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二 士の心を観る 前節に戻る 目次に戻る ブログを参照

 

 安永六年(一七七七)正月の松がとれた頃、意次は神田橋御門内の上屋敷にて、井上伊織から報告を受けた。井上は、築城中の相良城に、来月ようやく大手門が竣工すると言上にやってきた。

 相良城の始まりは明和四年(一七六七)七月一日。この日、意次は家治より側用人に任じられると同時に築城を許された。縄張りを受け持ったのは家臣の須藤治郎兵衛。下準備を通して適地を選び、堀割って周囲の川筋を整理し、町屋を引越しさせて城堀を堀った。

 明和五年(一七六八)四月十一日、相良城の地鎮祭と鍬入式を執り行い、着工以来九年間にわたり、意次は井上に普請奉行を任せてきた。その間、明和九年の江戸行人坂大火、安永二年、三年の相良大火によって工事を休止せざるをえない時期もあった。

 相良城は、東西五町(五百メートル)、南北四町半、およそ七万坪を擁し、北東を流れる萩間川と北西の天王川を外堀とし、二之丸と三之丸が本丸を守る。

 明和六年から内堀の石垣工事を始め、同時に城内と萩間川を結ぶ地点に、石垣仕様の河岸(かし)を築いた。城の軍事的な意味だけでなく商用輸送にも使うつもりで、千石船の接岸ができる縄張りとした。

 意次は、大量の石材を寄進してくれた寄進元を記念し、ここを仙台河岸と名付けた。いくら小判を断っても、ある日、石垣用の石材を大量に運び込まれてはどうなるものでもなかった。丁重に礼を言って貰うことにした。それはそれでありがたい寄進だったが、それ以上のものではなかった。寄進を受けたことを公然とするため名付けた河岸名だった。

 寄進があって二年後に石垣と堀の工事が始まった経緯を思い出し、同時に、伊達殿も御昇進を果たされて御満足かと思いを馳せた。

「御苦労である」

「ははっ。作事は順調に進んでおりまする。大手橋を架けてより六年、来月大手御門が完成すれば、御正面が整い、いよいよ城らしくなりまする」

「楽しみじゃの」

「今月は城内に井戸を掘りまする。来年には三重櫓も竣工いたしましょう。本丸御殿が出来ますれば御城も完成にございます」

 意次は、井上が絵図面を広げ作事の進捗を説明する声に聞き入った。

 

                              *

 

 三月二十六日、家治は家基に初めて古式礼射の大的式(おおまとしき)を観る機会を与えた。古式礼射は頼朝が鎌倉で行って以来、鎌倉幕府で毎年行われ室町幕府に継承されたが、戦国の乱世に絶えてしまった。先々代の有徳院がこれを惜しみ、再興、復活させた。

 家重が武術全般を嗜(たしな)まないのは無理もなかったが、家治は祖父の遺業を引き継ぎ、しばしば礼射、鷹狩り、騎射、遠駆けを催した。家治の代に、弓術はじめ、いずれの武芸も熾(さか)んになった。家治は、かつて老臣に言われたことがあった。

「上様には、深く弓馬を好(この)ませ給い、並並の人の及ぶところではござりませぬ」

 その結果、御家人が弓馬の道を怠ることなく、武に通じた幕臣の厚みは御祖父君の御威風に似ておられますと続けた。亡き有徳院を引き合いにだして、家治に最上の褒詞を奉(たてまつ)るつもりのようだった。

 ところが、家治はこれを喜ばなかった。

「余は、分けても弓馬を好きというのではない」

 家治が考える「好き」とは、公家が兵学や武芸に、武家が和歌や蹴鞠(けまり)に耽(ふけ)るのを数寄(すき)というのであって、己(おのれ)は、家臣が家業に疎(うと)いのを憂慮し、成丈(なるたけ)、怠りなく弓馬の謁見(えっけん)を試みているのだと信条を述べた。これが武家の棟梁たる身の天職に奉ずるところであると真面目な顔つきで言って、最後にこう断言した。

「余が弓馬を好きというは、誤りじゃ」

 家治は若い頃、祖父の吉宗が、戦の絶えた世に楽しいことが多くあふれ侍が張詰めた気持ちを保ちがたいのではないかと危惧の念を持ったことを知った。その懸念を自ら受け継ぎ武道全般を発展させたいと念じていた。

 家治は、武芸武術を実用の技という以上に精神論として重視し、武士が求道を究める艱難辛苦(かんなんしんく)のなかで、決して挫(くじ)けぬ侍の覚悟、堂々たる侍の心を練磨する機縁にすることをめざした。

