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七 ヲホツカ海 次を読む 前節に戻る 目次に戻る​ ブログを参照

 

 希望(ナジェージダ)号艦長のイワン・イヨードロビッチ・クルーゼンシュテルン大佐は操帆を命じながら、眼前に広がる長崎湾の景観にほれぼれと見惚れた。湾頭に立って綺麗な三角をなす小島を回り込んだとき、青々とした細長い湾が奥まで深々と続くことを見て、この湾の有利な地勢条件に強い印象を持った。

 岸から小さな船が近づいてきた。進路を示し、そこで停泊せよと指示するのがわかった。乗っている奇妙な風体の役人らしき者たちは、オランダ人がいうところの御番所衆(バンジョースト)かと思われた。その指示に従い、ゆっくりと湾内に入り静かに艦を停めた。

 湾の両岸は小高い丘から背後の山に連なり、樹勢豊かな緑で覆われていた。クルーゼンシュテルンが望遠鏡を向けると、湾の最奥部に人家と町並みが密集し、沿岸に小舟が行き交い、豊かな港独特の喧騒と活気が遠く聞こえてくるようだった。

 青い空と海、清々(すがすが)しい大気、穏やかな波と風、湾を囲む木々豊かな丘と山を見て、神に祝福された美しい湾だと賛嘆する気持ちが湧いてきた。

 十四か月をかけ遙々(はるばる)、この港にやってきた。この大航海の背景に、祖国ロシアの歴史的必然があるのだと、クルーゼンシュテルンは思い、皇帝から賜った使命をあらためて振り返った。

 元来、北の大地に住むロシアの民にとって、大森林に棲息する黒貂(くろてん)の毛皮は建国以前から、第一級の交易品だった。クラウン・セーブルと呼びならわされ、宝石のように珍重された。イスラム商圏において八世紀の昔から長きにわたって高値で交易され、西アジア、ヨーロッパ各国の王侯貴族を飾って富と権威の象徴となった。

 バクダードのような酷暑の都でさえ毛皮を欲しがった。あたり一帯は砂漠や草原地帯で、厳しく冷え込む夜に毛皮はなくてはならなかった。キリスト教国でもイスラム教国でも、王たる者はロシアの北方大森林に棲む黒貂の毛皮を好んで身にまとった。

 イスラム商圏がモンゴル帝国に呑み込まれて以降も、黒貂毛皮の交易はモンゴル商圏とともにユーラシア大陸の大舞台で拡大し続けた。古くから、ロシアの民は黒貂を狩って交易によって生計を立ててきた。

 ロシアの国力が充実し王朝が成立するにつれ、さらに毛皮を求めてシベリアを東に進み、ついにオホーツクの海に出た。大森林に棲息する黒貂は長いことロシアの国庫を過大に支えてきたために、次第に生息数を減じ始めたころだった。ロシア人はオホーツクの氷海で、全く別の素晴らしい毛皮を知った。ロシア人なら誰もが神の御恵(みめぐ)みだと信じ、熱狂につながった。

 その毛皮は長閑(のどか)な風情で北の海に仰向けに浮かんでいた。腹の上で鮑(あわび)やら赤貝の貝殻を石で割り、中のこってり太った身を喰っていた。大きな群れが海草(ケルプ)の海に浮かび暮らし、太古から呑気な日々が繰り返されてきた。毛皮にとって至高の楽園だった。

 アリュート人は、その毛皮を狩りはしても、足りればそれ以上は獲(と)らなかったらしい。それが彼ら氷海の猟師の価値観であり、大自然に向き合う智恵だと聞いた。ロシアにすれば、そのような甘いことを言うつもりはない。毛皮を狩って、利潤を上げなければならない。

 毛皮は海獺(ラッコ)と呼ばれた。皮下脂肪が薄いため、より多くの空気を含むよう体毛を密に生(は)やし、防寒性の高い最高の毛皮に進化した。世界中に海獺(ラッコ)ほど毛の密生した獣(けもの)はいないという。丈夫で、防寒性と防水性に富み、毛は柔らかく、いずれの向きに撫でてもその通りに毛が靡(なび)いた。逆毛というものが立たないところから、海獺の毛皮は敵のいない八方美人の比喩にさえなった。祖国は毛並みのよい極上の毛皮をまとった海獺に国の財政を支える役目を担わせた。

