あひ)(か)はらず謦咳(けいがい)に接し申すべく候。僕、

    性強頑、大抵此(こ)れの如く御座候。大笑抛(​ほうひつ)

    念七

    御頼(おたのみ)の拙筆差出申し候。不一(ふいつ)

 

    昨日はご来駕下され、その後ご無事のことと察し雀躍と喜んでおります。私の酔っ払った振舞いを

    格別に御覧になられ驚かれたことと存じますが、これすなわち私、容堂の本性です。倨傲不敬の振

    舞いにお怒りになられれば、このような無礼者を遠く避けていただいて結構です。もし、また、先生

    の御器量が大海のように寛(ひろ)く、お叱りなく見ていただけるなら、こういう無礼者ながら、このまま

    に先生のご謦咳に触れさせていただき、今後ともお付合いをお願いします。僕は意地っ張りの頑固

    者で、大抵はこんなところであります。大笑いし筆を抛(な)げ手紙を終ります。

    二十七日

    お願いの拙い手紙を差し上げます。

 

 豪放、傲岸、人を喰った言い回しながら、共に国難に当る同志ではないかと呼びかける気骨が筆太の豪快達筆の行間に滲(にじ)むようで、受取った長行は莞爾(にっこり)と微笑んだ。長行が容堂を理解した瞬間だった。

 

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第二章「重藤の弓-長行」五節「目利きの一喝」(無料公開版)

四節「花陰に香る」二章
五節二章「目利きの一喝」
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