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六 下谷車坂宗延寺​ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る 

 

 少し前から、オランダ・ジャワ総督府では、東インド植民地の管理と対日貿易に関する新たな方針を準備していた。特に、対日貿易のこれまでの経過を整理し総括しておくことが重要だった。東インド会社時代、十七人重役会と呼ばれた最高決定機関は、効率的な、その故に重々しさを失った今風の委員会に改組され、今では、新委員会がこうした問題を審議することになっていた。

 ドゥーフの時代、祖国はフランス支配下にあって自由な商業活動が困難に陥り、フランスと敵対したイギリスから交易を妨害されるに至った。拿捕されるオランダ船が出るに及んで、局外中立のアメリカ船を雇って細々と出島商館と連絡を維持し、それも維持しきれなくなった。

 日本人の欲しがるオランダ本国選(よ)り抜きの品はジャワに輸送されず、長崎に供給できなかった。たとえば、ライデン製の大羅紗(おおらしゃ)に日本人は高い金を惜しまなかったが、アジア製の羅紗は巧みに見抜き買値を叩いた。日本人の欲しがる品を提供できないのだから貿易が低調になるのはやむをえなかった。途絶えなかっただけましだった。

「ドゥーフは、交易が不調な時期でも、日本と良好な関係を築き、よくやっておった。レザノフが通商を求めて長崎に来航したときも、フェートン号事件でも、危機管理をうまくやってのけた男じゃ」

 ある委員は、オランダの独占的な権益をよく守ったと、ドゥーフを高く評価し、他の委員の誰からも異議を受けなかった。これをきっかけに幾人かの委員から発言があった。

「あの男は、初めての本格的な蘭和辞典を日本で編纂したと聞いた。ジャワからオランダに帰航するアドミラル・エーフェルツェン号に乗り合わせたのじゃが、遭難し、蒐集した日本の物品ともども全てを失ったそうじゃ。死なずにすんだのは幸いとしても、実に気の毒じゃった」

「ブロンホフが商館長に就いてからというもの、我々は、毎年、二隻の船を日本に派遣できるようになった。交易環境は安定しておる。ドゥーフの築いた良好な対日関係の上に、ブロンホフがうまく長崎を管理しておるようじゃ。貿易をナポレオン戦争前の水準まで回復させたのはブロンホフの功績と見て差し支えないじゃろう」

「それに、あの男は、日本に牛痘種痘を普及させようと熱心なのじゃ。日本人を大切に思っておるのじゃろうが、それだけではない、種痘で日本政府に恩を売ってやろうと大いに働いておる」

「毎年、牛痘苗を送っているが、日本でちっとも発痘しないようじゃ。何が悪いのか、わからんままじゃ」

「牛痘苗など、金のかかることでなし、いくらでも送ってやればよいではないか」

「ブロンホフは日本の役人や学者と交際を深め、日本人から好意を得ることに成功しておる」

 委員会は二人の商館長を高く評価した。ある委員から、対日貿易の独占を強めるために提案があった。

「日本がこれまで以上に、オランダへの依存度を高めるよう図る必要があると思うての。オランダ語を通して、ヨーロッパの文化、芸術、科学、技術の概念を日本に普及させようと目論んでおるところじゃ。それには、日本で発展しつつある蘭学を梃子(てこ)に、蘭学者に働き掛けるのが戦術的にいい」

 この構想は、ドゥーフやブロムホフから報告された日本蘭学界の状況分析が根拠になっていた。

「奴らは、驚くことに、ラランデを読み、ケイルを読み、ウィットセンを読み、ブロデレットを読み、ショメールを読むのじゃ」

「どれもオランダ語でじゃ」

 カペレン総督は、長老が居並ぶ大テーブルを前に、本国の方針を伝え、日本に派遣する次期商館医にして博物学者をすでに確保してあることを説明した。

 次期長崎商館長の選定にあたって、この博物学者の日本での活動を支援する寛容さを備えた人物であることを選定条件に加えるべきだと指摘した。商館医のほうが先に決まっているのは、これまでの出島人事の前例からは、よほど異例に見えた。

 最後にカペレン総督は、変則ながら日本の博物学的探索に国王から特別の予算が下りることを委員に伝え、計画が国王肝煎りで相当に進んでいることをほのめかした。

 次の夏には、この地バタヴィアから新商館長と新商館医が日本に向けて出帆することになる。今回の作戦の狙いと始動時期がジャワ総督府の高官に示され、了承された。

 

                               *

 

 文政六年(一八二三)一月、下谷、車坂にある宗延寺にて佐十郎の墓碑開眼法要が執り行われた。ささやかな法事のはずが、宗延寺の門前には、多くの法要客が集まってきた。江戸蘭学界の主だった者だけでなく若い書生も多かった。

 宗延寺は身延山の江戸三大触頭の一つ、江戸の役寺で、向かいの巨刹広徳寺とともに堂々たる大寺である。浅越玄隆は縁あって寺に依頼し、高橋作左衛門景保に撰を頼んで墓碑を建立した。気に入りの三国一の聟のため多くの労を自ら引き受けた。

 新しい墓碑の前で読経が終わった。薫香の漂う中、墓碑銘が朗読され始め、法要客たちは耳を澄ました。

 

    人となり易直静黙、然れども生自ら得る所を語るや、即ち娓娓として未だ嘗て倦怠するを知らず

 

 うるさい事を言わず、すらすらと素直で口数少ないが、しかし自ら会得したことを語るとなると、娓(びび)として穏やかながら、いい加減に済ませたことはなかった、と故人の人となりが読まれた。

 親しく佐十郎に接してきた法要客は故人の親切で気取らない人柄を思い起し、ある者は静かな口調で丁寧に蘭語の疑問点を教えてくれたかけがえのない記憶を振り返った。決して挫(くじ)けず訳了するまで手を抜かなかった故人の強い意志を振り返った者もいた。多くの者は、鬼気迫る執念でロシア語に取り組み、ついに翻訳を完成させた生き様を思い出して、目頭を拭った。

 

    弘前藩の浅越玄隆の女(むすめ)を娶(めと)り一男を得て尚幼なり

 

 この段の朗読に至って、法要客は、純白の喪服姿の未亡人が幼児の手を取るのをひそかに見て、涙しない者はなかった。

「あの御新造さまはよくできたお方で、懸命に故人をお支えでした」

「故人が本の虫で、むずかしい顔をしていても、御新造さまのお一(ひとこと)で、ご家庭がたいそう明るうございました」

「故人は、たいそう坊ちゃまをお可愛がり、蘭学泰斗の先生が馬になって、背中に坊を乗せて這う姿が思い浮かびまする」

 佐十郎を悼み、妻に同情し、涙に潤む回想があちこちで囁(ささや)かれた。最後の四言の銘に至り、

 