 ロシアの獲った海獺の毛皮は、ほとんど全て清国(キタイ)が高値で買い取る。北京高官が北京官話(マンダリン)を話して権威をまとうのになくてはならない材料になった。この交易で祖国ロシアは美味(うま)い商売をしてはいるが、交易品の輸送は一筋縄ではいかなかった。

 アラスカ、アリューシャン、オホーツクの海から毛皮を港に陸揚げし、今度は陸路、ヤクーツク経由でイルクーツクに集積し、キャフタに運ばなくてはならない。四千二百露里(ベルスタ)(四千五百キロメートル)の道程である。

 キャフタは条約で定められた清国(キタイ)唯一の交易場で、ここで買い手のついた毛皮を、さらに千九百露里(ベルスタ)(二千キロメートル)離れた北京に運び込まなければならない。結局、北京に輸送するだけで二年以上の時間と膨大な手間を要する。商売のあり方を改善すべきだった。

 ロシアは、キャフタの交易地のほかに、海路、毛皮を輸送できる清国(キタイ)の交易港を探した。それが広東であるとわかった時、地団太を踏みたくなるほど悔しかったのをクルーゼンシュテルンは覚えている。あろうことか、南からやってきたイギリス商人が北方のアリュート人から海獺(ラッコ)の毛皮を買い集め、広東港に運びこんで、うまうまと大儲けしていた。

 クルーゼンシュテルンは、ロシア人が我慢ならない気分を抱くのは当然だと思った。政治、経済、海軍力で世界に覇を唱える国に向かって、残念なことに、祖国ロシアは挑戦する国力を持たなかった。ロシア人は、羨望(せんぼう)と腹立ちを感じ、感情が昂(たかぶ)って恨みと怒りに変わったのも無理はない。

 ロシア船がカムチャッカ半島ペトロパブロフスク港を起点に広東港と往来するため、日本に中継港を設け食料などの物資を調達したいと、ロシア人は頭を掻きむしって熱望した。

 ――我々が、北方で毛皮獣を狩るためにも、広東で交易するためにも、どうしても日本が必要なのだ

 これがクルーゼンシュテルンの対日戦略構想の出発点で、以後、思い悩み続けた。

 ――いっそ世界一周の貿易航路を確立してはどうか

 ある日、発想が一気に飛躍した。クルーゼンシュテルンの構想によれば、ロシアから大量に物資を積んで、大西洋、南米回りでアメリカ北西海岸とアラスカ一帯の植民地に運ぶ。ここからカムチャッカ半島に及ぶ海域で海獺の毛皮を積み込み、途中、日本を経由して広東に運ぶ。毛皮交易をしながら東洋の物産を仕入れ、インド洋経由アフリカ回りで国に帰れば、大きな富を獲得できるはずである。

 日本に港を得て海獺の海と広州港を海路結びつけられれば、毛皮を陸路北京に輸送する労が一気に解消される。さらに北方海域の食料調達が大きく助けられる。それだけではない。ロシアの世界周航航路を確立し、空荷なく船を運用できる日も夢ではない。これは凡人には思いもよらない秘策だった。

 ――この策を思いつくには先例があるのだ

 クルーゼンシュテルンは私淑するジェイムズ・クック艦長を想った。クック艦長は三次に及ぶ太平洋探検航海を行って膨大な博物学標本を祖国に持ち帰り、それだけでなく、地理学上の情報を集積し英国が広大な海洋を巧みに商売の場に取り込む基礎を作った。

 クルーゼンシュテルンは若い頃、英国軍艦に乗り組んでフランス軍艦と戦い、南支那(シナ)海を航海した経験がある。若いころクックの航海記を読んで強く刺激され、イギリスが世界の海を経巡(へめぐ)って富を蓄積した計略と歴史を知った。英国流の戦略眼を学ぶ留学機会を与えてくれた祖国に、今度は培(つちか)った戦略眼で報いたいと願った。

