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十四 護る者と破る者 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 容保は京都守護職の内命が下りそうな事態に困惑した。必死に固辞したい心のうちを和歌に事寄せ、今朝早く、実父(ちち)、松平範次郎に伝えたところだった。

 

   行(ゆく)もうし ゆかぬもつらし いかにせん
      君を親とを思ふ心を

 

 行くも憂(う)し、とは容保の真の心の叫びだった。

 ――遠隔の地にある我が藩がどうして京都に行かねばならぬのか

 ――彦根井伊家三十五万石はもはや京都の職が無理だとしても、外に、京都近くに大きな譜代大名がいるではないか

 ――会津藩にとって遠い京都のこと、万一のことがあれば国許から応援もだせまい。

 ――何も遠隔の事だけを言うているのではない。公家との縁戚関係もなく、京都の習俗に全く不慣れで、言葉さえ通ずるかどうか

 ――二百年前の家訓を墨守する余り、却(かえ)って藩を損なうことになりはしないか

 弘化四年以来房総を警備し品川第二砲台を管守し十五年にも及ぶ出兵で藩財政が疲弊している。さらにこの上、このような難職に耐えられるのか。千々(ちぢ)に乱れる心を抑えて詠んだ歌だった。

 容保の実父(ちち)、松平範次郎は高須藩上屋敷に六十三歳の老いを穏やかに養っていた。父はすぐに返歌をくれた。

 

   親の名ハよしたてつとも 君の為め 

         いさをあらはせ九重(ここのえ)の内

 

 親の名は立てずともよい、主君のために、勲功(いさお)を朝廷で顕(あらわ)せと激励してきた。朝廷にとってよいことを将軍のためになせという。一方のみによいことではなく、双方によいことを、である。一方に加担する道を選ぶなと言うに等しかった。朝廷と幕府の間柄を回復するのが容保の役目だと知っているようにも思えた。

 容保は、父範次郎が飄々とした風貌でどこにも敵を作らず、人当たりのいい人生を送ってきたと思った。この時初めて、敵を作らないことが実父(ちち)の凄みある処世であったと悟った。父の人生を拡大すれば公武合体に重なるような気がした。

 数日後、容保の許に高須藩邸から使いが来て、いよいよ範次郎の最期も間近と思われ、別れに来て欲しいと言ってきた。松平範次郎義建が六十三歳を一期として人生を締めくくろうとしていた。

 容保は取るものも取り敢えず、急ぎ、四谷の上屋敷に急いだ。容保は父の枕元にかがみ、その右手を握って、父上と小さく呼びかけた。義建は弱々しく微笑んで、うなずいた。

 ――京に上るか……。重い勤めを立派に果たせよ

 穏やかな目が語っていた。この日、八月十八日は容保にとって忘れられない日となった。

 

 八月二十日、田中土佐が会津上屋敷に到着した。四十三歳。ついで翌二十一日、西郷頼母が到着した。三十三歳。容保側近らが江戸より国許に急行し、国家老に同行して取って返してきた。

 主な顔ぶれは、御聞番小森久太郎、四十八歳。御軍事奉行野村左兵衛、四十八歳。儒者見習御相手仮役秋月悌次郎、三十九歳らである。早速、上屋敷では評定が開かれ、守護職を受けてはならないと国許の強硬な意見を聞く場となった。

 田中土佐は先代容敬を水戸藩から貰いうけた名家老三郎兵衛の曽孫。西郷頼母は代々家老を務める藩屈指の名家に生まれ、短軀に渾身の精気を漲(みなぎ)らせた一徹な男である。

 国家老二人は、幕府の形勢が非で、今この難局に当るのは恰(あたか)も薪を負って火を救おうとするものに等しく、労多くしてその功がないと弁じた。守護職受諾を否とし言辞凱切、至誠面にあふれる語り口で滔滔(とうとう)と述べ立てた。

