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二 入るを量(はか)る 次を読む 前節に戻る 目次に戻る

 

 意次は御休息之間を退出し、入側に立って大雨が降りしきるさまを縁先に眺めた。意次には倫子の涙が無情の大雨に重なって見えた。天を仰いで一揖(いちゆう)し、倫子がはやく第二子を懐妊し、できうべくんば男児であるよう念じた。

 意次は大岡忠光の待つ御側御用人(おそばごようにん)詰所に向かう途中、家重から命じられた視察団派遣について、あれこれ考えを巡らせた。これを円滑に、行政化するための手立ては十分に心得ていた。

 まずは勘定所に窃(ひそ)かに意を通じ、勘定奉行から視察団派遣の案を老中に上申させる。あくまで勘定奉行の案とすることが肝要で、たとえ形ばかりであっても、老中の耳目に触れ、審議を経て、老中の主導を尊重した形に収めるのが要諦だった。

 将軍の命を上意下達で老中に下し置いても、納得しなければ老中は計画を円滑に遂行しない。途中の審議や立案段階で将軍が表立たぬよう、ましてや御側衆が賢(さか)しらに目立たぬよう細かな配慮を要する仕事だった。将軍権力と幕閣権力の奇妙な凭(もた)れ合いを崩してはならなかった。

 勘定奉行所に意次の息のかかった者を配してあればこそ巧く運ぶ機微があった。老中たちは、才幹はともかく、矜持(きょうじ)だけは高い。

 意次は、頑丈な杉戸に至ると、戸脇に控えた若侍に己の来訪を取り次ぐよう言いつけ、わずかの間待った。呼ばれて座敷に入ると、忠光は縁側沿いの書院障子に文机を寄せて書付を読んでいた。

 意次の戻ったのを見ると座敷の中央に座を移した。強い雨音が座敷にも響いていた。意次の簡潔な報告をにこやかな表情で聞き、ときおり短い質問をはさみながら聞き終えた。

「それでは、上様の御意向に沿って視察団派遣を手配してくれるよう。おことに一切を任せるでの」

 意次は一礼してから、今後の対策について見通しを語り始めた。

「この分では、幕領にも大きな損毛が出るに相違ござりませぬ。十万石ほどにものぼりましょうか。それだけではなく、被害の大きい譜代諸藩や旗本から何と言うてくるやら気掛かりでござります。自力で苦境を脱し切れぬ旗本は、おそらく相当数に上るかと……」

「幕府から幾ばくかでも助けてやらねばなるまいのう。今年は米がほとんど穫(と)れなくなった藩があろうし、旗本もそうであろ。土堤や橋や道やら、何かと普請も致さねばなるまいて」

「昨年までの御勘定では、米六千石、金百十万両の余剰が出ているはずにござりまする。勘定奉行の近江守に確かめねばなりませぬが、さほど大きな支援でなければ、なんとかなるかと……」

新田開発の適地はすでに拓(ひら)き終わり、強引な計画に沿って、水害に弱い場所にまで無理に拓(ひら)いた新田が相当にあった。このため今回の被災がいっそう大きくなったのではあるまいかと、意次は考えていた。そのうえ、新田開発と米の増産に傾注する余り、大雨に備えた水害対策がお座なりになったのではあるまいかと強く疑っていた。

 ――年貢増徴策を推し進めた有徳院様の御代(みよ)以降、百姓には、ひどく重い負担がのしかかって、堤普請どころではないのだろう

 前将軍吉宗以降、農村の苦しい事情を耳にすることが多かった。この議論を突き詰めれば、新田開発を進めて天領を広げ、その上さらに年貢を重く取り立てれば、年貢米は増え、幕府財政が好転すると今も固く信じる幕閣の一派を批判することにつながる。吉宗以来の政策を批判することなど、容易にできることではなかった。

 ――こうした御公儀のやりかたを改めるには、出雲守様にお力を借りるほかない。此度(こたび)はこれほどの大雨である。年貢増徴策の潮目を変えられるかもしれん

 意次は年貢米に頼りすぎる幕府財政の根本を変えなければならないと信じ、そのきっかけがないかと常に幕政を見ていた。

「では、おことに、譜代藩、旗本衆の支援策を考えておいてもらおう。おことには難なき仕事であろう……」

「承知仕(つかまつ)りました。腹案ができましたら、ご報告に伺いまする」

 意次は、同志にして十歳上の上司に狎(な)れることなく篤い礼を尽くし、深く拝礼して退出した。御側御用人(おそばごようにん)と御側御用取次(おそばごようとりつぎ)は一枚岩だと言われる二人の間柄こそ、これからも維持しなければならないとわきまえた者の振舞だった。

