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四 尽きず湧きくる 次を読む 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 明和八年(一七七一)正月、勘定吟味役、川井久敬が京都から帰ってきた。仙洞御所の造営をきっちり一年間で終えた。

 ――まずまず巧(うま)くいった普請じゃった

 川井は己の経歴で、どういう訳か、大掛かりな普請仕事を拝命することが多かったとよく思う。意次に抜擢された直後、久能山東照宮の御宮普請を監督したのを皮切りに、美濃国などのいくつかの川普請を成し遂(と)げ、作年末に、仙洞御所の普請を終えた。大きな普請ばかりでそれぞれに苦労はあったが、いずれも満足のいく出来栄えだった。

 己自身の見方で普請全体の構想を練り、他方で人を使う工夫を考えながら準備する。段取りと人使いが要諦である。これが計画できれば、あとは大抵うまく行く。川井の元では、普請現場にありがちな悶着や揉め事の類いは絶えて起きなかった。どうやら、大普請を命じられたのは、そんな能力を試されていたのかとも思う。

 ――段取りのよさでは、あの方にこそ名人の趣(おもむ)きがある。儂(わし)も似たり寄ったりだから、お眼に適(かの)うたのじゃろ

 川井は意次の能吏振りを思い、恩に報いなければならないと思った。

 正月二十八日、川井は、将軍から謁見を賜り仙洞御所造営の帰任報告を行った。ひと月おいて二月二十八日、勘定奉行に任命された。十七年間くすぶっていたところ、意次の引き立てを受け六年でここまで昇進した。四十七歳。清昌と同職の立場となったことに感慨を覚えた。

 幕府は六年前、川井の建白を容(い)れて、明和五匁銀を発行し、いずれ新鋳する通貨の瀬踏みを試みた。三年前には真鍮四文銭を発行し、低額通貨によって町人の雇用機会を増やすことを目指した。低額通貨があれば、給金が払い易くなる。給金を得た町人は購買意欲を高め円滑な金廻(かねまわ)りに貢献することになる。

 幕府が本命と目する新鋳通貨の発行準備に取り掛かるにはそろそろ頃合いだった。川井は、近く新通貨発行の計画取りまとめを命じられるだろうと当然のように予測した。これからは勘定奉行の立場で計画に取り組める。

 ――田沼様と石谷殿なら話の通りが早い。同じ高みを目指す同志だから、自信を持って準備に入れるというもの……

 三月、上巳(じょうし)の節句を終えたある日、川井は、家治の許に罷(まか)り越すよう側衆の若者から伝言を受けた。取り急ぎ、案内されて中奥御座之間に向かうと、意次と清昌がすでに召されていた。さらに若年寄勝手掛の水野忠友もその場に控えていた。

 徹底した倹約を実施するに当たり、事前に上様の前で議論するのが目的だと川井は心得ていた。信頼する側近の議論を間近く聞いて将軍の断を下すのは、御当代のやり方であるとも聞いている。

 明和に入って、単年度収支は米でも金(きん)でも赤字が続いた。財政立て直しの本質は歳入増収だった。家治を始め、集まった四人も、ちまちまとした倹約に限界があることは十分にわかっている。それでもなぜ、倹約による歳入削減を実行するのか、そこが議論の要点になるだろうと川井には見当がついた。

 近いうちに日光社参を行う旨、布達したのは三年前の明和五年だった。水野は意次の期待に応え、勘定所と老中首座松平武元の間に立って倹約令実施に動いてきた。老中首座は、倹約で積み立てた額に収めるのなら日光社参を実施することに半分同意するまでに軟化してきた。そこまで言うのなら、将軍の願いをむげにはできないと言わせるまで、意次と水野で説得を重ねた。

 意次らの狙いは、それだけではなかった。この倹約を機に、幕臣の意識を変えたいと考えていた。

此度の厳しい倹約に努めれば、必ず幕臣皆が疲れ果てる。倹約に限界があると皆が納得する。その時にこそ、田に実らざる富に注目すべきことが本当に受け入れられる。この富を取込めばいいと、勘定奉行が立てた増収策に幕閣全員が同意し、幕府全体で積極策に転じる気運が生まれるだろうと、家治臨席の許に確認しておくことが重要だった。