 容保は、幕府との経緯を語らざるをえなかった。

「それは自ら散々に悩んだところじゃ。理詰めで考えれば断るのが当然であると思うている。とは言え、将軍をはじめ、春嶽公、一橋公から強い懇望が出されるに及んで、情誼として断りにくく、家訓に照らして黙(もだ)しがたいのじゃ」

 容保が宥(なだ)めようにも国家老は頑として聞かない。

「殿。家中の藩士、家族、領民を憐れと思し召されずや」

 西郷からこうまで言われ、ついに容保は胸の思いを残らず吐いた。

 容保は、自分が再三にわたり守護職を固辞するのを見て、会津藩は一身の安全を計るものと難ずる人々が出てきたと幕閣、幕吏の批判に言及した。

「余は才劣るが故に、万一の過失から将軍家に累を及ぼさぬかと怖れ、職を固辞したまでのこと」

「特に、我が家は公家に縁戚を持たず、家中は京都の風習に明るくないことを強く幕閣に申し述べもした。さらに、あまりに遠隔の地であり、いざという時、国許から十分な支援もままならないとも言ったが聞き入れられなかった」

「苟(いやしくも)も、安きを貪(むさぼ)るとまで言われては武門の面目が立たず、この職を受けねばならないと考えるに至った。されど事は重大、君臣一体になれぬのならば、この難職を全うすることは到底かなわず。いっそ謂われ無き悪口にも耐え、恥を忍んでこの職を断り通すに如(し)くはない」

 容保は家臣の顔を見回し覚悟を迫った。

 容保は、上様のため勲(いさお)を九重(ここのえ)に顕すのだと父の詠みぶりを頭のなかで唱えながら、居並ぶ家臣のまなこを順々に見詰めた。その父もすでに逝った。容保の視線が座をゆっくりと一巡した頃、家臣の誰からとなく肩が小刻みに揺れ、押し殺したように嗚咽が漏れた。主君の尋常ならざる覚悟に触れ、君臣もろとも京師の地を死に場所にしようと、会津藩の主従はついに心を一つに決した。

 

                             *

 

 会津藩が君臣一体の悲壮な決意で京都守護職の受諾を決めた同じ日の四ツ時(午前十時)、島津三郎久光が高輪の下屋敷を機嫌よく出達し京都を目指した。薩摩藩の一行は家士総数七百五人、人足を入れればその倍の人数にもなった。

 馬六十駄、長持八十棹、大砲数門には覆いをかけて砲車をごろごろと牽(ひ)き、世人の目を剥(む)くような大行列で東海道を堂々と進んだ。行列は幕府に武威を見せ付け改革を迫った帰途にある。久光の意気揚々とした気分は駕籠の中だけに抑え、行列は粛々と進んだ。

 一行は六郷川の渡しを渡り川崎宿で休止した。その先、行列は八丁畷(なわて)の並木道から、市場村の立場(たてば)茶屋を過ぎて、鶴見橋二十七間(四十九メートル)を渡った。生麦村を過ぎると、鶴見川に沿って右岸に集落の賑わいが見えてきた。

 この頃、女一人を含む英国人四人の一団が神奈川方面から騎乗で近づきつつあった。横浜に在住する英商二人が、香港から観光で来日した商売仲間の二人を案内して川崎大師を見物に行くところだった。

 川崎大師の縁日は翌日だったが、日本人参拝客で混まない分、かえって今日のほうが好都合だった。西洋人の言う日曜日を利用した気軽な騎行で、英国人にとって道中は物珍しさに満ちていた。

 四人は生麦村に向かう街道筋で薩摩藩の大行列の先頭と遭遇し、特に気に掛ける風もなく、そのまますれ違うつもりで行列に乗り掛け、割って入ってきた。行列前駆は二列行進で進んでくるため、英国人らは街道左側を二列に五間(九メートル)の間隔をあけて騎行し、かろうじて行列を右に避け脇を擦り抜けるように進んだ。この一団のあとから、久光の駕籠を守る本行列が街道の全幅を占めて粛々と進んで来るのが間近く迫って見えた。

