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五 長崎外浦町 次節を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 享和三年(一八〇三)九月、大槻玄幹という若い仙台藩士が、秋真っ盛りの長崎を訪ねてきた。江戸蘭学界の大立者、大槻玄沢の長男、十九歳である。縁戚の大槻民治に連れられ、この年の春、江戸を出発して一関に至り、北陸から山陰道を経て九州をめぐる大旅行を決行した。

 玄幹らは旅先で、著名な学者に面識を請い、名所旧跡を訪ね、大いに見聞を広めてきた。長崎では腰を落ち着け、蘭学の先達に師事して、父と同じ道を歩むつもりだった。

 父親の玄沢が、長崎遊学以来、この地に友人を多く持ち、書状のやり取りを絶やさないから、玄幹は即座に、この地の蘭学者の仲間に迎え入れられた。吉雄耕牛の没後、二男の定之助と三男の献作とが吉雄流阿蘭陀外科塾を開いているので、入塾を頼んで許された。

 玄幹が蘭語の読解力を深めながら長崎の日々を楽しむ中、ある日、どういう経緯(いきさつ)があったのか、末次忠助(すえつぐ ただすけ)と名乗る蘭語読みが突然訪ねてきた。末次は後興善町(うしろこうぜんまち)の町乙名を勤めるだけあって、堂々たる風采に見えた。中野柳圃(なかの りゅうほ)の門人で蘭学に精通し、特にニュートン力学を基礎に天文学、物理学、数学で高度の学識に達していた。長崎に遊学する者の間で著名な人物だった。

 玄幹は、末次から、長崎に来たなら是非とも、中野柳圃に就けと説かれた。末次の師、柳圃は蘭学について抜群の学識を持つが、人嫌いのせいで弟子をほとんど取らず隠君子の生活を続けている。二十年来、西洋天文学を研究し、『暦象新書』三篇の下篇を前年に出して、ついに完結させたという。

 末次は、人嫌いの柳圃でも玄幹なら入門を許してくれるだろうと、柳圃に就くことを熱く勧めて帰っていった。玄幹に詳しい事情はわからなかったが、著名な末次がこれほどに言うのである。玄幹は即座に柳圃先生の門を叩こうと決めた。

 数日後、玄幹は末次の紹介状を持って、西濱町(にしはまのまち)の中野柳圃の屋敷を訪ねた。通されたのは柳圃の書斎で、壁面の棚には洋書がぎっしりと並び、文机の周りは手稿やら反故やらが、堆(うずたか)く重なり、散らばり、学問が今まさに進んでいるさまが見て取れた。筆墨の香と古書の匂いが入り混じり、玄幹はすぐに父親の書斎を思い出した。

 このような座敷に通されること自体、柳圃の親しみと好意の表れだと、玄幹は気付いた。挨拶と入門願いの口上を述べたとき、玄幹は、柳圃から長いこと顔を凝視されるのを感じた。じっと見つめた上で、柳圃がようやく口を開いた。

 天明五年(一七八五)の十月、玄沢は、名通詞と称えられた本木良永(もとき りょうえい)の許に寄宿し指導を受けながら、これはという人物に教えを請うて歩いたという。

 ――親父の長崎遊学は、おれの生まれた年……

 玄幹は、十八年前、玄沢が柳圃に宛てたという書状を見せられ、柳圃が父と付き合った若いころの話を聞かされた。柳圃のゆっくりとした口調が玄幹の耳に快かった。柳圃が単なる人嫌いとは見えず、玄幹は初対面ながら蘭書や語学のことをいろいろ話かけられ、話が弾んで楽しかった。玄幹は父の旧友に好意を抱き、柳圃が飄々と楽しげに語るのが快かった。

 

 柳圃は長崎の資産家、中野家三代目、用助の五男に生まれた。中野家は外浦町(ほかうらまち)に屋敷を構え、隣家は本木良永だった。通りを隔てた向かいには吉雄耕牛が住んでいた。あたりは長崎奉行所西役所の界隈で出島にほど近い。