 クルーゼンシュテルンは、皇帝(ツァーリ)に献策し、国家事業として世界周航計画を説きに説いた。案は嘉納され、ナジェージダ号の艦長に任命された。国をあげて、皆、この計画に賛成し期待した。この計画が祖国ロシアにどれほどの利をもたらすかを考えると、日本に寄港し交易する権利を是が非でも獲得しなければならなかった。

 クルーゼンシュテルンが艦長に任命されたあと、侍従ニコライ・ペトロビッチ・レザノフ伯爵が特命全権大使に任命され、皇帝アレキサンドル一世の親書を携えて艦に乗り込むことになったと聞いたときは驚いた。

 ――これは俺の航海なのだ

 クルーゼンシュテルンは叫びたかった。悪辣な宮廷工作をやって、レザノフが全権を握ったとしか思えなかった。宮廷の遊泳術にたけた男がこの計画に細かく口出しすることになって、嫌気がさした。

 航海中、たびたび全権にむかっ腹(ぱら)を立て、反抗的な態度を示したこともあった。レザノフ四十歳。

 ――おれの六歳の年長だ

 船中、二人は何度も諍(いさか)いを繰り返しながら、日本に交易を求め万里の波濤を超えてきた。

 ――ともかくも、地球の裏側から到着したのだ

 よくぞ、ここまでの航海をなしとげたと自画自賛もしたくなった。

 ――祖国に富を、世界周航計画に幸を

 クルーゼンシュテルンは長崎の町を遠く見ながら神に祈った。

 ――不当に利を掠(かす)めとるイギリスに吠え面をかかせ、祖国の希望(ナジェージダ)をこの艦が担うのだ

 己の覚悟をあらためて思い返した。

 

                                *

 

 ナジェージダ号の来航が寝耳に水となる事態を避けることができて、ドゥーフは長崎奉行から感謝され、ロシア相手の対策に相談を受けるまでになった。ドゥーフは恩を売ることに成功し、日蘭関係はいっそう良好になった。

 ドゥーフは、オランダ本国がフランスに従属した結果、ジャワのオランダ総督府が困難な立場に置かれた事情をよくわかっていた。前年に長崎商館長に就任して以来、対日関係を良好に発展させる責任をいよいよ強く感じた。

 ドゥーフは、いずれオランダがフランスの桎梏(しっこく)から放たれる日を信じ、その日のために、利潤の多い対日貿易をオランダが独占する体制を維持しておかなくてはならないと自覚した。

 当然、ロシアに日本との通商権を持たせてはならず、かと言って、敵対的な態度をあらわにしてロシアから無用の反感を買ってもならず、それと知れぬようにロシアの対日通商の野望を挫(くじ)くのがドゥーフの方針だった。

 特に、オランダがカトリック国のフランスに従属したことが、日本に漏れてはならなかった。日本は、通商にプロテスタント国を許してもカトリック国は絶対に許さない。ロシア特使と長崎奉行の間で会話が交わされる折、物のはずみでオランダ本国の事情が伝わりでもすれば、対日貿易が瞬時に停止される危険があった。

日本は、新たに交易国を増やすことを極度に警戒するから、ドゥーフは日本の方針が世界的にみて間違っていないことをそれとなく長崎奉行に助言し、軽く背中を押してやれば、ことは済みそうだと大きく見通しを付けた。

 あとはオランダ商館員一同が誠心誠意、日本の為を思って勤務に励んでいることを、長崎奉行と役人、通詞に印象づければいい。オランダが対日貿易を独占する必然性を長崎奉行に疑わせてはならない。そのため、ドゥーフは大通詞を勤めた名村多吉郎や石橋助左衛門をはじめ、多くの通詞と職位の高低を問わず親密な関係を築いてきた。

 下位の通詞ながら蘭語の実力の高い馬場為八郎とは、その息子に蘭語を教えるほどに親しい。ドゥーフは、全ての人脈を使いながら、ロシア船の長崎来航、交易要求という危機をうまく管理しなければならないと気を引き締めた。日本にとってだけでなく、オランダにも大きな危機だった。