 この期(ご)に及んで、英人らは下馬し脇に寄って行列をやり過ごすことを思いつかないほど日本の儀礼に無知だったのか、あるいは儀礼を尽くす必要がない相手だと侮(あなど)っていたのか、いずれにせよ、日本では無礼討ちにされて誰も異を唱えない情況下で、馬上、薩摩藩主と対峙することになりそうだった。

 かつて駐日英国公使オールコックが自国の横浜商人をヨーロッパの滓(かす)と呼んだように、一旗あげようと、野心と思い上がりとアジアへの蔑視をない交ぜにしたような英人たちが、いよいよ緊迫した雰囲気を感じ始めた。

 英人らは馬速を緩め、馬体を街道左の民家側に寄せたが、行列を妨げることは、もはやいかんともなしがたかった。行列と英人四騎は入り混じり行列が滞(とどこお)り始めた。一人の供侍が英人の前で身振りをなして、道を避けるように伝えたが、意図が通じず英人の困惑する時間がわずかに過ぎていった。

 この状況を見るや、引き返したほうがいいとようやく悟ったように、後方にいた英人二人が何かを叫び、それに応じて先行する男女二人が馬首を右に返し行列中に首を衝(つ)き入れることになった。久光の本行列まであと十数間の位置だった。

 この時だった。行列後部から精悍な武士が土煙を上げて走り寄り、行列を平然と侵される事態を見てとった。この武士、奈良原喜左衛門と言ったが、やおら二尺五寸近江大椽(だいじょう)藤原忠広の大振りな一刀を抜き放って八双に構え、つつつっと近付くや、英人が右に馬首を返そうとする刹那、裂帛の気合で肋骨から左脇腹を切り下げた。薬丸示現流の遣い手の振り下ろす必殺の剣である。

 斬撃一閃、血飛沫(ちしぶき)が激しく噴き上げるのが行列後方からも目撃された。これを見て行列中の供侍らは一斉に刀を抜き払い、五間先を行く二人の英人に斬りかかった。英人二人は慌てて馬首を返して必死で逃げだし、薩人たちがいく太刀か斬りつけたものの斬殺するには至らなかった。

 斬られた英人は左半身からどくどくと出血する中、左手で創傷を押さえ、右手で手綱を取って一町(百メートル)ほども息絶え絶えに逃走したが、ここで左腹を押さえた左手甲の上から別の藩士に再び斬りつけられた。この斬撃によって、左手首は切り落とされ、さらに大きく臓腑が飛び出して、その肉片やら血塊やらを撒き散らした。十町ほどもよろよろと騎行し、ついに落馬して松並木の海岸寄りの土手に瀕死の息で横たわった。

 疾駆し追いついた薩摩藩士が近づくと、何やら哀願するかのように黒い顎鬚を震わせ呟(つぶや)いたが、すでに死相が浮いていた。これを見た薩摩藩士は、武士の情けで呼びかけた。

「今、楽にしてやっど」

 すらりと脇差を抜き躊躇なく止めを刺してやった。あとには、問題となった心臓への刺創が残った。薩摩武士の温情の証(あかし)だった。

 後日、交渉の場で、英国側は抵抗しない者を殺したと日本側の残虐さを大いに糾弾し、苦しみを早く取り除くという武士の慈悲心はいくら説明しても通じなかった。

 久光は、騒ぎを聞くと、駕籠の中、無言で大小差料の柄袋を取り去り、気迫を込めて抜刀の事態に備えた。井伊大老や安藤老中のように、駕籠の外から白刃を突き入れられ刺殺されることを考え、暫時、この構えを崩さなかった。ようやく、取り鎮めたとの家士の復命を聞くと泰然として再び柄袋を掛けた。のちに言う生麦事件だった。

 結局、英国人は一人が斬殺され、二人は重傷を負いながら逃げに逃げた。女は一部髪を斬られ帽子を切り飛ばされたが、一人無事だった。

 

