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四 幕府を諷す 前に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 左馬次が書いたお七や、そのあとの白子屋お熊の話は評判を呼んだ。貸本の作者馬文耕と、采女が原や桶町新道(おけちょうじんみち)で講釈を語る馬場文耕が同一人物だと誰もが知った。左馬次は貸本に署名を入れないことも多かったが、筆の運びから筆者を推定するのは容易だった。

 左馬次の筆風は、どうやってと誰もが首を傾(かし)げたくなる文(​もんじょ)を公然と元本に挙げ、世間の知ることのできない話を好んで持ち出した。到底、余人に真似できるものではなかった。お七やお熊のように町人を主人公に仕立て、世話物を実録風に書いて一つの分野を切り開きつつあった。

 左馬次には、もう一つ、開拓したい分野があった。中山勘解由の日誌を所望し、かなえられたのをいいことに、秋田佐竹藩の御家騒動に関する幕府の文(もんじょ)を要求した。

 武家の御家騒動をネタにできれば、これほどの強みはない。世間はこの種の話を無責任に好むから大受けするに決まっている。御家騒動は多くの家で起こったこと、ネタには困らない。武家の内情に詳しい左馬次の得意分野でもある。

 小者にいろいろ言って、ついに手に入れた書付は「秋田懲毖録(あきたちょうひろく)なる文書だった。佐竹家から処分方を幕府へ上申した文書で、抜粋とはいうものの秋田騒動を実録物に書くには十分だった。

宝暦八年(一七五八)左馬次は、内密の書付と自分の足で稼いだネタをもとに『秋田杉直物語』を世に問うた。大抵の読み手はつい前年に起きた佐竹家お家騒動の真相と内密を描いた話を大いに面白がり、それにしても、どうやってこんな話を知ったのかと驚いた。佐竹藩士でさえ知らない話があったらしいと噂が立った。実録物作家、馬文耕の人気は上がる一方だった。

 この年、左馬次の著作が矢継ぎ早に出た。正月には、『皿屋敷弁疑録』と『大和怪談頃日全書』、四月には『当世諸家百人一首』、七月には『当代江戸百化物』、『明君享保録』、『厳秘頃日噂』、八月には『愚痴拾遺物語』が貸本となって江戸の人々の眼を巡った。

 江戸人は物見高く、珍説奇譚の風聞を聴きたがり、落首の類いを書き写し、他に見せ自らも楽しむという具合だったから、実録物の珍聞奇談は拍手喝采の中に迎えられた。左馬次の世が巡ってきたかのようだった。

 秋田藩の次に目をつけたのが郡上藩。これに関わる幕府の書付を小者に所望したが、いつものようには届かなかった。左馬次は自ら足しげく、いろいろの人を巡り歩いて内実を調べ上げることにした。

郡上八幡から江戸にきて駕籠訴、箱訴をやった直訴百姓たちから絶好の話を聞きだした。それだけではない。芝金杉の将監橋の向うに構える金森家上屋敷を狙った。身分の低い者にこっそり渡りをつけ、酒を呑ませて金森家の内情を聴き出した。

 幕府、諸藩の内密なる消息を流して上の者の鼻を明かしたい武士はいくらでもいる。事情通を自認する町方庶民はもっとたくさんいる。魚心あれば水心の道理で左馬次が聞けば、多くを教えてくれる者は多かった。左馬次は人脈を持っていたし、貸本屋に消息を売りにくる者もいた。

 左馬次の調べによると、郡上藩主の金森頼(よりかね)は老中本多伯耆守正(まさよし)の妹と婚約し、結婚前、婚約者に死なれても正室を迎えず、今なお、本多を義兄扱いして親戚付き合いを続けているらしい。

 金森頼錦の実弟は本多長門守忠(ただなか)の養子となって本多兵庫頭(ひょうごのかみ)を名乗っていることもわかった。三月二十八日、本多忠央は、奏者番兼帯の寺社奉行から昇進し西の丸の若年寄となったことを左馬次は掴んだ。

 ――いよいよ面白くなってきやがったぜ。本多忠央が昇進だとよ

 左馬次は毒づいて、俄然、張りきった。郡上一揆の件で書付が届けられなかったのは、これまで書付を届けて寄越した人物が郡上一揆に関わっているためではないかと推理した。

 ――本丸老中の本多伯耆と西ノ丸若年寄の本多長門が金森家と縁戚であるのをいいことに、郡上藩の藩政にしゃしゃり出たんじゃねえか。何か甘い汁でも吸いやがったか

 この二人なら門閥譜代だから、側衆を悪く書かせたいと思う動機もあるに違いない。

 ――筋が通るじゃねえか。この二人が、以前から、俺に書付を寄越して側衆の大岡を悪く書かせ、世評を落としたがっていた。そんな折、一揆を起こされた金森家が困り果て、縁戚の幕閣二人に泣きついた。二人は金森家から甘い汁を吸って、金森の奴を救ってやろうと画策した。おおよそ、こんなところじゃねえのか