 ここで中野家は、京都の三井越後屋本店の長崎出張所を兼ねて隆盛な商売を営み、舶来された外国品の落札に活躍した。柳圃は裕福な家庭で生まれ育ち、幼少のころから語学の才を示して耕牛から目をかけられた。

 安永五年(一七七六)、十七歳で阿蘭陀通詞志筑(しづき)家の養子に入り、志筑忠雄を名乗って稽古通詞となった。頑健な体というにはほど遠く、若い頃から蒲柳の質と言われて病弱だった。すぐ風邪を引いた。

 柳圃は通詞となったものの、そう長くは続けなかった。職を辞し、家に引きこもるようにして蘭書に取り組み始めた。実家の手篤い援助があった。父の用助が、虚弱で無類の学問好きの五男に学びの自由を与えたようだった。

 安永九年(一七八〇)、二十一歳になった柳圃は入手したばかりの奇児(けいる)全書に夢中になった。高価な舶来本は実家の父に買ってもらった。この蘭書は、諳厄利亜(あんげりあ)国(英国)の緯索(いざっく)柔鈍(にゅうとん)の打ち立てた自然哲学、特に力学を中心とした窮理(物理)学と天文学を、億須保留度(おくすほるど)の天学士(天文学教授)与盤(よはん)計意留(けいる)が刺的音(らてん)語で解説した書を阿蘭陀(おらんだ)国の与盤(よはん)呂魯布須(るろふす)が蘭訳したものであると、のちに柳圃が尊敬をこめて自著『求力法論』序文に紹介した。

 奇児(けいる)全書は六部構成、本文の総頁数六百二十八頁の大部なもので、いくら蘭語が読めるとしても読み通すのは容易でない。窮理学と天文学の高度な理論書だった。柳圃は隣家の本木良永(もとき りょうえい)から西洋天文学の手ほどきを受けた。本木は日本に初めてコペルニクスの地動説を紹介した天文学者で、この分野で第一級の蘭学者だった。

 柳圃は、仙人のような暮らしを続けて二十年以上、この蘭書に惑溺したかのように取り組み、翻訳と注解に全精力を注いだ。全く余事には関わらず、弟子をとるどころの話ではなかった。

 吉雄と本木は気付かれないよう、そっと柳圃を見守り、時折、わけもない和解(わげ)を依頼しては仕事を与え、柳圃が余りに奇児(けいる)全書にのめり込むのを抑えにかかった。生活の均衡が取れるよう、柳圃に細やかな配慮を与えて見守った。二人の長老は柳圃が蘭学界の至宝になると初めから見込んでいた。

 柳圃は寝る間も惜しみ、ゆっくり食事をするわけでなく、張り詰めた思いで毎日机に向かった。時々、思い立ったように本木や吉雄の屋敷に指導を仰ぎに行く。ひたすら打ち込む姿は、鬼気迫るものがあった。

 ただ末次だけは傍(そば)において、あれこれ用事を頼み、勉強に疲れると蘭学の話をすることがあった。かえって末次から大切に守られているようにも見え、妙な師弟関係だった。

 柳圃は、最近、完訳した『暦象新書』上中下の三巻を始め、すでに『求力法論』、『三角提要秘算』、『動学指南』、『天文管闚』など、奇児(けいる)全書から十二の訳読書を完成した。唯一、第四部対数(ろかりとめん)の翻訳はついに出なかった。これにはわけがあった。

 大槻玄沢が柳圃と話をした折、対数(ろかりとめん)の話題をもち出したのが発端だった。玄沢の話を聞きながら、それは奇児(けいる)全書の第四部に相当するではないか、ということになった。「よし、それでは」とばかりに力瘤を入れ、玄沢がこの翻訳を試みるという話に発展した。その後、随分と年月がたった。

 

  尚々、尊君、当地御在留の中、御噂(おうわさ)遊ばされ候ロカリトメン算書、出来仕(つかまつ)り候(そうら) 

