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第一章 遠 鳴 

 

一 バークレイ​ 前節に戻る 目次に戻る

 

 一七九六年四月二十八日木曜日、サラ・ネルムスは、牛の様子を見に牧草地にひとり出かけたとき、林の方から郭公の初音を聞いた。サラはこのときから、この年は、きっといいことがあると、わくわくし始めた。この近郷では、四月二十八日に郭公の初音を聞くと、その年は最高の運が待っているという縁起かつぎの口碑があった。

 サラは村の酪農家に雇われる乳搾りで、器用な長い指のおかげで搾乳がうまく、気立てのいい娘だった。なにより、胸が豊満でぴちぴちとした肢体は、若さの素晴らしさを惜しげなく匂い立たせ、見るものの目を惹かずにはおかなかった。近隣で評判の娘だった。

 五月八日、せっかくの日曜日だというのに、サラは体調不良で倦怠感がひどかった。数日前、近くの林に懸鉤子(きいちご)を採りに行ったとき、うっかりイバラで右の手首と甲の親指脇を傷つけた。ごく小さな傷で気にも留めず、普段と変わりなく乳搾りを続けたところ、不調を覚えるようになった。

 イバラで傷付けた箇所に水疱が現われ始める頃、体調はいよいよ悪くなって仕事も思うに任せず、縁起のよい事どころではなくなった。サラは翌日にも、ジェンナー医師を受診しようと憂鬱に考えた。

 初夏の晴れ渡った日、サラは一人、教会小路(チャーチレイン)を歩き、ジェンナーの診療所に向かった。小逕の両側は木々が鬱蒼(うっそう)と茂り、家々から犬の吠え声と家禽の鳴き声が聞こえてきた。ゆったりと時間が流れる素晴らしい散歩道だったが、サラは心配でそれどころではなかった。

 診療室で、ジェンナーに水泡の出た右手を診(み)てもらうと、即座に、ここ二週間で手を傷つけたことがなかったか問われた。サラはありのままを答えながら、話の要所で穏やかに頷(うなず)く医師の笑みを見た。診察を受けてよかったと安堵する気持ちが湧いた。

 サラは、丁寧に全身を診察する医師の温かい手に安心感を覚えた。医師がやさしい声で、心配ないというのを聞いて、にっこり微笑んだ。硫酸亜鉛軟膏を渡され、これを塗って静かに寝ているよう指示された。次の受診は土曜日と指定された。

 

 ジェンナーはサラを帰すと、早速、あらかじめ話をしてあったフィップス庭師を呼んだ。ジェンナーはこの庭師に庭の管理を長いこと任せ、あつい信頼を寄せていた。庭師が牛痘の研究に協力したがっていることを知って、ジェンナーは喜んで協力を要請してあった。

「ジェンナー先生はユーモアに富んだ寛容なお人柄なので、フィップスさんは先生に惹かれるだけでなく、先生の情熱に感服しているのでさぁ」

 村でも、こんな噂が語られるほど仲良い間柄だった。

 ジェンナーは、彼の息子ジェイムズ・フィップスに牛痘を接種させてほしいと頼むべき時期がついにやって来たと説明し、快諾を得た。ジェイムズは八歳になる巻き毛の可愛らしい少年だった。

 五月十四日土曜日、サラが再び来院したとき、親指脇の水疱はすっかり膿疱化して縁が盛り上がり、中央部がわずかにへこんでいた。ジェンナーは、膿疱がまさに完熟期にあることを見てとった。うって付けの時期だった。

 ジェンナーはサラの全身を診察し、順調に回復していると告げた。

「 膿漿(うみ)を採取してもいいかな」

 やさしく尋ね、その理由を乳搾りの娘にわかるよう、ゆっくり説明した。ジェンナーはジェイムズ少年を呼びにやり、待つ合間に、膿疱のできたサラの右手を慣れた手つきで素早くスケッチした。

 ジェンナーは、診察室に呼び入れたジェイムズ少年の巻き毛を撫でて不安を除いた。

「いい子だ。それほど痛くはないからね」

 ジェンナーは、少しの不安もなさそうに寛(くつろ)いだジェイムズの姿を見た。笑みを交わし頷(うなず)き合う少年と娘は、互いが互いの役割を理解し、信頼して全てをジェンナーに委ねているようだった。

 ジェンナーは少年の腕に刺胳針(ランセット)で、真皮に達しないようごく浅く、ほぼ半インチ(一・三センチメートル)長の切り込みを二箇所にいれた。そして、サラの膿疱から膿漿を採取し、その切り込みに挿入し繃帯を捲いた。終わると、少年と娘に「ありがとう」と言った。

 ジェンナーは、接種七日目、少年が腋(わき)の下に不快感を訴え、翌々日には寒気(さむけ)を感じて食欲を失い、軽い頭痛をきたしたことを診察した。この日、少年は体調不良が続き、夜中に不安がって泣きはしたが、次の日、すっかり回復した。