 ――書付のお陰で俺は文名を上げたと言えねえこともねえ

 ――今度は、本多の二人を良く書いてやろうか。郡上一揆を巡って、側衆が醜い陰謀を企むという風な筋が書けねえもんか

 ――こういうことは、どっちが悪いってもんじゃねえ。どっちも悪いのさ。あとは書きよう、どちらの側に立って書くかだけのことよ。実録物と言ってもそんなもんさ

 今までは大の嫌いの大岡を悪者に書いてきた。此度の調べで、田沼主殿(とのも)が評定所に詰めて町奉行を差配しながら郡上一揆を審理していると教えてくれた者がいる。ごく身分の低い勘定所詰めの男で、酒を飲ませてやると何か義憤に駆られた様子で熱心に話してくれた。ここにも側衆嫌いがいたかと思いながら、左馬次はありがたく聴いて多くを仕入れた。

 ――いつまでも悪役が大岡じゃあ、飽きがくるぜ。そろそろ新しい悪役を登場させたかったから丁度いい塩梅だぜ

 次作は貸本でなく、講釈で語って派手に世間の好評を得ようと狙っていた。この年、左馬次が講釈を語るため書き上げたのは、題して『平仮名森の雫』。郡上八幡の一揆を巡る金森家の内情と幕閣対側衆の暗闘を実録物風に語る準備が整った。

 

 日本橋榑正町(くれまさちょう)南側表通りの中ほどに、平屋の店がある。ここで小間物商の文蔵が安右衛門に店を借り受け、商いを営んでいた。毎日、客(きゃくにぎわ)いの店だった。宝暦八年(一七五八)九月十日夜、小間物商(あきな)いが閉まった後、入口左に看板が立った。

 

   武徳太平記

   珍説もりの雫

   毎夜暮六ツ時より

     演舌者

       馬文耕

       申上候

 

 左馬次は個人宅で講釈を弁ずる形を採った。盛り場の葦簀(よしず)張りの講席よりぐっと高級感があって、実録講釈の評価を高めるにふさわしい。いつまでも盛り場の騒がしい講席であってはならなかった。文蔵を紹介してくれたのは貸本屋の駿藤だった。

 売卜の頃からの習慣で、店先には、いつものように行燈を灯した。そこには、席料之儀ハ思召(おぼしめし)次第、無料御出(おいで)は御断申上候、と読め、はき物御心付可被下候(くださるべくそうろう)とも貼ってあって、抜け目はなかった。

 左馬次は、郡上一揆の件が評定所で田沼意次の主導のもとに審理されていることを知っている。そのうえで「もりの雫(しずく)」を演題に掛け、予測した審理内容を私(わたくし)に論じて老中本多伯耆と若年寄本多長門を応援するつもりだった。当然、田沼が悪役となる。これこそが売れる構図だと信じて疑わなかった。

 公儀に直訴した一揆の騒動を講釈に語るのはやや大胆かもしれないが、高をくくった。

 ――幕府は庶民の小(ちい)せえ楽しみをそれほど咎(とが)めやしねえさ。家重公の小便話だって、何も咎められなかったぜ

 おそらく両本多が己を捕縛させるはずがないと少しは自信もあった。政治問題の消息を巨細に集め、錯綜した情況を構造的にとらえる切り口の分の厚さを何としても聴衆に直接語ってみたかった。

 初日、語り終わって「平仮名もりの雫」の紙員六枚ばかりの手写本十冊を景品に、聴き手相手に籤引きをやった。終(しま)いには残りを一冊三百文で売った。相当の利があっただけでない。これで町中の話題になると、左馬次は強気に見ていた。

 九月十六日、この日で七日目という夕刻。明かりを灯(とも)す前から人々が集まって二百人を超えたころ、聴人御断申上候と、札をだして打ち止めにした。日ごとに入りが良くなってここ数日は打ち止めが続いた。左馬次は自分の狙いが当たり、市井の人々の聞きたがる話を語っていると誇りにも似た充実感に満たされた。この夜は、いつもにまして、語りに熱が入った。