   はば、どふぞ拝見仕(つかまつ)りたく存じ奉(たてまつ)り候

 

 柳圃は江戸に帰った玄沢に宛てて、対数(ろかりとめん)に関する翻訳草稿を見せてほしいと催促した。結局、玄沢からロカリトメンについて何の音沙汰もなく、二十年がたとうとしている。

 ロカリトメンは玄沢の手に余ったのだろうと柳圃は思っている。今、縁あってその息子から入門を頼まれた。見どころありそうな青年に蘭語を講義することになりそうだった。柳圃、四十四歳、円熟した蘭学者だった。

 

 享和四年(一八〇四。二月に改元し文化元年)が明けた。玄幹が柳圃の屋敷に通い始めて数か月が経ったある日、玄幹は蘭通詞の新春の会席に顔を出した。若い通詞たちが懇親のために集まってきた。

 最近、玄幹は柳圃の翻訳に心酔していた。感心した師の和解(わげ)を書き写し原蘭文と見開きの対訳に作って、抜き書きを常に懐(ふところ)に持ち歩いていた。声を上げたくなるような見事な訳が並んでいた。その席で、偶々(たまたま)、隣合わせた若い通詞にその抜き書きを見せたところ、じっと目を凝らし手にしたまま動かなくなかった。しばらくして、

「これは貴君の和解(わげ)ですか」

 静かに問うてきた。吉雄六二郎と名乗る若い通詞は、玄幹の手稿を持った手を震わせていた。

 

 吉雄六二郎は耕牛が六十二歳の折、妾腹に生ませた子で、父の年齢を通り名にもらった。誕生当時のことが長崎の有名な話に残っている。

「耕牛先生は知力、精力、ともに絶倫」

 長崎の町では、やんやの喝采があがった。祝賀に来る者は皆、耕牛先生にあやかりたいと末子誕生の祝いを述べたものだった。

「いやいや、末子とは決まっとらんばい」

 耕牛が大笑しながら祝辞を受けたとか、尾ひれのついた和(なご)やかな話が流布した。六二郎は生まれた時から長崎で評判の子だった。

 司馬江漢が耕牛の屋敷を訪問した折、耕牛を幸作おぢい様と呼び、口もよく回らない四歳ほどの小童が蘭語をよく覚えて、牛肉をクウベイスと云い、馬をパールドと呼び、薩摩芋をやれば、レッケル(うまい)、レッケル(うまい)と喰うたと、日記の天明八年(一七八八)十一月九日条に書き残した。江漢が呆れるほどの蘭語達者が幼童六二郎だった。

 天賦の才が家庭環境で練磨され十九歳になった。六二郎改め、吉雄権之助は、今や新進気鋭の蘭通詞である。会席での会話がきっかけで、玄幹と権之助は急速に親しくなった。同い年でもあり二人の青年は、幼童のころから偉い蘭学者の父に厳しく鍛えられたことが共通していた。権之助は玄幹の紹介で早速、中野柳圃に弟子入りした。

 権之助は師の明晰な教えを受け、阿蘭陀語の文章構造が初めてわかった気がした。蘭語とはこういうものだったのかと衝撃を受けた。長崎に住んでいながら、

 ――名師の在る事を知るの遅きを恨む

と慨嘆した。

 耕牛の息子をして、これほどに感嘆させるのは、柳圃が蘭語を文法体系として身に付けていたからだった。中野柳圃とは、それほどに卓越した蘭学者であると同時に、それほどに名を知られていない隠君子だった。耕牛と本木がそっとしておいてくれたお陰だった。

 権之助は友人の馬場佐十郎、西吉右衛門にも柳圃に弟子入りするよう勧め、年の近い若者たちは同門として柳圃に学ぶようになった。のち柳圃門下の四俊となった。

 皆、もともと基礎があるところに柳圃から蘭語文法の本質を聞いて、あっという間に蘭語の読解力が上がったものらしかった。権之助や佐十郎は、

 ――訳解に巧みで弁舌流るる如く、阿蘭陀人に異ならず

と長崎の人々から驚嘆された。

 