    象(しょうしょ)之学、精(くわ)しきこと四(​しきょく)に通じ

    繙訳(ほんやく)孜孜(しし)として、其の職を瘝(むなし)くせず
    
芝蘭(しらん)折れ易(やす)く、嘉(​かびょう)植ゑ難(がた)
    吁嗟(ああ)天なる歟(か)、何ぞ壽の嗇(ものおし)しみするや

 

 通詞職を周代の官職名で象胥(しょうしょ)と表現し、四か国語に精通した佐十郎の孜孜(しし)たる努力を謳いあげた。芝蘭のような香り高き植物は折れやすく、嘉(よみ)すべきめでたき苗(なえ)は育ちにくいように、素晴らしい才が早世したと、漢文世界の修辞を用いて佐十郎を悼(いた)んだ。芝(​しらん)、嘉(かびょう)と重ねた含意は、大槻玄沢の蘭学塾、芝蘭堂(しらんどう)に喩(たと)え、佐十郎を助けた玄沢と江戸蘭学界に表した深甚たる感謝だった。

 そして嘉苗(かびょう)こそは牛痘苗(​ぎゅうとうびょう)を暗喩して、これを追求し続けた佐十郎の生涯を象徴するような詠みぶりだった。撰に当たった作左衛門の悲痛な哀悼の詩賦は、法要客の涙を絞った。作左衛門も己の志が断たれたように痛嘆して、佐十郎の早すぎた死を慟哭した一人だった。

 法要客が合掌し瞑目する上から、時折、鴬の鳴き音が響き春を告げた。

「もう初音か」

 鴬の声を佐十郎の思い出に重ね、蘭語解読に初の体系を唱えた先駆けの声だと皆は思った。

「可惜(あたら)、あれほどの学才を……」

 皆が深い喪失感にとらわれ、蘭学界の活性中心が失われたことを痛感した

 佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」六節「下谷車坂宗延寺」(無料公開版)

七 バタヴィア 次を読む  前節に戻る 目次に戻る ログを参照

 

 一八二三年(文政六年)二月、バタヴィアに到着したシーボルトは、間もなく、近郊ヴェルテフレーデンの第五砲兵連隊付軍医に配属され、東インド自然科学調査官兼任の辞令をもらった。早速、シーボルトは日本行きの準備に取り掛かった。バタヴィアでの四か月ほどの滞在期間を利用して、ケンペル、ラ・ペルーズ、クルーゼンシュテルン、ゴロウニンたちの日本探検記に何回目かの目を通しながら、精力的にバタヴィアを動き始めた。

 ある日、カペレン総督から呼ばれたシーボルトは、三週間にわたり、総督の山荘に招かれ、外界と隔絶した環境で、オランダの国際的な立場とこれからの展望、戦略を丁寧に説明された。そのうえで、日本における秘密の任務を命じられた。

 まずは、博物学的に日本の物産を広く探索し、オランダにとって輸入価値の高い商品を選定する。また逆に、日本に不足し日本人が欲しがるものを知って輸出品候補を見出す。日本では銅がよく取れるから、他の鉱物資源の調査も指示された。

 両者を総合的に見て、日本から何を輸入し日本に何を輸出するのか、世界市場を考慮して貿易戦略を立案せよと課題を与えられた。

 さらに、将来、長崎以外の港において蘭日貿易を展開する日に備え、地理と民俗、習慣を知り、日本の政治情勢を整理し、兵要地誌を調査せよと命じられた。最後の課題は新商館長にさえ秘匿せよと念を押された。

 あえて分ければ物産の調査、貿易戦略の立案、政治・軍事調査の三つの任務だった。三つは独立した別個のものではなく、段階的に高次化するよう組み上げられた一つの大きな任務だった。

 シーボルトは、カペレンから今回の使命を十分叩き込まれ、その達成のための方針と具体的な方法を慎重に打ち合わせた。オランダの国益は、いずれ日本に開国を迫り、長崎以外の港を開かせて通商し、日本を取り込むことにあった。

 シーボルトは、オランダが手荒なことをせずに済ませるためには、事前の綿密精緻な調査が必要なことを納得した。イギリスを刺激せず、イギリスが気付いたら、いつの間にかオランダが日本を取り込んでいたという具合に持っていくことがオランダの国益にかなうことを理解した。シーボルトは、探検と地政学と国益と国家戦略の相互の関わりをカペレンから教えられ、己の抱く夢と大きく重なり合う任務だと、胸を躍らせた。

 

 山荘から解放されると、シーボルトは総督官邸の経理部に出頭し対日調査費用千八百二十七フルデンを受領した。日本における調査研究のために、博物学、植物学、地理学、医学の専門書と論文、地図、航海記、科学的探検記、外科手術を演示するための医療機器、薬品、薬品製造器具をジャワの地で買い漁(あさ)って、本国から持ち込んだ品の不足を補った。こうした書籍、機材などは己が使うためでもあるが、日本人への贈答に使うことも想定し、豊富に取りそろえた。

 商館長に与えられる調査費でさえ三百二十六フルデンに過ぎず、シーボルトの調査費の額は商館長に知らされず、シーボルトは巧くやることも命じられていたから、買い物には気を配った。

 前年、出島商館長ブロンホフから依頼のあった種痘用具一式を揃え、今度は己が出島で実施する種痘に備えた。前任商館医テューリンフが種痘に成功しなかったことを聞いて、牛痘種痘を初めて日本で成功させる名誉に心が騒いだ。シーボルトは己の生れがジェンナーの牛痘種痘に成功した年であることを知っていた。

 六月二十七日、新任の出島商館長として赴任するヨハン・ウィルヘルム・デ・ステュルレル陸軍砲兵大佐と共に三人姉妹(デ・ドゥリ・ヘズュステル)号に乗船した。大佐はワーテルローの戦いに出征した現役軍人で、ゆったり構えた男だった。総督から、商館長の新たな任務の説明を受け、シーボルトの博物学的探索活動を支援することが祖国のためになることを告げられていた。

 翌日、真っ青に晴れ渡ったジャワ海に出航した。甲板に立つと海風が肌に心地良かったが、気温は相当に高いとシーボルトは思い、牛痘苗のことが少し心配になった。

 一八二三年八月十日(文政六年七月五日)、三人姉妹(デ・ドゥリ・ヘズュステル)号が長崎湾頭、伊王島北端で投錨すると、御番所衆(バンジョースト)が検視のため乗込んできた。噂に聞いたオランダ通詞からあれこれ質問を受けて、シーボルトは、当然ながらオランダ語で返答した。その通詞は、シーボルトのドイツ訛りの強いたどたどしいオランダ語に疑いを持ち、蘭人ではないだろうと決めつけてきた。

 シーボルトは、己より流暢なオランダ語で次々と質問を浴びせかける通詞を前に、弁明相努め、自分は低地オランダ人(ネーデルランデルホランデル)ではなく高地オランダ人(ホッホ・ホランデル)であり、それも極めつけの山岳オランダ人(ベルフ・ホランデル)であるから低地オランダ語とは随分異なるオランダ語をしゃべるのだと出鱈目(​でたらめ)の話で押し通した。

