top of page

六 月夜に耳澄ます 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 宝暦九年(一七五九)四月、田沼意誠(おきのぶ)は兄意次に呼ばれ、拝領屋敷を訪ねた。意次は前年、一万石に加増され、小川町から引き移ったばかりで、ようやく新邸の生活が落ち着いた頃だった。

 呉服橋御門内に賜った屋敷は三千六百三十一坪。意誠は奥まった一画の座敷に通された。初夏の爽やかな時季、座敷から眺める内庭に空木(うつぎ)の花が満開だった。

 空木は卯月(うづき)の花、黄色の雄蕊(おしべ)が純白の花弁に包まれて咲く。可憐な黄の彩りを真白な花群(はなむら)に点じ、初夏の陽光に照り映えていた。意誠は、花木が匂い立ち樹勢を輝かせるのを見て、兄の隆盛に向かう屋敷に相応(ふさわ)しいと思った。

 座敷では、風炉を前に意次が御手前を点(た)てる準備が整ったようだった。手にとる茶筅は淡竹のごくありふれたもの、茶碗もさほどの銘品とは見えない。意次はほっそりとした手で器用げに点(た)てたが、格段の巧者とは言わない方がよかった。

「忙中閑ありですな。兄者も茶を点(た)てまするか」

「先ごろ屋敷を拝領し、小川町から移ってきたのを機に始めたばかりじゃ。大名ともなれば、一通りは茶などやっておいたがよかろうと思うての。上様がお嗜(たしな)みにならぬので、儂(わし)も昔、わずかばかり習(なろ)うたきりじゃ」

 家重は手に軽い障害があり涎(よだれ)が垂れるので点茶には向かない。側に仕える者が茶の湯に親しむはずがなかった。

「儂(わし)の手前は、通り一遍の付け焼刃じゃ」

 意次が笑い飛ばし、湯気立つ茶碗を意誠に寄越した。意誠も、神妙な顔で茶を啜(すす)ると笑顔で頷(うなず)き、話を転じた。

「卯の花が見事でござりますな。さてさて、卯の花に合わせて不如帰(ほととぎす)も鳴きましょうや」

 意誠は柄にもなく風流気なことを口にした。

「うむ、鳴く。そして夜も鳴く」

「ほう。夜もでござりますか」

 二人は話の枕にささやかな閑談を楽しんでいる。

「夜鳴くといえば、野鵐(のじこ)もよう鳴く」

「はて。そのような鳥は存じませぬが……」

「儂(わし)も近頃知った。実は、出入りの商人が籠鳥(ろうちょう)にして贈ってくれたのじゃ」

 意次は、野鵐(のじこ)の銀鈴を振るような繊細な鳴音(なきね)を愛(め)でる趣味を語り、出雲で採鳥される頬白(ほおじろ)の仲間だと小鳥のあらましを語った。野鵐は夏になると鳴き始め、鳴音(なきね)は、調子諧律ごとに、上げ鈴、糸羅鈴、登呂鈴、錆鈴、引き鈴、乙鈴(おつみ)などと名付けられ、聞き分けるのがその道の芸なのだという。

「玉(ぎょく)を含みて喉に転がすような熟した鳴音を乙鈴(おつみ)と呼び、月明かりの夜に野鵐が鳴き澄ます風情を特に珍重するそうじゃ」

「ほお。これは、これは……」

 意誠は、お勤め専一の兄にして閑雅な趣味を語るのに感心し、出入りの商人と斯様(かよう)な話をしていることに驚いた。

「上様に差し上げて、御小座敷の縁入側(えんいりがわ)の軒端(のきば)にお架けなされませとお勧め申したところじゃ。もう少し早く来たなら、そなたにも聞かせてやれたのじゃが……」

 浮世離れの閑談はついに閑談に終わらず、主君御為の心映えに行き着いた。家重が御小座敷で庭を眺めて黙想する折、銀鈴の鳴音を楽しむ姿を想像して、意次が進献したという。

「上様一筋の兄上らしい御気の遣いようです」

「ふふ。まあ、その通りじゃ。上様あっての田沼家ぞ」

「それでこそ兄上は、評定所でお立場を賜ったのでございましょう。表職のような御側職だと専らの噂にございます」

 急に、意誠は幕府人事に話を振った。前年の郡上一揆の裁きと意次の噂に無関心ではおれなかった。意次にあれこれ詳細を訊ね、御側御用取次が評定所を主導する新たな試みが、将軍の強い力を発揮する仕組みになると意次が語るのを一言も漏らすまいと聞いた。