 長崎奉行所の検使が来港の目的を確かめるためナジェージダ号に乗込んだとき、ドゥーフは長崎奉行の依頼に応じ、同行した。ロシア側の様子を何一つ見逃さぬよう、そして、少なくともロシアから悪意を持たれないよう細心の注意を要する任務だった。

 ドゥーフと長崎奉行所の検使一行は、レザノフ全権から、きらびやかに飾った長官室に迎え入れられた。オランダ商館長のドゥーフには、位階の違いを理由に椅子を与えられないどころか、用事が済んだとして途中で退室するよう求められた。

 ロシアと日本の会談に他国の同席は不要と考えただけではなかろう。レザノフは位階にこだわる尊大な男だと、思わずにいられなかった。

 ドゥーフはこの処遇に冷静に甘んじたが、内心、レザノフの拙(つたな)いやり方を蔑(さげす)み、その故に喝采したい気分だった。オランダ側の協力をロシアから拒んだに等しい。

 ――望み通り、お前の希望は必ず打ち砕いてやる

 ドゥーフは心に誓った。腹の底で冷笑しながら、ロシア艦上甲板で今後の策をあれこれ練りながら、検使一行を待った。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第一章「遠鳴」七節「ヲホツカ海」(無料公開版)

八 長崎梅が崎 次節を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 希望(ナジェージダ)号の長官室で、長崎奉行所の検使は、三通の文書を受け取った。ロシア側の説明では、特命全権大使レザノフ伯の持参したロシア皇帝の国書の正本はロシア語、満州語、日本語で書かれた三通からなり、いずれレザノフ伯から将軍に手渡すものだから、この場で検使に渡すのはそれらの写しと聞かされた。

 同行した年番大通詞の石橋助左衛門と下役の馬場為八郎が、その場で改めたところ、ロシア語版、満州語版は二人に読めず、日本語版も、これまた読解不能だった。そこで、為八郎ら日本側が、船医ラングスドルフが国書の内容をオランダ語で説明するのを懸命に聞いて心覚えを作った。役所に帰って親書の大意を和解(わげ)に作らなければならなかった。

 為八郎は、石橋助左衛門がロシア使節の応接、通弁の任を果たすのを細心の配慮で補佐した。為八郎にとって、石橋助左衛門は一回(ひとまわ)り上の丑年生まれで、蘭通詞中、最も温厚、着実と言われた先達だった。深く心服していた。二人して、ロシア側と何回となく複雑なやりとりをこなし、ロシア艦の来航目的と国書に書かれたロシアの希望を長崎奉行に伝えた。 

 幕閣がロシアの事情など知るはずもなく、ましてや興味はなく、ロシアにいかなる事情があろうとも交易するなど真っ平だと思っていることは奉行所の誰もが知っていた。幕府は通商を阿蘭陀(おらんだ)と唐(から)、わずかに朝鮮に限ることを国の基本方針とし、これを祖法と呼んでいた。

 祖法を守るにはロシアの通商提案を拒絶しなければならない。江戸に伺いを立てるまでもなく幕府の回答はわかりきっていた。ドゥーフにさえ、わかっていた。

 それもあって、長崎奉行はロシア側に乗組員の上陸を許さずに湾内に停泊させ、ロシア艦を長々と待たせることに躊躇なかった。ロシア側の照会に、長崎から江戸に使者が行き着くのにひと月、江戸でロシアとの通商の可否が審議され、その結果が長崎に到着するまでに少なくとも五、六か月はかかるであろうと回答した。

 為八郎は、レザノフが奉行所の回答にいきり立つだろうと想像した。ロシアのほうから日本に通商を要望したのである。半年や一年は待たされても致し方ないだろうと一応は考えたが、こうしたやりかたにレザノフが服すのか、悪くすると不測の事態が起こりはしないか心配だった。よほど注意しなければならないと心を引き締めた。