 貴穀賤金の古い規範がこれからの世に不適だと見定めた以上、武士の新たな心を育て精神性を打ち立てる必要があった。日光社参の大礼を実施し武士本来の働きを演習させたのもその一環だった。

 家治は、武芸に励んで培った強い心が、必ず国を思う精神力になると信じた。武芸で鍛えた強い心が財政に苦慮する幕府を、将来、支えるに違いないと確信した。意次が経済政策を地道に遂行するのなら、己は侍の心根を新しく鍛えるのが役割と心に決めていた。

 家治は決して急がず、家基にこの気持ちを伝える時期を見計らった。二年前、家基に浅草の畔(ほとり)で初めて鷹狩りを経験させた。此度(こたび)、大的射礼観閲の手始めとするのに、十六の年齢は相応しく思われた。

 昨年五月、家治が日光から帰還してひと月もたたない頃、家基は麻疹(はしか)に罹(かか)った。麻疹は死に至る病で、家治はひどく心配した。家治は、日光社参に扈従(こじゅう)した奥医池原雲伯の気働きの利いた拝診に好感を覚え、家基の麻疹(はしか)治療に池原を付けた。

 池原の診療の良きを得たか、家基が丈夫だったか、六月の始めには治癒し、酒湯の式を行うまでになった。家治は大いに安堵し、我が息子は堅固な身体を持ち、強い運がついていると信ずるようになった。強い子には武術を早くから仕込みたいと気持ちが高まった。

 此度の大的は家基のためとわかるよう、いつもの吹上御庭ではなく、家基の住む西之丸の西に広がる山里曲輪を選んだ。そこに先々代の流儀に沿った質実な弓射場を準備させた。

 的は距離によって四種を設け、最長三十三杖(七十五メートル)から順に、二十七杖(六十一メートル)、二十五杖(五十七メートル)、二十一杖(四十八メートル)とし、垜(あずち)の前に五尺二寸(一・六メートル)の大的を掲げた。

 家治は幔幕を張った謁見(えっけん)の御座に嫡男を伴って床几に構えた。家治は江戸紫、家基は緋色の直垂(ひたたれ)姿。閲兵のため、御座の前を射手の乗馬が続いた。皆、徒士立ちの小者四人に先導され、口取に引かれ、華やかな行列だった。

 将軍の前では、射手が方鐙(かたあぶみ)を外(はず)し、騎乗礼をとって拝礼を捧げながら進み、介添えの太刀持と供の者があとに続いた。一射手ごと、七人一頭に数人の供が連なる一団を構成した。射手は二十四士、全射手が順次、将軍の前を行進し、四か所に分かれた弓立所の前に揃うまでかなりの時を要した。

 大番役の一人、原三郎兵衛親要は優れた弓技を有し、二年前、弓場始で弓太郎を勤める姿が家治の目に留まった。その二日後、亀有村の放鷹に召され、原は家治の目の前で、見事、白雁を射止め褒詞を得た。

 以来、原は抜群の射技で知れ渡った。新春弓場始めには、続けて弓太郎の大役を果たし、水際立った射芸と、礼法にかなう所作で皆をうならせた。家治は、家基にその巧技を見せ一芸に秀でた侍の心根を知ってほしいと願った。

 家治には、いずれ、政治能力と政策立案能力や行政遂行能力を家基に見せたい家臣が多くいた。武術でも一級の遣い手の技を見せ、家基を文武両道のわかる青年に育てたかった。それが新しい世の将軍に求められる資質だと考えていた。

 いよいよ遠射が始まった。三十三杖奉射の弓太郎を務める原が、青地精好(あおじせいごう)の直垂(ひたたれ)に左折風折烏帽子、鍔(つば)なし出鮫(だしざめ)の放目貫(はなしめぬき)を小(ちい)さ刀に差した姿は凛々しく、辺りから声にならない感嘆のどよめきが湧いた。

 原が弓立所に立つと、左足を乙に払って踏み出し、円相の構えで不動の体勢をとった。静かに矢番(つが)えから逆羽(さかは)をうち、篦(の)調べのあと弓手(ひだりて)の手の内に矢を押え、きりきりと弦を引き絞った。打起こしに入ると、肩脱ぎの左肩から弓手(ゆんで)にかけて左腕の筋骨が隆々と引き締まり、遠く的を見通す眼光が鋭く定まった。