 ドイツ人であることがばれて追い返されたら全てが終わるのだから、わきの下の汗は長崎の暑さだけが原因ではなかった。シーボルト二十七歳、憧れの日本との初対面はきりきり舞いから始まった。

 八月十二日(和暦七月七日)、シーボルトは出島の西に設けられた二之門水門から上陸し、外科部屋に居を構えた。八月二十三日、早速、己の持参した牛痘苗を用いて日本人小児に種痘を試み、結局、誰にも発痘しないことを認めざるをえなかった。シーボルトには、四十五日間の航海中、暑さで牛痘膿漿が失活したのだろうとおおよその見当がついていた。

 シーボルトは幸運の女神に微(ほほえ)まれて日本に来航し、そのあとも微笑みは続いた。来日早々、種痘はうまくいかなかったが、長崎の町は、そんなことは問題にならないほど、オランダ人への好意に満ちていた。

 ドゥーフとブロンホフが商館長を勤めた二十年以上の期間、オランダは欧州で苦しい立場に追い込まれたため、日本に対し親密で協力的な姿勢を取り続け二国間関係に最大限の配慮を示した。二人の商館長は滞在期間が長かったため、日本人の知(ちき)は多く、気心は知れ、その間、蘭語、英語の辞書を始めとする語学教育環境の整備に大きく貢献した。

 ドゥーフはオランダ通詞の力を借りてヅーフ・ハルマ字書を編み、収録語数は五万に及んだ。最大、最良の辞書を作ってくれたドゥーフに感謝しない蘭学者はいなかった。そこには、「kinderpokjes 痘瘡」と「inenten 植(うゆ)ル(接種する)」という単語さえ載っていた。ブロンホフはオランダ通詞に英語を教え、本木正栄が英和辞書『諳厄利亜(あんげりあ)語林大成』を編纂する偉業の基礎を作った功があった。

 シーボルトが来日したとき、日本人がオランダ人に抱く親しみはかつてないほど強かった。シーボルトはこうした友好的な雰囲気をいち早く察知し、早速、日本人蘭方医と緊密な間柄を結ぼうと考えた。

 ブロンホフに紹介してくれるよう頼むと人脈はあっという間にでき上った。シーボルトは、ブロンホフから日本人蘭方医人脈の引継ぎを受けて、あとは、ジャワに帰るブロンホフを安心して見送った。

 シーボルトは、活動の手初めに、出島に日本人蘭方医を迎え入れ、オランダ医学を講義したいと商館長ステュルレルを介して長崎奉行に申し出た。しばらくすると、吉雄幸載からは樺島町の吉雄診療所を、楢林栄建・宗建兄弟からは大村町の楢林診療所を使ってほしいと申し出を受けた。シーボルトはここに出向き、集まった蘭方医に患者の診察、治療、手術を演示してみせた。

 それに止まらず、動物、植物、鉱物の講義から始まり、植物から薬効成分を抽出する手技を見せながら薬物学を講じたため、日本人は度肝を抜かれてしまった。このような実験、演示を見せる蘭学塾があったためしはなかった。

 先代の商館医テューリンフも、患者の往診のため長崎の町に出向き、近隣地区で薬草や標本を採取することは、奉行所監視下に許されていたから、シーボルトにも同じ特権が認められた。シーボルトは、これをはるかに凌駕する質の高いやり方で、機会を活用した。

 シーボルトの教授があまりに見事で、受講希望者が急増したため、ついに、町の有力者たちが町はずれの中川郷鳴瀧に屋敷を購入し、そこで教育を行いたいと申し入れ、長崎奉行、高橋越前守重賢の許可を得た。

 前代未聞のことだと聞いて、シーボルトはオランダによる「日本作戦(ヤパン・オペラーチ)」の幸先よい出発だと、内心喜んだ。有力な蘭学者や蘭方医、そして長崎会所調(しらべやく)頭取の高島四郎兵衛までが、進んだオランダの技術を導入できるならばと、大賛成し強く応援したことが実った。

 佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」七節「バタヴィア」(無料公開版)

 

八 肥前神崎郡仁比山 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 肥前鍋島藩神埼郡(かんざきごおり)に仁比山(にひやま)いう村があった。東西に連なる背(せふり)山地の南端一線が、佐賀平野に合しようという丁度、境目、背振山から城(じょうばる)川が流れ落ち、広濶な美田を潤(うるお)し始めた辺りである。佐賀城下から北東に四里許(ばか)五十戸ほどの村だった。城原川を利用した水車で粉を挽いて作る饂(うどん)が名物だった。

 長崎街道神埼宿(かんざきじゅく)の辺りから、分岐する道を北に向かって爪先上りの坂を一里ほども行くと、道は左手に城原川の瀬音を聞き、右手は吉祥院の山裾を辿(たど)って百姓家に着く。当主は重助といった。

 この家は、もともと、櫛田社執行別当職を勤め、仁比山三社の職事を兼ね勤めたことから「執行(しゅぎょう)」の姓を名乗った。戦国の世にはなかなかの大身となって竜造寺に仕え、のち鍋島に拾われた。戦国の世が終わり、すでに帰農して久しい。今は、執(しゅぎょう)を名乗ることもなく、随分と落魄していた。ただの百姓と変わらなかった。

 寛政十二年十二月二十八日(一八〇一年二月一一日)、重助に跡取り息子が生まれ、勘造と名付けた。のちの伊東玄朴である。

 

 重助から見ると、勘造は幼くして明晰な頭脳の片鱗を見せ、学問好きの性(たち)と映った。小童(こわっぱ)のくせに言うことが大人びている。庭の片隅で一人、こむずかしい顔付きで黙(もくねん)と考え込んでいる姿がよく見られた。

「こやつは年端もゆかんに、何ば考えて居(お)っやら」

 重助は訝(いぶか)しんだ。

 あるとき、重助の許に勘造がしわそうな顔を下げてやってきた。父、母に話があると言って畏(かしこ)まり、侍になりたいと胸を張ってみせた。重助が訳をよく聞いてみると、学問で身を立てたく、百姓の出自では立身の望みがないから詰まらないという。十歳をわずかに過ぎた小(こわっぱ)が世故長(せこた)けたようなことを言うわ、と聞き置いたが、それから、何度も言ってくるのに重助は小うるさくなった。

「学問すっ以上、継いでん詮(せん)なか百姓ん小(​こせがれ)じゃ無(の)うて、侍ん出自がほしか」

 憎(にくげ)なことを言いおると思いながらも、重助は、ついに、

「よか塩梅(んびゃーに)に計(はか)ろうてやっばい」

と胸を叩いてみせた。すると、勘造はにやりとしながら、分別ありげに言った。

「なぁに、形ばかりでよかばい」

重助は、妻、繁(しげ)の遠い遠い縁戚で佐賀藩の下級武士、伊東家を当たってみた。やりとりがあって、ついに勘造が伊東を名乗ることを許してもらった。当たり前だが、只ではなかった。

