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三 天命を知る 次を読む 前節に戻る 目次に戻る​​ ブログを参照

 宝暦八年(一七五八)夏の夜、家重は大奥に渡らず、中奥(なかおく)御小座敷で寝を取った。隣接する御休息之間よりこぢんまりした奥の一画が家重の好みの座敷だった。

 煌々たる月が天空高く懸かり、中奥庭園の泉水と中之島を静かに照らしていた。 家重は一人、褥(しとね)の上に胡坐(あぐら)をかいて、開け放した入側(いりがわ)の先に、大きな池が広がるのを眺めた。綺麗に刈り込まれた樹影が月明かりで水面(みなも)に映(は)え、時折、鯉の跳ねた細波(さざなみ)に揺れ動いた。

 家重にとって、幾晩かおきに、一人静かに考え事に耽(ふけ)るのが習慣だった。そうやって、かろうじて翌日から心の平静を保つことができた。

 家重は、長福(ながとみ)丸と呼ばれた若い頃を省(かえり)み、己(おのれ)がいかに不吉な罪障を負って出生したか、いかに苦悩して過ごしてきたかを振返った。三歳で生母を失い、 赤坂の紀伊藩邸で乳母に育てられた。そのうち、徳川宗家の血筋が絶え、父吉宗が紀伊藩主から将軍の座に就いたため、父に連れられ江戸城二之丸に移ってきた。 この殿舎で、いつまでたっても言葉を話す子にならなかったことを思い出した。

 ——余は、周りの言うことは確(しか)とわかった

 家重は、小姓の語り口の巧拙も、要領の良し悪しもはっきり判断できた。ただ、言いたいことが人の言葉にならず、家来が家重の言を理解しなかった。

 十四歳の秋、 二つ年長の大岡忠光が御附きの小姓となって側に仕えるまで、 表に詰める家臣と話の通じたためしがなかった。忠光が小姓になり、僅かの期間に、誰にもよくは分からなかった家重の発語を解するようになって、閉じ込められた家重の世界が一変した。家重にとって、この驚きは忘れようもなかった。

 家重の意思が供の皆に明確に伝わるようになっただけではない。半分、阿呆だと思われていたが、実は、十分、知的 であると、少なくとも側の者がはっきり理解したのに気付いた。

 家重は十四歳にして、意思が通じ、ようやく人がましく、人と人の間で生きる実感を得たときの気分を覚えている。世の中が一気に広がったような奇妙な気がしたものだった。忠光が側近く仕えるようになって三か月、吉宗の命が下り、家重は将軍世継となって次期将軍を約束された。

 ――あの頃は、まだ子供だった。当初は父上の脇に控えておればよかった

 口が利けないという意味がよくわかっていなかった。そのうち将軍世子として、独り、大名や幕臣の挨拶を受けて口を利かない時間の辛さを知ることになった。涎(よだれ)が垂れ、思わず喃語がでてしまった時、一同が凍り付く座の雰囲気は耐え難かった。

 十五歳で元服し、 京都から下向した勅使が従二位権大納言(ごんのだいなごん)を授けてくれた。どうありがたがってよいかわからない内に、いろいろ公式の行事や挨拶に出なければならなくなった。この年の暮れ、西之丸奥儒者に任じられた室(むろ)鳩巣(きゅうそう)から講義を聴くようになり、己の人生の大きな転機になったことを思い起した。

 家重にとって、当初、傅育(ふいく)の任についた室鳩巣は六十八歳の高齢で、諸事ゆるゆると事を運ぶ老人にしか見えなかった。ただ、どことなく優しさと、厳しさが同居するようで、目の輝きと鋭さが心に残った。

 若いころは吉宗と政治向きのことで激しくやり合った気概隆々たる強面(こわもて)の大儒だと後になって知った。吉宗の以前は赤穂浪士の処罰を巡り、浪士擁護の論陣を張った硬骨の碩学(せきがく)だとも聞いた。

 家重は日ごとに、生まれ付いた障害の意味を理解し始め、自己嫌悪の情が強まった頃だった。家重は荒(すさ)んだ心情を持て余す日々を送り、悶々として、若さと癇癪(かんしゃく)を爆発させることが多くなった。当初、通り一遍の講義をしていた室鳩巣は、ある日、講義の内容をがらりと変えた。