 大名行列は軍事行軍そのものであり、その列を侵せば攻撃と見做され、反撃を受けるのが当然である。英国においても行軍中の部隊に見知らぬ一団が騎馬で割って入れば当然、同じことが起こったであろう。軍隊とはそういうものである。

 この日、日本語を解し日本に精通した一人の米国人が、四人の英国人より前に久光の行列に遭遇した。米国人は、直ちに、下馬し馬の口をとって道脇にたたずみ、久光の駕籠の通過時には脱帽して敬礼さえ奉(たてまつ)った。

 この米国人は、何事もなく無事江戸に到着して生麦事件を知った。被害を受けた英人が日本の習慣を知らず、倨傲無礼のために災厄を蒙っただけのことで自業自得ではないかと論評し、非は英人にありと指摘した。

 この当時、居留地の英人は狩猟を好み、条約で認められた遊歩地域内を馬で疾駆し、獲物を狙って発砲するなど、危険な行為が立て続けに起こった。田畑で働く日本人を誤射し死者さえ出す始末だった。

 日本で軍馬を買い付けにきた英国陸軍将校が、日本は欧州と異なった方向に高度に文化を洗練させ、見事な社会を構成していると報告したことがあった。横浜や長崎に騒がしく蝟集する英国商人たちが、日本の高度の文化と社会を正当に評価する目を欠くのは、傲慢と狡猾と品性下劣のゆえであるとした。あざとい英国商人に比べれば、日本人は賎(いや)しい身分のものたちでさえ、はるかに礼儀にかない、品性に満ちていると指摘し、自国商人の人品低劣な実体に警鐘を鳴らした。

 英国商人がどのような心根で日本に接しているか、自ずとわかった。幕府にしても、事を公にすれば、たちまち攘夷論に火が付き収拾のつかない事態に陥ることが分かっているから、国内的に軽々とした対応をとれないでいた。神奈川宿から、横浜に至るあたりはこうした状況におかれていた。

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」十四節「護る者と破る者」(無料公開版)


 

 

 

 

 

十五 果てなき道へ 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照 略年表を読む

 

 文久二年(一八六二)閏八月、勅使大原重徳と島津久光は京都に帰りついた。往路、寺田屋で藩士を上意討ちにし、帰路、生麦村で英人斬殺の大騒動を起こし、血塗られた江戸参府だったが、それ以降、道中は平穏無事だった。朝廷要路は勅使から復命を受け、幕府の様子を細かく知って、ほっとした。

 ――おっきな成功ちゃうやろか

 朝廷では、近衛忠熙、青蓮院宮が勅使大原重徳と、護衛を勤めた島津久光の功を高く評価した。

 さらに、朝廷が褒(ほ)めることではなかったが、生麦村で夷人を斬殺したことで、攘夷と久光の威名が結びつけられ、薩摩は天晴れじゃ、と赫々と喧伝された。久光は公武合体を目指し、内心、自藩の手による海外貿易を狙うくらいだから、薩摩藩を攘夷の先導と称える世評には不本意だった。久光の心がどうであれ、朝廷、世間は久光に喝采を贈った。

 ところが、半月もしないうちに、朝廷で再び勅使を江戸に遣(や)るという話が起こった。常識から見れば、新たな勅使派遣がいかにも早すぎた。先の勅使で用が足りなかったのか、後の勅使はまた別の話を持っていくのか、いずれにせよ、三ヶ月で新たに勅使を派遣すれば以前の勅使の顔をつぶすにも似て、穏当なことではなかった。

 三条(さんじょう)実美(​さねとみ)、姉小路(あねがこうじ)公知(きんさと)、長州攘夷急進派、土佐勤王党は、大原重徳と島津久光が幕府を相手にこれほど大きな功を得たため、この功を自分たちにも欲しくなった。

 大原重徳と島津久光が江戸に向う前は、幕府がそれほど唯々諾々と朝廷の意に従うとは思えず、勅使派遣の成否が危ぶまれた。勅書の力と供奉する薩摩の藩兵の多さで、うまくいけば、なんとかかろうじて幕府を説得できるかもしれないと、期待のほどはわずかだった。