 爽やかな初夏の朝、郭公の盛んな鳴き音が診察室に聞こえてきた。ジェンナーはジェイムズを診察し、水泡が腕の接種部位に生じ、全身症状が完全に回復したことを確認した。予想どおりだった。ジェンナーはにっこり微笑んで、いい子だと少年の頭をなでた。

 その後、ジェイムズの腕の切り込みにできた膿疱は次第に乾き始め、瘡蓋(かさぶた)を作ってきれいに治った。ジェンナーは、牛から人にうつった牛痘感染が、人と人の間で伝達可能であることを確かめ、大いに満足した。

 七月一日金曜日、ジェイムズの体調がすっかり回復してしばらくしたころ、ジェンナーは次の検証にとりかかった。今度は、天然痘患者の膿疱から採取したばかりの人痘膿漿を再びジェイムズの腕に接種した。

ジェンナーは、ジェイムズが天然痘を発症する危険性はないと確信していたが、それでも、少年を危険にさらすことになるかもしれないと迷いがあった。ジェンナーは恩師の言葉を思い起こし、勇気を奮った。

 牛痘接種を受けた少年には、もはや天然痘が伝染(うつ)る可能性はないと断言できないが故に、断言できることを示す必要がある。そのためジェイムズに人痘種痘をほどこす。牛痘種痘を受けたジェイムズが人痘種痘によって発痘しないことを証明すれば、次の大きな一歩となる。ジェンナーは固い信念を心の内で繰り返すように、奥歯を幾度も噛みしめた。

 接種を終え、ジェンナーは祈る思いで少年を毎日、詳細に診察し続けた。診察は数週間に及んだ。初期に、ごく軽微な反応が接種部位に見られただけで、全身状態に何の変化も認められなかった。そして、結局、それだけだった。

 ジェイムズは天然痘を発症しなかった。牛痘の接種によって天然痘を予防できることを示した最初の症例となった。ジェンナーは、牛痘に罹った人は天然痘に罹らないという村の言い伝えに初めて科学的根拠を与えたと確信した。

 その年、牛痘の流行が終熄したため、次の流行まで研究を中断せざるをえなかった。これまでもよくあることだった。翌年、ジェンナーは研究を完成させようと意気揚々、春の到来を待った。牛痘は通常、雌牛が冬飼料の干し草から生草に移行する春に流行(はや)った。ジェンナーの望みはかなわず、その春は乾燥した天候によって踵炎(グリース)や牛痘が流行らなかった。

 一七九八年が明け、このシーズンは初めから雨が多かったせいか、近郷農場主たちの馬は踵(きびす)が爛(ただ)れ始め、ついで牛痘が流行り始めた。研究を再開したジェンナーの次の目標は、牛痘に罹った雌牛の膿疱から膿漿を採って人に植え、次々に人で植え継ぐことができるか確かめることだった。ジェンナーは満を持して課題に取組んだ。

 ジェンナーは、牛痘の初代接種児から、乳幼児と子供たちに膿漿を次々と五人にわたって接種した。五人目に至るまで、初代接種児と同じ症状と膿疱を発したことを観察した。

 牛痘膿漿は牛痘に罹った雌牛から採取したが、ひとたび人に接種して膿疱が形成すれば、その膿漿には元の牛痘膿漿と同じ性質が保持されるようだった。ジェンナーは、牛痘膿漿が複数の人を介してもその性質を変えることなく、次の人に継代されると確信した。

 

 ジェンナーは研究をまとめる時機が来たと判断し、論文執筆に取り掛かった。冒頭、馬の踵(きびす)の炎症すなわちグリースが人痘の症状に類似することに言及し、これが乳絞りの手を介して雌牛の乳房に感染(うつ)り牛痘を発症する可能性を示唆した。

 そして牛痘に罹った雌牛の症状と、牛痘の感染(うつ)った人の症状を記述し類似性を示した。ジェンナーは、医学だけに留まらず博物学に精通した独自の視点から、馬、牛、人に及ぶ感染の広がりを考察し、本論として長年にわたって集めた症例二十三例を提示した。

 ジョゼフ・メレットはバークレイ伯爵の副園丁だった人物で、若いころ牛痘に罹った。ある年の四月、天然痘の流行予測に基づいてバークレイ住民全てにトルコ式の人痘接種が行われた。ジョゼフの話では、接種を受けて何もおきず、また、別の折、家族の一人が天然痘に罹っても自分だけは感染(うつ)らなかったということだった。

 ジェンナーは、これを聞いて、己の仮説を支持する症例になると考え、第一例目は、若いころ牛痘に罹った園丁の病歴を論述することから始めた。そして、さまざまの条件は異なるものの、牛痘の既往があれば天然痘に罹患しないことを示唆する症例を次々と列挙していった。

 ついに、新規牛痘例のサラ・ネルムス嬢を第十六例目に、その膿漿接種を受けたジェイムズ・フィップ少年を第十七例目にあげたあたりが、論文の山場だった。次の発展として、牛痘の雌牛から採った膿漿を五人の子供にわたって接種し継代した最新の症例を示した。