 

                                 *

 

 一昨年、御側御用取次(おそばごようとりつぎ)の田沼意次は二千石から五千石に加増された。次いで昨年、大岡忠光は御側御用人に昇進し武蔵国岩槻(いわつき)藩二万石藩主となった。それまでの上総国勝浦藩から五千石の加増を得てめでたい栄転を果たした。

 二人の父は忠義一徹、質実朴訥の生涯を貫き、ついに微禄で終わった幕臣だった。父親から家督を継いだときの禄高は、意次が六百石、忠光が三百石に過ぎなかった。幕臣から驚かれる二人の出世には将軍家重の健康上の事情があった。

 御側御用人(おそばごようにん)大岡忠光は、意次と共に家重を支える両輪だが、その力量が光るのは政策立案の場ではなかった。忠光と意次の間では、言わず語りのうちに、意次が政策論を分担することになっていた。

 忠光の役割は、温厚で人当たりのよい性格によって、側衆と、老中譜代たちとの穏便円滑な関係を保つことだった。忠光が意次より一段の高みに立って、綺麗事ですむ範囲で人の和を保つだけでも、意次にとって余計な精力を浪費せずにすんだ。ずいぶんと仕事を進めやすくなり、意次は忠光を頼りとしていた。

 老中たちは門閥譜代の藩主でもあり、幕政中枢を握る権限を命がけで守ろうとするのは言わずと知れている。その権を側衆に奪われ政治を壟断(ろうだん)されるのではないかと、焦りにも似た強い警戒心を持ち、何かと厳しい目を側衆に向けるのが常だった。

 ――側衆の多くは、わずか数百石の禄高からお勤めを始めた者どもである。かかる微禄の輩(やから)が上様に近侍し、君寵(くんちょう)をいいことに次々と加増され、あげくに政治を私(わたくし)しておるのではあるまいか

 側衆の者たちを見る門閥譜代の針のような視線を意次は敏感に意識していた。

 そもそも譜代は、徳川初代の家康に、あるいはそれ以前の松平家当主に仕えた由緒正しき家臣で、多くは関ケ原の合戦から幕府成立の頃に大名になり上がった。先祖の尽くした忠義と勲功を背景に、譜代大名の中から優秀と目される藩主が官歴を重ねた末に老中となって、将軍を補佐し政治を主導するのが幕府政治の伝統になった。

 七十年ほども遡(さかのぼ)った元禄の頃、五代将軍綱吉は、余りに力を持ち過ぎた譜代や老中を抑(おさ)え、将軍の力を強めることを図った。門閥譜代に対抗させるため、由緒正しからざる微禄の諸臣から才ある者を御側御用人に抜擢(ばってき)し、自在に使いこなした。若い頃、意次は、家重、忠光の下座に控え、吉宗から綱吉のやり方を先例として、人事と政(まつりごと)の機微を親しく叩き込まれたことを忘れていない。

 綱吉公は、心許せる側近を置かなければ門閥譜代の傀儡(かいらい)になり果てると、危機感を持ち続けた将軍だったと教わった。微禄の臣は譜代や高禄の旗本と違って、将軍だけが頼りだから忠誠心も段違いに強く、将軍と側衆の固い繋がりができた。

 綱吉の御代、すでに幕政実務は複雑化し才覚がなければ、こなせない御勤めになった。家格だけではどうにもならなかった。才覚豊かな御側御用人が次第に優勢となって綱吉の親政を可能にした。側衆の多くは下級の出身で、力量を発揮したい意欲が強いから、知力を尽くして将軍の意向を推し進め、徐々に綱吉は政治の権を握った。

 門閥譜代の家から才ある者が出ないではない。ただ、その数は少ない。そもそも、そうした家がさほど多くはないうえ、暖衣飽食の富裕な家は刻苦勉励の環境にほど遠い。門閥譜代出身の幕閣の中に、才ある者は稀有だと相場が決まっていた。