 これまで何回もあったように武門の逆鱗に触れ、逆ねじを喰らわされても詰まらなかった。それがこのように大きな成功を収めた。三条、姉小路らの急進派公卿と長州、土佐の志士たちは、毎日、熱くなって、大原勅使派遣が成功した幕府の情勢を論じた。

 こうして、勅使が帰ってきて半月もしないうちに、再度、勅使を派遣する案がいつの間にか茶番でなくなり、野望に満ちた行動に転化した。過激攘夷派が多くを占める朝廷公家を担いだ胡散臭(うさんくさ)い謀略だった。さらに、大原重徳、島津久光の功をこれ以上朝廷から賞されないよう陰険な策が行われ、二人に向けられた朝廷の好意が急速に冷えていった。

 

 紆余曲折の末、攘夷別勅使の正使に三条実(さねとみ)が、副使に姉小路公知(きんさと)が任命されたと幕府が知った直後、三条実美が思いもよらぬ筋を使って幕府にとんでもないことを言ってきた。

 京都に送った会津藩先遣隊から急使が到着し、江戸に重大な報告をもたらした。三条実美から、近く勅使として江戸に行くので、その折、君臣の名分を明らかにするため勅使の待遇を上げよと言ってきたことを報せる内容だった。十月十一日、容保は家臣が受けた三条実美の要望を幕議に上げ、勅使待遇改正案を閣議に提出した。

 それによれば、一つ、これまで、勅使は本丸の御書院大御門の門外にて駕籠を降り徒歩で本丸玄関に至るのが定まった儀礼だったが、今後は駕籠のままに大御門を通り、内玄関下座敷前まで駕籠を平付けにするようあらためよ。

 一つ、これまでは馳走役の大名が勅使を玄関式台まで出迎えたが、今後は老中以下が式台まで出迎えるようあらためよ。

 一つ、これまでは、殿上之間で目録を授ける折にはじめて、勅使、老中が上段にあがるのが儀礼だったが、今後は、勅使が初めから上段に座し、老中は中段に居って一礼し、勅使の目をみて合図を請い、勅使が目許してから上段にあがるようあらためよ。

 一つ、将軍が勅使と対面するとき、これまで将軍は上段に座し、その後、勅使は中段から上段にあがって傍らに着座したのを、今後は将軍が勅使を出迎えて上段に導き、将軍みずからは中段に留まり、勅使は直ちに上段にあがり、一呼吸の挨拶ののち将軍は上段の奥端にのぼり勅使と対座して勅命を奉じるようあらためよ。

 一つ、勅使退去の節、将軍は見送らなかったのを、今後は、将軍が先に立って勅使が大広間を出るまで見送るようあらためよ、などと延々とこまかな勅使接遇の殿中儀礼を変更するよう要求してきた。要は、勅使を将軍より一歩高みにおいた新たな儀礼を求めたもので、君臣の名分を明らかにするという公卿の得意とする話だった。

 容保は、勅使を将軍より高く遇する儀礼を受け入れざるを得ないと主張した。井伊大老の暗殺以降、幕府は安政の大獄を深く反省し、これからは朝廷を尊奉し公武合体の方針でいくと決めた以上、やむを得ないことだと根拠を述べた。

「公武合体をめざし朝廷環境を整えるために身どもは京都に赴任するのでござる。本当の公武合体を目指すならば、まずは、儀礼において従来のやりかたを変えなければならぬ道理にござる」

 京都守護職を設置した意義を幕閣に問いかける口吻が伝わった。

 そもそも、幕府の典礼は朝廷に比べ完成度が高く、その分、諸事こまごまと大層なものであることを容保は知っている。将軍より勅使を高く接遇せよと要求する此度の勅使案は、考えようによっては、朝廷典礼でなく幕府典礼を基本に考えよと言うに等しく、朝廷典礼が完成度において負けを認めることに通ずるとさえ思われた。勅旨案を受入れたとしても、実は幕府の典礼が優位に立つことを勅使も認めたのだと思えば、鷹揚に構えていても悪くはないと思ったが、口にはしない。