 これまで「天下を治むるに、穀を貴び貨を賤(いや)しむるは古(いにしえ)の善政也」とする「貴穀賤金」の思想のもとで米経済だけを貴(たっと)び、商(あきな)いをよしとしない武家の精神風土をあらためる地ならしになるだろうと、五人の主従は確かめ合った。精神の改革こそ倹約策の窃(ひそ)かな狙い。

 実のある議論は上下のかけ隔てない道理でなされる。家治好みのやりかたで、話し合いがひとしきり続いた。正々堂々と意見を出し合う皆の姿を川井は清々しく思った。

「惇信院様の御遺言は、武家の心根を変える勢いで取り組まねば、成し難きものにござりまする」

 川井は、最後を締める清昌の発言に神妙な顔で頷(うなず)き合う主従の結束を尊いと思った。倹約令発布まで、ひと月もない。

 四月五日、倹約令が達せられ、昨年の旱魃(かんばつ)被害が出たためと理由が述べられた。老中、若年寄には城中で湯漬けを賜るが、当直、泊番の幕吏に給される夜食は、漬物も数にいれて一汁二菜とした。城中、酒は例外を認めず一切出さない。公文書用の料紙の質を落とし、畳は擦り切れても倹約令期限五ヵ年の内に修繕することを禁じた。

 七年前に出された倹約令によって、それまで幕府の各部署に現物支給されてきた料紙、筆墨、燈油などが部署御定高(予算)で賄うことになり倹約を求められた。これを維持したうえでさらに幕府支出を緊縮せよということだった。

 緊縮財政のなかで、将軍の衣服や手回り品一切を賄(まかな)う元方御納戸の勘定科目にも、例外を認めず、大鉈(おおなた)を振るった。寶暦五年(一七五五)に二万両に減らして以降、大きな削減はなかったが、この機に一万五千両に減らした。この倹約は、すでに家治の快諾を得てある。内情を知らない幕臣は、元方御納戸の大胆な削減に、老中格田沼意次の凄味を今更のように思い知った。

 ――上様にこれほどの倹約を強いるなど、阿諛追従(あゆついしょう)を言う御方ではなかったということじゃ。本当に上様の御信任が篤いのじゃ

 倹約令の影響は大名にも及んだ。これまで幕府は、凶作、天災に見舞われた藩に拝借金と称して支援金を無利子、年賦返済で貸してきた。これを当面、中止するとした。幕府は天領以外に徴税権を持たない。にもかかわらず各藩に救済融資を行う機能を担ってきた。元方御納戸の大幅削減の前に、大名も素直に倹約令に従うしかなかった。

 歳入を増やすだけでなく、歳出を減らす努力も大切であるとわかってはいても、不平は溜(た)まる。上様でさえ倹約の例外でないと知らされても、表に出せない不満が増える。間もなく、幕臣のはけ口であろう、多くの狂歌が現われ始めた。

 

   是(これ)や此(この)酒も料理もへらされて

        へるもへらぬも御湯漬(おゆづけ)のはら

   見渡せば酒も肴(さかな)もなかりけり

        裏店(うらだな)めきし秋の夕暮れ

 

 幕臣が五ヵ年、五ヵ年と胸の内に念じながら弱音を抑え、倹約がきりきりと始まった。

 

                           *

 

 一橋治済(はるさだ)は、田沼意誠(おきのぶ)が言上したいと申し出たのを機に、それまで雑談を交わしていた若い小姓を下がらせた。蝉の声が熾(さか)んに響き渡るなか、今日も一万七千八百八十八坪の屋敷のどこもかしこも、夏の日差しに喘(あえ)いでいる光景が思い浮かび、扇を使いたいと思った。ただ家老の言上中、それは差し控えた。

 田沼が座敷に来ると、平伏し時候の挨拶もそこそこに用件を話し始めた。

「松山藩主、松平隠岐守定静(さだきよ)様に、溜間詰(たまりのまづめ)に列せられるとお達しがございました。去る六月二十三日の事でございます」

 いきなり聞かされ、一瞬、わからなかったが、意誠の何か言いたげな強い視線を受けて、あっという思いが頭をよぎった。田安豊丸の養父ではないか。

 豊丸が松山松平家に養子に出て、もう三年になる。当時、松平定静がなぜ豊丸を養子に欲しがったか、わからなかった。これで答えが出たというものだった。

 意誠によれば、松山松平家は二代前の藩主が死去して以来、溜間(たまりのま)から離れていたが、八年ぶりに戻ってきたという。溜間は、老中が将軍に言上するときの控の間で、田雁を描いた引き戸を開ければ直ちに黒書院下段之間に出る。