 しばらくして、レザノフから長崎奉行宛てに、艦上で幕府の返答を待つうち体調を崩したので陸上で療養させてほしいと要望が届いた。長崎奉行は、病気だと言って騒ぐ全権大使を放ってもおけず、出島の南対岸、梅が崎の地を選定し、全権と随員のための居室九室からなる屋敷を建て始めた。竣工後、竹矢来で屋敷の四方を囲み、海面からも陸地からも長崎と遮断したうえで、ロシア側に提供した。

 文化元年(一八〇四)十二月五日、レザノフは乗組員八十八名の多くを動員して堂々たる盛儀を整え、ナジェージダ号からこの地に移転してきた。為八郎はじめ奉行所役人には、盛儀を整えて移るほどの屋敷とも思えず、皆が奇妙な印象をもった。

 この頃、大槻玄幹は遊学を終え、佐十郎や権之助など多くの友に見送られて長崎を発っていった。為八郎は佐十郎から話を聞いて、玄幹にとって出達前にレザノフの移動を見物できたことが長崎最後の土産話となって、江戸蘭学者の間にレザノフの話が広まるだろうと思った。

 

                             *

 

 レザノフは、久しぶりに大地の上で快適に過ごせると期待し、梅が崎に移ってきた。屋敷は、構えから見て、また警護の厳重なことから見て、重罪人か政治犯の収容施設に思えた。レザノフはかえって病気が悪くなるような気がした。それでも耐えて、船上よりはましながら居心地のよくない座敷で、ひたすら江戸からの返答を待った。

 気の利く外交官なら、オランダ商館長と会談する機会を持って、日本情勢、国際情勢に関する意見交換でも行うところだとは思わない。レザノフには待つよりほかにすることがなかった。

 長崎では、冬とは言え、十分に暖かい空気がどことなく花の香を含み、湾はあくまで穏やかで波もほとんど立たない。湾の西対岸の丘陵は樹木に覆われ、陽にきらめくさまは素晴らしい。レザノフは、長崎が最上の気候と景観に恵まれた港であることを認めざるをえなかった。

 ――乗組員はこの港をどれほど喜ぶだろう

 北の氷海からここに寄港するロシア船のことを思った。

 レザノフは、すぐ近くに浮かぶ大きな埋め立て島に幾棟もの荷蔵が立ち並び、清(キタイ)の交易品が収蔵されていると聞いた。そのすぐ左奥に出島が見通せた。梅が崎の屋敷から出島まで、三百サージェン(六〇〇メートル)とはないと見た。レザノフには、出島の右半分、松の木立の茂る下をオランダ人が散策する様子まで望遠鏡で見てとれた。

 ある日、オランダ人たちがこちらに望遠鏡を向けているのを己(おのれ)の望遠鏡の視野に捉えたとき、レザノフはむしょうに腹が立った。奴らは、ゆったり出島で散歩しながら、竹矢来で囲われたこちらの暮らしを嘲(あざけ)っていると思うと、憤懣やるかたなかった。よほど癇(かん)に触って、望遠鏡を地面にたたきつけるのを辛うじて抑えた。

 長崎奉行がドゥーフの助言を受け入れ、そのせいもあって、今の境遇におかれたことを、レザノフが知る筈はなかった。それは、却って幸せだった。知ったら悔しさで病気は悪化したに違いない。

 

 為八郎は、長崎奉行が外交上の儀礼と程遠い立場から、大使の体調回復に協力するつもりだと見た。来航したロシア船一隻のために、長崎警護役の筑前黒田藩と肥前鍋島藩から合わせて二万四千九百三十人、水夫(かこ)六千人、大小船舶五百五十七艘が警備を余儀なくされ、そのうえ大使療養用の屋敷の造営まで負担を強いられた。温かくもてなしたいはずがなかった。

 十一年前、箱館奉行が露使ラクスマン宛に交付した信牌をレザノフが持参したといえ、外交関係のない国から、無理を承知でやってきた押掛け者たちでしかない。奉行が、手厚い接遇は幕府の方針に反すると考えていることは奉行所の誰もが知っていた。奉行はそれを隠さなかった。