 老中、板倉は最初から不快そうに聞いていたが、容保の発言が終わるか終わらないうちに、嫌悪感にみちた反論を述べ始めた。

「そもそも勅使の待遇は東照宮以来の決め事で、みだりに変えていいものではござらぬ。近ごろ朝廷が、浮浪の輩(やから)の言い立てを軽々しく聞き容れる故、際限がなくなるのじゃ」

「ことに、この書面は三条家が肥後守殿の御家臣に下付されたものと聞くが、朝廷のご沙汰は何であれ、武家伝奏から京都所司代に伝えると永く決まっておる。藩士などに直々に書面を下付するなど筋違いも甚だしい。下付する方もする方だが、それを受けとる方も受取る方であろう」

「のみならず、筋違いの得体の知れぬ書面を幕議に上げる肥後守殿もいかなるお心得なるか、了解しがたい」

 切り込むように論難した。

 嵩(かさ)にかかって言い募る三条実美の申し条に幕威の低下をまざまざと見せ付けられる気がして、板倉は、よほど腹に据えかねたと見えた。御用部屋は緊張した空気がたちこめた。

 容保にしても、朝旨が武家伝奏から所司代を経て幕府へ伝達されるべきことは百も承知である。この決められた伝達路が機能しないから、京都守護職を新設したのではないか、と容保は反論したかった。それだけでない、自分が就任した京都守護職は京都所司代を配下におく以上、所司代の受取る書状を守護職家来が受けとって悪い道理はない。

 ――しからば、この文書が筋目正しく、武家伝奏から所司代を介して幕府へ伝達されたものならば、周防守殿はこの申し条をお受けなさるのか

 容保はそう問いたかった。受ける、と板倉が答えるならば、我が藩が粗忽であったと詫びもしよう、受けると答える決断もなく、うわべの手続き論で論難している。

 ――所詮は逃げているだけではないか

 腹立たしさを感じた。ただ、そのような筋論を言っても詮なきこと、本質は、幕府が朝廷尊奉の立場に立つかどうか、本気で公武合体を目指すのか試されていると思った。

 幕府はかつての誇りを捨てなければならない。

 ――そうしてこそ、守りたいものをわずかでも守れる

 多くを捨てなければ、守れるわずかなものさえ手放さざるを得なくなる。

 ――儀礼などが何であろう

 将軍がへりくだって勅使を上座に迎えても幕府が存続すればいいではないか。旧慣を墨守し、これまでの将軍優位の儀礼にこだわって幕府を失ってしまえば、

 ――元も子もないではないか

 容保は痛切に思った。

 そこまで口にすることは会津の品位と誇りが許さなかった。春嶽も、この要望を呑んでしまえと、板倉とほかの老中たちに言いたげに見えたが、やはり黙したまま、この幕議は未決に終わった。あとには、言いようのない後味の悪い空気が残った。最後までとことん熟議を尽くす本当の議論が、上品な大名作法から削られて久しい。

 

 十月十八日、会津藩先遣隊の一人野村左兵衛が、京都から和田倉門内の上屋敷に戻ってきた。野村は十二日、勅使一行に同道して京都を出達し、途中、五百人を越える大行列から離れ、勅使の江戸到着より少しでも先んずるため急ぎに急いで、この朝、到着したのである。

 野村は、勅使待遇改善について京都の意向、意気込み、雰囲気などを上申した。すでに、藩邸首脳は急使をもってこの問題の報告を受けていたものの、野村から口頭で伝えられる三条の言い草によって、勅使の真意がいよいよはっきりとした。

 野村は、京都情勢全般を詳しく報告した最後に、会津本隊は海路にて上洛したらどうかと提案して、容保、藩重役を驚かせた。野村の言うには、海路上洛すれば京都の度肝をぬいて藩の士気が揚がるではないか、藩士が西洋航海術に触れる絶好の機会ではないか、武器、弾薬の運搬がはるかに楽になり上洛の費えを大幅に節減できるではないか、とその理由を整然と述べた。

