佐是 恒淳3 日前2 分『四本の歩跡』第三章二節「天津日を還す」井伊直弼暗殺後の長州の動きにおいて、丙辰丸で水戸藩と盟を結びました。これが坂下門外の変(文久二年正月 1862)につながります。井伊の政策を踏まえた安藤が狙われ、井伊の唱えた公武一和が強い反対を受けたことになります。 この盟約が結ばれたのが丙辰丸の船内でした。丙辰丸の建造さ...
佐是 恒淳5月11日2 分『四本の歩跡』第三章 貧の遺恨-実美 一節 生還せざる者三章は、尊皇攘夷の立場に立つ公卿の視点から激動の文久年間を観ていきます。 幕末の動乱はペリー来航(1853)、開国(1854)に始まると言えると思います。それは一つの契機であって、それまでにたくさんの事象が積み重なって蓄積していた何かしらの不満、問題が噴出して大混乱に陥りま...
佐是 恒淳5月1日2 分『四本の歩跡』第二章第十五節「沖つ潮風」長行と勝の話に端を発し、二人はあの手この手を繰り出し、三条か姉小路と、しがらみにとらわれないように話を交わし、世界情勢、軍事技術を踏まえて、攘夷論の非を説得しようと図りました。多くの手が却下、不成功になるなか、ついに勝の操艦する順動丸に姉小路が搭乗して摂海を視察する機会が訪...
佐是 恒淳4月20日2 分『四本の歩跡』第二章十三節「十万ポンドの斬撃」神戸造船所構内には、江戸末期の1864年(元治元年)に建設された「和田岬砲台」が現存しています。 当時、外国艦船の来航に伴い、沿岸を防備する必要に迫られ、徳川幕府により和田岬・川崎(湊川)・西宮・今津の各所に同型の砲台が建設されました。設計は勝海舟。完成には、約1年半の月日...