 柳圃は若い活発な弟子達によって次第に有名になり始めた。格段それを喜びもしなかったが、もう迷惑にも思わなかった。奇児(けいる)全書はほぼ翻訳を終え、これからは己の知識を後進に伝えることが最後の目標だと心に決めた。天文学、窮理学、数学、そして蘭語文法など教えたいことはいくらでもあった。知識を個々のかけらとしてではなく、体系立てて教えることが己の使命だと決めていた。

 これまでの翻訳は「志筑忠雄」の名で世に出してきたが、玄幹の弟子入りを許した少し前、実家の中野姓に復姓して、後進育成を目指す心機一転の決意を固めた。そして、消炎鎮痛剤を産する柳の圃場(ほじょう)を意味して柳圃(りゅうほ)と号し、己が病弱で薬を手放せないことを自嘲気味に暗喩した。蒲柳の質と言われた虚弱な体質を逆に配字した号とも読め、幾重にも含意があった。

佐是恒淳の歴史小説『種痘の扉』第一章「遠鳴」五節「長崎外浦町」(無料公開版)

六 長崎西濱町  前節に戻る 次節を読む 目次に戻る ブログを参照 

 文化元年(一八〇四)、長崎は春爛漫を迎えた。西濱町(にしはまのまち)の柳圃の屋敷では満開の桜が咲き誇っていた。馬場佐十郎は、師の講義が終わったあと、別室で借覧を許された『翻訳阿蘭陀本草』をようやく閉じた。表紙に捺(お)された「本木良永」と「士清」の印影をじっと見つめた。

 本木良永(もとき りょうえい)の本名印は陰刻され、字(あざな)は士清と陽刻され、ともに方形の朱印が見事だった。柳圃の話では、本木は唐通事を介して手に入れた唐土の朱泥を好み、北京琉璃廠(るーりーちゃん)にある栄寶斎の品をこよなく愛したと聞いた。深みを帯びて、ややくすんだ渋い朱の色である。

 ――本木先生ん好まれた味わいばい

 佐十郎、十八歳。学問への強い憧憬があった。

 本木良永は柳圃の師にあたるから、佐十郎は孫弟子ということになる。本木は六十歳で歿するまでに十四に上る訳書をなし、主に天文、地理の領域で欧羅巴(ようろっぱ)の知識を日本に紹介した。日本にコペルニクスの地動説を初めて紹介した蘭学の大先達である。

 本木は阿蘭陀(おらんだ)語発音の日本字表記に関心をむけ、日本語で使われない発音「テュ」、「ニュ」、「ウヱ」などの拗音表記を初めて提案した。それが最初の訳業となった『翻訳阿蘭陀本草』だった。古来、日本語にある拗音は、例えば、「情」を「ジヤウ」、「久」を「キウ」、「蝶」を「テフ」と書いた。

 ――拗音小字の概念は画期的ばい……

 佐十郎は感心して読み終えたところだった。本木の書では、拗音小字「ユ」「ヱ」を右側でなく、左側に寄せた表記法だったことを知った。

 ――おもしろか

 この手写本には、明和八年(一七七一)九月の日付があるから、三十年も前の労作である。

 さらに本木は、次の訳書『阿蘭陀地球図説』で、「テ」を右側に小さく表記し、「ユ」を大きく書くような表記も試み、その後、収まりが悪いと思ったのであろう、ようやく「テュ」という拗音表記に落ち着いたことを佐十郎は知っている。

 寛政五年(一七九三)九月、本木は十三番目の訳書として『星術本原太陽窮理了解 新制天地二球用法記』を仕上げた。冒頭「和解例言」の章において、伊呂波(いろは)四十八字とでも言うように、阿蘭陀(おらんだ)文字二十六字をアベセレッテル(A, B, C Letter)と称し、これには大文字と小文字があるだけでなく、刊行書で用いられる活字体と、手稿に記される筆記体の区別を初学者にも分かりやすく説明した。この時期、蘭語は字体の種類から解説する必要があった。