「二月には、評定所に、留役(とめやく)組頭、留役、留役助、書役ら三十六名の専任者を増員したばかりでの。皆、優れた者どもじゃ。これからの難しい政(まつりごと)に大いに役に立つであろ」

「ほお……」

 意誠が一通り納得した様子を見て取ったか、意次は話題を転じた。

「さて、近頃、町なかはいかようじゃ」

 今度は意誠が、将軍に伝えるべき民情があるかと尋ねられた。意次は市中の動静に常に心を配っている。

「ちと気になりますのは、来年は辰の年、そのうえ宝暦十年でございます。誰が言うともなく、辰の十年には災難が多いと風聞が広まっているようです。それがしも、幾度か町で聞き申した」

「うぅむ。左様の俚諺(りげん)がのう……」

 意次は、辰年十年の巷説を頭のどこかに刻むかのように、しばらく沈黙した。

「ところで、一橋家のそなたの家老勤めはいかがかの」

 再び、話柄が変わった。意誠は兄の頭の働き方を知っているから、少しも唐突とは思わない。

 そもそも田沼家では、吉宗が八代将軍になったとき、二人の父意行(おきゆき)が、紀伊藩士から幕臣となって将軍小姓を拝命した。次いで、弟意誠(おきのぶ)が十二歳で吉宗四男の一橋宗尹(むねただ)の小姓となり、その二年後、意次が十六歳で将軍嫡男家重の小姓となった。

 田沼家は、父子(おやこ)にわたって将軍家に小姓として仕え、四十余年を経た側衆の家柄だった。意誠が三十九歳にして、一橋家家老に昇進したのが二か月前、すぐに意次から、祝いの品が届けられた。

 これまでも、意誠(おきのぶ)は宗尹(むねただ)の人と為(な)りを意次に話してきた。一橋宗尹(むねただ)に長く近侍して見聞きした正確な宗尹人物像は意次の重要な判断根拠になったと自負がある。

 家老ともなれば、また一段と内情に通じたであろうと、意次から、一橋家の在り様をあれこれ話せとせがまれた。有力な家や大名家の内情を細かく知っておくことが意次の職に不可欠であるのは至極当然と意誠はわきまえていた。

 一橋家の当主宗尹は三十九歳、家重の十歳下の弟だった。二十六歳にして十万石の領地を与えられ、将軍家の一員として遇されてきた。

 宗尹の嫡男重昌は、家重の命によって、五歳で越前福井藩松平家に養子にだされ、昨年、十六歳で早逝した。家重の再度の命により、重昌死去の三日後、十一歳になる弟、重富があらためて福井藩に養子にだされた。

 順送りに八歳の治済(はるさだ)が一橋家の継嗣に挿(す)げ替(か)えられた。意次は、昨年に起きた一橋家の慌ただしい動きを思い浮かべるように天井を見上げた。その意次から、意誠(おきのぶ)は宗尹の心底を問われた。

「一橋様は御子息が年長順に次々と養子に出されることをいかが思召(おぼしめ)されているか」

 もともと、宗尹自身が幼少時、越前家に養子に出されそうになったほどである。将軍の息子といえども嫡男でないため、いつ他家に出されるかわからない不安が若いときからついて回った状況を意誠が答えた。

「我が君は、若いころ相当にお悩み召されたものでございます」

 意誠は、己の口調に主君に同情する心情がにじみ出たことを意識した。

「そうであろう。田安様の一件もあるでの」

 意誠は、兄が十二年前の田安宗武による諫奏事件の経緯を踏まえていると、わかっていた。

 吉宗二男、宗武(むねたけ)は頭脳明晰、弁舌は流れるごとくにさわやかで、幼少から、あっぱれ、若君振りを幕臣に称(たた)えられて育った。荷田(かだの)在満(ありまろ)から有職故実を伝授され、賀茂(かもの)真淵(まぶち)から国学と和歌を学び古典の学問を修めた。

 宗武は、四歳下の二男とはいえ、己こそが将軍家を継ぐにふさわしいと秘(ひそ)かな思いを懐(いだ)き、時に、周りの者に覚られることがあった。あるとき、意を決し、父親に諫奏状を上書した。

 諫奏状には、満足に口も利けない者が将軍の激職を全うできるのかと仄(ほの)めかし、あてつけがましく、家重のことをあれこれ書き連ねてあった。書状は漢文で綴(つづ)られ、達意の文章は家臣に書かせたものらしかった。