 ここに詰める大名は将軍の諮問を受け、幕政枢要の密議に触れる立場となる。溜間詰の大名は儀式の際、老中を超えて上席に座る格式を認められ、臣下にとって最高の名誉を与えられる伺候席だった。松山松平家が復帰したがるわけだった。

 短い会話を交わして意誠が下がっていったあと、治済は一人考えに耽(ふけ)った。

 ――田安から養子をとれば、福があるというわけか

 田安と一橋は将軍の家族という扱いだから、ここから養子をとれば養家にいいことがある。いいことがあると諸藩に示せば養子の口が広がる。幕府の役人どもは、養家に福を与え御三卿の抱える子弟を手際よく養子に出したいと考えているに違いない。

 六月四日には田安の伯父御が亡くなり、従兄弟(いとこ)の治察(はるあき)が十九歳で田安家を継いだばかり。田安にせよ、一橋にせよ、当主は若い。幕府が両家をいいようにする好機だと考えているのだろう。

 御三卿などと大層な家柄のように言われるが、内実は養子の出し手に過ぎない。養子に福が付いて回れば、甘みに惹(ひ)かれる蟻が群がってもおかしくない。

 ――これを心得ておけば、我が家に大きな利を呼び込む日がきっと来よう。我が家を守るために、この機微を利用するのじゃ

 治済は、己が妙な具合に頭を使っているのにふと気付き腥(なまぐさ)い自嘲の笑いを浮かべた。

 

                             *

 

 八月朔日(ついたち)に吹き始めた強風は、二日になって江戸を暴風に巻き込んだ。人家は多く吹き倒され、浅草の東本願寺御堂は梁が折れて轟音とともに倒壊し、大量の木材と屋根瓦が無惨に地上に散乱した。建造費、三千七百両が皆の目の前で瓦礫の山と化した。

 大川では、舫(もや)いが切れて廻船が永代橋の橋脚にぶち当たり、大橋の前でようやく止まった。芝浦は強風に吹かれて高潮の水害に襲われ、本所辺りは大暴風雨によって死者、数を知らずと云う有様だった。

 市中で災害の後片付けもまだ済んではいない頃、大奥で倫子が体調不良で床に就いた。どことなく力が入らず、倦怠感がひどかった。家治は毎日のように見舞いに来る。短い時間を語らって帰っていったあと、倫子は一人、天井を見て、自ずと考えごとに耽(ふけ)ってしまう。

 昔を偲び、想いは家治から千代姫と万寿姫へ、竹千代からお知保の方へと次々に巡り、多くの人の顔が浮んでは消えた。最後は家重と意次に思い至った。それぞれの人との忘れがたい思い出を持ったのが何よりの幸せに思えた。

 ――そう、私は幸せだった。よき舅(しゅうと)を持ち、よき良人(つま)を持った。よき娘、よき息子に恵まれた

 しばらく天井を見つめ、思い出したように、くすりと笑みを浮かべた。

 ――それに、家臣も…… 

 それにしても竹千代はようやく十歳、西之丸に移って二年とたたない。五歳で早々に元服させられ家基を名乗るが、まだ母に甘えたい頃であろうにと、何につけても不憫だった。手元から離して以来ずっと思いを寄せてきた。

 案の定、竹千代は今度のことですぐに見舞いに飛んできた。病床に伏し、笑みを浮かべて久しぶりに息子の顔を見上げた。西之丸老中にでも言われたか、泣くまいと堪(こら)える健気さに、熱いものが胸にこみ上げた。

 ――この子とは、不思議の縁(えにし)で結ばれた母と子。思い出は尽きず湧きくれど、言い果たすことはできませぬ

 縁(えにし)と思い出と愛情のすべては語り切れないと悟った。諦観に達し澄み切った笑みを浮かべて、倫子は次代の将軍を見つめ続けた。

 八月二十日、午の上刻、御台所倫子、逝去。享年三十四歳。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第三章「栴檀の棘」四節「尽きず湧きくれ」(無料公開版)

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