 さらに日本語表記において、濁点、半濁点、促音小字「ッ」、長音符「ー」などを案出して、阿蘭陀語の発音をカナで表記する工夫を提唱した。これまで日本語表記には濁点さえなく、音が清むか濁るかは読み手の判断次第だった。これでは、異国語の「カート」か、「カード」か、「ガード」かを前後関係から日本人の読み手に判読させることになってしまう。

 ――無理に決まっとう

 誰もがそう思い、とうてい無理な相談だった。

 佐十郎は濁音表記について本木の工夫に感心した。日本語でさえ誤解が生じ、清音、濁音の意味の違いが落とし噺(ばなし)の笑いネタにまでなっている。

 

   まつかれて たけたくひなき あしたかな

   松枯れて 竹類(たぐひ)なき あしたかな

   松枯れで 武田首(くび)なき あしたかな

 

 松竹のめでたい植物を巡って、若い松平家康と老巧な武田信玄の陣営の間に相手を挑発する句が飛び交ったという噺(はなし)は、「て」か「で」の違いで肯定、否定がひっくり返る言葉遊びである。「松枯れで」と濁音で読めば、「松は枯れないで」と否定になる。

 本木が工夫した濁点によって誤読が避けられるのなら、それに越したことはなかった。

 ――落とし噺のネタが無(の)うなるより、よかに決まっとう……

 佐十郎は、異国語を学ぶという知的作業が、自国語の特徴に気付かせ、洗練させることを知った。本木はこうした工夫をほどこしつつも「彼(かの)(くに)ノ語音ニ叶(かな)ヒ難(がた)シ」と述べ、カナ表記が全く不完全な阿蘭陀語音に過ぎないと断じた。そうだとしても、本木風の外国音表記法には意義がある。

 ――有益であることに間違いなか

 佐十郎は先達の業績に頭の下がる気がした。本木の表記法は、これから長く用いられ、日本語を豊かにするだろうと確信した。

 古代日本において、父祖が漢文を異国語として取り入れながら、さまざまな工夫を凝らして母国語化したように、阿蘭陀語と日々向き合う阿蘭陀通詞にも渾身の工夫があるのだと、佐十郎は蘭学の先人たちに思いを馳せた。

 黄昏時(たそがれどき)、日が陰り始めた座敷に桜の花びらがふたひら散っているのに気付いた。佐十郎は、明日、ドゥーフの許に通う日だと思うと、さらっておく講読本が急に気になりだして、自ずと帰り仕度が手早くなった。

 

                              *

 

 文化元年(一八〇四)九月六日、魯西亜(ろしあ)の軍艦が長崎湾口、伊王崎に投錨した。日本側には、見知らぬ国から船が来航しても混乱した様子はなかった。あらかじめ準備してあったように、整然とした動きで何艘かの小船が近づいて、軍艦に投錨地点を指示した。阿蘭陀商館長のドゥーフはこの様子を望遠鏡で観て、満足に思った。

 長崎奉行所の下僚は、ロシア艦をまず湾口の海域に停泊させ、次々に五十艘もの小舟で異国船をびっしり取り囲んだ。そうしておいてから、日本は相手方の出方をじっくり見るかのように構えた。

 長崎奉行が事前にロシア艦の来航を知ったのは、ドゥーフのおかげだった。ロシアは特使を日本に派遣することを計画し、実施に先立って、日本と通商関係を有するオランダに便宜と斡旋を要請してきた。

 ロシアの特使派遣計画は、オランダ本国からジャワに伝えられた。ロシアの反感を買わないよう、一応は要請に応える態度を見せつつ、ジャワ総督府は、ロシアが日本に割り込んでくることに警戒を怠らなかった。日本との貿易を独占し続けることがオランダの国益だった。