 十三になると、重助が不動院に頼み込んで、勘造は住み込みで住職の玄透法印に師事することを許された。この辺りは、往時、聖武天皇の勅願によって行基が創建した一大寺院で、三十六坊のうちの一つの塔(たっちゅう)が不動院である。重助の家からごく近い。

 入門を許されしばらくすると、勘造は、師が講釈で、いい加減なことを言うて誤魔化そうとすると、これを手ひどく論難し口争いになったと村人の噂を聞いた。小(こわっぱ)とやり合う坊主も大人気(おとなげ)ないが、小(こわっぱ)のほうも、大人びて言うことが理に適(かな)っている分、小面憎い。

 師が叱りつけてその場は治まっても、しばしば論難を繰り返し、少しも屈しない。ついに、重助は、怒った玄透の呼び出しを喰らい、勘造を破門にすると申し渡された。よくよく聞いてみると、儒書の解釈で小童にうるさく論難されるのに辟(へきえき)し、そこまでして教える義理はないということらしかった。

 重助は玄透に平謝りで言い訳相努め、勘造を家に連れ帰った。侍を名乗らせてやった親の苦労も知れ、と叱り飛ばした。相手の言うことがおかしいからと、いちいち論難する態度に説教を垂れた。

「限(きり)がなかっじゃろう。そりゃあそれで、おかしかて思うてん、おとなしゅう聞いとけ」

 しみじみと諭した。勘造は、どうせ大したこともない坊主ぢゃと思ったかはわからぬが、そんなことを繰り返しながら、三年間、不動院に住み込んで初等の学問を終えた。

 十六になって勘造は辛気臭く、考え深げな顔をして、両親の前に畏(かしこ)まった。これで何度目かのことである。そして、医を学んで人を救(たす)くる道に進みたいと昂然と宣言し、隣りの小淵村の漢方医、古川左庵に就きたいと言い出した。重助から師を選んだ理由を問われると、こう答えた。

「齢(よわい)六十に垂(なんな)んとし、学徳並び高く、村を挙げて敬重されとぅ」

 これがその言いぐさだった。「隣村で近いからぢゃ」とは決して言わない。

 重助は、こやつめがわかったふうに、何を抜かすかと呆れる思いを持ったが、勘造が、就きたいという師を褒(ほ)めるのだから、重助が文句を言う筋ではなかった。

「束脩を出してほしか」

 惣領息子に頭を下げられ、結局、工面してやることになった。憎(にくてい)な小僧だが、憎めないところが親にだけはわかる。

 

 勘造は、毎朝夜明けとともに産土(うぶすなかみ)の仁比山神社に詣でることを日課と決めた。家の前の道を上っていけば、すぐそこであるが、冬(ふゆざ)むの日も雨の日もこれを続け、決して怠らなかった。拝殿前で、瞑想黙(もくとう)、深く長く祈願し、終われば道を駆け下って隣村まで早足で通った。

 仁比山神社は毎年の大祭が有名で、遠くから多くの見物人が集まった。勘造は、古川塾に通った時期、一度たりとも大祭を見物しなかった。その暇に勉強していると聞いた村人の中には、大志ある若者よと褒(ほ)める者、勉強ばかりの変物じゃと貶(けな)す者が半(なか)ばして、よきにつけ、悪しきにつけ村中から噂される若者だった。

 意志が固く、決めたことを貫くのに少しも遠慮がなかった。人がどう思おうと容赦がない。勘造は、新たな師の許で、『医方大成論』をはじめ、『傷寒論』、『金匱玉鑑(きんきぎょっかん)』に至るまで多くの漢方医書を読み耽(ふけ)った。

 塾で師の指導を受けながら、勘造は左庵が村人から尊敬される秘訣のようなものがありはしないか、師と患者のやり取りを必死に観察した。わかったのは、病が治らなくても、悪くして死んでしまっても、師は患者やその家族から尊敬を得ていることだった。さらに注意深く見ると、師は患者の苦痛を慰め家族の不安を除くよう細心の努力をしていたが、苦痛がうまく取れるかは問うところでないようだった。

 ことさらに優し気な声を出すわけでもなく、どちらかというと寡黙な師が一言、二言、ゆっくりと言葉を発すると、患者は張り詰めた心を解いて安心した。むしろ、患者に話をさせ、頷(うなず)きながら師は患者の話を聞いてやる姿が尊かった。話し終わった後、患者は痛みがよほど和(やわ)らいでいるように見えた。

 勘造は不思議な光景を見て、何かの機微がこのあたりに潜(ひそ)んでいるのだと悟った。医師は患者と家族の心の在り方を楽にするのが第一の務め、病が治れば、なおいい。治らなくとも心が安らげば患者は喜ぶ。

 ――この発見は、大切にせんばならんばい

 勘造は深く心に刻んだらしく、めずらしく神妙な顔で天を仰いだ。

 医師に期待されるのは、病を治し肉体の苦痛をなくすことより、気持ちを楽にしてやることであるらしかった。所詮、医学で病が治るなど滅多にあることではなかった。

 文政元年(一八一八)勘造が十九の年、父重助が死んだ。弟、妹はまだ幼い。勘造は家に帰って開業し、若い村医になった。三年間、師の許で漢方を一通り学び、それ以上に、患者に接する医師の心得を観察し続けた。己のつかんだ医の機微を試す機会が到来したようだった。

 勘造が医者を始めると、それが驚くほどに村人の信頼を得た。変人ではないか、とさえ言われた若い村医者が、一度、かかってみると、実に的確に体の具合を聞いてくる。患者の言うことに耳を傾けてくれるから心が不思議と安らいだ。普段から目が烱(けいけい)と光る鋭さは、患者の前で慈眼和(やわ)らぎ、ちんまりとした気のよさそうな小男になった。患者が口を利きやすい医者に変貌するのが不思議なほどだった。

 丁寧に病と薬を説明してくれると、患者はなるほどと思いたくなり、その気になって飲むと、これが実によく効いた。次第に評判になり、よほど遠くから患者がやってきて、吉祥院の山裾の坂道は勘造の家に行く者、帰る者で人通りが絶えなかった。

 勘造は数年、村医者をやって、父親の重助の作って遺した借金を完済した。それだけでなく、あろうことか、田畑をかなり買い込んで、実家を立派な百姓に立て直した。

 弁が立つわけでなく、ぼそぼそとした言葉に不思議な霊力が籠(こ)もるかのように、妙な才能が片鱗を表し始めた。医として名声を立て、それを抜かりなく蓄財に振り向けられる才とは本人も思っていない。

 勘造は、村医者をやっている頃から、出入りの者に金をやって、佐賀の城下の噂を集めさせた。そして佐賀の蓮池町に長崎帰りの漢方医がいることを知った。己の治療に幅と深みをもたせるため蘭方医学を学ぶ漢方医は少なくなかった。