 文化二年(一八〇五)二月晦日(みそか)、ようやく、幕府の回答を持って、目付遠山金四郎景晋(かげかた)が長崎に到着した。ロシア人が長崎に来航してから半年がたち、レザノフがいかに焦(じ)れているか誰もが想像した。三月六日、遠山はレザノフを長崎奉行所立山役所に召喚し、為八郎は通訳として同席した。立山役所は八百屋町に建つ武具蔵と長崎会所に面し、屈強な石段を構える堂々たる屋敷である。

 遠山はレザノフとの会談冒頭、十二年前にラクスマンが突然、箱館に来航したことに触れた。祖法によってロシア人と何ら交渉を持つことはできない旨、しかと申し渡したにもかかわらず、今回、新たにロシア使節を長崎に迎え、訝(いぶか)しく思うと前置きを始めた。会談のいい始まり方でないことは承知の上だった。遠山は、為八郎が通訳しながら、レザノフの顔付きを窺うのを見た。

 そのうえで、日本君主はロシア使節を受け入れないため江戸に来てはならないこと、日本は通商を希望しないからロシア使節が速やかに退去すべきことを諭書の形にして言い渡した。最後に、為八郎が蘭訳した諭書を手渡した。遠山は諭書に対するロシアの反論を許さなかった。

 初回会談の後、ロシア使節の不満とたっての要請によって、二回の会談が開かれた。遠山はロシアの希望を何一つ聞き入れず、ロシア皇帝から徳川将軍に宛てた贈答品を受け取らなかった。受け取れば返礼しなければならず、返礼すれば国交になってしまうと幕府の考えを説明した。

 ただ、長い船内生活で不足がちであろうと、通商ではないことをくどいほどに言い渡してから、十分な量の食料品と塩と薪水を与えて寄越した。さらに真綿二千把を二十五棹(さお)の長持に入れて下賜した。長崎奉行が対価を受け取らず幕府の度量を見せた。これを持ってさっさと帰れ、もう来るでない、ということのようだった。

 レザノフが幕府の牢固たる方針に憤慨した気配は、会談に同席した者たちによくわかった。ロシアにとって失敗は失敗である。日本の固い岩盤を打ち抜けなかった恨みを含んで長崎を出港するしかなかろうと誰しも思った。

 

 文化二年(一八〇五)三月十九日未刻(ひつじのこく)(午後二時)、希望(ナジェージダ)号が長い停泊を終え出帆していく姿が見えた。見送る為八郎の目には、船そのものが悄然と湾外に向かうように見えた。日本にとって多大の手間を強いられたが、堂々と論陣を張って祖法を守り通し、穏便にロシア軍艦を退去させることができた、と半年間を振り返った。ドゥーフの貢献も大きかったと、今更のように異国人の友に感謝した。

この夜、長崎奉行は慰労会を開き、多くの役人と蘭通詞を労(ねぎら)った。会は陽気に盛り上がり、歌も飛び出した。

 

  彦山の上から出づる月はよか、こんげん月はえっとなかばい 

 

 愉快に酒が酌み交わされ、為八郎は長崎奉行所の役人や同僚蘭通詞とともに日本外交の勝利を祝った。

 数日後、今度はドゥーフから奉行所の主だった役人と蘭通詞が招待された。例年開かれる新年(ニューウェ・ヤール)の大祝宴(フロート・パルティー)ほど大袈裟なものではなかったが、両国の盛大な祝いの席となった。ドゥーフは葡萄酒を痛飲し、レザノフに一泡吹かせた快心の成果を味わっているようだった。上機嫌だった。次々に瑠璃杯(グラス)を傾けるドゥーフを見て、為八郎はその心中を察した。

 ――そりゃ、そうであろ

 オランダ外交、いや、出島外交の勝利だ、と喜んで当然だろう。温かいまなざしを向けて異国人の友の労に感謝した。

 

 

 佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第一章「遠鳴」八節「長崎梅が崎」(無料公開版)

九 ヤポーンスコエ・モーリェ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照する

 