 幕府でも、将軍上洛の財務を担当する勝手方勘定奉行の小栗豊後守忠順が将軍上洛を海路行なうよう計画し、着々と船の手配を重ねていると容保も聞き及んでいる。

 小栗は、上洛資金に責任を持つ勘定奉行である以上、最も安くあがる方法だと海路上洛に注目したと聞く。陸路をとれば将軍上洛費用は優に百万両、百六十万ドル相当を超え、軍艦を購入して行くほうがよほど安く済むはずだった。仮に将軍が座乗しないことになっても無駄になる買物ではなかった。

 勝麟太郎が、軍艦奉行並に昇格し二ヶ月ばかりたった頃、軍艦操練所の配下を率い、売りに出た英国の商用外輪蒸気船を試運転して好印象を得たという。幕府は、このディンギー号四百五噸を十五万ドルにて購入し、十月十三日、横浜で受取ったばかりだと容保も知っていた。

 早速、ディンギーの語呂にあわせて順動丸と命名し、これで幕府の有する蒸気船は観光丸、咸臨丸、蟠龍丸、朝陽丸に加え五隻となった。順動丸は外輪船で搭載砲こそ二門と少なかったが、三百六十馬力の強力な力を出した。これまで四隻の出力が六十馬力からせいぜい百五十馬力だったのに比べると、出色の出力だった。順動丸は、前年、英国で就航した新造船で、火力はともかく蒸気商船としては世界的な水準にあった。

 ――野村の言う通り、海路上洛はいい手かもしれぬ

 容保がその気になれば、幕府から蒸気船を出してもらって海路、上洛することができる。容保は積極的になった。これからは西洋船を知らなければ海防にも当れないと嘉永六年のペリー来航以来、痛切に思っていた。春嶽に頼めば、会津藩上洛のために幕府蒸気船を出してくれそうだった。

 かねてより、容保自身は心のうちで西洋の技術論に関心が高かった。容保は、西洋蒸気船で上洛するなど願ってもない機会ではないかと思った。老臣たちは、世子のいない藩主を海に出すわけにはいかないと海難を心配し頑として賛同しなかった。容保は大事の前に藩論を割るようなことを避けなければならなかった。

 

 文久二年(一八六二)十二月九日、準備万端整い、容保はついに江戸を発して上京の途に付いた。この日、冬の朝空は晴れ上がり一片の雲なく、大気は凛冽と冷え渡っていた。朝五ツ(午前八時)、

「かいもーん」

 一声が響くと、上屋敷の門が、低く軋む音と共にゆっくり開かれた。

 容保に率いられた藩兵一千が陸続と門を出て、整然と左手に歩を進めた。会津藩上屋敷と道を隔てて隣りあう武蔵忍(おし)藩十万石から、重臣はじめ藩士総出で会津藩邸門前に立ち並び、友藩の行列を見送った。

 ――また、京の地で御苦労召されることでござりまする……

 とでも言いたげに、悲壮な顔つきの挨拶だった。黒船来航前は房総半島において、ともに海防にあたり、つい三年前まで品川沖で隣り合う台場を守った縁を振り返っているに違いなかった。

 屋敷前を過ぎ、和田倉門から濠を渡った。通りなれた和田倉橋からは辰の口の水音が聞こえてきた。容保が養子に来て、青春時代を過ごし、多くのことがあった屋敷を後にするのだと、いよいよ想いが募った。

 ――行ってまいる

 この言葉はもう敏にかけないと決めたのだと、幾度か心の内で振り返らなければならなかった。容保と会津藩士の後戻りのきかない歩みが始まった。

 

 

 

 

佐是恒淳の歴史小説『四本の歩跡』第一章「楓の記憶-容保」十五節「果てなき道へ」(無料公開版)

 

 

 

 



 

十五節一章「果てなき道へ」
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