 蓮池町の漢方医は、その域を越えて、長崎から帰ってからというもの佐賀で初めて蘭方を唱道し、蘭学塾を開くまでに至ったという。名を島本龍(りゅうしょう)といった。

「蘭学はええ」

 龍嘯は静かに嘯(うそぶ)くだけで、医業はあまり流(はや)ってはいないらしい。

 文政五年(一八二二)、勘造は、それなりに身代を立て直したのを機に、家を全て弟に譲り、飄然、仁比山を出た。

 病をたいして治(なお)せなくとも、己の医業はぼちぼちだった。

 ――まずまず、巧(うも)ういったんやけん、治せればもっと大きな名声ばうるんじゃなかか

 名声を博せば金も貯まるのではないか、と次の次まで夢想した。勘造の青雲の望みは高かった。

 漢方より蘭方のほうが治せる医学らしいと見当を付け、蘭方医学を修めることを次の目標に据えた。遠くに定めた目標に向けて一歩一歩、着実に歩むのが身上だった。意志は固い。勘造二十三歳。

 

                          *

 

 佐賀蓮池町の島本龍嘯の許に、会ってもらいたいと人を介して言ってきた者がいる。島本は、蘭学に興味を持っているというその男に会ってやることにした。日を決めて待つと、貧相ななりをした書生風の小男が座敷に通されてきた。顔色はひどく浅黒く、眼光は射るように鋭い。異相と見た。来意を問うて話すうち、島本は異彩を放つ書生と妙な具合に意気投合し、入門を許した。なんとはなしに人の心の勘所を突く書生だった。

 筆写を許した蘭語の初学者本を勘造はあっという間に終えたのを見て島本は少し驚いた。持ち前の集中力かと島本は感心し、見どころがあると思い始めた。次の本に移り、勘造が蘭語の基礎を粗々(あらあら)と身に付けていくのを島本は黙って見ていた。

 島本の家は四代続いた町医者だが、龍嘯の代は隆盛というわけではない。塾もそれほど門弟がいるわけでなく、一言で言えば暇だった。勘造は、それをいいことに、しばしば、ねだった。

「先生ん長崎に遊学したころん話ば、聞かせてくれんね」

 島本に長崎時代の話をひどく聞きたがり、島本もせがまれて悪い気はせず、機会をみては雑談に及んだ。

 島本は勘造から問われるままに、蘭方だけでなく、長崎のいろいろのことを教えた。終(しま)いに、長崎の町々の祭事、覚えておくと便利な店、有名な通詞たちの消息と人脈、長崎人の気(かたぎ)と習俗など、あらゆる方面の些細な話題までも勘造が頭に入れたことを知って、島本は驚いた。長崎に行きたがっていることは明らかだった。

 島本は、勘造に話をせがまれる次に、紹介状を書いてほしいとねだられるようになった。書いてやれば、早速にも行ってしまうだろうと思いながら、根負けするように、島本が長崎で師事した蘭通詞、猪俣伝次右衛門に宛てて紹介状を書いてやった。猪俣はヅーフ・ハルマの編纂にも加わった実力派のオランダ通詞だった。

 文政六年(一八二三)勘造が、長崎に出発する前日、島本の許に挨拶にきた。勘造は、紹介状を懐にして胸元を叩いて見せた。

「こいさいあれば、長崎で困るこつはなか」

 結局、勘造は島本のところに丸一年とはいなかった。島本は、勘造が目的を果たし、意気揚々、長崎に向けて発っていくのを見送った。どこか人を惹きつける書生が蓮池町を去ることを寂しく思った。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」八節「肥前神埼郡仁比山」(無料公開版)

 

 

 

 

 

九 長崎村中川郷鳴瀧 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログ参照

 

 文政七年(一八二四)五月、長崎では至るところ、紫陽花(あじさい)の多彩な花房が見られた。淡青から濃紫まで、彩(いろどり)は梅雨の雨に静かに濡れて、巡る季節を湛(たた)えていた。

 長崎の有力者たちは、諏訪神社の元宮司、青木永章から別荘を購(あがな)ってシーボルトの教場を整えた。中川郷鳴瀧の屋敷は鳴瀧塾と名付けられ、二町ほどの敷地に母屋二棟、別屋三棟を建て、シーボルトの居室、読書室兼研究室、塾生の勉強部屋、診療所、病室、書庫、厨房などに宛てた。この敷地で、幾株もの紫陽花が、博物学者シーボルトの目に止まるのを待つかのように、花房を輝かせていた。

 鳴瀧塾の設立によって、日本人からすれば、欧羅巴(ようろっぱ)の一級の教育を受けた人物から教育を受けたいという熱望が叶った。シーボルトからすれば、情報収集と調査任務の拠点が設置されたことを意味した。いやそれ以上に、日本がオランダの知識体系に依存する思想を持つ手始めになるかもしれなかった。日本に蘭学の花を咲かせるとは、そういう面があった。

 シーボルトは、日本人の熱望を掻き立て、ここまで日本作戦(ヤパン・オペラーチ)を導いてきた。その戦術眼が見事に実った。個人診療所で行う講義では限界があるのではないか、いっそ独立した施設で、教育、研究、実技研修を行えば、蘭方医学を体系立って学びとれると思わないか、などとシーボルトが機会あるたび、さり気なく日本人に説いて、この塾を構えさせたようなものだった。

 日本人をその気にさせた。日本人は、この塾を拠点に優秀な塾生を集め、正統な蘭方医学を学ばせれば、蘭学が一気に深まると期待した。忘れてならない年になるだろうと蘭学者たちは熱く思った。

塾の開設と同時に多くの寄宿生が移り住み、塾外生が通い始めた。その中に、猪俣伝次右衛門宅から通う勘造の姿があった。シーボルトの最初の門人の一人となれたのは、伝次右衛門の強い伝(つて)だった。

 

 勘造は佐賀から出てきた当初、島本龍嘯の紹介で西山町の安禅寺に住み込み、寺の雑事をこなしながら猪俣の許に通った。弁当は焼き芋か、おからである。おからは食す時、水をかけて二回箸で回してから、さらさらと流し込む。混ぜすぎると、どろどろするから勘造は好まなかった。

 ある日、伝次右衛門の妻がこれを見て、何事かを思ったようだった。

「うちは、おからが好きやけん、米ん飯と魚ば入れた弁当と取り換えてくれんね」

 立派な弁当を差し出され、勘造は、長いこと御内儀の顔をじっと見つめ、頷(うなず)いた。その弁当から立派な飯を一口頬張ると、胸に込み上げ、我慢がならず、ほろほろと涙が溢れ出たので、慌てて袖で頬を拭った。