 オランダは調査を重ね、ロシアの計画の概略を知ろうとした。ジャワ総督は露艦二隻の消息を、届いたばかりの数か月前の新聞で知り、長崎のオランダ商館に通報した。

 新聞によれば、ロシアの軍艦は前年、ロシア暦一八〇三年七月二十七日、盛大な見送りの中、僚船とともにバルト海クロンシュタット港を出港したとのことだった。艦名を希望(ナジェージダ)号といい、この大航海のためにイギリスから買い入れた新鋭の三檣帆船は、四百三十噸の船体に十六門の大砲を搭載していると報じていた。

 僚船ネヴァ号と二隻してバルト海を出たあと、イギリスに寄港したところまでは調査してわかった。それから先は、おそらく、カナリー諸島を経由して大西洋を横断し、帆船が適宜、修理を必要とする事情を考えると、ブラジルのサンタ・カタリーナ島あたりで修理を施すだろうと推測された。

 修理が済めば、南航し南米南端のホーン岬を回り、マルキーズ群島を経て太平洋を一路、ハワイに向かうだろうと思われた。いずれかの海域で僚艦はアラスカに向かうかもしれなかった。日本に特使を送り届ける希望(ナジェージダ)号は、カムチャッカ半島のペトロパブロフスク港に入港し、船体の修理をすませて長崎を目指すと予想された。

 十一年前、使節のラクスマンが箱館に寄港し、長崎に行くよう追い返された経験を踏まえ、その時、箱館奉行から下し置かれた長崎入港の信牌(許可証)を持参してくる可能性まで、オランダは想定した。ジャワからドゥーフにロシア艦の消息が推測と共に伝えられ、ドゥーフは日本の国情にふさわしい情報に整え、長崎奉行に伝えた。

 その船は、一年二か月に及ぶ長い航海を経て、現実に長崎に来航してきた。ドゥーフは、ロシア人の目的が日本に交易を認めさせることだと知っていた。ロシアは、日本から自由に食料品を買い入れ、西伯利(しべりあ)からカムチャッカ、さらにはアリューシャン列島を経てアラスカに至る広域な一帯で働くロシア人の食料を調達したいと希望しているに違いない。ロシアの北方地域では農作物が穫(と)れないからだった。

 ――その代わり、あの国では、大森林と氷海で毛皮獣がふんだんに獲(と)れる

 毛皮獣を狩るロシアの男たちの胃袋は、遠く、欧露から送り届けられる食料で満たすしかないのは誰の目にも明らかだった。送り届けると言っても、ユーラシア大陸北部に広がる大平原と大森林を経て欧露から、シベリア、オホーツクへ食料品と生活日用品を補給するには甚大な労力を要するに決まっている。あまりに遠すぎる。

 ロシア人は、己の力を超えて、広すぎる無主の大地と氷海を手に入れた結果、食料調達の困難に陥ったとは考えず、どうにかして食料補給地を得たいと足掻(あが)いているに違いなかった。

 必需品の中でも、特に生鮮野菜は長距離の輸送に耐えず、不足すれば壊血病を引き起こし男たちの命を奪うことが容易に想像できた。日の照り映える日本で野菜を調達できればどれほどいいか、ロシア人は頭をかきむしって日本との交易を欲しているのだろう。

 ロシア人は日本の事情について研究を重ねたらしい。基礎としたのは、ケンペル著『Historia Imperii

Japonici』日本帝国の歴史)、ツュンベリー著『Flora Iaponica(日本の植物相) と『Resa uti Europa, Afrika, Asia, förrättad aren』(欧州、アフリカ、アジア紀行) 、それに『Verhandeling over de Japansche

Natie, haare Zeeden, Gebruiken, en haare Munten』(日本の国家、海、習慣、貨幣に関する論考)など、長

崎のオランダ商館に勤務した者の書いた記録だったと聞いている。聞くもなにも、在日阿蘭陀商館勤務の

者にしか、日本の論考を書ける筈がなかった。ドゥーフは、ヨーロッパで最も日本を知る者の自負をこめて思った。

 ――特使の出方によっては、助けてやらぬこともない

 特使の見識を楽しみに待つことにした。

 

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一章六節 長崎西濱町
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