 ——余と忠光の心情を見てとり、頃はよしとお考えになられたのであろう

 今から思えば、師の真意がよくわかる。家重は、その日、師が天命を説くのを聴いて、己の進む道を示されたような衝撃を受けた。師の声音(こわね)は、今もはっきり思い出せる。

「将軍世子の御身(おんみ)は、将来、この国を統(す)べる孤高の御立場に立たねばなりませぬ。それこそが世子の御運命(おさだめ)にござりまする」

「その外に、世子がこの世に在るべき意義は一切ございませぬ。国を統(す)べる気概こそが世子の世子たる所以(ゆえん)でござりまする」

「それは言いようもなく苦しい道のりにござりましょう。その御覚悟を今からお持ちにならねばなりませぬ。そうあってこそ、苦しい茨(いばら)の道を突き進む心胆を自ら鍛えることが叶いまする」

 師は若い家重、忠光主従を前に悠揚迫らず、醇々と、人それぞれに与えられたさだめがあると語った 。障害を持って生まれ付いたとしても、それを大きく超える天の運命(さだめ)がしかとあると師から喝破され、将軍に就く心構えを説かれた。

「大きな御運命(おさだめ)の前に、涎(よだれ)や不明瞭な発話など何のことがござりましょうや」

 悩み抜いた障害を、あの場で一蹴されたことが今となっては快い。

「さればこそ、家臣がおるではござりませぬか。良き家臣を見出しお育てになり、これを存分にお使いになられれば宜しい。上様の手垢で黒光りするほど御用を尽くすのが家臣にとって天命(さだめ)と申すもの」

 室鳩巣の訓言(くんげん)によって家重、忠光主従は気宇を大きく導かれた。涎(よだれ)と喃語など、ちまちま気に病むに値しないと心の底から思えるようになった。そんなことより、将軍として政治を主導する心構を持たなければならないと思い改めた。

 ——余と忠光は、時代切っての大儒から、熱い言葉で教えを受けた幸運を無駄にはしなかった 

 家重は、こればかりは自信をもって言えると思った。師の講義を聞いてからというもの、家重は師と相談しながら、忠光のほかに己の発語を聴きとり、できれば政治力を発揮する気鋭の若者を探し求めた。周りにいる小姓の中に適任者はいなかった。

 家重が父に書状を書いたところ、ほどなく田沼意次という十六歳の若侍が西之丸にやって来た。桜が花を散らし新緑をまとう頃だった。

 家重は、意次が初めて挨拶に来た日のことをよく覚えて いる。容姿秀麗な若者で、明晰な知性に恵まれた人材であることは、忠光と交わす会話を聞けばすぐにわかった。物腰は穏やかだが、芯に強いものがありそうだった。

 晩春の陽の下、万物の萌え出(いづ)る勢いが意次によって庭から座敷のなかに呼び寄せられ、照り映えるようだと思った。その青年の放つ明るく朗(ほが)らかな気分が座敷に満ちるようだった。家重と忠光はすっかり気に入って目配(めくば)せを交わした。

 意次は、小姓となってわずかの間に家重の発話を聴きとるようになった。その察しの鋭いことは驚くほどで、家重は己の心を正確に読み取られる嬉しさを知った。伝わりにくい己の心が、わずかの発語や身振り表情だけで青年にひたひたと通ずるようだった。

 意次は、何も言わずとも家重の意図を察するという具合で、すぐに頭角を現した。間もなく、八月十四日に室鳩巣が駿河台の自宅で死んだと知ると、 家重には、青年意次こそ、死にゆく恩師が贈ってくれた形見のように思えた。

 

 家重には、師の訓えに導かれても、なお吹っ切れないもう一つの障害があった。生まれつきの頻尿のせいで、時に尿意をしかと堪(こら)えられない。特に、寒いとむずかしいことになった。

 ――余は世子の時、 上野寛永寺に常憲院殿御霊廟に詣(もう)でたことがあった。 あの日は実に寒かった

 悪いことに常憲院(五代将軍徳川綱吉)の命日は正月十日で、常に、寒い折の仏参になった。その日、江戸では特に寒気が募り、町中が深々と冷えた。

 なんとか仏参を済ませ、還御の途についた家重の駕籠が寛永寺黒門を出た。供奉の者たちに前後を守られた駕籠は、溜塗(ためぬ)りの落ち着いた小豆色(あずきいろ)の総網代(そうあじろ)造りで、 陸尺(ろくしゃく)六人が長い黒塗り棒を担いで三橋(みはし)中央の橋をゆっくりと渡って行った。