「こっぺ(きまり)の悪かこつ」

 恥ずかしい分また飯を頬張り、その内に、喉に詰めて目が白黒となった。御内儀が急いで水を取りに行って戻ってきた時、勘造は湯飲み一杯の水を一気に飲み干し、顔面に、なにやらを付着させたまま、居住まいを正し深々と平伏した。勘造は、細かく肩が震えるのをいかんともできなかった。

 それからひと月ほどたって、勘造は許されて伝次右衛門宅で住み込み塾生となった。熱意が認められ、師の推薦をえて鳴瀧塾に通い始めた。勘造は、のちに、御内儀から、おからを雪花菜(きらず)と雅称すること​を教わったとき、始め、照れたように笑った。そして少し考えて御内儀に言った。

「そがんゆかしか言葉こそ、生涯、忘れてはならんばい」

 おからの別称を忘れないと言ったわけではなさそうだった。

 

 シーボルトは、オランダ風に七日に一日の割で、出島を出て鳴瀧塾に通ってきた。その合間に肝煎りの吉雄幸載と楢林栄建が他の医師とも相談し、難しい患者を集めておいてシーボルトを待った。門人が病床の周りで見学するなか、シーボルトは丁寧に疾患と症状を説明し、診断の方法、治療法を講じて処置を終えた。手術の必要な場合は、シーボルトから商館長を介して長崎奉行に願い出て、許しを得てから執刀した。

 初めての手術は腹水穿刺で、その後、腫瘍切除を始めとする外科、眼科、産科、婦人科の手術を次々とこなした。シーボルトの内科処置も奏功することが多く、治療の困難だった多くの病を平癒させた。患者の喜び、世間の驚き、日本人医師の感激が相まって、鳴瀧塾から蘭学の勢いが昇り立つようだった。塾の熱い日々が始まった。

 医学だけではない。シーボルトは植物学、動物学を講義した。門人に日本の植物標本を作って持ってこさせ、次々と質問を浴びせた。シーボルトの興味は医学、博物学に止まらなかった。日本のことなら何でも知りたがり、何でも欲しがった。興味と任務が一体となって区別の線が引けなかった。引く必要もなかった。

 

                            *

 

 文政八年(一八二五)七月、高野長英という医師が鳴瀧塾に入ってきた。二十二歳、陸奥水沢の出身だった。蘭語が人に抜きん出ていただけでなく、医書を深く読み知識も飛びぬけていた。江戸の吉田長淑の蘭学塾で五年間学び、名乗りの一字を師より貰った秀才だった。鳴瀧塾で活躍している湊(みなと)(ちょうあん)、三十一歳とは吉田塾の同門だった。

 高野は佐十郎の書いた何冊もの文法書を隅々まで頭にいれた男だった。オランダ語の文章をすらすらと書き、日本文を書くのと変わらなかった。これを知った吉雄権之助は、早速、高野に、鳴瀧塾で教えるオランダ語の講義を手伝わせた。 

 高野は雑談時に、権之助が六二郎と呼ばれていた若い頃の話や、佐十郎との交流の様子を聞きたがり、話をせがんだ。近頃、余り聞かなくなった中野柳圃のことを尋ねもした。高野は、なぜ己が整然と体系立った語学力を身につけられたのか、蘭語文法の知識の淵源を知って佐十郎に私淑していた。

 文化元年(一八〇四)の生まれの高野は、文化年間、佐十郎が蘭学を大進歩させた時期が己の幼童期に重なることに特別な感慨を覚え、今の己が拠って立つ蘭語の基盤を意識していた。

 この頃になると、己の考えを、日本文にすることなく、直接、立派な蘭語の文章に記述できる日本人がぽつぽつ現れてきた。長崎に蝟集し、鳴瀧塾でシーボルトに学んでいたのは、そんな力を身に付けた若き蘭学者たちだった。

 

 シーボルトは医学と博物学だけをやっていればよいわけではなかった。カペレンから命じられた任務がある。日本の文化、歴史、産業、物産、風俗、習慣など多くの研究と情報収集をこなさなければならず、移動の自由のない異国人が一人でできる課題ではなかった。

 シーボルトはヴュルツブルグ大学のやり方を取り入れ、門人に論文を書かせ、それを通して能動的な教育を実施しようと思いついた。師の教えることを聴講するだけの受動的な教育より、よほど日本人のためになるであろうし、それは日本調査の役にも立つ。一石二鳥の手を考えついた。

 シーボルトは、医学の分野で、日本の進んだ産科学に関する総説(レビュー)や、ヨーロッパにない鍼灸治療の論文を美馬順三に書かせた。新しく入門した高野には、「活(いけばな)の技法について」、「日本婦人の礼儀および婦人の化粧ならびに結婚風習について」を書かせ、日本の文化と風習を知ろうと努めた。高野は喜んで書物を博捜し、簡にして要を得た論文を直接オランダ語で書き上げた。シーボルトは感心して高野に次々と課題を与えた。

 シーボルトが、高野に「日本に於ける茶樹の栽培と茶の製法」を書かせた意図は、日本の茶を世界に売る可能性を考察するためであり、イギリスが支(チャイナ)から茶を輸入して形成された世界市場にオランダが割り込めないかを考える資料だった。シーボルトは茶の種をジャワに送り、日本以外の土地で日本茶を育てることを考えていた。

 シーボルトは、食物の百科全集とでもいうべき小野蘭山著『飲膳摘要』の解説を高野に書かせ、日本の食材と調理を知って新たな貿易品を見つけようとした。「日本古代史断片」、「都における寺と神社の記述」を書かせて、日本の皇室の歴史を遡(さかのぼ)り政治権力の変遷を知ろうとした。

 さらに日本の鯨と捕鯨に関する主題を与え、これに応えて高野が書いた「鯨魚及び捕鯨に就きて」の論文によって、シーボルトは高野に学位を与えた。シーボルトは、日本近海の漁場を知ろうとしただけでなく、機械潤滑油用の鯨油だけを目的にした欧米の捕鯨と、捨てるところのないほど全てを利用する日本の捕鯨とを比較し、経済的に評価することまで試みた。オランダ始め英米が太平洋海域で捕鯨を活発に行うようになった最近の情勢を踏まえた調査だった。

 さらに、「琉球に関する記述」は、新井白石の『南島志』を抄訳したもので、日本来航の中継基地として沖縄を考慮する兵要地誌の一環だった。高野はよくシーボルトの要望に応えた。

 シーボルトは、カペレン総督から与えられた任務を忠実に実行し軌道に乗せた。全ての論文をオランダ語で書かせたのは、己およびジャワ総督府が即座に読める便宜のためだけでなく、長崎奉行所の役人からこの活動を秘匿する意図もあった。

 こうして作成した資料を毎年、適宜、ジャワに送った。多岐にわたる論文は皆、堂々たる蘭語で論述されていたから、ジャワのオランダ人が驚きながら熟読する様をシーボルトは容易に想像できた。シーボルトの使命とされた日本研究が一気に進んだ。