 吉宗公以来の年貢徴収を目指して藩財政を立て直そうと必死になる金森家を、縁戚の誼(よしみ)で老中本多伯耆、若年寄本多長門らが陰ながら応援し、なんとか百姓を宥めようとするところに、悪謀に長けた田沼が割って入り、両本多は評定所の審理で日増しに不利になってゆく。

 こんな筋で、登場人物の性格描写を見てきたように語った。所々に、格式高い門閥譜代と、才一本でのし上がった側衆との因縁の対立をわかりやすく差し挟んだ。

 講釈では前代未聞の斬新な内容である。幕府の手の内をさらすような話は、聴衆の怖いもの見たさを満足させ、立錐の余地なき席は固唾を呑む緊張感に満ちていた。

 この分では最後にいかがなるや、と存分に聴衆を焚き付け、側衆による政治の壟断を痛烈に批判した。事態がさらに進めば、すぐにもお伝えすると聴衆の期待を煽りに煽ってこの晩を仕舞った。翌日の講席も間違いなく大入り打ち止めになる筈だった。

 鮨(すしづ)めだった座敷から聴衆の多くが帰った頃、左馬次は弁当を使い始めたところを南町奉行組同心らによって召し捕らえられた。この晩、捕吏たちは講席に紛(まぎ)れていたらしい。

「仰々(ぎょうぎょう)しいぜ、ちったぁ、静かにしたらどうでえ。今、飯を喰ってるんだぜ」

「何を言うか、この乱心者め」

「俺は乱心、気(きちげ)えなんかじゃねえぜ。手(てめえ)らこそ気(きちげ)えに見えるぜ」

 左馬次は奉行所の威権に恐れ入るどころか憎げに同心たちを嘲笑(あざわら)って、しょびかれて行った。

 

                       *

 

 師走二十九日夕刻、大岡忠光は、側用人詰座敷に田沼意次を呼んだ。郡上一揆の一件について確認しておきたいことがあった。

「先ほど、講釈師の馬場文耕の処刑が終り、獄門に架けたと報告が上がったらしい」

「聞き及んでおります」

「上様に怪(け)しからぬ綽名が付けられるきっかけを書いた男ではあったが、獄門はちと厳し過ぎると思うがの」

「そう思います。余りな罪で町方を委縮させては町の活力を失ってしまいます。ただ、町奉行は馬場の余罪を掴んでいるらしく、厳刑を主張して譲りませんでした」

「我らから、あまり口を挟まぬほうがよいということじゃの」

「仰せのとおりです。若年寄の本多長門守が若年寄を罷免されたのが九月十四日、その二日後に馬場を捕縛したのも、町奉行の腹積もりがあったようでございます。本多は若年寄ながら、捕縛に逸(はや)る町奉行所を抑えておったものの、罷免後はどうしようもなかったのでしょう」

「本多はなぜ馬場をかばうのじゃ」

「洩れ聞くところでは、幕府保管の文書から適宜、抜粋を作り、馬場に流していた経緯が公になるのを恐れたのだとか」

「ううむ。それで馬場は真を穿(うが)った実録物を書けたのじゃな。内密のことがこうして洩れる」

「左様でございます。我らは内密のことでも必ず洩れると覚悟し、洩れても後ろ指を指されぬよう、普段から正々堂々、一点の曇りなき振舞を心がけるのが肝要かと思われます」

「儂(わし)もそう思う」

「年明けから、綱紀を正すよう仕組みを考えたき所存にございます」

「それはよいことじゃ。早速、やってもらおうか。それはそうと、この件で、町方の連座者は出ておらんのか」

「はっ。町奉行によると、馬場が自ら、歌舞伎俳優中村喜代三郎を弟子にしたと貸本に書いているそうです。ただ、喜代三郎は、今年の秋、すでに大坂に上り中山座で役者を続けているとか。町奉行もそこまで喜代三郎を取り調べようとは思っていない様子」

「連座者をださぬほうがよいの。大坂に去った者をへたにつついてはならぬと、それとなく町奉行に耳打ちしてほしい」

「かしこまりました。うまく伝えておきましょう」

「その役者は、馬場の捕縛を知って青ざめたのではあるまいか。それで早々に大坂に上ったのではあるまいか。可哀想なことをした」

「まあ、はらはらする切羽詰まった事態が芸を磨くということもあるやもしれませぬ」

「まあな」

 二人は大きな声で笑った。大岡は馬場に悪役にされ、辛辣に批判されたことを知ってか知らずか、恬(てんたん)とした笑みからは少しもわからなかった。知っていても、町方の楽しみを奪う気のないのは明らかだった。​        (第一話 完)

佐是恒淳の歴史小説『意次外伝』第一話「醜聞を甚振る」四節「幕府を諷す」(無料公開版)

 

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