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  • 執筆者の写真佐是 恒淳

『将軍家重の深謀-意次伝』第四章八節

 第四章八節「巨樹蟲に抗せず」では、意次追い落としを謀る定信の準備が語られます。定信が親交を結んだ本多忠籌や本多忠可は意次に反感を抱いていました。その理由は、宝暦八年に親類の本多忠央(当時、西ノ丸若年寄)が遠江相良藩領を改易となったからでした。本多忠勝を先祖に仰ぎ誇り高い一族にとって、失った相良藩にぬけぬけと後釜の藩主に座った田沼意次が許せなかったのです。さらに遠江は由緒正しい譜代にしか許されない土地でもあります。それを幕臣に取り立てられたばかりで将軍側近く勤仕する成り上がり者が藩主になるなど二重の意味で誇りが傷つけられました。実に二十年来の因縁と言えましょう。側用人と譜代大名の対立は意識の中で拭いがたいものがありました。

 定信が親交を結んだ牧野忠精は意次への反感を吹き込まれました。これら譜代を代表する家柄の大名と親交を深め、将軍吉宗の孫という血筋を背景に、政局を仕掛ける機会を虎視眈々待ちました。家基、意知の逝ったあと、将軍家治や老中兼側用人意次に何かあれば、政権が危機に陥るだろうとは、見る者が見れば明らかでした。天明五年段階で、家治は49歳、意次67歳、当時としては万一の事態も考えられる年齢です。二人の心中、政策の連続性に危惧しながら、できることは今のうちにやっておこうという気持ちだったでしょう。印旛沼と蝦夷地開発の大事業を抱えていたのです。


 あとの話になりますが、定信が政権を取ると、本多忠籌は一気に政権に踊り出ます。天明7年、若年寄に任じられ、天明8年、側用人に任じられます。以後、松平信明と共に松平定信を支え、寛政の改革を担います。寛政5年、徳川治済の合意をえて、独裁傾向を強める定信の老中解任に動きました。

 

 松平定信は清く正しい政治を行った、濁世の田沼時代を浄化した、という類いの言いざまが広まりましたが、定信の政権は、天明七年から寛政五年までの足掛け七年間に過ぎません。意次の政策が実行された宝暦八年から天明六年までの二十八年間に比べ、政治的実績や人々からの支持で大きな差がありました。定信の目には田沼の政策が不埒なものに映りましたが、日本国という視座から見れば、田沼は日本を一段、高みにのせられたのかもしれません。

 文化的にも田沼時代は栄えました。ただ、天災が多かったのはいかんともできません。寛政の遺老といわれる老中たちが、文化年間まで緊縮財政を続けます。文政期になって、一気に世が賑わい文化が開花するのは緊縮が解けたせいもあるようです。

                                 恒淳






      



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