 そうであればこそ譜代は、微禄の臣から才ある者を抜擢する側用人政治を決して良く言わない。譜代が恐れるのは、側用人を駆使する将軍主導の政治によって、譜代が握った既存の政治権力が弱められることだった。能力主義は譜代の最も忌む所だった。家格の良さに安住する門閥譜代の老中政治か、はたまた、才ある側衆を駆使する将軍親政か、事あるごとに幕政の隠微な主導権争いが続いてきた。

 吉宗の代になると、国の統治に必要な行政能力はますます高度化し、門閥譜代の手に負(お)えるほど生やさしいものではなくなった。だから、家重の代に、老中政治が息を吹き返すことがあってはならないと吉宗は家重主従に諭(さと)した。家重が将軍に就いたら政治の主導を必ず握れと家重主従に手ずから訓(おし)えた。

 将軍家重のもとで、普段は目立たないものの、門閥譜代と側衆の間の対立感情が、時に露(あら)わになることがある。そんな時、忠光が妙を尽くし、人柄まろやかに遜(へりくだ)って調整に当たると、大抵の場合、穏やかに治まった。

 譜代とは上手くやらなければならない。忠光の思いは正しかった。忠光の人徳は老中の誰しもが認め、敵のいないことが忠光の凄さだと、意次は舌を巻くことが多かった。

 

 数日後、意次は忠光の許に向かった。幕府の財政改革を目指すため、この機会に忠光に大筋を話しておこうと考えていた。

「今日は、財政の大まかな腹案をご報告申し上げたく罷(まか)り越しました」

「うむ。是非にも聞かせてほしい」

 二人は目を合わせ、頷き合った。背景には、幕府内で年貢増徴派と、増徴反対派の意見対立が鋭くなり始めた事情があった。門閥譜代と御側衆の昔から続く対立とは別に、幕府財政を巡る新たな対立軸が生まれつつある。

 幕閣には、年貢増徴策を固く信じ、依然、先代吉宗の方針を継承すべきだと唱える勢いが強い。この一派は米に基盤を置く幕府財政を一筋に守るべきだと考えている。頑(かたく)なにこの政策を取り続ければ、重い年貢負担のために百姓が不満を高め、一揆を頻発させ、社会の安定を損なうことになるとは、少しも顧慮しないかのようだった。

 それでいて、年貢米を増やしても米価が下がる年が多く、米を売ったとき却って現金収入は目減りし、幕府の財政を好転できないでいるのが現状である。百姓の苦しみをよそに、年貢米を取るだけ取って、あとは手を拱(こまぬ)き米価下落をただ甘受している有様だった。

 先ごろ佐渡奉行の石谷(いしがや)清昌(きよまさ)が任地から江戸に一時帰任し、佐渡の百姓の疲弊ぶりを語った話が意次の心に深く影を落としていた。意次は、佐渡の百姓の悲惨な暮らし向きを忠光に伝えながら、年貢増徴策の実態と限界を論じ始めた。

 佐渡では、七年前の寛延三年(一七五〇)から六年間にわたり、総計一万二千石の年貢増徴をやって、百姓らが喰えなくなったという。

「もともと年貢高三万石の国に年当たり二千石の年貢を増やし、六ヵ年続けるは重すぎる増徴かと存じまする」

 意次は忠光に佐渡百姓の窮状を淡々と語りながら、清昌の暗い顔貌が眼前に浮かぶような気がした。

 佐渡では百姓が年貢増徴の負担に苦しむ中、宝暦三年(一七五三)大風に襲われ凶作となり、一年おいて宝暦五年(一七五五)今度は大冷害に見舞われた状況を石谷から聞いていた。意次は年貢増徴策の弊害を淡々と忠光に説いた。

「天道も酷(ひど)いが、幕府の取立ても惨(むご)うござりまする」

「ふむ。そうよのう……」

「大風と冷害に痛めつけられ、なお年貢増徴はそのままなのでござりまする。百姓はぎりぎりと追い詰められ、家族に餓死者が出れば、絶望と怨嗟(えんさ)が村中に満ちるのは当然のこと。石谷(いしがや)は、奉行の任地初仕事が百姓の餓死を防ぐ手立てじゃったと申しておりました。七万余の人口から三千の餓死者を出すのでは、国を治めるとはいえませぬ」