 吉宗は、内容はともかく、家督を巡る兄弟不和を家臣にまで明かして文章を書かせ、御家騒動の種を作った宗武に立腹した。

「三十を過ぎてなお、そのような配慮の足りぬ者こそ、将軍職にふさわしくないわ」

 宗武に厳しい叱責を与えた。吉宗が長幼の順を重んじて、家重に将軍職を譲って二年目のことだった。

 家督相続を巡って、百年以上も前、三代将軍家光が舎弟駿河大納言忠長を死に追いやった事件は徳川家の口に出せない凶事だった。それを我が子の上に起こさせまいと苦悩した吉宗の親心を覚らないかのようだった。吉宗は、宗武だけでなく、田安家家臣の落ち度とみなした。

 そればかりでない。諫奏状の時期が悪かった。家重の嫡男、竹千代が十一歳になって、いよいよ利発さを増し、吉宗から、帝王学の伝授を受け始めた頃だった。

 逸話がある。竹千代が十歳にもならない頃、吉宗は膝下に呼んだ竹千代に、唐紙の大判紙を与え好きな字を書いてみよと言った。竹千代は、すぐに筆硯を側衆に命じ、「龍」の一文字を大きく書き始めた。

 大書したあまり紙面一杯となって、最後の点を打つ余白がなくなった。周りが、どうなることか固唾を呑んで見守るなか、竹千代は大人の緊張を知ってか知らずか、悪びれる様子もなく、無邪気に紙面外の畳に点を打って機嫌よく終(しま)いにした。

 それを見た吉宗が大笑して喜び、大気で豪快な気性に恵まれ、将軍を継ぐ資質にふさわしいと称揚した。この話が広く、噂になった頃だった。

 嫡孫の聡明さを嬉しく見つめる祖父吉宗の心の襞(ひだ)に気付かない宗武が迂闊(うかつ)といわれても仕方なかった。家臣はなおさらだった。

 嫡男の家重がどうであれ、嫡孫の竹千代が聡明であれば徳川宗家の家系はめでたく継承されると吉宗は考えるに違いない。並みの幕臣なら容易に想像のつくことが、田安家の家中はそうではなさそうだった。

 諫奏の前年、田安宗武は弟一橋宗尹と共に、十万石を賜ったから、一家をなした嬉しさで家臣一同の気持ちが大きくなって慢心し、吉宗と家重との微妙な立ち位置を慮(おもんぱか)る目が曇ったという者もあった。

 諫奏上書に叱責をこうむって以来、宗武は表向き、病を理由に、出仕、登城、外出を差し止められた。それだけでなく、大目付が兼任で田安家家老を命じられ、家中を監視するほどの処置がとられた。厳しい処分は足掛け三年に及んだ。処置以降、宗武は身を慎み、田安家は全く物申さぬ家になった。

 宗武は悔恨にとらわれ、もはや田安家の存続だけを控えめに望むしかないと悲観する様子が噂された。宗武に下された処置の結果、弟の宗尹(むねただ)も一橋家の継嗣だけは養子にださないで欲しいと、それだけを控えめに願う大人しい家になった。

 宗武と宗尹の息子たちが、竹千代の万が一の事態に備える代替に過ぎないことを改めて全ての幕臣が思い知った事件だったと、意誠は振り返った。あれから十二年、竹千代が元服して家治を名乗り、子を儲けるに至っては、もはや代替の意義さえなかった。にこやかな顔をしながら意誠の頭がいろいろに廻った。

 ——となれば、兄の考えは、およそ見当がつこうというもの

 ——治済(はるさだ)様にこのまま一橋を継がせるか、あるいは、養子に出して一橋の家を明(あき)屋敷にしてしまうか、兄は、上様と相談し、いずれ一橋家の処遇を決めなければならないと考えているのであろう

 田安家と一橋家が将軍家の世子候補を用意しておく必要がどこまであるのか、急ぐでないが、この意味を考え、相応(ふさわ)しい処遇案を用意しておくのは、御側御用取次たる者の務めに違いない。意誠は意次の思案がわかった。

 意誠にとって主君ながら、治済(はるさだ)に何が何でも一橋家を相続させたいとは思わなかった。

 ——家老として一橋家を守ることと、治済様をお守りすることは、実は、同じではない

 将軍家における田安、一橋の両家の立ち位置を考えると、相当に難しい問題であると今更ながら痛感し、意誠は兄との歓談をなおも続けた。

​佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第一章第六節「月夜に耳澄ます」(無料公開版)

bottom of page