 クルーゼンシュテルンは航路を五島灘に取り、対馬沖を経て日本の北方海域を一路、北東に向けて航行を続けた。艦上、レザノフはすっかり気勢を削がれ長官室に閉じこもりがちだった。クルーゼンシュテルンはそんな姿の全権大使を横目で見ながら、日々、活発に艦長の任務をこなした。特に、ロシアにとって未知の海域の海図作りの準備と測量に忙しかった。

 クルーゼンシュテルンは、ラ・ペルーズ海峡(宗谷海峡)に針路をとった。現地でノシャップと呼ばれる岬に立ち寄って、アイヌや松前藩の役人と話を交わした。ついで樺太(からふと)の安庭(あにわ)湾に入って久春古丹(くしゅんこたん)(のちの大泊楠渓町(なんけいちょう))に上陸し、日本人の住居を訪問した。さらに、海上から松前藩運上所の警備状況を視察した。

 クルーゼンシュテルンは、帰国後、この航海の記録を出版する計画だった。長い航海の最中、任務の合間を縫って草稿を執筆し、整理し、構想を練ってきた。ロシア初の世界周航の記録は、世界の地理学に貢献し、祖国の名誉を高めるに違いない。

 長崎から対馬沖を経由して樺太まで航海を重ねた結果、日本の北西方面の海域が、日本列島によって太平洋と一線を画すことがはっきりわかった。当時、範囲が明らかでなかったこの海は、日本の西海岸と朝鮮半島東海岸、および沿海州(タルタリア)北緯四十五度までの間にあって、ラ・ペルーズ海峡までの閉じた海域であると定義できそうだった。

 クルーゼンシュテルンは、やはり、この海をЯпонское(ヤポーンスコエ) море(モーリェ)すなわちMer du Japon(日本海)と名付けようと考えた。なぜなら、この海を縁取るのは、朝鮮では半島東海岸であるのに比べ、日本では列島南北に及ぶ長大な西海岸全てであり、特徴的に日本列島がこの海域を太平洋から画しているからだと考察した。

 帰国後、執筆する世界周航記には、新しい地図を添付して海域概念を明示し、その上で、新しい命名を世界に問うつもりだった。おそらく、構想中の第三巻第七章「周航中に観測された海流について」の章で、論述することがいいだろうと、周航記の構成案まで練った。

 そもそも、この海域では日本を除き、ロシアの外交交渉の相手になる尊厳をもった国らしき国はなかった。蟠踞(ばんきょ)するのは満州(マンジュリア)沿海の韃靼(タタール)の蛮酋か、清(キタイ)に従属する朝鮮の半島の民である。ロシアにとって、まともな交渉相手ではないからこそ、日本との通商にあれほど固執したのだ。やはり、この海は、こう命名するよりほかにないと、クルーゼンシュテルンは自信をもって頷(うなず)いた。

 船上、航海記のことだけを考えていればいいわけではなかった。ある日、クルーゼンシュテルンは、めずらしく甲板に出てきたレザノフに、樺太の沿岸防備をどう見るか問われた。

「安庭(あにわ)湾に駐留する日本人に兵器の用意なく、防守の備えもないため、ここを占拠することは少しも難事ではありません」

 クルーゼンシュテルンのきっぱりした答えにレザノフは頷(うなず)きながら、策はあるかと、さらに聞いてきた。

「十六門の砲を備えたコッテルズ二艘に兵員六十人を乗せ、風に乗じて襲えば、万余の日本兵がこようとも追い払って見せます」

 クルーゼンシュテルンが豪語したとき、レザノフはにっこり微笑んでみせた。まれに見る意見の一致だと、クルーゼンシュテルンは内心、苦笑した。

 

                                *

 

 ロシア暦一八〇五年五月二五日、長崎を出港してあちこち測量しながら二か月の航海を終え、希望(ナジェージダ)号がペトロパブロフスク港に帰ってきた。レザノフは船中、日本への圧力と復讐を考え抜いて、侵攻作戦を立案した。日本を開港させるにはその手しかないと考えただけでなく、感情の上からも日本を許せなかった。