 一行が下谷(したや)広小路を過ぎ、御成(おなり)街道に沿って筋違橋(すじかいばし)御門に向かうと思いきや、人参座(にんじんざ)(あた)りで急に向きを変えた。 広小路を戻り、三橋を渡り返し、結局、本坊の御装束所まで急ぎ行き戻った。

 将軍や世子の駕籠を途中から返すというのは前例がなく、武門の習いからいってめでたいとは言えなかった。この出来事以降、家重の上野のお成りのために、神田橋御門内、筋違橋(すじかいばし)御門内、上野黒門内に仮の御閑所(便所)を前もって設(しつら)えることになった。

 芝増上寺のお成りのために、外桜田御門内、虎ノ御門内、増上寺裏門際に御閑所を設(もう)けた。忠光が一切の采配を揮(ふる)った。

 家重が将軍職を継いでのち、この話がどのように漏れたか、ついに江戸の市井が知ることとなり、家重に「小便公方(くぼう)」と怪(け)しからぬ綽名が付いた。

 五代将軍綱吉は過度に生類を憐(あわ)れんだとして犬公方と綽名された。忠光は家重に代わって将軍の言葉を発言するため、「御言葉代」 と揶揄(やゆ)を滲(にじ)ませ綽名された。同じように、家重が御側衆を重用する政治を快く思わない幕臣あたりが綽名の出どころと相場が決まっていた。

 側衆を重用する将軍は、譜代や旗本から決して良く言われず、家重の厄介な尿意について底意地の悪い噂噺が幾度も流布された。忠光が噂の立たないよう目配りしたが、浮言を防ぎ切れるものではなかった。

 家重が忠光からこの件を聞くことはなかったが、そのうち、些細なことから市井に広まる己の綽名を知るに至った。知った当初は腹が立ち、毒を含む噂に憤懣(ふんまん)を募らせたが、誰に怒りをぶつけていいかもわからず、結局、忘れ去るしかなかった。家重は、屈辱の余り己の出生を呪った。

 

 池 の端(は)からかすかな瀬音が響いていた。家重は、いつの間にか、せせらぎから飛び始めた蛍に気付いた。息付くように光を明滅させ、蛍は月明の中、植え込みの周りと池畔を漂(ただよ)い、緩(ゆる)やかに飛び交(か)った。

 家重は、蛍の淡く儚(はかな)い風情によって、不甲斐ない若い頃の日々を思い出した。苦い感傷が呼び醒(さ)まされた気がした。家重は若き遍歴の中で、ある時は西之丸大奥で酒色に溺れた。見目よき若い中﨟に涎(よだれ)を垂らして戯(たわむ)れかかり、美酒に酔い痴れてみても、翌朝の空しさに耐えられなかった。

 ある時は微行(しのび)で水戸街道を行き小菅(こすげ)御殿に遊んだ。十万坪の邸内で僅かの供廻りと乱痴気騒ぎをやっても、うるさく小言を言う者もなく、日頃の哀しい鬱憤(うっぷん)を晴らした。

 御殿内の高みに立つと、綾瀬川の彼方(かなた)に朝日が昇り、荒川の果てに夕陽の沈むのが眺められた。大地と大河が象(かたど)る宇内の大観を目の当たりにし、悩み、恨み、自信を持てず、はかなく漂うような日々をつくづく空しいと感じた当時の苦しさがよみがえった。最も辛い時代だった。

 父吉宗から将軍職を引き継いだとき、家重は三十五歳となっていた。父の訓えを引継ぎ、忠光と意次ら側衆の補佐を受けながら、必死にやってきた。今や四十八ともなって、漂うように飛び交う蛍をかつての我が身になぞらえ、素直に淡々と振り返れるようになったと思った。

 遁(のが)れられない辛い現実からいかに逃げるか空しい試みを繰り返す生活をきっぱりと断ち切った己の決断を思い起した。そこに至るまでに長い時間と辛い忍耐が必要だったのだ。

 将軍に就いて十四年、 側近を縦横に使いこなし多くの実績をあげたと、幕臣に知られることのない自負があった。

 近く、意次を使って、幕政に大きく手を入れる決意を固めた。そろそろ潮時だった。家重は夜空の蛍に向かって、何事かを喃語で大きく叫んだ。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』の第一章三節「天命を知る」(無料公開版)

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