「そこまでひどいか。あまりの誅求(ちゅうきゅう)ではないか……」

 宝暦六年(一七五六)四月、清昌が佐渡の相川陣屋に着任した頃、在方で餓死者が出て、村々は不穏な雰囲気に満ち、いつ一揆が起きても不思議はなかったという。意次が語る佐渡の話は忠光に衝撃を与えた。

 意次は幕府財政の基盤を、米だけに頼るのでなく、別の財源にも置くべき時がすでにきていると改めて己の信念を語った。

「本来、武家は稲田に実る富で家を保つものでござりました。されど、御公儀創建以来、金、銀を採掘して貨幣を作り、今や、金銀で物品を売買する世になりました。ところが、掘り出される金銀はすっかり少(すく)のうなり、幕府には米しか頼れる富がございませぬ」

 近年、幕府は新田開発による米の増産と年貢増徴で財政をしのいできたが、これだけで幕府財政が増収になる時代は終わった。稲田に実る富だけで家を保つことはできない世になった。

 新田開発の結果、米が多く出回れば、米価は下落せざるを得ない。安値でしか米を売れないなら現金収入は増えない。幕府財政は米に過度に依存し、貨幣経済に対応できないまま逼迫(ひっぱく)していた。

 これを改めるため、何か新たな富を見出さなければならなかった。意次は、その期待すべき富が何か、心当たりをつけてあった。これを米と並んで幕府財政を支えるもう一本の柱に発展させるには、まだ準備が十分でないことを知っていた。そしてなにより、それだけの大改革をやり通す地位と威権が己(おのれ)に不足していることを痛いほどわかっていた。

 意次は忠光の顔を見ながら、財政改善に向けて、幕政の大改革をやり抜く決意を奮い起した。

「機の熟すのを待つとしても、時至(いた)れば大岡様のお力を頼りて、上様の御威光で新しき道を探り、幕府の将来を拓(ひら)かねばなりませぬ」

 意次は、忠光に協力を請う言葉の裏に鬱勃たる意欲をにじませ深々と辞儀をした。辞儀には、幕府の来(こ)し方、行く末を正しく見定め、家重の恩に報いる清廉な忠誠心を込めたつもりだった。

 ただ己の地位上昇の志向にも似て、どことなく野望の匂いがしたかもしれないと気付いた。言ってから、内心ひやりとした。忠光は口角をわずかに下げて黙想を続けていた。

 

 その年も十二月(しわす)になった二十一日、幕府は、水害にひどく被災し困窮する七藩を選んで支援すると公表した。幕府視察団を幾次にもわたって派遣し、被害状況を詳細に調査してあったから、被災藩の選定は容易だった。

 松代藩真田家に一万両、長岡藩牧野家に七千両、関宿(せきやど)藩久世家に五千両、高須藩松平家に三千両を始め、七藩しめて三万三千両を貸し出し、再来年(さらいねん)宝暦九年から五カ年で返済せよと伝えた。

 利子の付かない拝借金に藩主一同、涙を浮かべて感謝した。それだけではない。水害を被(こうむ)り領内が荒れきった大名や、年貢が半減した旗本にも広く恩貸金を許した。

 翌日、老中から、二年前に定めた幕府各部署の御定高(予算)をさらに圧縮するよう達しが出され、幕臣一同、歯を喰いしばって倹約を旨とする方針を確認した。「入(い)るを量(はか)りて以(もっ)て出(い)ずるを為(な)す」と、儒学の訓(おし)えに誰もが忠実だった。

 幕府から大名、旗本まで、武家階級は国を治める側に立ちながら、この訓えにとらわれ、支出を収入に見合う額に抑える苦心を強いられている。

 ――だから武家は皆、貧乏している

 その一方、商人は治められる側に立ちながら、活躍の幅を広げ大いに肥え太っている。出(い)ずるを量(はか)って入(い)るを自在に創出しているようだと意次は思った。

 ――奴らは収入の道を創り出し、儲けをふやす算段ができる

 なぜこのような状況になったのか、意次は石谷(いしがや)清昌の話を聞いて、すでにその機序(からくり)を理解し、幕府の財政危機を克服する鍵だと思っていた。

 幕閣の中にことの本質に気付いた者がどれほどいるか、実に心許なかった。意次は、清昌という友から行政と財政の生きた動きを聞ける強みを生かし、この危機を乗り越えなければならないと思った。そのための好機がきっと来ると信じていた。

​佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第一章二節「入るを量る」(無料公開版)

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