 気の充溢を待って原が甲矢(はや)を放つや、離れの弦音(つるね)が響き、素早い弓倒しの所作のあと三十三杖の彼方(かなた)から的音が聞こえてきた。南矢落(みなみやおち)の垜(あずち)の背後左には多聞を従えた伏見櫓が高々と聳(そび)え、将軍世子の成長ぶりを見下ろしていた。

 大的式が終わった夜、家治は西之丸にて家基と膳を共にした。父子(おやこ)の楽しい歓談は、西之丸の生活、西之丸老中とのやりとり、学問の進み具合、剣術の上達、鷹狩りの楽しみ、日光社参で本城を預かった心持など、尽きることがなかった。

 膳もそろそろ終わろうという頃、家治が尋ねた問に家基が答えるのを聞いて、家治は思わず箸を止めた。家基はこう言ったのだった。

「射手二十四人は見事な技の持ち主と見受けました。されど、皆が皆、的に射当てたわけではありませぬ。的を外したとて皆が堂々と胸を張り、礼式に則って潔(いさぎよ)う振舞うは、心根の内に、鍛え抜いた何事かが確(しか)と据(す)わった証(あかし)に思われました。あのような高みに達した者たちが、武士の本当の心を持っておりましょう。家基の稽古する剣術でも、一流の剣士同士が試合(しあ)えば、いやでも勝ち負けがつきまする。勝って驕(おご)るでなく、負けて挫(くじ)けるでなく、勝敗を越えたところにこそ、剣士の堂堂たる気骨が見え隠れいたすものと覚りました。父上が大的式で御覧になられておいでだったのは、そのような射手の心かと拝察仕りました」

 家治が一旦箸をおいたのは、家基の答えに驚く己の心を抑えるためだった。

「うむ、家基。よくぞ申した」

 一言をいい、あとは微笑(ほほえ)んでゆっくりと頷(うなず)くと、天井に向かって噴き上げるように大笑した。こぼれそうになる涙を気付かれたくないようだった。

 

 四月二十一日、将軍が日光社参から帰還した日からちょうど一年。田沼主殿頭意次に七千石の加増が発表された。これで総禄高三万七千石。併せて若年寄水野出羽守忠友が御側御用人に昇進し従四位下に叙任した。水野も七千石の加増を受け、総禄高二万石となって沼津に晴れやかな国替えとなった。御側御用取次の稲葉越中守正明(まさあきら)に二千石の加増、総禄高七千石となった。

 水野は勝手掛若年寄として日光社参に有利な情勢をつくるよう家治と意次によって幕閣に送り込まれ功を成した。稲葉は意次に忠誠を誓う者で、意次一派の重要な一員だった。

 この褒賞で、幕府のここかしこで噂がささやかれた。日付から考えて、おそらく日光社参の功を褒賞するものだろうという話から始まった。老中では一人意次だけが褒賞に与(あず)かったのを見れば、他の老中とは質の異なる功ではないかと言い出す者が現われた。一回の加増としては破格の禄高で、よほどの大功であろうと話は広がった。

 幕僚、幕吏の間で、およそあり得ないことが起きたかのような風聞と言説で持ちきりとなった。これまでの政策を振返って見れば、誰もが、意次の主導する時代なのだと実感し、将軍の信任篤い意次の姿がいよいよ大きく見えた。それは多くの幕臣が明るい未来を待望する気持ちと、どこかつながっていた。

 

                             *

 

 一橋家上屋敷では、策謀家が一人考え事に耽(ふけ)っていた。小姓たちは、遠ざけられても、いつものことだと驚きもしない。

 治済は、一年前の日光御社参のことをあれこれ考えていた。あの日早朝、登城し上様御発向を見送るため、大広間の板縁まで、大納言家基のうしろにつき従った。いまだ髪を童形のままにした十五歳の少年が颯爽と所作をこなし、典雅と凛々しさを備えた見事なふるまいで父親を見送るさまを背中からじっと見つめた。

 御発向ののち、大納言家基から御座所に招かれ、三献の祝いを賜った。若々しい風貌には、童形の髪形ながら、すでに堂々たる威が備わるようで、治済は将軍になるはずの少年に気圧(けお)されるものを感じた。今は、思い出したくない記憶の一つだった。かつて岩本正利から頻繁に聞いた通りだった。

 治済は、当代の家治から次代家基につながる御代(みよ)が安泰で、入り込む隙がないと思い知った。それを呪(のろ)うではないが、さりとて手を叩いてめでたがるほどの気持ちはない。この筋に連なる田沼家も、悪くすると意次の嫡男意知(おきとも)までもが堅固な立場に居座ることになる。