 鳴瀧塾が医療・教育施設であることは間違いない。それ以上に、ジャワ総督カペレン主導の日本作戦(ヤパン・オペラーチ)の拠点だった。蘭学塾の名のもとで、オランダの国益に貢献する調査活動が進められていた。活動は次第に組織化され高度化されたが、それは全ての日本人にとって、教育手法の進化、蘭学の充実であり、塾の発展のように見えた。この上さらに、牛痘苗を失活させずに長崎に持ち込めれば、一段と強力な武器になるだろうと、カペレンとシーボルトは狙っていた。やり方は巧妙だった。

 シーボルトにとって、文政九年(一八二六)初頭の江戸参府は最も重要な機会だった。一か月半を費やし長崎から江戸に行く道中に、あるいは帰路に、多くの調査活動をこなす計画を立て始めた。

 シーボルトは、江戸への往復で、自ら生態系を観察し、採集し、標本を作製するつもりだった。それだけでなく、各地の蘭学者と面識を得て、博物学や医学の話を交わし、将来、文通できる人間関係を作ることも目標の一つだった。こうすれば、植物標本などを広い地域から集め、多くの資料を入手することができる。

 各地の物産を観察して交易戦略を練ることも重要な任務だった。また、道中、経度、緯度を測定することも地理学的に日本各地を特定し、ひいては兵要地誌に役立つ。行く先々の文化や民俗学的風習に触れること、街道の軍事的な拠点になる大河、橋梁を観察することなど広範囲に及ぶ調査項目(オンデルヴェルプ)を列記した。

 シーボルトは、別働隊を私的に組織化し、商館長一行の正式な行列と別に動かすことを考え付いた。門人をもって班を編成し、複数の班に、行列の数日先を、時には数日後を進ませる。こうすれば、シーボルトの進む公的な日程に縛られず、事前に定めた課題を各班でこなせる。単なる医者にしておくにはもったいないほどの構想力だった。

 シーボルトは、以前、出島に赴任した商館長や商館医が日本を研究し、ヨーロッパに報告した著作を熟読している。ケンペルが『日本誌』を、ツュンベリーが『日本植物誌』を、ティチィングが『日本風俗図誌』を出版し報告した日本研究の主題を越えて、新しい己の主題(オンデルヴェルプ)を欲していた。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」九節「長崎中川郷鳴瀧」(無料公開版)

十 本石町三丁目 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログ参照

 

 シーボルトは新しい己の主題を探していた。オランダ通詞や奉行所役人と雑談を交わした折に、長崎奉行の高橋越前守重賢は以前、十年以上も蝦夷地に在任したことを知った。後半は、松前奉行所吟味役の要職にあって、ゴロウニンの取調べと副長リコルドとの返還交渉に関わったという。

 高橋が北方問題の専門家であると聞いて、シーボルトは蔵書の『日本幽囚記』ゴロウニン著を見て、高橋三平の名で登場する人物が当の長崎奉行の若い頃の姿だったことを確認した。シーボルトは、一気に、模索する主題に焦点が当たったような気がした。

 主題は北方領域にこそ定めるべきだとシーボルトは思った。この地域はロシアの拠点港があるカムチャッカ半島と、沿海州が大きくオホーツク海を囲んでいる。特に、樺太(サハリン)半島から満州にかけて、地理、民族、風俗は殆んど知られていない。未知の広大な領域が広がり、ヨーロッパに報告すれば高く評価されることは確実だった。

 シーボルトは、この領域のロシアの探査能力が実は大したことはなく、奴らは、むしろアラスカ方面の海(ラッコ)に興味があると読んでいた。日本人を利用し、北の領域に関する新しい知見をヨーロッパに紹介する可能性が見えてきた。

 シーボルトは、幾度か長崎奉行に挨拶する機会があって、高橋の口から、江戸にいる北方に精通した人物を教えてもらうことができた。高橋にとって、かつての部下筋の者だから造作もなかった。

 高橋は鳴瀧塾の設立を許可してくれた有力な応援者だった。北の領域についても、いい手がかりをくれた。北方領域は、果たして、己の主題になるか否か、江戸の知識人の話を聞くのが楽しみだった。

 商館長一行が江戸に着けば、将軍から謁見を賜る公式行事と関連業務は商館長が主体になる。シーボルトは、その機会に江戸蘭学界そのものを取り込んでしまおうと構想を練った。

 主だった蘭学者と会談し、新技術を紹介し、医療機器を演示し、書籍を交換しながら、うまくいけば北方関係の地理情報を入手し、幕府の対露政策の要点を聞き出し、できれば地図を入手する。シーボルトは目標を定めた。

 こうして文政八年(一八二五)の暮れ、シーボルトは江戸参府に伴う調査活動の全計画を策定し終えた。門人たちによる別動隊を含む有機的な活動計画だった。一人の手によって立案された空前の対日調査計画だった。

 文政九年(一八二六)正月九日、シーボルトは、参府のため、オランダ商館長ステュルレルに帯同し、薬剤師ビュルガーと共に長崎を出達した。三人のオランダ人に大勢の長崎奉行所員が付き添った。シーボルトは別動隊に指示を与えながら、調査計画を順調にこなし道中を進んだ。シーボルトの駕籠は、動く書斎であり、別動隊指揮所でもあった。商館長も奉行所員もそんなこととは知らなかった。

 途中、シーボルトは関門海峡に「ファン・デル・カペレン海峡」と命名し、海深を測定し海図作成の一助とした。あるいは京都では、天皇の御典医と会って天皇と朝廷に関わる多くの事柄を聞きだした。

 矢作(やはぎ)橋は日本有数の長さを持ち、見事な木造橋だったので、絵図を描かせた。それだけでは飽き足らず、模型を作るよう地元の大工に注文を出し、帰路、受け取ることとした。日本の土木技術の水準を示す資料にするつもりだった。その他、小さな活動まで入れれば、すべての旅程で何かを蒐集し調査し、同行した絵師に絵図を描かせ続けた。

 三月四日、一行は江戸に到着し本石町三丁目の長崎屋に入った。シーボルトは、この日から江戸の地で多くの蘭学者と会ったが、最も重要な人物は書物奉行兼天文方筆頭の高橋作左衛門と、その配下の最上徳内、間宮林蔵だった。北の領域の精通者たちである。

 天文方はオランダ商館一行が参府したとき、公式に会う人物だから、シーボルトは当然、作左衛門の名を知っていた。最上、間宮の名は、長崎奉行、高橋越前守から聞いていた。

 シーボルトは、最上と会って、樺太とアジア大陸の間に海峡が存在することを聞かされた。シーボルトは、その海峡が船の通り抜けを許さないほど浅いことを指摘し、樺太が大陸とつながっているのではないか、とヨーロッパ地理学会の主流をなす考えを伝えた。