 結論には、牛痘が天然痘を防禦すると堂々と書いた。そのあと、牛痘接種を受ければ、もはや人は人痘すなわち天然痘に罹らなくなるが、一方で、牛痘には幾度も罹った症例があったことをあげて今後の検討課題とした。考察には、接種部位、接種時の皮膚の切り込みの深さ、接種膿漿の量など人継代牛痘膿漿の用法・用量を至適化するため、いくつかの課題を指摘した。

 最も重要な考察として、人痘種痘はそれなりの予防効果があるものの、本当に天然痘を惹(ひ)き起こし、時に死に至らせることもある予防法だと、穏やかで慎重な言い回しで、決して「危険」という言葉を使わずに論じた。そのあと、牛痘種痘は、接種を受けた人に重篤な症状を起こさず、周りの人に伝染(うつ)すことなく、まして死亡例はない、と控えめに淡々と論述した。

 ジェンナーは博物学徒らしく、リンネ式二名法に準拠して牛痘にワリオラエ・ワッキーナエ(Variolae vaccinae)とラテン語学名を与えた。以前から、天然痘ワリオラ・マイヨール(Variola major)と対比的に際立たせることによって牛痘を人の疾患として格上げする腹案を持ち、ラテン語の牛(ワッカ、vacca)から「ワッキーナエ」と造語した。熱い意気込みで学問的な枠組みを周到に用意した。

 最後に、『ワリオラエ・ワッキーナエの原因と作用に関する研究 イングランド西部諸州、特にグロスターシャーに見られる牛痘(カウポックス)の名で知られる疾病について』と力を籠めて、長めの表題を書き上げた。

 一七九八年四月二十四日火曜日、ジェンナーは勇んでロンドンのカールトン・ハウス・テラスに向かった。鞄には書き上げたばかりの論文原稿が入っていた。王立協会に論文の出版を依頼し、審査委員に会って研究の意義を説いたが、結局、断られた。

 王立協会の有力会員は、下等な動物の病気を人為的に人に罹らせ、それによって人の重篤な伝染性疾患を予防するという破天荒な着想に賛同できるほど、柔軟な頭を持ち合わせていなかったことを歴史に残した。

 ジェンナーは、王立協会から断りの連絡を受けて、真っ先に恩師ジョン・ハンターを想った。ジェンナーが大学を卒業したあと、五年前に亡くなるまで親交の止むことのなかった恩師だった。

 ――先生なら、この研究を理解していただけただろうに………

 胸中、深く偲(しの)び、勇気を奮い起した。

ジェンナーは怯(ひる)むことなく自費出版を決断した。真夏に刷り上がってきたのは七十五頁の小冊子で、四葉の図が含まれていた。その内の図一は、サラ・ネルムス嬢の膿疱を発した右手のスケッチだった。

 

 当初、ジェンナーの考えに批判的な医師が多かったが、次第にジェンナーの仕事は注目を集め、「ワクチン」という造語が作られるほど、ジェンナーの提唱した概念が広まっていった。十二月には早くもロンドン市内に、貧困家庭の子供に牛痘種痘を行なう施設が開設され、内科医一名、外科医一名が常駐するまでになった。

 ヨーロッパはナポレオン戦争の最中で大きな混乱下にあったが、あっという間にジェンナーの牛痘種痘の方法が欧州全土に広まった。イギリスと敵対関係にあったフランスにさえ、遅れることなく種痘が伝わり、ナポレオンは己の軍団に牛痘種痘をほどこした。

 ヨーロッパに次いで牛痘種痘を海外植民地に伝える努力が重ねられた。特に、北米、中南米、アジアへ牛痘苗を運ぶことは、長期間の航海を要するため困難が多かった。植民地に到着してから干からびた膿漿を現地の子供に接種しても発痘しなかった。船中、牛痘苗を大切に保存しても、発痘する力が失われたことは明らかだった。

 スペインが熱心にこの課題に取り組み、本国から大西洋を越え、ハバナ、プエルト・リコ、グアテマラ、メキシコに牛痘苗を運ぶ計画を立てた。人体によって牛痘を継代できることはジェンナーによって実証されていた。そこで、天然痘に罹ったことのない少年二十二人を乗船させ、船中で次々と膿漿を植え継ぎながら、牛痘苗を運ぶ計画を立てた。少年の肉体を牛痘の伝達媒体に利用する試みは成功し、牛痘苗は中米を手始めに、太平洋を越えて東南アジア植民地にも渡ってきた。

 この役が勤まるのは天然痘に罹ったことのない子供だけだった。この時代になると、天然痘に未感染の大人はいないと言ってよかった。天然痘が長年にわたり世界各地で猛威をふるった結果、大人とは、天然痘を生き延びた強い子供の成長した後の姿になったのだった。

 

 

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第一章「遠鳴」一節「バークレイ」(無料公開版)

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