 家基の生母知保(ちほ)の弟津田信之の側室と意次の側室は義理の姉妹となっているから、家基の代にも田沼家はまず安泰のはずである。

 ――意次はうまく計らってあるではないか。家基の代まで手を打っておる

 家基が早死(はやじに)でもしない限り、この筋には手の出しようがない。もし早死(はやじに)してくれれば素晴らしい幕開けとなり、とてつもない局面が広がる。ただ、今そのようなことを考えても詮無いことだった。まさか、人を遣(つか)って何かするわけにもいかないことだった。

 ――田安はすでに当主不在の明屋敷。一応今は、我が家が勝って整理される危機は去ったように見える。それでも田安のように、いつ明屋敷にされるかわかったものではない、田沼が力を持つ限りは……

 一橋家家老だった意誠(おきのぶ)の死後、嫡男の意致(おきむね)が家督を継ぎ、今は目付を勤めている。

 ――目付に任じられるほどなら、伯父譲り、父親譲りの優秀な男なのであろ

 治済は、目付が伯父の後ろ盾だけで勤まる役職でないことをよく知っていた。意致が時折、時候の挨拶にくるが、以前のように田沼家と縁が濃いわけはなく、当家を守る保証にならない。そのうち当家の家老にでもなれば心強い者かも知れぬから、幕府に働きかけてみようかと思った。

 考えを転じてみた。

 ――定信はどうか

 田安から定信を養子に出させる筋立てを窃(ひそ)かに考え、相応(ふさわ)しい役者を選び、白河藩の定邦に溜間詰(たまりまづめ)昇進の野心を焚き付けた。養子縁組がまとまったあと定信がなかなか白河藩の江戸屋敷に移らないので、白河藩の江戸家老を呼んで智恵を付けてやった。定邦は中風病みの一芝居を打って、結局、定信はいやいや北八丁堀に移っていった。

 昨年五月、日光社参が終わった直後、定信は十九歳にして元服し、定邦の女(むすめ)峯姫を娶(めと)らされたと聞く。これで定信は白河に縛られ、もはや田安には戻れまい。

 ――田安はずっと明屋敷(あきやしき)のままだろうさ

 この智恵の出どころをあくまで秘し、定信の怨(うら)みが一橋に向かわないよう細心の注意が要ることを治済はいつも意識している。これは智恵であって陰謀ではないと己に言い聞かせた。ただ、智恵は智恵でも、人の怨みをかう智恵であることに変わりはない。

 定信の学問が大いに進んでいるという話は幾度も聞かされ虫酸(むしず)が走った。聞かされるたびに、その類いの話は、定信の温室育ちと世間知らずを意味するだけではないかと冷笑し、定信やその種の話を広める側近の者を阿呆と見做(みな)してきた。これまでは、ただそれだけのことだった。

 今、はっと気付いた。

 ――待てよ、定信を上手く操(あやつ)れば儂(わし)の謀(はかりごと)のいい演じ手になるのではないか

 気付いてからは、膝を敲(たた)きたくなるほどの名案だと我ながら感心した。

 ――定信は田沼を怨(うら)めばよいのじゃ

 定信の怨みを一橋から逸(そ)らし、さらに定信を操れれば一石二鳥。そうするためには、普段から定信にあれこれ吹き込んでおくのが肝心だと思い立った。

 ――先日の田沼の御大層な加増話など、定信の阿呆にはどこまでわかっておるのやら

幸い、北八丁堀の江戸家老は使いやすい男である。田沼が上様の寵をいいことに、自らお手盛りの加増をやってのけ、甘い汁を吸っているという手合いの駄法螺を吹き込んでやれば、面白いことになるかもしれない。

 ――そんな話なら、未熟者の阿呆にもわかりがよかろうよ

 治済は、即刻、北八丁堀に使いを立て、江家老に罷(まか)り越すよう書状を送ろうと考えた。

 ――田沼憎しの蟲をあいつの腹の中に育ててやるのじゃ

 勝つことだ、追い落とすことだ、手立ては選ばぬと思った。小石を一つ一つ積み上げるようにと、ふと浮かんだ詰まらぬ比喩にさえ愉快になって、治済はにやりとした。それでは留(と)まらず、ついに大笑を噴き上げた。

佐是恒淳の歴史小説『将軍家重の深謀-意次伝』第四章「蟲喰まれる樹」二節「士の心を観る」(無料公開版)

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