 作戦命令は、二隻の武装船と一隻のブリッグ船を新たに建造することに始まり、兵員を募集して艦隊を組み、安庭湾の日本人の集落を侵攻する。さらに、近辺海域の日本船を拿捕破壊し、乗員の技師職工を捕虜にすることが作戦の要綱だった。

 この命令は、当のレザノフが陸路シベリア経由でモスクワに帰る途中、死歿した後も生き続け、カムチャッカで静かに準備が進められた。発令から一年余り、作戦が始動した。

 文化三年(一八〇六)九月十二日、樺太の安庭湾、久春古丹(くしゅんこたん)の松前藩運上所は、突如、異国船から上陸してきた六十名の異国兵に焼き討ちに遭った。倉庫は略奪されて火がかけられ、番人四人が拉致された。松前藩士は抵抗らしいことも出来ず、されるに任すしかなかった。

 異国兵が去ったあと、海浜には焼け焦げた柱に引っかかった襤褸(ぼろ)が北の風にはためいていた。鷗(かもめ)と鴉(からす)が猛々しく浜の小魚の死骸を啄(つい)ばみ、人っ子一人いない浜に荒れた風景が広がっていた。翌年三月に松前運上屋元締め、角兵衛が宗谷に来るまで半年の間、この事件は松前藩の知るところとならなかった。

 文化四年(一八〇七)四月二十五日、択捉(えとろふ)島の内保(ないほ)、沙那(しゃな)の松前藩会所が異国船に襲われ、略奪と放火に曝(さら)された。沙那では、番所の一行が敗走する中、責任者が腹を切るまでの大事となって、数日後に事件を知った松前藩を震撼させた。

 五月になると、オフイトマリ、ルウタカ、利尻が襲われ、食料、衣類が奪われ、番屋が焼かれ、日本人が拉致された。近海では日本船が略奪され、そのあと炎を上げて沈没した。

 この頃、前年の久春古丹(くしゅんこたん)以降の一連のロシア襲撃事件の急報が続々と幕府に届き始めた。幕閣は驚愕を隠せなかった。度重なる侵略行為はよほど強い意志があってのことと思われ、一過性の偶発とは見過ごせなかった。幕府は、蝦夷地に派兵し防衛体制を整える決断を下した。

 長崎でレザノフと会談した遠山景晋(かげかた)がこのころ江戸で北辺の騒ぎを聞いた。蝦夷地の大混乱と恐怖に慄(おのの)く人々の噂が伝わると、私記にこう記(しる)した。

 

    箱楯(はこだて)、松前の市中は勿論(もちろん)、郷民夷奴までも、むくりこくり、百万の雑具を負(お)ふて足
    を空に逃げ迷
(まよ)ひ…

 蒙古(むくり)、高句麗(こくり)が侵してきたと言わんばかりに、箱館、松前では元寇騒ぎが起きて、民が家財道具を背負って逃げ惑(まど)う事態となった。江戸でも、すわ魯寇かと大騒ぎになった。

 この年八月十九日、十二年ぶりに深川富岡八幡宮の祭礼が催され、見物に集まった群衆の重みに耐えず、永代橋が崩落した。大勢が一挙に墨田川に転落し、死者、行方不明者千五百を数える大惨事となった。ある落首はこの事件を題材に、永代橋の架かる西詰の「箱崎」と蝦夷(えぞ)の「箱館」を対比的に詠み込んだ。

 

     討死(うちじに)と落死(おちじに)をする海と川、えぞは箱館、えどは箱崎

 

 江戸では、竹橋御門内の古松が風もなく折れ、氷川明神の本社が崩れるなど、不吉なことが続いた。そこに、この魯寇騒ぎだった。

 

    白虹(はっこう)、日を貫き、初昏(しょこん)西南に彗星出(いで)て月を越えて消えず

 

 凶兆が次々に瓦版に書かれ始めた。魯西亜(おろしあ)国に抱く不安は江戸庶民まで広がった。幕府が手を打たなければならない事態だった。

  佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第一章「遠鳴」九節「ヤポーンスコエ・モーリェ」(無料公開版)

1章9節
1章8節
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