 シーボルトは、最上から、間宮の実見談を聞いた。間宮は、陸路、樺太北部の西海岸を踏査し、海峡を隔てて大陸を望んだという。

 ――それならば、樺太島ではないか

 息を呑んだ。驚愕の余り初めは信じられなかった。海峡の発見者は間宮であることに因(ちな)み、この国で海峡は「間宮の瀬戸」と呼ばれているという。シーボルトは最上に北方の地図を是非にもほしいと強く要望して別れた。

 シーボルトは、北方の精巧な地図を何としても手にいれ樺太島か樺太半島か地理上の論争に終止符を打つ人間になりたかった。ヨーロッパにとって、北樺太は、南北両極地を除き、唯一残された世界地理上の不明地帯だった。学生時代からフンボルトやバンクスに憧れ続けた己の歩みの大きな達成点になると直感した。

 学問上の成果というだけでない。ロシアさえ持っていない間宮の北方地図は地政学上、オランダに大きな利益をもたらす可能性があり、カペレンから高く評価されるに違いなかった。

 作左衛門の要望は、クルーゼンシュテルンの『世界周航記』全四巻と蘭領東印度図全十一枚だと、会う前から通詞を介してほのめかされていた。シーボルトは見返りに精巧な日本地図を求めるつもりで作左衛門に会った。

 作左衛門はシーボルトの提案を聞いて喜び、複写に時間がかかるので後便で送ると約束して帰った。なんとかなりそうだった。そうなれば『世界地理記』や『オランダ地理書』四冊も併せて贈呈してもいいと考えた。

 

 シーボルトは作左衛門と何度か会談を重ねた。考え抜いて、ついに作左衛門に重大なことを依頼することにした。作左衛門が書物奉行として、御文庫に立ち入る機会に、従者に作ったシーボルトを供に連れて、中の文書を見せてほしいと頼んだ。御文庫は江戸城紅葉山廟に隣接し、三棟の書物蔵には幕府の蒐集した膨大な書冊が保管されていると聞いた。

 さすがに作左衛門は躊躇したようだった。態度が急にぎこちなくなった。文庫内に異国人を入れれば厳しい咎めを受けるだろうと危ぶむ懸念がわかった。作左衛門がそこまで危険を冒すことはないだろうとシーボルトは半ば諦めた。

 数日がたって、シーボルトは、作左衛門から文庫内に入る機会を作れそうだと連絡があったときは、驚いた。同時に、作左衛門が危ない橋を渡る決意を固めた以上、こちらからも資料を出し惜しみしてはならないと心に決めた。

 ついにその日、シーボルトは御文庫から長崎屋に戻った。興奮冷めやらぬままに、御文庫で見たいくつかの絵図を、複写してほしいと作左衛門に重ねて要望する書状を書いた。作左衛門がこわばった顔色で書状を読む姿が想像された。おそらく作左衛門は、苦し気な顔をみせながらも、承諾するのではないか。二人で、それぞれに危ない橋を渡るのだという覚悟を共有するのではないか、とシーボルトは遠く作左衛門の心中を測った。

 

 シーボルトは多くの来客の訪問を受け、いろいろの話を聞いた。そこに含まれる話から、江戸城周辺や武家屋敷の立地状況、近隣諸藩の事情などが分かり、兵要地誌として記録にまとめることができた。

 シーボルトは江戸に滞在するだけで、これほど多くの情報と資料が入手できることを知って、江戸滞在期間の延長が任務遂行に絶対に必要であると痛感した。当初から温めていた腹案だった。

 それには幕府の許可を得なければならなかった。商館長一行は長崎に帰り、商館医の己だけが江戸に残れるよう、シーボルトは江戸に参府する前から、蘭学好きの大名に書状を書いて幕府に働き掛けてほしいと依頼してあった。

 それだけでなく、シーボルトがもっと長く江戸に滞在すれば、日本にとっていいことがあると、己の滞在延長の意義を示すため、牛痘種痘を演示することにした。牛痘苗は前年、長崎に届いたが、やはり、発痘しなかった。やむをえず、発痘しないことを予め説明し、種痘の手技だけでもお伝えしたいと将軍御典医を前に演示した。

 夏になれば、新しい牛痘苗がまた届くから諦めずに待っていてほしいと、しつこいほどに語って、欧米、中南米、東インド領において天然痘が激減した状況を説明した。日本で種痘が広まれば痘瘡を減らし、子供を死なせずにすむと熱弁を振るった。シーボルト自身、熱く語りながらも、日本で発痘しない牛痘苗には説得力が乏しいと感じないわけにはいかなかった。

 それだけでは印象が薄いと見て、シーボルトは新生児の兎(みつくち)の手術も演示した。江戸で、ヨーロッパ最新の医術を用いて将軍や大名を診察してもよし、一般人を診療してもよし、江戸に滞在を続ければいくらでも利用価値があるのではないかと、己の存在価値を喧伝した。シーボルトは滞在の延長が許可されると少しは自信があったが、それでも必死だった。

 結局、江戸滞在延長の願いはかなえられず、この件で、女神は微笑まなかった。それでも江戸来府の道中、手にいれた資料、標本は膨大な数にのぼり、大きな成果であることは間違いなかった。シーボルトはそれだけで満足するしかなかった。

 四月十二日、オランダ商館一行は滞在ひと月余りで江戸を出達した。一行の中に、心残りのシーボルトが加わっていた。

 

 高野長英はシーボルトが長崎に持ち帰った蒐集物の量に驚いた。鳴瀧塾では、数か月にわたって、各地から次々と運び込まれる膨大な標本、見本、写生画、資料、地図を目にし、驚愕して開いた口が塞(ふさ)がらなかった。そもそも日本周辺の地図など禁制品ではないか、それが堂々とシーボルトの蒐集品(コレクティ)のなかにあることを訝(いぶか)しんだ。

 ――いずれ、海外に流出するのだろう

 高野は、驚きと不安とが入り混じった感情で怯(おび)え始めた。地図だけでない。「江戸御城内御住居之図」、「江戸御見附略図」、「大坂城之図」など、とんでもない絵図面が含まれていることを知った。江戸城本丸の間取図や、各見附御門の見取図、大坂城間取図など幕僚以上の者にして初めて閲覧を許される代物ではないか。高野が以前から懐(いだ)いていた疑念が膨れ上がった。

 ある日、師への尊敬の念を抱きつつも、高野はシーボルトを居室に訪ね、来日の目的と医師以外の肩書を直接、尋ねた。日本に何をしに来られたのか、どういう御方なのか。高野にとって、よほどのことだった。

 シーボルトから、答はごく小さな声で返ってきた。高野は「機密調査官」あるいは「内情探索官」の意に聞き取った。高野は丁重に一礼し師の前を下がると、数日後、荷物をまとめ鳴瀧塾を去った。特段の挨拶は誰にもせず、去る旨だけを書状に認(したた)めてきた。

 

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第三章「失活」十節「本石町三丁目」(無料公開版)

第三章七節 バタヴィア
三章八節神崎郡仁比山
第三章九節 長崎中川郷鳴瀧
三章十節 本石町三丁目
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